「私ね。一度でいいから、身を焦がすような恋というものがしたいんです」
 
前触れもなく、女が言う。
まるで、世間話のように。
その証拠に、注文したアイスティーのグラスを両手で支えて、ストローを銜えている。
子供じみたその動作に、今の言葉に世間話以上の意味を付加する人間はそれほどいないであろう。
だが、それほどいないはずの人間のうちの一人が、そこには存在した。
彼女の向かいに腰を下ろしている男は、笑みを崩さぬまま。彼女の要望に応えるべく、口を開いた。
 
「なら、この関係は終わりにしやしょーか」
「そうですね」
 
ふにゃりと、相好を崩す女と。
相変わらず笑みを崩さない男と。
 
こうして、二人の男女の関係は終わりを告げた―――
 
 
 
 
恋焦がれ




このところの沖田は、何故だか機嫌が悪い。
ただでさえ自覚しているところへ、屯所内でもそう噂されていると聞けば、ますます不機嫌度は増す。
一体なにが悪いというのか。
その疑問は、拍子抜けするほどあっさりと解けた。
ただし、その理由についてまでは、理解できはしなかったが。
 
『嫌いではないですよ。どちらかと言えば、好きです。貴方のこと』
 
退屈な市中見廻りの最中、欠伸を噛み殺していたところへ耳に飛び込んできた言葉。
むろん、沖田自身が言われたわけではない。それでは話の前後が噛み合わない。
けれども耳に飛び込んできたのは、その声が耳に馴染んだものだったから。そして―――かつて、同じことを自分に対しても言われたことがあるからだ。その声の主から。
慌てて頭を巡らせば、よくもまぁこの距離から聞こえたものだ、と我ながら呆れるほどの場所を、件の彼女は歩いていた。見知らぬ男と共に。
もしくは、空耳であったのかもしれない。
どちらにせよ、彼女が男と歩いていて、そして自身の機嫌が悪化したことに、変わりは無い。
もともとやる気の起こらなかった見廻りを早々に切り上げると、沖田は自室に篭もってごろりと横になった。
それから優に数時間。
沖田の脳裏では、未だその言葉がぐるぐると回っていた。
 
 
『嫌いではないですよ。どちらかと言えば、好きです。沖田さんのこと』
 
 
いつだったか。
どんな話のついでだか、そのようなことを言われ。
ならば、と彼女―――と関係を持つようになったのだ。
嫌いではない。むしろ好きな方だ。気が合った―――その延長線上の、それだけの身体の関係。
特に異論を唱えなかったことを考えれば、にもそれで異存がなかったのであろう。
だからこそは「身を焦がすような恋がしたい」と抜け抜けと言い出すことができたし、沖田もまたあっさりととの関係を解消できたのだ。
できた―――つもり、だったのだ。
蓋を開けてみれば、まるでそんなことはない。
の声が、言葉が。沖田のことを嘲笑うかのように幾度も脳裏に響く。
自分に向けられたものではない言葉。それがやけに腹立たしく、そんな自分に余計に苛々とする。
ここへきてようやく理解できた、不機嫌の原因。
だが、その更なる原因がわからないのだから、苛立ちは募る一方。
 
「嫌いじゃあ、ない。どちらかと言えば、…………」
 
脳裏を巡り続ける言葉。
辿るように口に出してみたものの、何故かその言葉は途中で途切れてしまった。
ただの一言。
から口にされた時、同じように返した言葉。
あの時は平然と口にし、それからも冗談交じりでたびたび口にしていたその言葉を、何故か今、上手く紡ぐことができない。
そのことが、ますます沖田を不機嫌にさせる。
何もかもに苛立ちを覚え、沖田は舌打ちしながら足元の机を軽く蹴飛ばした。
 
 
 
 *  *  *
 
 
 
街中でを見かけるのは、これで何度目になるのか。
別れる前も、偶然に任せて逢瀬を繰り返すことが多かったのだから、単に行動範囲が似通っているだけなのであろう。
それも気が合う要因の一つであったのかもしれない。
そう、理性ではわかっていても、感情は納得していない。
まるでが、自分に見せ付けているのではないかと。嘲笑っているのではないかと。そんな考えが沖田の頭から離れないのだ。
他人がそんなことを考えていたら、間髪おかずに鼻で笑うところだ。
そんな、鼻で笑いたくなるような行為をしている自分が惨めで。させているが憎らしくて―――憎らしいのに。それなのに。
 
唐突に、閃いてしまった。
 
気付いてしまえば、何もかもが簡単なことだ。
収まらない苛立ちの、その根本的な理由も。
軽く口に出せなくなってしまった、たった一言も。
 
もはや遅いのであろうか。
あっさりと離してしまった手は、もうこの手に戻すことはできないのであろうか。
絶望的な気分に陥りかけた沖田は、しかし一瞬後に浮上する。
 
否。遅いことはない。
先日、が他の男に対して口にしていた言葉が蘇る。
 
『嫌いではないですよ。どちらかと言えば、好きです。貴方のこと』
 
沖田に対しても同じように告げられた、その言葉。
それは、その男も沖田も、にとって同程度の扱いだということか。
つまり、沖田がそうであったように、その男もにとって「身を焦がすような恋」の相手にはなっていない、と。
都合のよい解釈ではある。
だが今のところ、それしか沖田には縋るべきものが無い。
 
まだ、間に合うのか。
間に合わせることが、できるのか。
 
悩むよりも先に、身体が動く。
人の波を縫って、目指すはただ一人。
隣の男に笑顔を向けるの姿、それだけを追う。
一歩、また一歩と。速まる足。
うるさいまでの心音を極力無視して。
 
っ!!」
 
名を呼ぶが先か、その腕を掴んだのが先か。
振り向いたの顔に浮かぶのは、驚愕。
これから告げるはずの言葉に、はどう反応するのであろうか。
だが、今の沖田にはそれを予測するだけの余裕は無い。
みっともないまでの、余裕の無さ。
それを気にする余裕すら無く、沖田は見開かれたの目を見つめる。
男の存在など無視して。
本来であれば、「あの時」に告げるべきであったはずの言葉を、今ようやく告げる。
 
 
「そんなに恋がしたいなら、俺に対して身を焦がせばいいだけの話じゃねーかィ」
 
 
そんな恋を、させてみせる。



<終>



珍しく一日で書き上げることができました。
沖田さんが偽者っぽいのは、まぁいつものことです。