殺されても構わないと。あの一瞬、確かに思ってしまった。
夜半、何の前触れもなく起こった出来事。
体温を失った、白く冷たい指。それが首にかけられて尚、その手を押し返す気にはなれなかった。
初めてが自ら差し伸ばしてきた手だったのだ。拒絶することなど、考えもしなかった。
その目的が、何であろうとも。
高杉の首にかけた手に力を込めることも、かと言って離すこともせず。漏れる嗚咽に身体を震わせ、冷たい雫を落とすに。
もう限界なのだと、悟らざるをえなかった。
自分といてが泣かなかった事があっただろうか。
「好きだ」という言葉は、初めこそは嘘偽り無きものだったかもしれない。だがそれは今では、が自身の気持ちを誤魔化すための言葉でしかないのではないか。
最早好かれてなどないに違いない。好かれるような行為は何一つしてこなかったのだから。
結局、昔のような笑顔を見ることは叶わなかった。
だがそんな資格が、今の自分にあると思う方がどうかしているのだ。泣かせるような事しかしてこなかったと言うのに。
 
―――潮時、なのだろう。
 
 
 
 
宵待月 −手折りし花は枯れず−



 
もう来ない、と言い残して高杉はの家を出てきた。
表情も無く頷いたの口からは、引き止める言葉も出なかった。
やはり、と思う反面、落胆を覚えている自分に高杉は自嘲を禁じえない。
自ら別れを言い出しておいて、引き止めてもらいたかったなど、余りにも都合が良すぎる望みだ。
だがこれでは自由だ。
こんな幼馴染の事はさっさと忘れ、もっとマシな男を見つければいい。を泣かせたりなどせず、笑顔にできるような男を。
きっとそんな男は、この世に掃いて捨てるほどいるはずだ。その誰かの前で、は笑うのだろう。幸せそうに。高杉にはついに見せることのなかった笑顔を浮かべて。
それを思うだけで無性に苛立つが、しかしこれが現実だ。
高杉の知らない男の隣では微笑むのだろう。それだけではない。あの身体も惜し気もなく差し出すに違いない。
途端に込み上げてきた衝動を堪えるため、高杉は両の拳を握り締める。でなければ、手近にある物を殴りつけずにはいられそうになかった。
いつしか止まる足。だが脳裏に浮かぶの姿が消えることはない。苛立ちに奥歯を軋ませれば、その音がやけに響いて聞こえた。
掃いて捨てるほどいるはずの男に、どうして自分がなれない?
答えは単純明快。が望む事を何もしなかったからだ。
ならばは何を望んでいたのか。
何も、望まなかった。告白してきた時ですら、だからどうしてほしいとは、一言も言わなかった。だからこそ高杉は、都合のいい女としてを扱ってこられたのだ。
口に出しては、何も望まなかった。それをいいことに、何もしてこなかった高杉。
それでもが欲しているものが何なのか、高杉はわかっていたはずだ。ただ、気付かない振りをしていただけで。
ただの、一言。
が望んでいたものは、たった一言に過ぎない。
わかっていて尚、今以上にに縛りつけられる事を恐れ、何より自分が自分でなくなるような気さえして、そんな感情を無視していた。
―――今更だろう。
殺したいほど憎まれている今となっては、何を言ったところでの笑顔を見ることなど叶うはずもない。振り向かせようなどとは、尚更だ。
だがそれでも構わない。そんな事は関係が無いのだ。
 
「てめーは……俺の、モンなんだよ……っ」
 
踵を返し、高杉は元来た道を戻り始める。
爪が食い込むほどに握り締めた拳に、痛みは感じない。ただ前だけを見据え足を速める。
を手放すだけならば、耐えられたかもしれない。
しかし他の男に渡す事は、我慢ならない。
泣かれようが憎まれようが関係無い。笑顔など見られなくとも構わない。むざむざと他の男の元へやるくらいならば、滅茶苦茶にしてでもを手元に置いておきたい。
そもそも「好きだ」などと口にして高杉を縛りつけたのは自身。ならば高杉がを縛りつけたところで、何の不平があろうか。
自分でも無茶な理屈だとはわかっている。
呆れるほどに自分勝手だということは重々承知の上で。
それでも抑えきれない衝動に駆られるまま、足早に道を辿る。
一体に対して何と言うつもりなのか。それすらもわからないままに。
だからだろうか。の家の前まで戻ってきてからその玄関を開けるまでに、僅かながら躊躇を覚えたのは。
何を言えばいいのか。それよりも先に面と向かって拒絶されたらどうするのか。
躊躇ったのは、しかし束の間。覚悟を決め、高杉は目の前の扉をがらりと開いた。ただ、声をかけることはできなかったが。無言のまま、勝手知ったる家の中へと上がり込む。
図々しく上がり込んで尚、もしに拒絶されたらという不安は拭い去る事ができない。たとえそうなれども無理強いするだけだと己に言い聞かせたところで、所詮それが単なる強がりに過ぎない事もわかっている。
柄にもなく臆する自身を奮い立たせ居間へと続く襖を勢いよく開けたものの、勢いを削ぐかのように、室内には誰の姿も無い。
その奥の台所にも姿が見えないことに些か拍子抜けしたものの、それで何が解決する訳でもない。
決して広くはない家。買物にでも出掛けたのだろうかと思ったが、それにしては違和感がある。何より、玄関に鍵もかけずに出掛けるほど不用心な女ではない。
高杉の胸の内に不安が過ぎる。それはつい今し方まで感じていたものとは別種の、自身に対する不安。何かあったのではないかとその身を案じかけたその瞬間、不意に水音が耳に飛び込んできた。
いや、実際にはその前からその音は聞こえていたのかもしれない。ただ意識に引っ掛からなかったというだけで。
流水音は、不安を増長させるかのように続く。
何とはわからずともひしひしと込み上げる最悪の予感を振り払うように、水音のする方へと高杉は足を向ける。それは浴室から。広くはない屋内、辿り着くまでには十秒とかからない。閉じられた扉をガラリと開く。
果たしてそこに、はいた。浴室の床に座り込んで。
蛇口から流れ続ける水はやけに大きな音をたてながら浴槽内を満たしていく。だが透明なはずの水は、浴槽内で真っ赤に染まっている。
左腕だけを浴槽に落として。その縁にぐったりと頭を落としているの顔は、血の気を失って蝋のように白い。
そして、だらりと下がった右手のすぐそばに落ちている剃刀。
何があったかなど、明白だった。
 
…………?」
 
明白すぎる事実が、しかし受け入れられずにいる。
声をかけてもぴくりとも動かないの前で、高杉は呆然と立ち尽くすしかできない。
時が止まったかのような空間で、流れ続ける水音だけがただただ響いていた。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ためらい傷が無いのは珍しいと、医者は言った。
自身の身体を傷つけるという行為は誰にしたところで抵抗があるものだ。それを躊躇いもせずに一息にやってのけたということは、それだけの覚悟があったか単なる馬鹿か、それとも―――
 
「余程の酷い目に遭わされたか、だな?」
 
病室を出ていく間際に意味深な目を向けてきた医者の言わんとするところは、高杉にもわかっていた。
運び込んだ闇営業の病院で辛うじて一命を取り留めたは、今はまだ眠りについている。
高杉が我に返るのがあと数分でも遅ければ、最悪の事態を免れなかったかもしれない。
が自ら死を選んだ理由―――余程の酷い目とは、一体何だったのか。
酷い目にならば、これまで散々遭わせてきた。泣かれても懇願されても構うことなく、都合のいい女として好き勝手に扱ってきたのだから。
だがそれでもは死を選ぶことなど無かった。
それが今日になって何故。
考えを突き詰めれば突き詰めるほど、出る結論は一つしかない。もしくはそれは、都合のいい解釈しか選ぼうとしない狭窄な思考故のものなのかもしれないが。
もしも。別れを告げたことが、が衝動的にでも死を選ぶ理由になったのだとしたら。
自惚れてもいいのだろうか。
未だに愛されているのだと、そう思ってしまってもいいのだろうか。
血色の戻りつつある頬へと手を伸ばせば、仄かに宿る温もりが安堵を誘う。
その温もりを確かめるように頬に手を当てたまま、これはもう観念するしかないかと高杉は薄く笑う。
胸の内にある想いに気付かぬ振りをしたところで、最早無駄だろう。たった一人の女を求め、その生に縋って安堵する様で、一体何をどう誤魔化すつもりか。
のためだと嘯いたところで、別れを告げたのは結局のところ自身と向き合うことを拒んだ己自身の弱さに他ならない。
認めてしまえば、自分が自分でなくなるような気がしたから、などとは。
そのせいでを死なせては、何の意味も無い。
自己満足に終始するプライドなど、いくらでもくれてやろう。それでが救われると言うのならば。
いや、救うなどとは驕りなのかもしれない。に生きていてほしい、傍にいてほしいと願うのは、所詮はエゴイズムに過ぎないのだから。
いずれにしても、今この瞬間の願いはただ一つ。
そして、伝えるべき言葉もただ一つ。
はどんな顔をするだろう。笑顔を見せてくれるのだろうか。それは虫が良すぎる話かもしれない。拒絶される可能性とて相変わらずあるのだ。
期待と不安を抱え込んだ高杉の視線の先で。
固く閉じられている瞳を縁取る黒い睫毛が、ふるりと震えた。



<終>



終わりです。誰が何を言おうとも、ここで終わりです。
ただでさえ蛇足的続編なので、これ以上書いたら更に蛇足になりそうで……っていうか文才が足りてないので。
以後は、お好きにご想像くださいませ。
むしろ続き書いて私に読ませてください(ヲイ