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大西佐七のザ・飛騨弁フォーラム 多義語

多義語の成因(3)

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私:多義語は各国の言語に共通の現象であり、つまりは言語というものの本質、その成因についてはルールが幾つあると思うが、そのひとつが有坂・池上法則(母音調和)でしょう。これといった異論はないと思うが。
君:日本語の特質そのもの、というかアルタイ諸語に見られる特質なのだから、それはそうよね。
私:伝統的方言(明治以前の近代語以前の方言の事)、つまりは現代語を含まない多義語は、これまた当然ながら和語が多いだろう。そこでまた、ひとつ小さな気づきがある。単なる妄想といってもいいが。
君:単なる思い付きなので、自由に書きたいという事ね。
私:その通り。ここは思考の場。僕はコンピュータに疎く、コーパス解析が出来ないので、思いつきを書かせていただく。和語も直音の連なりから始まったはずだが、やがて有坂・池上法則(母音調和)が働き、上代に日本語の原型が出来上がる。そこまでは各種の語彙に母音の交替があったはずだが、母音の交替がなくなった時点が母音調和の完成。そこへ更に、例えばハ行転呼、若干の子音の交替が加わり、やがてこれもなくなった。つまりは音韻の完成。こうやってやがて多義語が生まれたのだろうね。音韻が完成するという事はシニフィアンの変化がストップするという事。つまりシニフィアンの最終形。なおも言葉が使われ続けるとシニフィエに変化が生ずるという事なんじゃないか。つまりは、やはりソシュールの考えは多義語の概念においても生きている。
君:飛騨方言だけでいいから、沢山の多義語を調べて結論を書くといいわね。早い話が、あなたはあわらの記事を一つ書いただけで、この記事に及んだのよね。 ほほほ

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