には、悩みがあった。
悩みと言っても、然程切羽詰まったものでもない。
他人が聞いたら恐らく笑い飛ばされるような、些細と言うかくだらないと言うか、そういった類の悩みである。
それでも彼女自身にしてみれば、至極真剣に悩んでいるのだ。
運動神経は決して悪い方ではない。むしろ平均よりは良いはずだと自負している。でなければ、真選組の隊士など務まるはずもない。これまでも、多くの攘夷浪士と渡り合ってきた。
それなのに、とは溜息を吐く。
どうして自分には、「何も無いところで転ぶ」という無駄な特技があるのだろうか―――
No Logic
「また転んだのか」
「う、うぅ……」
そんな土方の第一声に、は呻くことしかできない。
夜までかかって作成した報告書を持ってきただけだと言うのに、何故そんなことを真っ先に言われなければならないのか。
誰がチクったんだコノヤロー、と胸中で見知らぬ誰かに対する罵倒を散々に繰り返す。
確かに今回の転び方は酷かった。何が酷かったと言えば、攘夷浪士との乱闘中に何故か転んだところだ。手に刀を持っていたにも関わらず大した怪我が無かったのは不幸中の幸いと言えなくもないが。
しかも、どうやら相当に見事な転びっぷりだったらしい。転んだ瞬間、その場にいた全員が動きを止めたのだから。それどころか、対峙していたはずの浪士が「大丈夫か?」と手を差し伸べてきたのだ。あまりの情けなさに泣きたくなったほどだ。
更に情けないのは、全員が呆気にとられている間に、沖田が浪士たちをあっさり倒してしまったことだ。彼にとってが転ぶことなど日常茶飯事、むしろ「これからはのドジっ娘属性を前面に押し出せば、御用改めも楽になるってもんでさァ」などとにやにや笑っていた。そんな属性を付けてくれるなと叫んだが、その程度で黙るような沖田ではないと、直属の部下であるはよくわかっている。おかげでますます泣きたくなったのだ。
それはそれとして、どうにか捕物も終えて、何事もなかったかのように報告に来たというのに。すでに筒抜けだったという事実に、はまたもや泣きたくなってしまった。
土方の表情を窺えば、呆れ返っているのがありありとわかる。そんな顔をされると、ますます落ち込んでしまう。
これはもう、書類を渡すだけ渡して、さっさと部屋に戻ろう。そして不貞寝しよう。
そう、思ったというのに。
「お前、この前もコケてただろ。何回目だ? 三半規管でも狂ってんじゃねェか?」
「うぅ……」
気付けばは土方の正面に正座させられて、説教まがいの言葉を延々と聞く羽目になっていた。
何故転んだだけで夜更けに説教されなければならないのか。
確かに、一瞬の油断と隙が死に繋がる事くらいはとて重々承知している。だが、好き好んで転んでいる訳ではないというのに、責められても反感しか覚えない。
それでも、心配されているのだということもわかる。結局としては、大人しく座って呻くことしかできないのだ。
説教が終わるのが先か、足が痺れるのが先か。
「で? 今回はどこをケガしたんだ?」
「へっ!? あ、ケガっていうか、痣ができただけで……膝に」
「どっちのだよ」
「左、ですけどぅきゃぅっ!!」
言い終わるよりも早く、にじり寄ってきた土方に左脚を持ち上げられたのだから堪らない。バランスを崩したは後ろへと倒れ込んだ。
正座させられている人間に対して何たる無体を、と胸中で毒づく。今のは三半規管云々は関係ない。明らかに土方に非のある話だ。これは文句を口にしたところで責められる筋合は無い。
「ちょっ、土方さぅきゃぁぁあっ!!!」
「色気ねェ声あげてんじゃねーよ―――あー、また派手にやらかしやがって」
誰だって、いきなりズボンの裾を捲りあげられては悲鳴をあげるに決まっている。そしてそんな悲鳴に色気を求める方がどうかしている。
そう詰ってやろうかと上半身を起こした矢先、打ちつけて痣になっている部分を触られ、思わずは身を竦めた。
打ち身程度で済んでいるため特に支障は無いものの、うっかり触ってしまったり膝をついてしまった瞬間にはどうしても痛みを感じてしまう。膝頭の周辺が、結構な広範囲でどす黒いと言ってもいいような色の痣になってしまっているのは、つい先程部屋で確認したばかりだ。
これが完治するには、一体どれだけかかるだろうか。或いは、完治する前にまた転んで、更なる痣を作っているかもしれないが。
痛みに身を震わせたのが伝わったのだろう。土方が舌打ちする。それが、痣を作ったに対するものなのか、無頓着に打ち身部分に触れた自身に対するものなのか、には判別つかない。わかるのはただ、手を添えられた脚が、酷く熱を持っていることだけだ。
「―――くだらねェことで身体に傷作ってんじゃねーよ」
「っ!!?」
再度震えた身体は、痛みによるものではなかった。
ゆっくりと。殊更ゆっくりと、痣の上へと押し当てられた口唇。
湿った感触に、悲鳴をあげることもツッコミを入れることも儘ならない。思考回路が停止して、されるがままになっているだけだ。
事象としては、膝の上にキスされている。それだけだ。だがそこに至る経緯がわからない。
これはアレか、おまじないみたいなものなのか。「いたいいたいの、とんでけー」と同レベルの。傷は舐めておけば治るって言うしね! と、鈍く動き出した思考回路が、明後日の方向へ結論を落とす。だが明後日であれ明々後日であれ、納得いく結論があればそれで良い。
しかし、自己完結に過ぎない結論などでは、この場では誤魔化しにすらならない。
「こっちも、まだ傷跡残ってんだろーが」
そう言って今度は右手を取られる。
確か一ヶ月ほど前だったか。やはり盛大に転んだのだが、その時は掌を擦り剥いた挙句、出血までしたのだ。出血と言っても、所詮は擦り剥いた程度のものではあったが、しばらくはじくじくとした痛みがひかず、風呂に入っては傷口が沁み、難儀したものだ。そして意外と傷が深かったのか、一ヶ月経った今でも、うっすらと傷跡が残っている。
しかし、何故そんな些細なことまで土方が知っているのか。
が抱いた疑問は、すぐに霧散した。解消した訳ではない。ただ、どうでもよくなったのだ。
膝に続いて、今度は掌に残る傷跡へと口吻けられたのだ。多少の疑問など構っていられない。
一体自分の身に何が起きているのか。ぐるぐると思考がの脳裏を駆け巡るが、事実を事実と認識しても、そこに至る経緯がやはりわからない。何か悪い事でもしたのだろうかと自問するが、答えは出ない。敢えて言うなれば、転んだが故に説教をされていたのだから、恨むべきは自身の転びやすい体質なのだろうか。そんな無茶苦茶な。むしろ土方こそ何か悪いものでも食べたのではないか。
掌から口唇を離す際、名残惜しげにぺろりと舐められ、ぞくりと背中が震える。その眼に真っ直ぐに射竦められ、視線を逸らす事すらできない。
頭の中でガンガンと鳴り響くのは、何に対する警鐘か。
「掌へのキスは懇願……だったか」
「は?」
「―――こんな傷跡、残すんじゃねーよ」
そう言って、掌に残る傷跡へと再度口唇が落とされる。
だが、それがの限界だった。
人間、誰しも許容範囲というものがある。受け入れられる現実にも限界というものがあるのだ。すでに思考回路はオーバーヒート。真っ当な思考は働かず、ただあるのは「ここから逃げ出したい」という本能的欲求のみ。
そして今のは、その本能に従順に従った。どんな手段を以ってしても。
「っ!! じゃあさっきのは『狂気の沙汰』なんですねこのイケメン!!」
自由だった左手が偶然触れた物を掴み取ると、勢いよく振上げ、その勢いのまま振り落とした。土方の頭上へと。
ゴンッ、と鈍い音が響き、耐えきれずに土方はその場へと撃沈する。ゴロゴロとその横を転がるのは茶色の一升瓶。何故そんなものが土方の部屋に転がっているのかなどという疑問をが抱くことは無い。何故ならば、今のにとってはこの場から逃げ出すことが最優先事項であり、一升瓶の存在など些細な事、もっと言えば手近に鈍器があって有難かった、程度のものである。
故に、は逃げ出した。今なら臍ではなく顔で茶が沸かせるかもしれない。そう思えるほど熱くなった顔を押さえながら。
バタバタと廊下を走るが途中で転んだのは、言うまでも無い話である。
<終>
文字通り「転んでもタダでは起きない」女。それが私です。
そんな感じでネタにしました。
「手の上なら尊敬のキス。額の上なら友情のキス。頬の上なら厚情のキス。唇の上なら愛情のキス。閉じた目の上なら憧憬のキス。掌の上なら懇願のキス。腕と首なら欲望のキス。さてそのほかは、みな狂気の沙汰。」ってね。
('11.05.01 up)
|