「―――晋助」
背中に手を回されるとともに耳元で囁かれた名前。
そっと紡がれたはずのその声は、うるさいほどの雨音にかき消される事なく、確かに耳に届いた。
たった一言。
今まで数えれない程に呼ばれてきたその名前は、やけに高杉の体に響いた。
そうして気付く。
自分という存在を、に受け入れてほしかったのだと。
雨に打たれ冷え切った体に、から分け与えられる温もりが愛しくてならなかった。
瞳の彼方、その心の行方
眠りから覚めた目に映るのは、見慣れない天井だった。
どこなのかと訝しんだのも一瞬。高杉はすぐに昨夜のことを思い出す。
とにかく風呂に入れと問答無用で浴室へと押し込まれ、手早く湯を浴びて出てきてみれば、用意されていたのは新品の男物の浴衣。周到なものだが、そもそも何のつもりで、いや、誰のために購入していたものなのかは聞くことができなかった。まさか自分の為などと自惚れることはできない。いつ来るとも知れないただの幼馴染みに対して、誰がそこまでするだろうか。
だが、それならばはこれを他の男の為に購入していたということになり、つまりに男がいるという結論になるのだが、それに対しても高杉は考えないことにした。
風呂の間にこれもまた用意したのだろう、布団の中に押し込まれてしまえば、どっと眠気が押し寄せてくる。
そっと頭を撫でられ、子供扱いするなと口にした気がするが、それが現か夢かさえ判別できない。気がつけばこの通り、すっかり朝だ。上半身を起こし軽く伸びをすれば、随分とすっきりする。久し振りに熟睡できたらしい。
「晋助、そろそろ―――あ、起きてた?」
まるでタイミングを見計らったかのように襖が開き、が顔を覗かせる。
昔から変わらぬ、人懐っこい笑みを浮かべて。
「朝ご飯、そろそろできるから。ちゃんと顔洗ってきてね」
それだけ告げて、は襖を開けたまま戻っていく。どうやら高杉が朝食を食べることは確定事項らしく、拒否権は無いようだ。
特段それで不満があるわけでもない。言われるがまま洗面所で顔を洗い、居間へ行けば、小さな卓袱台に並べられた皿や茶碗。なんて事はない、ありふれた朝食の風景だ。
「? どうしたの、晋助」
促されての正面に腰を下ろせば、朝食の時間だ。温かい飯。障子を通して室内を明るく照らす朝日。鳥の囀る声。静かに笑みを浮かべている。
冗談のように穏やかな景色がここにはあった。
今の人生を後悔するつもりは微塵もない。しかし何かが違っていたのならば、これが日常になっていたのかもしれない、と。そんなことをふと思う。
それにしても。
「―――何も聞かねェのか?」
夜更けに、しかも雨の中傘もささずにやってきた男。
我ながら不審者以外の何者でもない。いくら幼馴染みとはいえ、いや、幼馴染みだからこそ、問い質したい事は山ほどあるはずだ。
朝食後、台所で後片付けをするの背に向けて、そう投げかける。
「んー。でも晋助、話したくないでしょ?」
そんな顔してるよ、と振り返ったが笑う。
「わかるのか」
「昨夜の晋助よりは、ちょっとわかるかな」
瞳を見れば何となくね。
そう言っては、洗い物の手を止めて高杉へと向き直る。
確かに昔は互いに、相手の考えていることが手に取るようにわかった。今でもわかるものなのかとの顔をじっと見つめるが、高杉には何もわからない。
「だからね。話したくなったら話してくれればいいし、私でもいいなら聞いてあげるから、いつでも来ていいよ?」
無邪気に笑って言うものだから、たちが悪いと思う。
単なる幼馴染みを心配しての言葉なのだろう。おそらくそこに、どんな裏の意図もない。だと言うのに、いらぬ期待をしてしまいそうになる。
「そんなにほいほいと男受け入れてんじゃねーよ」
本当は期待したいのだ。
酷い精神状態の時にの元を訪れてしまう理由など、とっくに自覚もしている。
に受け入れてほしいのだと望んだ昨夜から一転、正気に戻ればそこから逃げようとしている。
その場所が本当は自分のものではないと、知りたくがないために。
存外自分は弱い人間だったらしいと、高杉は密かに嘲笑した。
「だめ、かな……」
途端、が表情を曇らせる。ああ、そんな顔をさせたいわけではないのだ。
「私じゃ、晋助の帰る場所には、なれない…?」
だから期待させるようなことを口にするなと。
そう言葉にする代わり、を抱き寄せ、噛みつくように口吻けた。
驚いたように見開かれた目は、口吻けが深まるにつれ、次第に蕩けるように閉じていく。
縋るように着物を掴む手も、戸惑いながらも口吻けに応えるその様も。
すべてが男を煽るのだと、はわかっているのだろうか。
「―――俺を受け入れるってのは、こういう事なんだよ」
視線を逸らして、高杉は冷たく言い放つ。
散々に貪ったために赤くなった口唇も、潤んだ瞳も、見ていてはもう一度口吻けたくなる。
本心では受け入れてほしいと願っているくせに、どうせ無理だと突き放す。我ながら面倒臭い人間だと思う。
おそらくもそれをわかっている。
「晋助」
呼ばれたその名前は、どこか呆れの色を含んでいた。
「そんな顔して言われても、構ってほしがってるようにしか見えないよ?」
「……適当な事言ってんじゃねェよ」
「今日の晋助、わかりやすいよね」
昔に戻ったみたい。そうが笑う。
「晋助にちょうどいい浴衣とか、ふかふかのお布団とか。どうしてって思わなかったの?」
まぁ晋助だからね、と失礼な事をさらりと言って、は高杉の頬へと手を添える。
強引に合わせられた瞳。その奥に潜む感情は、あまりにも都合の良いもののように思えた。
の言葉と合わせれば、それはきっと見間違いなどではない。言葉よりも雄弁に、その瞳が訴えかけてくる。
正面から、は高杉を受け入れてくれているのだ。昔と変わらぬ笑みで。
どうやらはとっくに覚悟を決めているらしい。適わない、と高杉は密かに嘆息する。
それに比べた自身は情けないにも程があるが、しかし高杉がそれを表に出すことはない。それが見栄でしかなくとも。きっとには見通されてしまうのだろうが。
「今更嘘だと言おうと、離してやらねーからな」
「その責任はとってくれるんだよね?」
冗談のよう投げられたそれに、高杉は言葉を返すことはない。
それでもには伝わることだろう。何せ今日の自分はどうやらわかりやすいらしいのだから。
そう笑みを零し、高杉は黙っての体を抱き締めた。
<終>
一緒に歩む相手ではなくて、帰ることのできる場所がほしい。
そんな高杉さんでした。
BGMは、「瞳の彼方」「心の行方」。
歌詞も『貴方の帰る場所 ここにあること』『此処が私の還る場所』と、対になっているこの二曲が好きでなりません。
('13.08.21 up)
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