大西佐七のザ・飛騨弁フォーラム 文法

ハ行四段・やわう、の未然形

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別稿に、飛騨方言・にわう・にわる、についてお書きしています。 にぎわう、という意味ですが、にぎわわない、という 言い方が嫌われて飛騨方言では言い易い形、にわう・にわる、という動詞に変化したのであろうというのが 筆者の主張です。 尚、飛騨地方は東西対立の否定の助動詞・ない・ぬ、は西方・ぬ、 に属し、中世の近畿方言の特色があります。 飛騨方言では、にぎわわん、と言う事はまずありません。

問題を敷衍してワ行四段動詞の未然形を 気がつくままに書いてみましょう。
 終止形   未然形 共通語 
  あう   あわん
 にあう  にあわん
 みあう  みあわん
  買う   買わん
 鍵かう  鍵かわん かける 
  戦う たたかわん
 うたう  うたわん
いざなう いざなわん
  這う   はわん
  舞う   まわん
 はらう  はらわん 
 にわう  にわわん にぎわう
 やわう  やわわん 用意する
冒頭の通りですが、にわわん、が言いにくいので、にわる、の未然形・にわらん、 を用いるのが普通でしょうねえ。

つまりは、本稿の主役が、やわう、です。 さて、飛騨人なら誰でも知っているし使っているワ行四段動詞・やわう、 ですが、意味は、用意する。語源は、古語動詞・やわす、でしょう。 それでも、未然形・やわわん・準備しない、という 言いまわしはまず使わないでしょうね。

連用形・やわいて、を普通は用いるでしょうね。 やわっとらん、といえば、やわっていない、つまり、 準備していないという意味です。 準備しなくっちゃ、という意味で、やわわねば、つまりは、 やわわにゃ、とはあまりいわないでしょうねえ。 やはり、連用形・やわっとらんにゃ、で決めたいところです。

おもしろいので他の未然形に接続の助動詞も検証しましょう。 推量の、う・よう、はまるで意味不明でパス。 推量の、まい、は、やわわまい。 文法的つまりは飛騨方言のセンスにはあっていますが、 やはり語法の点では誤法でしょうね。 ネイティブ佐七なら、やわいをせまい・やわいをせまいがよ、 でドンピシャリです。体言・やわい、を用いてサ変動詞にするのです。

受身・可能・自発、の、れる・られる、は どうでしょうか。 やわわれる・やわわられる、これは飛騨方言では ありません。完全にアウトです。 ははは、四段動詞ですから可能動詞化すればよいですね、なるほど。 やわえる、意味は準備ができる、 これなら飛騨方言としてベストです。 受身なら、やわってもらう、で決まり。 自発なら、やはり、やわえる、でしょうね。 実は、やわわる、でもよいでしょうね。 飛騨方言では可能動詞と自動詞との関係はファジーなのです。 たばる、うわる、おぼわる、などの俚言動詞がそのよい例でしょう。

使役の助動詞・せる・させる・しめる、は どうでしょうか。やわわせる・やわわさせる・さわわしめる、 どう考えてみても飛騨方言としては不自然ですね。 やはりサ変動詞を利用すればよいのです。 やわいさせる、あるいは、やわいをさせる、で決まりです。

尊敬の助動詞・れる・られる、はどうでしょうか。 やわわれる・やわわられる、これは飛騨方言ではありません。 答えのひとつは、やわいなさる・やわいんさる、やはり やわうの未然形は要らないのです。

つまりは、ワ行四段動詞・やわう、を用いるにしても どう考えても未然形・やわわ、は飛騨方言には必要ないのです。 否、飛騨人はそれを無意識に遠ざけ普通は体言・やわい、 を使うのですよねえ。 言い易さ・意味の通り易さ、の美意識が働いているのだぞ、と 佐七は吼える。

と言う事で今日も自分の言語中枢を妙に納得しました。 内省するだけで原稿が書ける。 つまりはお金がかからない、 私には手元にただ一冊の国語辞典があるのみ。 ビンボー佐七に持って来いの仕事です。 ただし暇な時間は要る。しかし私にはそれがある。 と言う事でまた次の原稿をやわわなくっちゃ(=やわい・準備、をしなくては)。
おまけ
にぎわう>にわう>にわる、 と変化したのであろうにもかかわらず、 なぜ、やわう>やわる、と変化しなかったのでしょうか。 賑わうは自動詞、やわうは他動詞です。 この違いによるのでしょうね。

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