月に焦がれる兎の如く
陽はとうに落ち、月明かりが静かに地上を照らす夜。
ふと見上げた先に見えた丸い月に、今日は満月かと、どうでもよいことが高杉の思考を過ぎる。
控えめに見下ろしてくるその姿は、たとえ中秋でなくとも美しいのだろう。
しかしその美しさも、ある一角へと足を踏み込めば、途端に霞んでしまう。
煌々と灯りが点された街並。
歩を進める男たちに、着飾った女たち。店へと盛んに呼び込む人間の声。
まるで昼間のように明るく賑やかなこの場所は、しかし歓楽街とは異なる色めいた空気を纏っている。
遊郭―――規模は吉原にこそ及ばないものの、しかし客足が途絶えることは決してない、夜の街。
夜の浮ついた街を、高杉は黙って足早に歩く。
かけられる声はすべて耳を素通りしていく。女たちの誘うような声も、その心を動かすことはない。
―――その心を揺さぶることができるのは、ただ一人。
目的の場所が近づくにつれ、次第に歩調は早まっていく。
同時に、少しずつ遠ざかる喧騒。確かにそこにあるはずの喧騒は、しかし高杉の耳には届かない。
聞こえるのは、逸る己の鼓動だけだ。
青臭いガキでもあるまいし、と笑ってみたところで、心音が落ち着くことはない。まるで警鐘を鳴らすかのように、全身へとその音を響かせる。
実際、警鐘と同義なのかもしれない。
一体何をやっているのかと、自分でも思うのだ。法の目をすり抜けて存在する遊郭。攘夷浪士に限らず、幕閣でさえも女遊びに密談にと利用するこの街は、超法規的存在とも言える。
しかし、だからと言って自分が足繁く通うのは拙いとわかっている。どんな場所であれ、いつどこで狙われるかわかったものではないのだから。
それでも―――と高杉は視線を上げる。
まったく同じタイミングで、通りに面した2階の障子が開かれる。
期待に逸る鼓動と相反するように、自然と緩やかになる歩調。だが決してその歩みが止まることはない。
たとえ視線の先に、『ただ一人』の彼女を捉えたとしても。
まるで予め知っていたかのように。
密やかに開かれた障子の向こうから顔を覗かせた彼女は、通りを歩く高杉の姿を迷うことなく見つけ出す。
ふわりと浮かべられた笑みは、儚くも蕩けるよう。その瞳に宿るのは、切ないまでの恋情。
手は届かなくとも、声は届く距離。
それでも高杉は声をかけることをしない。彼女もまた、呼び止めることをしない。
ほんの一瞬。
喧騒も消えた中で、視線と想いを交わす。
ただ、それだけ。
足を踏み出せば、再び喧騒の中。振り返ることもせず、高杉は変わらず足を進める。
彼女について知ることは、然程多くはない。
『』と呼ばれる名と、病的なまでに白い肌。柔らかな肢体。
何より、月に住まうという嫦娥も斯くやと言われる程、誰もを魅了してやまない、控えめながらも蠱惑的な笑み。
一夜を共にしたのは、偶然と言う他ない。
たった一夜。それでも、恋に落ちるには十分すぎるほどの一夜。
触れたのは、その一夜きりだ。
身体だけではなく、その心も儚げで美しいは、自分の手元に置いておける女ではない。
わかっているからこそ、二度と抱くことはできない。触れることさえできない。
それでもこうして未練がましく、がいる場所へと足を運んでしまうのだ。
が同じ感情を抱いている、それを知ることができれば満足なのかと問えば、そうとも言えるが、まだ足りないとも言える。
満たされるから、触れもしなければ声もかけない。満たされないから、足繁く通う。
結局、己がどうしたいのか、それは未だにわからないまま。おそらくこの先もわからないままだろう。
足早に街を抜ければ、一転して静まり返る闇の中。
見上げれば、先にも目にした月が煌々と輝いている。
しかし、変わるはずのないその光が、今の高杉には何故だか寂しげに見えた気がしたのだった。
<終>
届かないからこそ、恋焦がれる。焦がれるからこそ、幸せ。
初恋を拗らせた、そんな二人の話。
BGM『月と兎と観覧車』
('12.03.13 up)
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