犬を、拾いました。
 
怪我をして、それでも血に飢えた目をしている、そんな犬を。
 
 
 
 
狂犬注意
 



「不用心だな。女一人の部屋に、男を入れるなんてよ」
 
 
拾ったのは、人の言葉を解する犬。
と言うよりも、人間。
それでも、犬と形容してしまいたくなるのは、何故なのだろうか。
男の左肩から流れる血を止血し終えたは、ふとそんなことを思う。
だが、不用心でも何でも、家の前で血を流したまま座り込まれては、その方が迷惑と言うものだ。
だからこそ、名も知らぬ男を家にあげ、挙句に手当てまでしている。
放っておいては、部屋の中が血で汚れてしまうではないか。
理由は、ただそれだけ。
 
 
「私が拾ったのは、怪我をした犬と似たようなものですよ」
 
 
怪我をした犬が家の前に寝ていたら、つい手当てをしてやりたくなる。
ああ、それで犬なのかと、は一人で納得する。
それならば猫でも鳥でもよいではないかと思ったが、とりあえず犬が最も身近だったのだろう。
しかし男は犬扱いされたのが気に入らないのか、スッと目を細める。
怒らせたのかと一瞬心配になるが、怒らせたからといって何がどうなるわけでもない。
そもそも成立していない人間関係。赤の他人にどう思われようとも、害さえ無ければそれでいい。
だが男が浮かべたどこか皮肉な笑みに、特に怒らせたわけではなかったのだとは知る。
そのことに安堵したのは、見知らぬ男とはいえ、やはり負の感情を持たれるのは気分の良いものではないからだ。
 
 
「ふん。その犬が狂犬なら、どうするつもりだ」
 
 
……ああ、これか。
男の言葉に、は今度こそ納得する。
 
『狂犬』
 
この見知らぬ男を形容するのに、これほど相応しい動物はないかもしれない。
ようやくは、引っ掛かりが取れた気分になった。
言われてみれば、その目は血にでも飢えているかのようにぎらついている。
拾ってしまったのは、どうやら狂犬だったらしい。
それならばそれで、対処の方法はあるものだ。
 
 
「予防接種、打ちに行きましょうか」
「…………」
 
 
さすがにこのような返答は予期していなかったのか、男は絶句する。
自らを狂犬と称した男のそんな姿は少しだけ滑稽で、は思わずくすりと笑った。
傷口に包帯を巻き終え、は男の隻眼を覗き込むようにして言う。
 
 
「大丈夫ですよ。痛くないですから」
「……てめー」
 
 
まるで子供を宥めるかのような物言いに対し、男が口にできたのはただその一言のみ。
再びくすりと笑うと、は腰を上げる。
そして、箪笥の奥から一着の着物を取り出すと、躊躇うことなく男の着物を脱がしにかかった。
 
 
「……積極的だなァ?」
「それはまぁ。汚れた着物を洗うことに関しては、積極的にもなりますよ?」
 
 
からかうような男の言葉にも動じることなく、は替わりに箪笥から出した着物を男に着せた。
脱がせた着物は、大雑把にたたんで横に置く。
実際、血に濡れた着物というものは、いつまでも目にしていたくはないものだ。
 
 
「だが、テメーの男が黙っちゃねェだろ?」
 
 
男物の着物を出したためか、男はに男がいると考えたらしい。
それは間違いではない。
確かに男―――夫は、いた。数年前に他界した、夫が。
しかし、そこまで説明する義理は無い。は曖昧に微笑んで、男の問いをかわす。
男にとってもそのあたりはどうでもよいのか、皮肉な笑みを浮かべたまま、隻眼をじっとに向けている。
 
 
「……面白い女だな」
「褒め言葉ととっておきますね」
 
 
それが真実、褒め言葉になるかどうかはさておき。
汚れた着物を洗うため、は再び腰を上げかける。
が、その行動は、腕を掴む男の手によって止められた。
 
 
「名前は何だ」
 
 
名乗ることに、意味はあるのだろうか。
だが生憎と、は、出会ったばかりの男に名乗れるほどに、馬鹿ではない。
 
 
「自分から名乗らない男に名乗るほどには、不用心な女ではないですよ」
「それはそうだな」
と申します」
 
 
……馬鹿だった、のかもしれない。
思わず名乗ってしまったその意図は、自身、わかっていない。
一度断っておきながら、その直後に素直に名乗っているのことを、男はどう思ったのだろうか。
見れば男は、くっくっと声に出して笑っている。
 
 
「……ますますもって、面白い女だな」
 
 
先程は褒め言葉ととったそれも、今となっては素直にそうとることができない。
きっとが、自分自身、馬鹿だと思ってしまっているからなのだろう。
笑う男を複雑な思いで眺めていただったが、不意にそれこそ馬鹿らしくなってしまった。
名乗りもしない男に、何故翻弄されなければならないのか。
今度こそ、着物を手に立ち上がる。
しかし歩きかけたを、再び、今度は手を掴んで男が止める。
 
 
。俺の女になれよ」
 
 
座ったまま、鋭い視線だけをに向け。
冷酷にも見える不敵な笑みを、その顔に浮かべ。
それでも、の手を掴んだその手は、目の前の男には不釣合いなほどに、温かかった。
意外な温もりに、やや目を見張るものの。
それは、一瞬のこと。
 
 
―――そういう口説き文句は、怪我をした狂犬から進化してから、どうぞ」
 
 
にこりと笑いかけると、男の手から抜け出す。
一瞬高鳴った胸は、きっと気のせい。
背後から聞こえる男の笑い声を耳にしながら、は着物を手に、部屋の奥へと姿を消した。



<終>



高杉さん、名前出てないじゃないか(汗
書いてて、今までで一番疲れた話でした。高杉さん、よくわからないや。
でもこの話、続きのネタもあるんです……まぁ、気が向いたら書くような気も。