大西佐七のザ・飛騨弁フォーラム 心理学 |
みえる、みあい、みそめる |
戻る |
僕:飛騨方言の、というか、中部地方の敬語表現に「みえる」というのがあり、既に苦闘の修正物語を書いていたが、実は昨日と今日、立て続けに「みえる(=おみえになる)2、3」を書いた。今夜はその心理学的な側面について語らせていただこう。。 君:要するに貴方は幼いころから「みえる」は共通語の尊敬表現であると信じていて、周りの大人達もそうだったし、大人になった。方言サイトを開始しても「みえる」尊敬表現で書き続けていたけれど、これが「気付かない方言」である事に気づき、方言サイトの原稿が方言丸出しではいかにも恥ずかしい・自分自身の名誉にかかわる事でもあるし、という事で、来る日も来る日も修正をし続け、遂には完成させた、という事よね。 僕:そう。達成感はあったし、やれやれこれで恥をかかずに済んだ、と思った。 君:そして、山口県で地元でお生まれお育ちのバスガイドさんがさりげなく「みえる」尊敬方言をお使いになるので、この言い方は実は「気付かない方言」ではなく「全国共通方言」そのもので特に中部で頻用される、たったそれだけの事、つまりは文語的な表現というだけの事であり、わざわざ修正するまでもなかった、という気持ちである、とおっしゃりたいのよね。 僕:その通り。 君:そして、更におっしゃりたい事は、「みえる」を「おみえになる」に変更するのに大変な労力を要したけれども、ただ懐かしいだけの事であって、悔しい・時間の無駄遣いだった、とは思っていない、という事よね。 僕:ふふふ、わかっているじゃないか。あの時の事はあの時の事、そして今の気持ちは、方言学は本当に面白い、毎日こうやって考えている事が出来て幸せだ、という事。「みえる」が尊敬表現なのは自下二「みゆ」そのものが、「来る」を意味する尊敬語だからだ。文語から口語への音韻変化は「みゆ・みゆる・みいぇる・みえる」、「みゆ」は平安、そして「みえる」は近世語・近代語・現代語。尊敬の助動詞「る・らる」は全く関与していない。 君:平凡すぎるお話ね。 僕:何故「みゆ」が「来る」の尊敬表現なのか、これもちょいと考えればわかるね。遠くにある人影、これが少しずつ大きくなる。この時に「あっ、みえました。」と言えば立派に尊敬語。 君:そうね。キーワードは「顔人称」。 僕:その通りなんだよ。好きな人が段々と自分に近づいて来てくだされば人は誰でも嬉しいに決まっている。 君:世の中には嫌いな人もいないかしら。しかも近づいて来る場合だってあるわ。 僕:その場合は見て見ぬふり。 君:「め目・みゆ見」の派生語は多いわね。みあはす、とか。 僕:おい、冗談かい、そりゃないぜ。佐七がそれを言うなら「みあひ見合」にて「みそむ見初・見染」。 君:いやん、馬鹿。ほほほ |
ページ先頭に戻る |