大西佐七のザ・飛騨弁フォーラム 多義語

多義語の成因

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私:多義語は各国の言語に共通の現象であり、つまりは言語というものの本質といってもいいだろうね。誰でも気づきそうな簡単なルールとしては固有名詞は多義語にならないが、一般名詞は多義語になりやすい。
君:そうね。でも、その昔、手段を選ばず強引に(特に卑怯な手段を用いて)己の欲望を達成する事を、えがわる、とか言っていたわね。あれって固有名詞。
私:いかにも。
君:多義語は各国言語に共通なのだから、それこそ発生の機序も解明済みよね。
私:まあそうだね。成書の丸写しだが、要約すると
語の対象への適用の仕方のずれ・・目にゴミが入る、目がいい
特殊化・・ヤマは鉱夫にとっては鉱山、星は警察にとっては犯人
具体化・・花といえば桜、トリといえば鶏肉
比喩・・時計の針、事件の鍵、学者の卵、政界の狸
借用・・自由・切符など明治以降に意味が変化したもの
省略・・きつね(きつねそば)、活動(活動写真)
君:あら、意外と単純ね。つまりは六種類。つまりは多義語といっても6で打ち止めね。
私:それがそうでもなくで、6以上の多義素を持つ言葉は実は存在する。
君:つまりは、それこそ方言学の奥の深い所なのよね。 ほほほ

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