epilogue "0"
何もかもが麻痺をしているのだろう。
五感も、感情さえも。
屋敷中に充満した咽返るような血の臭いを不快に思うこともなければ、足の下からあがる苦痛と恐怖への悲鳴が気に障ることもない。
―――あの時、自分の内から全てが欠落したのに違いない。
救われない話だ。しかし救われたいとも思わない。
自暴自棄になった訳ではない。救い上げてくれる手を失ったのならば、救われようがないではないか。
「た、助けて、くれ……っ」
赦しを請う掠れた言葉が、呻き声に混じる。
見下ろせば、怯えの色の浮かんだ隻眼がこちらを見上げている。
何とも、無様。
馬鹿にしたように口の端を上げれば、その目に絶望が過ぎるのが見て取れた。
ありえない方向へと捻じ曲がった腕のまさにその箇所を躊躇い無く踏みつけてやると、呻きは途端に絶叫へと変わる。
だが、どれほど求めようとも助けが現れることはない。この屋敷には、死が蔓延しているのだ。生きているのは、この場にいる自分と足元の男くらいだ。
「アイツは、惨めったらしい命乞いなんかしなかっただろ?」
それが、自分の知る彼女だ。
取り押さえられ、幾人もの男に嬲られ犯され、玩具のように扱われようとも涙一つこぼさなかった。
生爪を一枚残さず剥がされ、四肢の骨を砕かれ、両の眼を抉られ、身体中を切り刻まれようとも、悲鳴一つあげなかった。
拷問の末にそれを聞きだしたのは、一体何人目の男だったか。そしてこの男は一体、何人目になるのか。
だが、それに対する興味は無かった。
あるのはただ、足下で息も絶え絶えに恐怖する男に対する憎悪ばかり。
今まで殺してきた者たちも、皆そうだった。怯え逃げ惑い、助けを乞い、泣き叫びながら醜い最期をとげた。
こんな男たちに彼女が散々にして殺されたのかと思うと、赦せようはずもなかった。しかも、その誰も彼もが幕府の官僚だと言うのだから尚更だ。自分たちが、彼女が、一体誰のために戦っていたと思っているのか。
自分たちの全てを否定し、粛清にかかった幕府。そして、自分から彼女を永遠に奪い上げたのだ。
「ならテメェは、呑気に命乞いできる立場じゃねェよな?」
男の顔に絶望が広がる。
もっと味わえばいいのだ。彼女が、そして自分が味わった絶望は、その程度のものではない。
至極冷静だった。そこに慈悲は無い。ただ機械的に、血に濡れた刀を恐怖に言葉すら失った男の眼球へと突き立てた。
煩わしい断末魔の叫び。最後の足掻きとでも言うように身体を痙攣させ、男は物言わぬ屍となった。
特段の感情は湧かない。やはり機械的に刀を抜くと、鞘へと収める。
復讐劇を気取るつもりはない。敵討ちだと名分を掲げるつもりもない。
ただただ、赦せないだけだ。
次は誰の番だと、憶えたくもないのに忘れられない名の羅列を思い浮かべ、はたと気付く。足下に倒れ伏す屍こそが、最後の人物であったのだと。
だが、これで気が済んだのかと言えば、そのはずもない。きっと何をしたところで気が晴れるはずもない。それは最初から薄々と感じていた。
見下ろした先、血に塗れたこの手は、冷たい。
どれほど彼女の温もりを憶えていたくとも、その体温をこの身に留めておくことは叶わない。残ったのは、温もりを得られず、代わりに得た返り血で冷えた己の両腕だけだ。
失ってから気付く。
他人の温もりならば誰でも良かったわけではない。彼女でなければなかった。彼女の温もりを、生きている証を、確かめたかったのだ。
その彼女は、もうどこにもいない。何をしたところで、自分の元に帰ってくることはない。喪失感が、彼を苛む。
ああ、どうすればこの喪失感を埋めることができるのか。
自問に対して得られる答えなど無く、まるで飢餓感にも似たそれを持て余したまま、彼はゆっくりと足を進める。
向かう先は一つ―――彼女が眠る場所。
進むべき道は一つ―――けれどもその先に彼女は、いない。
<終>
「悪ノ召使」聴いて色々妄想してたら、結果、ほとんど原型留めていない何かになりました。
言い訳すべきことは山のようにありますが、あまり書くと色々台無しになりそうなのでやめます。
時間軸としては、2→3→1、てな具合でしょうか。
('09.06.27 up)
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