飛騨方言における助動詞・れる、は共通語のそれとほぼ同等ですが、
やはり用法において若干の差異があるようです。
以下の文例ですが、共通語の言い回しに対して、飛騨方言も同じ言い回しの場合には文頭に○印をつけました。
飛騨方言では用いられない場合は、飛騨方言の文例を示し、その文頭に×印をつけました。
動作をする人とされる人が一致する場合
1.自発を表す。
例、思い出されます。 ○思い出されるんやさ。
吉報が待たれる。 ○吉報ぁ待たれるんやさ。
注目される。 ○注目されるんやさ。
2.可能・許容
例 私も面白くて遊ばれてしまう。
×おりぃも面白うて遊べてまう。
小さいのでいくらでも食われる。
×小さいもんでいくらでも食える。
3.軽い尊敬
例 本気で言われるのですか。 ○本気で言われるんがな。
動作をする人とされる人が異なる場合
1.他動詞について受身
動作をする人が意識される時
例 あいつに殴られたんだ。 ○あいつに殴られたんやぞ。
食うか食われるか。 ○食うか食われるか。
動作をする人が意識されない時
例 会議が東京で開かれる。 ○会議ゃ東京で開かれるんやさ。
2.自動詞について迷惑
例 雨に降られる。 ○雨に降られる。
赤ん坊に泣かれてしまう。 ○ぼぼに泣かれてまう。
共通語との差異はたった一点です。それは、飛騨の人間というのはとにかく可能・許容の意味で助動詞・れる、を用いるのが
苦手という事でしょう。
例えば、小さいのでいくらでも食われる、というような文例です。
また上記の文例の通りですが、飛騨方言では、食うか食われるか、
というような他動詞で受身の使用法は共通語と同じですので、
この用法しか ( よもや他に可能・許容の用法があろうとは ) パッと思いつかない次第です。
飛騨方言において、食われてしまう、という意味で、食われてまう、という場合は勿論、
例えば人食いざめの餌食になってしまう、あるいは、兄貴に饅頭を横取りされてしまう、
というような意味しか考えられません。
結論ですが、飛騨方言では、四段活用が下一段活用に転じて可能の意味を表すようになったもの、所謂・可能動詞、が存在する場合は
必ず可能動詞が優先され、未然形+助動詞・れる、の用法は決して用いられない、と記載されます、
じゃなかった、記載せれるんやさ。