女に、拾われた。
距離を取りながらも、真っ直ぐな目をした、粋な女に。
狂犬注意 −咎人知らず−
つまらないへまをやって、高杉が左肩に傷を負ったのは、数日前。
座り込んで休んでいたところを、一人の女に拾われた。
と名乗ったその女は、以来、高杉に名を問うことも無く、そして高杉からも名乗ることも無く。
そうした奇妙な関係のまま、いまだ高杉はの家にいた。
が、怪我が治るまで居ろと言ったわけでも、高杉が強引に居座っているわけでもなく。
ただ、そうあることが当然だとでも言うように、居続けている。
そして高杉は今、煙管を手に窓の外を眺めていた。
が買物から戻れば、その窓から姿が見えるのだ。
たかだか数日で、そのようなことに気付いている。
そんな己に自嘲の笑みを浮かべ、それでも高杉は窓の外を見ていた。
やがてその目が、の姿を捉える。
買物袋を手に提げ、背筋を伸ばして真っ直ぐに歩く。
ここからでは見えないが、その顔には、常と同じく静かな笑みを浮かべていることだろう。
すれ違う人間に会釈する仕種にすら品を感じさせる、立ち居振る舞い。
流れるような所作には、ぎこちなさも傲岸さの欠片も無い。それはあくまで、にとっては自然なことであるかのように。
―――いい女だと、高杉は素直に感歎する。
他人の事に深く立ち入らず、それでいて、押し付けがましくない程度の気遣いをしてみせる。
一見、完璧な女。
しかし、そこがの欠点でもある。
他人に深入りしない。それは、他人に深入りされることも拒絶している、ということだ。
親しみを感じさせる静かな笑みで、逆に他人を寄せ付けようとしない。
それが、という女。
必要以上の干渉をしてこないどころか、未だ高杉の名すら問うてこないことが、その証拠である。
ゆっくりと、煙を吐き出す。
立ち上る煙が消えかける頃には、の姿は視界から消えていた。
そろそろ、家の前に着くはずだ。
別段、出迎えるつもりがあるわけではない。
それでも視線は、意図せずとも玄関へと向けられる。
だが、しばらく待っても、その視線の先にが姿を現すことはなかった。
不審に思い、高杉は腰を上げる。
この行動に、何の意味も、どのような意図も、存在しない。
それでも玄関へと向かった高杉の耳に、不意に言葉が飛び込んできた。
「私が拾ったのは、怪我をした犬ですよ?」
の声だった。
どうやら誰かと家の前で話しているらしい。
ところで「怪我をした犬」というのは、高杉のことなのであろうか。
あのおっとりとした、それでいて感情の読み取りにくい笑みを浮かべ、ぬけぬけと口にしているであろうの姿を思い浮かべるだけで、高杉は可笑しさを覚える。
しかし。
「それは狂犬じゃねェのか?」
その声を耳にした瞬間、そのような感情は、あっさりと吹き消されることとなった。
代わりに覚えるのは、左肩の傷の疼き。全身の血が逆流するかのような感覚。今すぐ表へと飛び出し刃を突きつけてやりたくなる衝動。
反射的に、腰に差した得物に手をかける。
「大丈夫ですよ。噛みついたりしませんから」
実際には、今にも噛みつかんとしているわけだが。
しかしの言葉に、一瞬、気が抜ける。
のことだ。特に高杉を庇うつもりも何もないのだろう。第一、名前すら知らないのだ。ただ事実を述べているにすぎない。
そういう女なのだ。
そして高杉自身、の前では、内にいるはずの獣が、牙を抜かれたかのように大人しくなっているのを自覚している。
更には、それが決して不快ではない、自身をも。
だからこそ。
「……たとえアンタに懐いたとしても、一度人間に噛みついた狂犬は、処分する決まりでな」
潮時、なのだろう。
不必要に、居続けすぎた。
の次の言葉を待たずに、高杉は部屋の中へと戻る。
立ったまま壁にもたれ、再び煙管を手に窓の外を見やる。
先程までと、まるで変わることのない景色。
だが、物足りない景色。
何が足りないかなど、わかり過ぎるほどにわかりきっている。
自分には似合うはずも無い想いを吐き出すかのように、高杉は殊更ゆっくりと煙を吐き出した。
この場所に居心地の良さを感じ始めている自身を。
に対し抱きかけている、想いを。
すべてを吐き出し、煙と同じように空気に溶けてしまえばいいのだ。
「―――どうしたんですか? 立ったまま。何かありました?」
その声に首をめぐらせると、が、いつもの笑みを浮かべて立っていた。
どうやら、表での立ち話は終わったらしい。
玄関から上がりながら、首を傾げてこちらを見ている。
反射的に「何でも無ェ」と言いかけ―――誤魔化す必要がどこにあるのかと、思い直す。
「なに。そろそろここから退散しようかと考えてただけだ」
一瞬、の浮かべる笑みが揺らぐ。
すぐに元の笑みに戻ったものの、それを見逃す高杉ではなかった。
しかし、見逃した振りをする。
それでいいのだ。
自分の一言が、今までほとんど変わることのなかったの表情を変えたとなれば、要らぬ期待を抱きかねない。
だが、期待を抱いたところで、の存在は、心地が良すぎるのだ。自分が自分でなくなっていくような、そんな錯覚に陥るほどに。
それは、これまでの自分自身を否定するようなもの。決して認めていいものではない。
だから、期待をしない。何も気付かなかった振りをする。
そしてもまた、一瞬の動揺など無かったかのように。
「ですけど」と前置きをして、柔らかくも凛とした声で続けた。
「あなたの名ががもし『高杉晋助』でしたら―――今ここを出ては、真選組の方に捕まってしまいますよ?」
おそらく、すべてをわかって言っているのであろう、の言葉。
だが、そのの気遣いを無下にするかのように、高杉は口の端を上げる。
「狂犬を捕まえるのは、保健所の人間だけで十分だろうが」
「……それも、そうですね」
あっさりと、は身を引く。心情的にも、物理的にも。
その横を通り過ぎ、家を出ようとして。
高杉は気紛れに振り向いた。
射抜くような視線の先には、振り向いた高杉の行動が意外であったのか、軽く目を見開いたの姿。
そんな表情も美しいと思える自分は重症だと、高杉は自嘲する。
「土産」
「はい」
「欲しい物、あるか?」
戻ってくるつもりなど、あるはずがない。
だからこれは、単なる戯言。
気を持たせるようなことを言って、の反応を試す。
は、見開いていた目を細め。
いつものように、柔らかな笑みを浮かべる―――その中に、少しだけ諦観の念を含めて。
「そうですね。なら、特産のお饅頭でも」
「女なら、簪の一つでも欲しがったらどうだ」
「あら。簪なら、そこの小間物屋でも買えますよ。
特産品のお饅頭は、そうそう手に入るものでもないでしょう?」
「……それもそうだな。
やっぱり面白い女だよ、お前は」
きっとは、すべてをわかって、それで答えたのだろう。
それはもしかしたら、そうあってほしいという、都合のいい思い込みなのかもしれないが。
しゃんと伸びた背筋。柔和な笑み。意志の強さを感じさせる瞳。
二度と揺らぐまいと思わせるその表情は、しかし同時に、今にも泣き出しそうにも見えた。
これもまた、都合のいいだけの思い込みなのであろうか。
だが、意志に反して、高杉の手はの頬に伸びる。
温もりを伝えてくる頬。
思い返せば、には触れたことすら数えるほどしかなかった。
抱くことも、口付けることもせず、触れることすらほとんど無かった相手。
の瞳が、再び揺らいだ気がした。
しかし、それは一瞬。
ゆっくりと、は高杉の手に触れ、その手を自分の頬から離す。
「あなたが自分の意志を貫くつもりならば、他人に懐いていてはいけませんよ?」
「……違いねェな。それは」
やはりは、何もかもを見透かしているのではないか。
見透かした上で、強い意志のこもる瞳を向けてくる―――「甘えるな」と、その一言を伝えるかのように。
元より、甘えるつもりは無い。
離された手。温もりの残る掌。
それら一時の気の迷いを振り切るかのように、高杉は振り返り、扉を開けた。
「世話になったな」
「ええ」
が頭を下げたであろうことが、気配でわかる。
だがそれでも、高杉は振り返らない。
足を踏み出し、振り向かないまま扉を閉める。
閉められた扉の向こうで、は今、どのような表情を見せているのだろうか。
ふとそんなことが過ぎるが、詮無いことである。
だが。
もし。
何もかもが終わったとして。
その時、ここに現れたのならば―――は、どう反応するのだろうか。
あの柔らかな笑みで、何事も無かったかのように出迎えてくれるのであろうか。
それともいっそ、泣き崩れるのであろうか。
これもまた、詮無いことではあるが。
高杉は軽く頭を振り、浮かんだ考えを振り払う。
どうやら今は、周囲に真選組の人間はいないようである。
ならば、さっさとこの場から立ち去るべきだ。そしてほとぼりが冷めるまで、江戸には戻らない方がいいだろう。
「―――京都にでも、行くかァ?」
誰にともなく呟く。
それは、この江戸から離れることの、確認作業。
場所などどこでもよかった。
そして高杉は、歩を進める。
振り返ることは、二度と無かった。
<終>
な、何かもう、ノーコメントという感じで。
それ以外に何も言えないです。私。
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