純文学 |
冬の宿・阿部知二 |
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阿部知二と桑原武夫のお二人は戦後を代表する文学者、阿部は英文学者で桑原は仏文学者である。阿部はオスカーワイルド「獄中記」、メルヴィル「白鯨」、ディケンズ「二都物語」等の翻訳で知られるが、小説家でもある。阿部の代表作が「冬の宿」、昨日に読んだので早速に読後感を。 粗筋であるが、卒業論文を前にしていた主人公が下宿していた叔父の家を離れて別の下宿に半年ほど移り住んだ生活を綴ったもの。つまりこの新下宿先が冬の宿である。貧しい夫婦と二人の子供の家の一部屋を借りるのである。主人の霧島嘉門は没落した士族の末裔、放蕩、酒飲み、博打好き、訴訟好き、女好き等、ダメ男の典型である。貞操の妻のまつ子は内職で必死に家計を支えている。まつ子は若く、美人で、キリスト教を心の支えとして生きていた。主人公は密かにまつ子に心を寄せてしまうのであるが、実はもうひとりの登場人物が主人公の恋人、はま江である。はま江は結核療養所に入院中であり、主人公は時々は見舞うが、彼女の生命は徐々に衰えていく。小説の結末は、はま江は病死し、霧島一家は更に経済苦がかさんで家を売って引っ越ししてしまう。つまり主人公は、まつ子とはま江、この二人の女性と今生の別れを告げるというのが粗筋である。 時代背景としては昭和の初期、暗い世相の時代、思想弾圧が吹き荒れていた時の作品である。社会派小説といえなくもないであろう。がしかし、人間の心の機微、特に二人の女性を一度に失うという主人公の心中や如何に、純文学の色香が漂う小説であった。ただし以上は月並みな書評である。 少し変わった読後評として、筆者の体験を少し書き足したい。岐阜県立斐太高校に昭和44年に入学したのだが、或る級友の女学生とのちょっとした出逢いがあった。それでも二年生になるとクラス替えがあり、彼女とはそれ以来であった。以後の思い出はほとんど無い。私は医学部に進学、卒業後は大学病院はじめ複数の病院で働き、この間に結婚し、子供が生まれ、留学し、帰国し、総決算として38の歳に開業した。ちょうど三十年前の事である。開院後、数日したある日、その高一の時の彼女がお祝いの花束を持って私を訪れてきた。実は歩いてすぐの近くに住んでいるという。診療所の建設には一年近くかかったが、当初より開設者が私である事を知っていて、私が開院するのを心待ちにしていたという。 つまりは高校卒業以来の二十年ぶりの劇的な再会である。感激した事は書くまでも無い。高一時代の甘い思い出を中心に楽しい談笑は二時間も続き、お別れの時刻となったが、ご近所故にいつでも会えるし、そうでなくても次回の同窓会でも必ず再会しましょう、と二人は約束したのであった。 ところが開院以来、私は更なる激務に追われた。結局、近所とは言え彼女のお宅をお邪魔する事もなく、瞬く間に三年が過ぎた時に同窓会の案内状が届いた。万障繰り合わせて参加できた事はよかった。早めに会場に到着し、彼女の姿を探した。まもなく開会、幹事の挨拶が始まる。彼から出た言葉が実は彼女の訃報であった。我とわが耳を疑い、そうなるともう同窓会の騒ぎではない。幹事は案内名簿作成に際し、同級生全員の実家に安否確認をしていたのだった。経緯については口を閉ざす実家。同窓会が進行する中、彼女の友人と思しき同級生に聞いてまわったが、誰もが死因を知らないという。 悲嘆にくれて帰途につき、自宅に戻ったのは当日の暮れであった。翌日は、たしかこのあたりという事で彼女が住んでいたというご近所を探し回った。ひとりの老婆が玄関掃除をしておられたので尋ねたところ、隣家がそうであるとの事。表札は違っていた。 実はこのご婦人は全てをご存知だった。一家は家財を売り払い幸福会ヤマギシ会に入会したのだという。夫の意向だったのである。実顕地からは手紙は自由であったようで、当初から彼女とご婦人との文通が続いていたという。当初の手紙では慣れないながらも新天地での生活の面白さが綴られていたものの、その後の手紙は徐々に内容が変わり、ヤマギシズムへの不信、私財を失くし帰る場所がなくなった事への後悔が主に。そして更に最悪の事態、彼女は自身の体の異変に気付くのである。体重が減り、腹水が現れ、悪性腫瘍である事を悟った事と、自分の命は長くないと思うという手紙を最後に彼女のご婦人への手紙は途絶えたという。 彼女がお亡くなりになった事をご婦人に伝えた。ご婦人は涙ぐんでおられた。ご婦人のお話を聞いた私も大人げなく泣いていた。ご婦人に、よくお話くださいました、とお礼を言って私は帰宅後に直ちに便箋に十枚ほどの手紙を書いて同窓会の事務方へ投函した。数日して事務方から私に返信が来た。やはり同窓生は皆が詳細を何も知らなかったようで、生前の彼女と親しかった者に私の手紙のコピーを回送します、との約束が書かれていた。 小説「冬の宿」に戻るが、そこには二人の気の毒な女性が書かれている。夫の暴力と経済苦に苦しむまつ子と結核で死んでしまう主人公の恋人・はま江。私の実体験はそれ以上に非条理極まりないものである。高一のクラスメートが私に開院祝いの花束をくださった日を昨日の様に感ずる。そして自分は一生、彼女の非業の死を自分には受け止め難い思い出として背負って行かねばならない。せめてもの彼女への供養として。 |
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