絶対不可避の現実
風呂に入るのは汚れを落とすためだけれども。
それでも、血の臭いが身体に染み付いたように落ちないのは、気のせいなのだろうか。
気のせいであってほしいと思うと同時、落ちなくても何ら不思議ではないともは考える。
そうなってもおかしくない程の血を浴びているという自覚があるのだ。敵も味方も含めて。それも一日で済む話でなければ、一人二人で済む話でもない。
決して慣れることのできない臭い。
最初の内こそは躍起になって落としたがったが、最近では諦めがついた。
諦めというよりも、受け入れたという方が正確か。
どんな大層な思想を掲げたところで、天人を、時には人を殺している事実に変わりは無い。落ちない血の臭いは、自身の背負うべき罪業の証であるようにも思えた。
そうは言っても、いちいち悲嘆にくれていては生きることもままならない。きっとそれは、全てが終わってからでも遅くは無いだろう。
だから今は、目を瞑って。
宛がわれた部屋の襖を開け、は文字通り、目を瞑った。
深呼吸して、再度目を開ける。
けれども現実は変わらなかった。
天パが我が物顔に寝転がっているという、現実は。
「…………ふんっ」
「げふっ!!?」
変わらなければ、自分で変えてみせるしかない。
夜も更けた時間に乙女の部屋に入り込んでいる男が悪いとばかりに、は遠慮も何もなく、寝転がっていた銀時の腹を踏みつけた。全体重をかけて。
呻く銀時に、しかしは冷たい視線を投げつけるのみ。無断で部屋に入るなと言ってあるにも拘わらず、堂々と部屋に入り込んでいる方が悪いのだ。
それは何も銀時だけではなく、他の仲間にしたところで無遠慮に入り込んでいたり、時には夜這いをしかけてくる男もいるのだから、そのたびに追い返す身にもなってほしいとは思わずにいられない。蹴るのも殴るのも、労力を伴うのだから。
大概は反論してきたところを再度殴るなり蹴飛ばすなりすれば、すごすごと引き下がる。今までの銀時も、そのパターンだった。
だから即座に反応できるよう、身構えていただったが。
身を丸めて呻いていた銀時だが、いくら待てども反論がやってこない。
いつもならば、すぐに起き上がって不満を漏らしてくるはずだ。それなのに今回に限って、うんともすんとも反応が無い。
思い切り踏みつけすぎたかと心配にもなったが、呻いている様子もない。気絶……は、散々呻いていたから無いだろう。
「銀時? 大丈夫? でも自業自得だからね?」
「…………」
心配しながら、それでも自分が悪いとは絶対に認めない口振りでは声をかける。
それに対する銀時の返事は、無い。
不審に思い屈み込んでみるも、影になって銀時の表情は読み取れない。
いつにない様子に、どうすればよいのかには皆目見当もつかない。
らしくない空気は、しかし茶化してしまうにはあまりにも重すぎる。いくらなんでもこの重さを読み取れないほど空気が読めないわけではないのだ。
只事ではない雰囲気に対応法が見つからず、結局にできることは、背を向けている銀時の隣に黙って座り込むことくらいだった。
きっと何かがあったのだろう。
それでも、それを聞き出すことは躊躇われた。聞いても答えないだろう、という思いもあった。けれどもそれ以上に、語られた話を背負い込むことなどできそうになかったからだ。
自身のものですら持て余していると言うのに。他人の重荷まで背負うことなどできるはずもない。
それがわかっているから、聞こうとは思わなかった。聞くだけ聞いて何もしないでおいて、役に立たない人間だと思われたくなかったのだ。
自己嫌悪に陥りそうになるが、ここでは誰もがそうだ。他人の重荷を背負おうとはしない。その代わり、自身の重荷を他人に押し付けることもしない。それは戦場における不文律。
会話も無いまま、悪戯に時間だけが過ぎていく。としては早く休みたいのは山々なのだが、それでも今のこの空気の中で銀時を無理に追い出すことは流石に気が引ける。
「」
不意に沈黙を破って呼ばれた名前。
その声は常に比べ心なしか低く、掠れていている。ドキリと胸が脈打ったのは、不意を突かれたせいか、それともその声音のせいか。
視線を下へと向ければ、いつの間にかこちらを見ていた銀時の視線とかち合い、再度ドキリとさせられる。
戦いの時以外にはほとんど見ることのない、真剣な表情。そんな顔で見つめられては反応に困ってしまう。
平静を装って「なに?」と返してはみたが、そんなものは無駄な努力でしかなかったのだと、直後には知ることになった。
「抱かせてくれ」
思考回路停止。
最早、反応に困るどころの話ではなかった。
二人が恋人として付き合っている訳ではない。それでも銀時が本気で口にしていることが、にはわかった。
普段であれば、馬鹿なことを言うなと殴るなり蹴飛ばすなりと、撥ねつけることは容易い。
けれども今は、冗談で受け流すには、場の空気があまりにも重すぎる。
一体どんな反応を返せばよいのか。いっそ頷いてしまえばいいのか。
頷いてしまったらどうなるのだろうと、半ば現実逃避にも似た思考をは始める。
請われるままに身体を差し出して、それで何がどうなるだろう。
何も変わらない。結局のところ、血に塗れたこの身体がどうにかなるわけではない。
それでも、と思う。
抱き合って行為に没頭している間は、余計なことを考えずに済むのではないか。背負っているものから目を逸らすことができるのではないか。
それは、今この時ばかりは、あまりにも甘美に過ぎる誘惑。
思わず頷きそうになり、けれども醒めた思考がを現実へと引き戻す。
そんなものは所詮、一時の逃避にしかならないのだ。
逃げた先で、互いの傷を舐め合って。それで。
「―――それで、何が変わるって言うの?」
我ながら冷めた声だとは思う。
おそらくは精神的に弱っているのであろう相手に対してかけるには、あまりにも冷たすぎる。
温度もない抑揚に欠けた声。言葉を投げかけられた銀時は、しかし然程動じているようには見えなかった。時として誰よりも心情を隠すことに長ける銀時のことであるから、その表情のままに受け止めてよいのかは判断できなかったが。
「―――悪かったな」
ただ見つめ合うだけの沈黙を銀時が破ったのは、どれほどの時間が経過してからだろうか。
おそらくと同様、銀時もまた胸の内で何らかの葛藤があったに違いない。
今日のことは忘れてくれ、と。身を起こした銀時が、部屋を出る直前に言い残す。
パタン、と襖を閉める音。再び部屋に訪れた静寂。
途端、バクバクと心臓が早鐘を打ち出す。気が抜けた瞬間にはこの様かと、自身のことながらは情けなささえ覚えてくる。
自分の答えは間違っていなかった。それだけは自信を持って断言できる。
それでも「もし」を考えずにはいられない。忘れろと言う方が無茶な話だ。真剣な顔を向けられて、あんなことを言われて―――駄目だとは思った。けれどもそれは決して、「嫌だ」という意味を含んではいないのだ。仮定のその先を考えるほどに、それは確固とした感情となってしまう。
ぐるぐると考え込むことにも疲れ、とすんと畳の上に身を投げ出す。布団を敷くのも億劫なほどに疲れているのだ。
けれどもそれが失敗だったとは直後に気付く。
畳の上にわずかに残る温もり。誰のものかなど、わかりきっている。
「……忘れられるわけ、ないでしょうが」
傷の舐め合いなど真っ平御免だ。
だが、それでなければ―――考えるつもりも無かった「もし」の思考に、は慌てて首を振る。
今夜はどうにも、眠れる気がしない。思考の外に追いやろうとしても、気付けばいつの間にか忍び込んできてしまう。考えても詮無いことだとわかりきっているのに。
「明日の朝一番、殴ってやる」
物騒な決意を固め、は一人拳を握る。
睡眠不足の代償に、それくらいは当然のはず。
自身がどうしようもなく『女』であることを痛感して悩み転がる夜。
少なくとも血や罪業に悩むよりは余程真っ当だったと、そう振り返って笑い飛ばすのは、幾年先の話―――
<終>
やまなしおちなしいみなし。
('10.07.04 up)
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