大西佐七のザ・飛騨弁フォーラム 

言語の恣意性

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やや仰々しい漢字の言葉ですが、言語学の専門用語で、検索結果、つまりはウェブページから抽出された強調スニペット(snippet)は、・・・ 言語が指し示すもの(所記、シニフィエ、記号内容)とそれを示す言語記号(能記、シニフィアン、記号表現)の間には必然的な結びつきはないこと。 これを言語の恣意性という。・・・という事だそうで、日本語として通った文章ですし、意味もそれなりに正しいので、最近の人口知能技術ってすごいですね。自動翻訳といい、言語ですらコンピュータが人間の知性を上回ってしまう時代が来るのでしょうか。それでも、スニペットにどうして一言、ソシュール学説、と書かれていないのでしょうかね。あまりにも自明の事だからでしょうか。

前置きはさておき、本題に参りましょう。言語の恣意性でよく引き合いに出されるのが、犬、という単語。イヌでも、いぬでもよいのですが、どうして日本人はワンちゃんの事を犬と呼ぶのでしょう。≪別に理屈なんかあるわけがなく、犬は犬、誰もがあの四足動物の事を犬と呼んでいるだから、十分に意味が通って実用上、なんら問題はない、犬の言葉に語源など無い≫というのが言語の恣意性という事なのです。ですから、日本人は犬と呼ぶのに、英米人は何故、dog と呼ぶのだろう、と考え込む事にも、猶更の事ですが、意義はありません。英米人も何故、自分達はdog と呼ぶのだろう、という事も知らずに使っていらっしゃるというわけです。

当方言サイトの立場としましては、それでも方言、特に飛騨の俚諺については、なぜそう呼ぶようになったか方言学の音韻論に忠実な立場で真剣に考えてやってきたわけですが(例 てきない=大儀也、げばす=蹴はずす、ミスシュートする)、手元にあります九冊ばかりの語源辞典等を先ほど見てみましたが。犬の由来については諸説紛々で十数の解釈が有りましたので、つまりはお披露目するほどの内容ではありませんでした。蛇足ながら古語辞典にも、ゐぬ(=狗、犬)と書かれているだけです。和語という事なのですね。和語の語源探しはやめましょう。

それでも、どこかの本にありましたが、ネット情報もあると思いますが「けだもの」の語源は「毛だもの」、「くだもの」の語源は「木だもの」なのです。更には、「毛」も「木」も、本来の発音は「き」であり、「き」とは何か平らなところから垂直にニョキッと生えているものを差し、皮膚からニョキッと生えているものが「毛」で、地面からニョキッと生えているものが「木」、これが派生して現在の言葉・獣と果物になっているそうですから、語源論もそれなりに面白いのです。「けだもの・くだもの」に語源などない、ただそういう意味で使っているだけ、というのがソシュール学説の言語の恣意性という事なのですが、皆さまはどう思われますか。

ここでもうひとつ忘れてならないのがオノマトペですね。これも学術語で、擬音語・擬態語の総称です。なぜ犬をワンちゃんというのか、書くまでもない事ですが、ワンワンと鳴くからです。英語圏ではバウワウと鳴いているのですから、これは万国共通ですね。でも、シーンと静まりかえっている、という日本語表現が一部の外国人には理解が出来ないそうで、音がしないのならシーン、という音もないはずという理屈です。でも、これも万国共通の言葉、シーッ、から来ていると思えば理解が容易ですね。私は「シーン」に言語の恣意性は無いと思いますが、皆さまはどう思われますか。

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