チリン、と鈴の音が響く。
視線を落としたその先では少女がすやすやと寝入っていた。
無防備な寝顔は、少女が安心しきっているということの証。
チリン、と再度響く鈴の音。
視界の隅で動くのは、白い尾。その先の方に結わえられた赤いリボンが、純白の尾にはよく映える。
尾がゆらゆらと動くたび、リボンについた鈴が軽やかな音を奏でる。
チリン、チリンと。
楽しい夢でも見ているのだろうかと、柄にもなく穏やかな気持ちにさせられる。
陽だまりに包まれた、昼下がり。
部屋には二人きり。
冗談のように穏やかな時間が、この部屋では確かに流れていた。




猫は陽向に恋をする




何故かと問われたならば、気紛れの産物だとしか答えようがない。
とある幕府官僚の自宅へと仕掛けた焼き討ち。普段であれば配下の人間に任せるところ、わざわざ出向いたのは気紛れ以外の何物でもない。ついでとばかりに、自ら屋敷に押し入って官僚を斬ったのも気紛れならば、火の放たれた屋敷内を焦るでもなく歩いていたのも気紛れ。
そして。
屋敷の一室で出会った天人の少女を連れ出したのも、やはり高杉晋助という人間が起こした気紛れに他ならなかった。

「逃げねェのか?」

火の回る屋敷内。構わずゆるりと歩を進めていた高杉も普通ではなかったが、少女は更に異質だった。
部屋の中に座り込んだまま、動こうともしない。
腰が抜けたというようでもない。火に囲まれかけておいて尚、まるで日常であるかのように、ただそこに座っていた。

「だれ?」
「逃げねェと丸焼けになるぜ」

小首を傾げる仕草は、あどけなささえ残る。
そんな少女の問い掛けを無視して、高杉は事実のみを告げる。
目の前の少女を心配しての言葉ではなかった。ただ単に少女の答えに興味があっただけだった。迫る死の恐怖に怯えるでもなく、平然と座っているその理由が。
しかし、それは聞いてしまえば大したものでもなかった。

「でも。ご主人様からは何も言われていないんです」

さも当然であるかのように、少女が口にする。
ただの人形かと、途端に興味を失う。
おそらくは屋敷の主人が人身売買か何かで得た女なのだろう。主人の言うことにのみ忠実に従う、生きた人形。
だが、無視して身を翻しかけた高杉の視界に、異質なものが過った。
気付いてみれば、なぜ今まで気付かなかったのかと思うほどの、異質。
火に囲まれて橙に染まる室内。熱気に歪む視界の先、確かにそれは存在していた。
少女の頭上にピンと立った、二つの耳が。
猫の耳にも似たそれは、燃え盛る火を映したかのように橙に染まっている。短い着物の裾から覗くのは、同じく橙に染まった尾。
明らかにこの国の人間とは違うその風体は、天人。
世には数多の天人が存在するとは言え、この国を我が物顔に闊歩する天人を人間が支配するなど聞いたことがない。
再び湧いた興味。
手を差し出したのは気紛れでしかなかった。
意図が掴めなかったのだろう。目を瞬かせながら、それでも伸ばしてきた少女の手を握ったのも気紛れ。有無を言わさずに連れ出したのも気紛れ。
そして今。
高杉の気紛れの産物によって生きている天人の少女は、高杉が腰を下ろすそのすぐ傍で、心地よさそうに寝息を立てていた。




――…晋助、さま」

不意に、舌足らずな声で名を呼ばれる。
起きたのかと目を向けたが、しかし少女は未だすやすやと寝入っている。どうやら寝言だったらしい。
穏やかな寝顔に、純白に輝く耳と尾。それに並ぶほど白く透き通った肌。
眺めているだけで心が満たされる、愛玩動物。
少女はつまり、そのような扱いを受けていたらしい。ただ物心ついた時からそれが当然であった彼女は、自身の身を不遇とは思っていなかったようだが。
主人が変わるのも慣れたことだったらしい。連れ出した高杉に「もしかして、新しいご主人様なんですか?」と一人で勝手に納得していた。ちなみに少女の誤解を高杉は即座に否定した。「ご主人様」など柄ではない。
それでも、然したる疑問は抱かなかったらしい。否定にも関わらず少女は高杉を新たな主人と認識したようで、あっさりと懐いてしまった。
懐かれる要素など持ち合わせていないはずだが、天人の思考回路など高杉にはわからない。
ただ、無条件に懐かれるというのは、悪い気はしない。或いはそれは、少女の全てを握っているという支配欲に依るものかもしれないが。
連れ出したのも気紛れならば、そのまま手元に置いているのも気紛れ、名前を与えてやったのも気紛れ。
だが不思議と、その気紛れが失せる気配は無い。
何の役に立つわけでもない、単なる愛玩動物。それでも手放す気には到底なれない。



呼んだ名は、高杉が少女に与えたもの。前の主人につけられたという名前は聞く気にもならなかった。親につけられた名はあったかどうかもわからないと、何でもないことのように口にしたの今までの生活は一体どんなものだったのか。
詮索をするつもりはない。聞けば素直に答えるだろうが、半ば想像がつく分だけ知りたくなどなかった。深入りしたくないという理由もある。
ぴくりと動く頭上の白い耳。
高杉の呼び掛けに応えるかのように、ゆっくりと開く目蓋。
眠そうに目を擦ったものの、身を起こした時には大きな瞳がパチリと開いていた。

「おはようございます、晋助さま」

にこにこと笑みを浮かべ、「何か御用ですか?」とが問い掛けてくる。用があって名を呼ばれたのだと思ったのだろう。
一体何が嬉しくて笑っているのか。それとも今までの主人に対してもそうだったのか。
胸の内に湧いた蟠りには気付かぬ振りをして、高杉は脇に置いておいた皿を引き寄せた。
皿に乗せられたものを見て、途端にが目を輝かせる。
高杉と皿とそわそわと交互に目を向けながら、口には出さずに目で訴えてくる。
それくらいならば口に出せば良いだろうに、どんな些細な願いもは口に出さない。
あくまで「ご主人様」の言葉に絶対服従。希望を述べるなどあってはいけないと、どうやらそう思い込んでいるらしい。実際、今まではその通りだったのだろう。それはの身体の奥底にまで染み付いた至上命令。
矯正するには相当な手間暇がかかるであろうが、それでも目で訴えてくるだけ前へ進んではいる。出会った当初は、そんな素振りすら見せなかった。

「食べていいぜ」
「ありがとうございます!」

勧めてやれば、嬉しそうに礼を述べ、皿の上に乗せられた鯛焼きへと手を伸ばす。
街へ出た時に口にしてからというもの、鯛焼きを大層気に入ってしまったらしい。もっといいものを食べていただろうに、他の何よりも鯛焼きには目を輝かせるのだ。
幸せそうに頬張るの姿を見ていると、頬が緩みそうになる。勿論、そんな素振りは見せてはいないつもりだが、果たしてそれが成功しているのかどうかは、確認する術が無い。
そんなことを考えている間にも、皿の上の魚は見事に片付けられ、の胃の中へと収まってしまった。後に残るは空になった皿と、陽だまりの部屋。そして、にこにこと機嫌良く笑っている
手招きすれば、主人に従順忠実な猫は、何を訝しむこともなく寄ってきて、すぐ傍へと座り直す。

「一時間経ったら起こせ」
「はい」

その膝の上へ頭を乗せて短く告げたならば、がどこか嬉しそうに返事をする。
たとえ些細なものだとしても役目を与えられるのが嬉しいのだと、口にしていたのはいつだったか。
まるで陽だまりそのもののような笑顔を浮かべるには、こんな場所は相応しくない。もっと穏やかな世界こそが似つかわしい。
少なくとも高杉の役に立つはずもない、平穏そのものの象徴のような愛玩動物。彼女のためを思っても、ここに留まらせるべきではないことなど承知の上。
手放したくない理由には、気付いている。
だが、その理由から目を逸らすように。
高杉は、目を閉じた。



それは、穏やかな時間が流れる昼下がり―――



<終>



猫耳と尻尾は正義なんだよ!
と、それを主張したいがために書いた話でした。
本当は、名前をつけるくだりとか、鯛焼きの話とか、書きたいネタはあるのですが。
これ書いたら結構満足(笑)

('10.12.12 up)