その一瞬
本日の江戸の空は快晴。
こんな日を市中見廻りで潰してしまうのは勿体無いと、沖田は現在遁走中。
相方に逃げられた土方は、戻ってきたらどう処分してやろうかと、少々物騒なことを考えつつも一人で市中見廻りをしていた。
一見して平和そうに見える、江戸の町。
しかし、些細な喧嘩から、天人と人間との諍いなど、大なり小なり事件は絶えないのだ。
そのすべてに介入する暇などありはしないが、それでも大事になる前に止める必要があるものは止めなければならない。
故に、市中見廻りは必要なのだ。断じて散歩と同義などではない。
「ちっ。総悟の奴ぁ……」
もしも見かけたら、その場で叩き斬ってやろうか。
考えながら、それでも周囲に視線をやることを怠りはしない。
そんな土方の視界に、ふと、うずくまる人影が入った。
気分でも悪いのだろうか。
歩を進めると、うずくまっているのは女だとわかる。
うずくまり、手を地面に彷徨わせているのは、一体何事か。
とりあえず声をかけるため、土方は女に近寄る。
「おい。アンタ、何やって―――」
パキン
瞬間、何かが割れる音が土方の足元から聞こえてきた。
それは、とても小さな音で。
耳に届いたというよりもむしろ、足の裏の感覚器官から、その音が伝えられてきた、といった方が正確なのかもしれない。
が、それを土方が不思議に思う間もなく。
どうやらその音は、目の前の女にも届いたらしい。
「いやぁぁぁぁっ!!! 私のコンタクトがぁぁぁぁぁぁっ!!!!!」
耳をつんざくような悲鳴が、江戸の空に響き渡った―――
「…っく……うぇっ……ひっく……」
「……これくらいで泣くな。頼むから」
とある店から出てきたのは、土方と、泣きじゃくる女。
女が落としてしまったコンタクトレンズを土方が踏みつけて壊してしまったため、二人はこの店にやってきたのだが。
しかし在庫が無いため、取り寄せるまでしばらく待ってくれ、と言われてしまったのだ。
それがあまりにもショックだったのか、以来、女は泣き続け。
自分に原因があることがわかっている土方は、迷惑だと思いながらも、それでもその場を離れられなくなってしまう。
「『これくらい』じゃないですっ!!
死活問題なんです、死活問題!! 電柱に頭ぶつけて死んじゃったらどうしてくれるんですかっ!!!?」
「てめぇ、それはどこのギャグ漫画だ!!?」
今の今まで泣きじゃくっていたのは、何だったのか。
喚く元気があるのならば大丈夫だろうと、土方はその女から離れることにした。
自分も暇ではないのだ。市中廻りをした後、沖田を叩き斬る義務がある。
先程から腕を掴んできている女の手をやや邪険に振り払うと、そのまま足を進めようとし。
がしっ
「……てめぇ。何の真似だ」
「あなたこそ、何の真似ですか。慰謝料は? 弁償は? 当然の義務じゃないんですか?」
再び腕を掴まれて、思わず天を仰ぐ土方。
どうしてこんなのに関わってしまったのか。
己の不運を嘆くものの、それでも女の言葉にも一理あることは、納得できる。
「生憎、持ち合わせが無ぇんだよ。後で真選組屯所に来やがれ」
「……お名前は?」
「土方だ。門番に言えばすぐわかる」
それだけ伝えると、店内に居たこともあって控えていた煙草を、ようやくのことで口に銜える。
これでようやく解放されるとばかり思った土方であったが。
しかし世の中は、予想を裏切るようにできている。
市中見廻りに戻ろうとした土方の頭が、不意にぐいっと引き戻された。
両手で頬を挟まれるようにして。気付けば、女の顔が目と鼻の先にある。
唐突な出来事に呆気に取られ、土方の口から、まだ火のついていなかった煙草が落ちる。
「……何すんだ」
「だって。偽名使われてたりしたら困りますし」
やっぱり、顔もちゃんと覚えておかないと。との彼女の言葉は、やはり一理あるのだろう。
だが、何ゆえここまで接近する必要があるのか。
気付けば女は、背伸びまでして、そして土方の顔を両手で包み込んで、まじまじと覗き込んでいる。
場合が場合でなければ、今にも口付けられそうな。そんな距離しかない。
そんな土方の疑問が伝わったのか。
ようやく土方の顔を解放した女は、「すみません。急に」と頭を下げた。
「でも、そこまで近づかないと、私、人の顔が判別できなくて」
「……は?」
「だから、その。この距離だと、そこに男っぽい人がいる、って程度しかわからないんです……
あ、でも、声で男の人だとはわかりますし、格好も真選組っぽいってことくらいはわかるんですけど!」
頬を染め、わたわたと手を振りながら弁解する様からは、女が嘘をついているようには見えない。
つまり、今の言葉は本当なのだろう。
泣いたり怒ったり慌てたり、忙しい女だ。とは思うものの。
それよりも気になることが、土方にはある。
「一つ、聞いていいか?」
「は、はい!」
「アンタ、そこまで目が見えないなら、家まで帰れるのか?」
「………………た、多分」
妙な間の後、へらっと笑って答える女の顔に冷や汗が流れるのを、見逃す土方ではなかった。
「『多分』ってのはなんだ!? どもってんじゃねぇぞ、オイぃぃぃ!!」
「す、すすすみません! 帰れます! 帰れますぅぅぅ!!!」
思わずいつものノリでツッコミを入れてしまった土方の剣幕に、女は目に涙すら浮かべながら返答をしていた。
その様子に我に返ったものの、口から出てしまった言葉を取り消すことなど、できるはずもない。
それに、「帰れる」と主張されたところで、どうにも心許ない。
先程の「電柱に頭ぶつけて〜」の件も、あながち冗談とも思えなくなってしまった。
まったく、今日は厄日なのだろうか。
苛立ちを紛らわせるために、新たな煙草を加え、火をつける。
そして。
「オラ。家はどこだ」
「へ?」
きょとん、と目を瞬かせる女に、土方は頭をがしがしと掻き毟る。
こういうのはガラではないのだ。
それでも、まともに見えていないであろう女を一人、放っていくわけにもいくまい。
どんな事故に、事件に巻き込まれてしまうか、わかったものではないのだから。
「家まで送ってやるっつってるんだよ」
「え、ええ!!?」
「放っておいたら、家まで辿りつけなさそうだろうが。アンタ」
総悟ならば、もっと気の利いた言葉を吐くのであろうが。
返答を聞く前に、土方は女の腕をとっていた。
こうすることで、何が何でも送らせてもらう、という意志を示したつもりではある。
口が上手いわけでなく、むしろ口下手な性質だと自認すらしているのだから、行動に出るしかない。
そしてその意志は、どうやら伝わったらしい。
もごもごと口篭りながらも、女は自宅の場所を伝えてきた。
その場所は、近くもないが、さほど遠くもない場所。大体の見当はつく。
迷うことなく、土方は足を踏み出しかけ。
ふと思うことがあって、その足を止めた。
「そういやアンタ、名前は?」
「二人称、変えてくれたんですね。『てめえ』から『アンタ』になってます」
「……いや、どうでもいいことだろ。それは」
呆れた面持ちを向けると、女はくすくすと笑う。
「どうでもよくないですよ。ちょっと嬉しいですから」
『アンタ』の方が、『てめえ』よりは優しい感じがしますから、と。そう言って。
女は、ふわりと。花が咲いたような笑みを浮かべた。
「、です。」
我に返るまでは、一瞬。
それでも、土方がその笑みに見惚れてしまったのは事実。
「い、行くぞ!」
「あ、はい」
女―――の華奢な腕を引き。
土方の脳裏に過ぎったのは、の家がすぐ近くでなくてよかったと。そんな思い。
* * *
「ところで、さんよ」
「はい」
「目が見えねぇ状態で、家のことなんかできるのか?」
「あ、はい。大丈夫ですよ。自分の家なら勝手がわかってますし、慣れてます」
「そんなもんか」
「そんなものですよ。時々、階段から落ちちゃったり、包丁で指切っちゃったりしますけど」
「ちっとも大丈夫じゃねぇだろうがぁぁぁ!!!」
「大丈夫ですってば。慣れてますから」
「んなものに慣れてんじゃねぇ!!!」
<終>
初書きドリーム。
な、何やら色々と難しい上に恥ずかしい……
ってゆーか、これって土方さん? 土方さんなんですか?
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