「今度、身請けされることになったんです」

さらりと告げられた言葉。
思わず聞き流しそうになった高杉は、辛うじて引っ掛かった言葉を咀嚼し、次に眉を顰めた。
視線の先で、女は穏やかに微笑んでいる。自分がどれほどの爆弾を投下したのか、わかっているのだろうか。

「だからきっと、今日が最後でしょうね」

何が、とは言わなかった。
それでも、意味するところは伝わる。
穏やかな笑みのままに別れの言葉を口にする女に、自分はその程度の存在だったのかと憤りを感じずにはいられない。
遊郭に生きる女達にとって、通う男たちは単なる生活の糧であり、本気で情を寄せることなどないのだろう。それをわかった上で、男はこの場所へと足を運ぶのだ。
けれども、この女は―――だけは特別だと、高杉は思っていたのだ。
何の根拠もなく。されど、何の疑いを抱くこともなく。
手を伸ばせば、容易く触れられる距離。頬に添えた掌に伝わるのは、確かな温もり。
失うことなど、考えもしなかったと言うのに。

「どこのどいつだ?」
「言えませんよ。でも優しい方です。背が高くて威圧感もあるのに、気弱なところがあるのが可愛らしくて」

まるで予め答えを用意してあったかのように、は淀みなくすらすらと言葉を口に乗せる。
或いは、今までにも散々聞かれたことなのか。
そのことが、の周囲にいるのであろう男たちの存在を余計に想起させる。

「俺の前で他の野郎の話なんかしてんじゃねーよ」
「あら。貴方から聞いてきたんでしょうに」

くすりと、困ったような笑みが零れ落ちる。
その笑みも、涙も、吐息さえも。
彼女が落とすもの全てを掻き集め、この手の内に留めておくことができたならば。
そんな愚にもつかない考えが過る程度には、のことを―――

―――最後、か」

口端だけを微かに上げ、高杉は笑う。
その腕をとって引き寄せれば、近しい距離は更に縮まる。
呼吸音も鼓動も互いの耳に届くかのような距離。

「最後、ですよ。準備もほぼ整っているんですから」

抱き寄せた腕の中で、彼女は何を思うのか。

「だから、他の野郎の話なんかしてんじゃねーよ」

彼女の言葉が僅かなりとも震えていたのは、聞き間違えなどではない。
遠慮がちに、それでも縋るように着物を掴むその指先は、遊女として見せる媚などではない。
或いは、それが自身にとって都合のよい解釈でしかないのだとしても。何を構うことがあろうか。
縮めた距離を更に埋めるべく、うっすらと開いた紅い口唇へと咬み付くように口吻けた。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
賑わう夜の街の片隅。
外の喧騒とは相反するように、の存在はひっそりとしていた。
彼女がどれほど華やかな着物を纏おうとも、その印象が変わることはない。
それでもその存在は、人の心を惹きつけてやまない。
まるで宵闇の中で密やかに花開く一輪の野菊のように。

―――死んだ、ってな」

誰が、とは口には出さなかった。
それでには通じるはずだった。
案の定。「耳が早いんですね」と口にする。
その顔にはいつものように穏やかな笑みを乗せて。蔭って見えるのは室内の灯りのせいだろうか。
の身請け話を進めていた男が死んだのは、数日前。屋敷で寝ているところを、押し入ってきた何者かに殺されたらしい。
室内が荒らされた形跡もないことから、強盗の線は薄い。豪商の若旦那であった故、商売絡みで恨みを買っていたのでは、というのが世間の見解のようだ。
だが、そんなことは高杉にとってはどうでもいいことだった。
以前と変わらず、がこの部屋にいる。その事実こそが肝心であった。
手招きすれば静かに歩み寄ってくるを、腕の中へと引き込む。
ふわりと立ち上る芳香。まるでここが居場所だと言わんばかりに、その身体はこの腕にしっくりと収まる。
実にその通りだ。
この部屋の、この腕の中こそがの居場所だ。他にあるはずもない。
密やかに息づくこの野菊を、他の誰にも手折らせてなるものか。

「悲しんでるか?」
「……その答えを貴方が望んでいるとは思いませんが」

違いない、と高杉は笑う。
の答えがどんなものであれ、それが高杉の気に入ることはないだろう。
ほんのささやかな感情なのだとしても、の心が他に向けられることを高杉は許さない。
醜いばかりの独占欲。
自覚はあれど改めるつもりもなく、それどころか日を追うごとに増すばかりのそれを敢えて放置しているのだから、タチの悪さというのはこれもまた自覚せざるを得ない。
それはも察しているのだろう。だから曖昧にして答えを濁す。
すべてが自分のために誂えられたような存在。
その事実に満足し、耳元へと口唇を寄せる。

「『最後』だとか、俺が許すと思ったか?」

低い声で囁けば、ひくり、と腕の中で震える身体。
込み上げる満足感に、高杉は口端を上げる。




常夜の小夜啼鳥




彼女は未だ、遊郭という名の籠に捕われたまま。
それでいい、と高杉は思う。
籠の中で、閉じられた世界の中で、この腕の内で。自分のためだけに啼けばいい。



爛れた恋愛が一番似合うのは高杉だと思うのです。
自己中心的にも程がある、みたいな。

('10.08.15 up)