1.
ふわりと、鼻腔を擽る香り。
甘ったるいそれは、銀時にはあまりに馴染んだもの。
チョコレート。
しかし、今の万事屋内にチョコレートなどあっただろうか。
答えはすぐに出る。否、だ。
家にある甘味は全て把握している自信が銀時にはある。
ならばこのチョコレートの香りは一体何だと言うのか。
訝しんだ銀時が立ち上がるのと、部屋の扉が開いたのは、ほぼ同時だったか。
「あ、銀ちゃん。おはよ」
勝手に上がっちゃってごめんね、と頬を微かに染めて微笑むのは、銀時の恋人。
夢か真か、何の間違いか、天変地異の前触れか。
周囲から散々と言われたものの、夢でも冗談でもなく、彼女はここにいる。
チョコレートの香りと共に。
「お前、朝からチョコでも持ってきたのか?」
「え?」
目を瞬かせて首を傾げる彼女に近寄れば、その香りはますます強くなる。
濃厚にして極上に甘い、蠱惑の香り。
だがその甘い香りは、何故か彼女自身から発しているようにも思える。
くんくんと鼻を寄せれば、「ああ」と納得いったように彼女は手を打った。
「カカオのボディバター塗ってるから。それかな?」
ボディバターとやらが何であるのか、正直なところ銀時には今一つ分からない。
わかるのは、チョコレートがあるわけではないということと。
「―――甘ぇ」
「ぎっ、銀ちゃん!?」
可愛い恋人が、目の前にいるという事実。
ぺろりとその手の甲を舐めれば、どんな高級なチョコレートよりも甘ったるい。
痺れるほどに甘く、蕩けるほどに濃厚で。
突然のことにわたわたと慌てる恋人の手を、銀時は掴んで離さない。
紅く染まる頬は林檎のよう。それをチョコレートの香りが甘く甘く包み込み。
「いただきます」
『濃厚チョコレヰト』
(―――もうこのボディバター使うのやめよう)
恋人がそんな決意を胸に秘めたとは、銀時は知る由も無かった。
2.
突如として街中に響く悲鳴。
何事かと、見廻りという職務を果たすべく土方が向かった先は、何の変哲もないファミリーレストラン。
その一角。
床には、無残にも割れた皿やグラス。食べかけと思われる食材。
テロにしてはあまりにもやる事が小さすぎる。
無論これは、攘夷浪士によるテロリストなどではない。
その一角に佇むのは、一人の女。
ただの酔っ払い。その奇行に過ぎない。
昼間から酒を提供する店も店だが、飲む客も客だ。
床に散乱するガラスの破片は、一体グラス何個分なのか。
それにしたところで、大した量ではないだろう。
ファミレスが提供するアルコールなど、たかが知れている。
おそらくは、この女が元から酒に強い体質ではなかったのだろう。
などという考察は、実のところどうだって良い。
真選組の副長ともあろうものが、通りがかりとは言え、酔っ払いの対応をせざるをえないことを嘆くのも、後回しだ。
一先ずは。
「オイ。ちょっとこっち来い」
このまま放置していては、更なる被害を店に及ぼすかもしれない。
この場から引き離して、酔いが醒めるまで公園のベンチあたりにでも押しつけておこうかと思ったのだ。
とりあえず、周囲に投げつけられるようなものが無ければどこでもいい。
彼女の腕を半ば強引に掴み、引き寄せる。
存外素直に寄ってくる彼女に、そのまま引きずって店を出ようとした土方だったが。
「……私、迷惑なんでしょうか」
「は?」
「私、ウザいんでしょうか」
そりゃこれだけ暴れて器物破損すれば、迷惑でウザいだろうよ、と土方は言ってやりたくなる。
アルコールの匂いを漂わせ、見上げて問いかけてくる彼女の瞳は、酔いのせいなのか潤んでいる。
熱く火照った頬と相まって、状況が状況でなければ、男ならば多少なりともぐらりと理性を揺さぶられかねない様相で。
何と返せばよいのか言葉に詰まり、思わず足を止めてしまった、その時だった。
「ふぇっ……」
しゃくりあげたかと思った、次の瞬間。
泣くなどと、可愛らしいものではない。号泣だ。
恥も外聞もなくわんわん泣きながら、「バカヤロー!」だの「どうせ私はウザいもん! 迷惑だもん!!」だのと、喚き散らす。
暴れないだけマシなのかもしれないが、それでもこの泣き声は一種の凶器に近い。
その証拠に、周囲を取り囲んでいた野次馬が、そそくさと逃げ出していく。
言葉の端々に男の名前らしきものが出ているあたり、どうやらフラれた挙句の自棄酒だったらしいことが知れる。
しかしそんなことはどうでもいい。
実に―――実に面倒だと。思わず天を仰いだ先にはしかし、当たり前だが無機質な天井しか無かった。
『花酔』
「―――もうお酒は金輪際飲みません」
「そうしてくれ」
数日後。屯所の一室にて。
菓子折を持って謝罪に来た彼女からは、流石に酒の香りはしない。
しおらしく首を垂れるそこから立ち上るのは、仄かに甘い、花のような香り。
何もかもが、最低な出会いとは異なっていて。
その差異に、再度ぐらりと理性を揺さぶられるような、そんな気がした。
3.
「血ィついてんぞ」
「え? ほんと?」
洗ったつもりだったんだけどな、と呑気に言う彼女は、しかし自分で拭おうとはしない。
仕方なしに、高杉は代わりに拭ってやる。
頬についていたそれは、おそらくは返り血だろう。少なくとも彼女自身のものではないはずだ。
根拠があるわけではない。もしくはそれは、そうであってほしいという願望に過ぎなかったのかもしれないが。
少なくとも見える範囲では、確かに彼女は傷を負ってはいなかった。
一体幾度、こうして血を拭ってやったことか。
数え切れないほどに、それは既に日常と化してしまっている。
それでも、いくら拭ってやったところで。
「落ちないよね」
「…………」
「血の臭い」
戦場に身を置くようになって、どれほどの月日が経ったのだろう。
日を重ねる程に深くなる血の臭い。それは即ち、死の臭い。
仲間である人間のものなのか、敵である天人のものなのか。最早その区別さえつかない。
そんなものかと、思う。
死んでしまえば、人間も天人も、然程の差異は無いのかもしれない。
それでも、戦わなければならない理由が、ある。
「これ、私と晋助と、どっちの臭いだと思う?」
「さァな」
呑気に尋ねてくる彼女は、きっと精神のどこかが麻痺してしまっているのだろう。
或いは、狂ってしまっているのか。
だがそれは、高杉も似たようなものなのかもしれない。
戦場で正気を維持し続けることなど、不可能なのだから。
だが、そんな状況に身を置かざるをえなかった理由は、この世界にある。
どうしようもなく最低最悪な、この浮世に。
『値三銭の浮世』
それでも、そんな最低最悪なこの浮世に拘ってしまうのは。
「こうすれば、どっちでも関係ねェだろ」
「それもそっか」
腕の中にいる彼女に、それに対するだけの価値があるからに、他ならない。
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