大西佐七のザ・飛騨弁フォーラム 

標準語と共通語

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私:表題については別稿を参考までに。
君:何か書き足す事でもあるのかしら。
私:うーん、歴史秘話ヒストリアみたいなお話を。
君:簡単にお願いね。
私:戦前は標準語と言っていたのだが、戦後に突然に共通語というようになった。スタートは国立国語研究所の1949白河調査。学習指導要領をご参考までに。ここまではよし。書き忘れていた事があるのでチョッピリ補足。
君:共通語制定歴史秘話ね。
私:うん。ところで国立国語研究所が発足したのは?
君:1949ね。
私:ご名答。
君:つまりは戦後発足した国研の最初の調査だったというわけね。
私:そう。初代所長は西尾実。
君:若しかして地方のご出身ね。まさか福島県とか。
私:いや、流石にそれは無い。長野県下伊那郡豊村和合(現阿南町)。つまり田舎。長野師範学校(現信州大学教育学部)卒業後、長野県内の尋常高等小学校で教師を務め、その後東京帝国大学国文科選科を修了。我らが斐太高校の大先輩の垣内松三先生は西尾宣先生の11年先輩だ。
君:垣内先生こそ国語教育にのめり込んでおられたけれど方言の研究はなさらなかったわね。
私:西尾先生はそこが違った。国研の初代所長に就任するや、白河調査以外に、現代共通語の実態の調査研究、東京語および各地方言の調査研究、東京語および各地方言の調査研究 地域別・事項別方言カ―ドの作成(東条カ―ド)、八丈島の言語調査、〔委託〕琉球語辞典資料の作成、以上のプロジェクトを同年に次々と開始なさった。
君:日本一の方言男。
私:田舎出の学者様はどうしても方言が気になって仕方ないんだよ。
君:でしょうね。
私:そして都竹通年雄による方言区画が1949。
君:都竹先生は萩原町尾崎のご出身ね。
私:その通り。東条操の直弟子。故富山大文学部教授。既にお亡くなりだ。幼くして飛騨を離れておられるので斐太中学のご卒業ではない。但し故郷の萩原町を忘れた事は無いと書いておられる。
君:都竹先生が地道にコツコツとやってらっしゃるので、国としてもやるっきゃないな、という感じだったのかしらね。
私:だろうね。戦後間もなくの事なので日本がとにかく貧しかった頃のお話だ。紙と鉛筆で聞き取りというような研究だった可能性がある。全資料が国研に保存されている。学習指導要領における「方言」を辿るによれば、戦後教育において「標準語」は禁句。学習指導要領は、小学校では「ほうげん」「なまり」「共通語」、中学校では「方言」「共通語」が用いられてきた。
君:どうでも良い事じゃないの。
私:いや、小学校では「なまらないようしましょうね」と教えるという事であるし、中学校ではそのような指導が無いという事だろう。
君:つまりは文章の中から方言である部分を抜き出せ、とか。
私:そんなの小学校でやってるよ。中学生からは永訣の朝とか。つまりは、学習指導要領的には、要するに中学生ともなると方言の美学を理解する事が求められるという事だよね。
君:ほほほ、方言のクッション、雑誌「群像」1990年5月号 p.274-275、とか。

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