苦しい。息ができない。
本能的な行為であるはずの呼吸すら、まともにできない。
些細な物音、呼吸音ですら、聞かれてはまずいのだ。
追われている、この状況下では。
苦しい。
呼吸の仕方など、わからない。
私にできるのは、ただ小動物のように暗がりに身を潜ませることのみ。
追われている者に、行動の選択肢など存在しない。
何故こんなことになったのか。
考えても詮無いことだ。
いつかはこうなると、覚悟はしていたはず。
私は今日、殺される。
闇夜光華 ‐手折りし花は枯れず‐
今日も仕事だった。
遊女として着飾り、媚びた笑みを浮かべ。
けれどもそれは、あくまで上辺だけの話。
本当の仕事は、そのようなものではない。
武装警察真選組監察方。
それが私の、唯一無二の肩書き。
任務を遂行するためならば、手段など選びはしない。
だから今日も私は媚を売る。
男を誘い、媚を売り。身体を明け渡して、代わりに情報を引き出す。
閨物語と、男たちは軽々しく口を開く。
国の行く末を憂えているはずの攘夷志士の姿として、正しいのだろうか。それは。
敵対するはずの私にまでそう思われては、長くは無いだろう。
事実、私が引き出してきた情報を元に、どれだけの攘夷派を検挙してきたことか。
たとえ、蔑まれようとも。
たとえ、この身が堕ちようとも。
あの人の役に立てるなら、構いはしない。
そう思って。そう誓って―――そして、「あの男」が現れた。
指名手配中との自覚があるのかと疑うような、派手な着流し姿。
特徴的な隻眼。そこに宿るのは狂気の光。
一目でわかった―――その男が「高杉晋助」であることが。
その眼光に射すくめられた途端、身体が凍りついたように動かなくなる。
癪ではあるけれども、私ではこの男には太刀打ちなどできやしない。
そう悟らされるほどの、威圧感。副長といい勝負だ。
できることと言えば、何事も無いかのように振る舞い、他の人間と同じように相手をすることくらいだ。
……それでも、少しくらいは何か聞き出せないかと。そんな微かな期待も持ち合わせてはいたが。
きっとそれが、私の落ち度。
あの状況で、どんな期待も、望みも、生き残る術すら、考えるべきではなかったのだ。
何をどうしたところで、すべては無意味に終わるのだから。
「―――さて、と」
酒を飲み干した高杉は、杯を下に置く。
それを片付けながら、これからこの男に抱かれなければならないのかと、憂鬱な気分に陥った。
いつものことなのだから、そんな気分はすぐに飲み込んでしまう。
今の私は、遊女以外の何者でもない。
元の場所に戻ると、嫣然とした笑みを浮かべて、無言のままで誘いをかける。
口の片端だけを上げた高杉は、やはり無言のまま手を伸ばし。
「―――流石、手慣れてるなァ? この幕府の牝犬が」
「なっ!?」
―――そこから先は、ほとんど記憶に無い。
押さえつけられた手と、慣らされてもいないのに捩じ込まれた身体の痛みが、ひたすらに現実を私に突きつける。
痛む身体であの場から逃げられたのは、幸運などではない。
あの男にとって、私は獲物なのだ。
逃げる様を見て楽しんでいるだけだ。完全に逃がすつもりなど、毛頭ないだろう。
その証拠に、気配を感じる。
座り込んでいるだけだと言うのに、背筋を伝う汗。
ゆっくりと顔を上げれば、目の前には刃の切っ先が突きつけられていた。
突きつけているのはもちろん、あの男。高杉晋助。
「どうした。もう逃げないつもりかァ?」
もう、抗うつもりは無い。
あの場は本能的に逃げ出したとはいえ、今は逃げ出す気力も無い。
冷たく笑う高杉に、私は虚ろな目を向ける。
すでに覚悟は決めていた。
ただ最後に思うことは、あの人が、副長が。少しでも悲しんでくれるだろうかと。
ありえないとは思うけれども。
思うだけならば、望むだけならば、誰にも迷惑にはならないだろう。
刃が一旦引かれる。
冷たく光るその切っ先を、じっと見つめる。
これまで覚悟してきた瞬間。
恐怖は無い。
ただ、早く済ませてほしい。
それなのに、何故か刃の切っ先は私へと向かってこない。
どういうことなのだろう。
疑問に思い、視線を切っ先からその持ち主へと移動させる。
高杉は、私のことなど目に入れていなかった。
その視線の先にいたのは―――
「副…長……」
思わず、言葉が洩れる。
なぜ。どうしてこの人が、ここに、こんな場所にいるのだろう。
月明かりだけが頼りの、暗い世界。
その唯一の光を反射させている、抜き身の刀を手に。
この距離で見えるわけがないのに、彼が眉間に皺を寄せているであろうことがわかった。
それはそうだろう。
密偵の身でありながら、容易く捕まり、殺されかけている。こんな私の姿に、苛立ち以外の何を覚えろと言うのか。
居た堪れなくなり、私は視線を副長から逸らす。
できることならば、今すぐこの場から立ち去って―――早く、死にたかった。
身体の自由さえきけば。この痛みさえなければ。
おめおめとこんな醜態、副長に晒し続けずに済むものを。
「――…れろよ」
「あァ?」
「そいつから離れろって言ってんだ!」
言うや、副長の刀が一閃する。
私の目の前で繰り広げられる、一瞬の剣戟。
それは本当に一瞬。
何かに思い至る間もなく、すぐに終幕を迎えた。
高杉が、あっさりと剣を引く。一体、何事か。
私ですら疑問を抱くその行為に、高杉は口の端を上げる。
「俺より、そこの女を構った方がいいんじゃねェのか?」
今にも死にそうな顔してやがる、と高杉が言えば、副長がはっとしたかのように私に目を向ける。
その隙を逃すような高杉ではない。
気が逸れたその一瞬をついて斬りかかって―――くるかと思ったが。
何を考えているのか。そのまま身を翻していってしまった。
間際に私に一瞥をくれたのは、特に意味などなかったろうが。
ならば今、副長に斬りかからなかったことにも、特に意味は無かったのだろうか。
高杉の技量ならば、あの一瞬さえあれば副長に斬りつけることなど容易かったはず。
読めない男。だからこそ、捕らえることができないのであろうか。
すでにその姿など見えない暗がりをぼんやり見つめ、そんなことを思う。
「どこ見てやがる」
声のした方に顔を向けると、副長が私を見下ろすように立っていた。
不機嫌なその表情を、私は見上げることしかできない。
何が、できるだろう。
何を、言えるだろう。
こんな私に。暗がりに蹲ることしかできなかった、私に。
「てめーはクビだ」
当然のはずのその言葉が、胸に刺さる。
役に立たない駒など、この人には必要ないのだ。
必要とされなければ、私がここに居る意味も無い。
機械的に頷くも、考えるのは別の事。
私が存在する意味の消失。
やはりさっさと死ぬべきかと、その手段ばかりを模索してしまう。
「俺は、お前にそんな顔させたくて、監察に就かせたわけじゃねェ」
どんな顔をしているというのか。今の私は。
少なくとも、上機嫌でないことだけは確かだ。
副長の言葉が、私を慰めているような気がして。私はゆっくりと頭を振る。
だって私は。
「―――私は、あなたの役に立ちたかっただけなんです」
最初で最後。思いの丈を吐き出すように。
ただそれだけを、口にする。
あなたに拾われたあの日から。
私には、あなたしかいなかった。
あなたが私のすべてだった。
あなたの役に立つことが、私のすべて。存在する唯一の意味。
だから。
役に立たないこの身に、存在する意味など、無い。
それは、純然たる事実。
そのはずであるのに。
いつの間にか俯いていた顔を、唐突に上向かせられる。
意味が、わからなかった。
目の前に副長が屈んでいることも。私の顎に手をかけられていることも。不機嫌そうな顔が間近に迫っていることも。重ねられた口唇の、その意味も。
この身に起こっていることが何であるのか、まったくわからない。
離れられてからようやく、身体に残された温もりに気付く。
いくら欲しくとも、決して求めるつもりのなかった温もり。
不意に与えられたかと思えば、不意に奪われて。
そんなつもりはなかったというのに、思わず私はわずかに手を伸ばしてしまう。
「副長……」
「名前、呼べよ」
てめーはクビだと言っただろーが。
そう言われてしまえば、それも尤もだと納得してしまう。
クビにされた以上、もはや副長と隊士の関係ではないのだから。
その事実に、ズキリと胸が痛む。
関係が解消された今。どんな繋がりがあると言うのか。
それでも、呼べと言われて素直に応じてしまう自分が、少しだけ、悔しい。
「…土方、さん……」
「まァ、上出来だな」
今度は、はっきりとわかった。
引き寄せられる身体。再び与えられた温もりと、重ねられた口唇。
喜んだり驚いたりする暇も無く、舌がするりと這入りこんでくる。
けれども、その応じ方など、私は知らない。
数え切れないほどの男にこの身体を差し出しておきながら、口付けの仕方一つ知らないなんて。
今の私にできることは、ただ必死になってしがみつくことだけ。
すると、背中に回された腕に力が込められる。
これが最後だからと、自分に言い聞かせて。
だからせめて今だけは、この優しさの中に溺れていたい―――
「―――死ぬなんて、冗談でも思ってんじゃねーぞ」
ようやく身を離されて。
もう十分だと思った矢先の、副長のこの言葉。
胸中を見透かされたようで、驚いた私は目を見開く。
「どうして……」
「顔にそう書いてあるんだよ。お前は」
それほどまでに、私の顔は読まれやすいのだろうか。
高杉にも同じことを指摘されていたことを思い出し、反射的に私は自分の顔に手を当てる。
その行為にまるで意味がないことは、わかっているのだけれども。
「俺の役に立つんだろ。死ぬバカがいるか」
役に立ちたいとは、思う。
これだけの醜態を晒してしまっても尚、認められるのならば。
この人の、役に立ち続けたい。
それは心底思っている。
「でも私はクビだと……」
自分で口に出しておきながら、胸に突き刺さるような言葉。
それは、つい先程受けたばかりの宣告。
私にとっては、死の宣告にも等しい言葉。
俯く私の上から、溜息が降る。
呆れられているのだろうか。当然のことだろうが。
どのようにしてこの場から去ろうか。
考えを巡らせかけたところで、突如として浮遊感に襲われた。
「な……っ!?」
思わず声を上げる。
間近には、不機嫌なことこの上ない副長の顔。
月明かりの下、それこそ眉間の皺の数まで数えられそうだ。
よくよく見てみれば、どうやら私は副長に抱き上げられているらしい。
どのような必要性があってこんな状況になっているのか、私には少しもわからないのだけれども。
「……また雇えばいいだけの話だろーが」
「はい?」
一体なにを言っているのだろう。この人は。
疑問符が頭の中に浮かんだものの、すぐに、先程の私の言葉に対する返答だと気付く。
気付いたところで、また別の疑問符が浮かんだのだけれども。
自分でクビだと言ったのに。
「なんですか、それは」
「知らねーよ。いいからお前は黙ってここにいればいいんだよ」
知らないって、そんな無責任な。
ますますわけがわからない。
ただ一つ。
口に出すのは怖かったけれども、それでも私は口を開く。
「……私、ここにいてもいい…んですか……?」
「俺の役に立つって言ったのはお前だろーが」
それは、肯定の言葉。
私がここにいてもいいと。まだ居場所はあるのだと。役に立たせてもらえるのだと。
安堵した途端、ずるりと身体から力が抜け落ちる。
慌てて副長が私の身体を抱え直す。
たったそれだけの行為ですら、どこかしら嬉しい。
申し訳ないとは思いながらも、全身から力が抜けるのを止めることはできない。
同時に、意識も虚ろになる。
「―――俺がお前を手放すわけ、ねェだろうが。」
完全に意識が落ちる直前。
耳に届いたその言葉は幻なのかもしれないけれども。
それでも私は、幸せだと思った。
<終>
途中まで書いた時点で、阪神快進撃&優勝劇に大フィーバー。
一週間は軽く放置してしまっていました……すみません。文章、途中からおかしくなってると思われます。
大体、思ったより長くなってるんですよ、この話!
高杉さんが出てきたのが、その最要因だと思われます。なんで出てきたんだよ、この人。いや、出したのは私だよ。
わかってるんですよ。ええ。自分で自分の首を絞めただけ、というのは。
オマケな後日談みたいなものを、ちょろっと書いてみたいと思ったり思わなかったり。
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