純文学 |
野菊の墓・伊藤左千夫 |
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教養部時代(1972-3)に一度は読んだはずですが、細かい事は忘れているので、先ほどですが、青空文庫で読み返してみました。今、時は2020、私は67歳になろうとしていますので、ざっと半世紀ぶり、二回目の読書です。短編なので読むのには時間はかかりませんし、フォントサイズが変更できますから、全くストレスなく読む事が出来ました。何度か映画化されているようですが、そちらは観ていません。大幅に叙述が増えているだろう事は想像に難くありません。 粗筋を一言で、書生の主人公・政夫は二歳年上の幼馴染・民子と相思相愛になるのですが、当時の因習がそれを許さず、民子は別人と不本意な結婚、しかも身重で死んでしまい、残された政夫は後に別の女性と結婚、それなりの幸せを得られたものの民子の非業の死を受け入れられずに悩み続ける、というような内容です。これほどの後味の悪い小説は無い、というのが正直な読後感です。伊藤左千夫は、一にも二にも、当時の因習を訴えようとして書いたのでは、と考えざるを得ず、明治という時代に根付いていた男尊女卑の思想、具体的には格差婚、更により具体的には年の差婚への偏見について訴えたかったのでしょう。戦前は男が年上の女性を娶る事など社会常識的には考えられない、という時代背景があったのでした。それにも増して、結婚というものは両家の親同士が決め、両家のつり合いこそが最重要視されていた時代だったのでした。 実は私が感ずる小説の核心部分は少し異なります。さて、そもそも人間である以上、どなた様にも初恋の人はいらっしゃいますでしょう。そして残念ながら初恋の人と結婚できる人は少ないのです。つまりは結婚しても、夫婦にはお互いの心の中に初恋の人がいるのです。あるいは幸せな結婚をすると、やがてその初恋の人を忘れてしまう事ができる人が大半のはずです。夫婦がお互いにそうであれば、それこそお互いが目の前のなんちゃって初恋の人と結婚出来たという幸運な夫婦になれるのです。世の中の大半の夫婦はそうやって幸せに生きていける事を感謝するべきでしょう。ただし政夫はそのような幸せな夫ではありません。彼は民子と結婚できなかった事、そして彼女の非業の死という非条理をいつも心の中で反芻し続けるのです。人生に失敗はつきもの、反省は未来につながる糧だから人生に反省は必要であるが、ただし人生に後悔は必要ない、などというロジックは彼には一切、通用しません。人の思いというものは理屈では無いのです。伊藤佐千夫は読者に、少なくとも私に、それを語りかけたかったのでしょう。余儀なき結婚をして長らえている、と言う一節は政夫の魂の吐露とも言うべきでしょう。政夫は世間の非条理に耐え、しかも自身が罪深き夫として、耐えて生きていかなくてはならないのです。 以上ですが、私のこの小説に対するもう一つの思いがあります。小説には実在のモデルがいたわけではなく、伊藤の私小説ではないというのが通説のようですが、ただし私はこれもにわかには信じがたく、気になってしかたありません。純文学の分野では、小説家は皆、体験した事を書くものなのです。それはともかく、このリアリティに満ちた悲劇小説は映画化により日本人の心を広く捕らえたようです。夏目漱石に絶賛された事もつとに有名です。 さてもうひとつのリアリティ、1991年(平成3年)5月に完成した山武市の伊藤左千夫記念公園には、銅像が建立されたというネット情報も先ほど知りました。従って早速、グーグルのベグマンにて見て参りました。民子と政夫がベンチでお互いを見つめている座像、これにて小説・野菊の墓はハッピーエンドというようにも見えますが、笑う気持ちには到底なれません。どんな運命が愛を遠ざけたのか、決して戻る事のない輝き、それを知るべくもない若い男女の像は己に照らし涙を誘うばかりです。ところで、若しあなたがかつて文学部の学生で教授から例えば「夏休みを利用して、日本全国どこでもいいから少なくとも10以上の公園を訪れて、それをレポしなさい。」という課題を与えてられていたらどうなさったでしょう。若しあなたが伊藤左千夫記念公園を訪問しておられたら、この公園については原稿用紙数十枚ほどはたちまちに書いておられたかもしれませんね。 早速に耳コピ、ギターコードC/F/Gの陽旋律、さびでE/Amが挿入されるものの、本来は明るいメロディのはず、どうしてこのユーミンの曲はこんなに悲しく感じるのでしょう。 |
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