闇夜光華 ‐想いは泡沫に喩え‐



「これ、なんですか?」
「読めばわかるだろ。誓約書だ」
 
確かに。
それなりの教育を受けた人間なら、ここに書かれている文字くらい、間違いなく読めるだろう。
けれども、私が指摘したいのはそんなことではない。
 
「どうして誓約書に署名しないといけないんですか」
「あァ? 再就職には必要だろーが」
 
再就職。
この場合、その表現は的確とは言えないと思う。
私をクビにしたのは目の前の副長で、そして勝手に、また私を採用しようとする。
本当に何がしたいのだろう。この人は。
首を傾げたくなるけれども、それもまた今ここで指摘すべきことではない。
指摘すべきことは、ただ一つ。
 
「この文面は何なんですか、副長」
「今のてめーはまだ隊士じゃねェだろ」
「……この文面は何なんでしょうか。土方さん」
「やれば出来るじゃねェか」
 
煙草を手に、にやりと副長が意地の悪い笑みを浮かべる。
どういうわけだか知らないけれども、副長は私をクビにして以来、執拗に肩書きで呼ばせようとしない。
必ず訂正させるし、訂正するまでは答えてもくれない。
そういうけじめも必要なのかもしれない。そう思わないでもないけれども。
この表情を見ると、そのようなことは関係無しに、単にからかわれているだけのような気がしてならない。
口惜しいけれども、失態を演じてしまった以上、そしてそれを大目に見てもらっているような現状では、私には反論する言葉もない。
代わりに軽く睨みつけても、副長はそ知らぬ顔で煙草を吹かしている。
それがまた絵になるものだから、関係ないことだとわかっていても何やら口惜しさが倍増する。
倍増させたところで無駄なことはわかりきっているのだから、それは表には出さない。
表に出すのは、この「誓約書」というものを差し出されてから、問い質したかった事。
 
「それで結局、この文面は何なんですか」
「読んだ通りだろ」
 
それはそうだろう。
文章の読解能力くらい私にもあるのだから、書かれている内容の意味はわかる。
わからないのは、この文面が私に突き付けられる意味。
これでは―――
  
「文面通りに意図を汲み取りますと、私は今後一切、監察の仕事でこの身体を利用することを禁止されているのですが?」
「わざわざ疑問形にしなくても、その通りだろ」
 
少し苛立っているのか、副長は短くなった煙草をやや乱暴に灰皿に押し付けた。
けれども、苛立ちを覚えているのは私も同じだ。
いくら副長の言葉でも。命令でも。
譲れないものが、私にはあるのだから。
 
「どういうことですか。これが一番効率がいいんですけど」
「うるせェ! 殺されかけておいて、まだ懲りねェのか!!」
 
怒鳴り声に、さすがに私は身を竦ませる。
鬼の副長と呼ばれるのは、伊達ではない。その威圧感に、思わず背中に震えが走る。
それでも譲れないもののために。私は副長を睨み返す。
互いに信念があるのか。それとも単に意固地なだけなのか。
視線をぶつけ合ったまま、身動き一つせず。時だけが流れていく。
いつまでも続くかと思った睨み合いは、不意に副長が視線を逸らしたことで、私も気が抜けてしまった。
抜けると同時に何やら馬鹿らしくなって、私は「誓約書」とやらを手元に引くと、筆を取る。
ちらりと副長を見やると、私の行為が意外だとでも言うのか、驚いたように目を見開いていた。
これはこれで貴重な表情かもしれない。写真に撮っておきたいところだ。
それこそ馬鹿らしいことを考えながらも、誓約書に達筆とはとても呼べない字体で「」と書き上げる。
 
「ところで副長。あ、もう誓約書に署名しましたから、副長と呼びますので」
「……なんだ」
 
断りを入れると、何故か副長の眉間に皺が一本増えた。
何がそれほど不満だと言うのだろうか。
呼び方一つにやけにこだわったり、どうも今の副長はよくわからない。何かがおかしい。
どうせ一時的なものだろうけれども。
そうでなければ私が困る。
私が役に立ちたいと思ったのは、今のような妙な態度の副長に対してではないのだから。
それはそれとして。
なにも私は、内容に納得して署名したわけではない。
署名をした誓約書を副長に差し出し、私は婉然と笑みを浮かべてみせる。
 
「法律は破るために存在するという言葉、聞いたことありません?」
「はァ? てめー、何が言いたい―――
「つまり、誓約は破るためにそれを誓約するんですよ」
 
常のことながら、私が浮かべた笑みに副長はろくに反応もしない。
眉間に更に一つしわが増えたのは、むしろ私が口にした内容のせいだろう。
無言のままなのは、言っても無駄だとようやくわかってくれたからか。
それはそうだ。理屈にもならない理屈で我を通そうとする人間には、何を言ったところで無意味だ。
当人である私が言うのだから、間違いない。
無言は、肯定の証。それはいつものこと。
特に気にすることでもないので、このまま退室しようと私は腰を上げかける。
それを遮ったのは、副長の言葉だった。
 
「キスの仕方も知らねェようなヤツが色目を使おうなんざ、100年早ェんだよ」
 
途端、カッと顔が熱くなる。
たった一度―――と言うよりも二回、口付けられただけだと言うのに。
やはりわかってしまうものなのだろうか。
その一言で、私の経験の無さも、そして想いさえも。何もかも見透かされたような気にさせられる。
対照的に副長は涼しい顔。どころか、明らかにこちらをからかって楽しんでいるのではないか。
そうなると見返してやりたくなるのは、きっと性格の問題なのだろう。
我ながら可愛くない性格だとは思うけれども、こういう性格だからこそ、手段を選ばない監察などという仕事をこなせるのも事実。
今度こそ腰を上げると、私は捨て台詞になっているのかいないのか、そんな言葉を副長に向けた。
 
「私は副長ほど遊び慣れていませんから」
「あァ!?」
「ですけどキスくらい、優しい誰かに教えてもらえば済むことですよね」
 
もしかしたら私は、副長の機嫌を悪くすることに関しては天才的なのかもしれない。
やけに凶悪な顔つきになった副長に、そんなことを思ってしまう。
一瞬前までの涼しげな表情はどこへ行ったのか。
おかげで溜飲は下がったけれども。
副長の表情に少しだけ満足して、「失礼します」と退室の言葉を述べる。
別に、本気で誰かに教えを請おうなどというつもりはない。
単なる腹いせで口に出しただけ。実際には、書物でもあさってみるのが関の山。
何をやっているのか。自分でも疑問に思いながら障子に手をかけると、不意にその手を後ろから捩じ上げられた。
 
「副長?」
 
痛いんですけど―――そう口に出しかけた言葉は、けれども最後まで出ることはなかった。
何事かと振り向くか振り向かないかの内に、腰を引き寄せられ。
間近に迫っていた副長の顔に、何かを思う間もなく。
 
三度目の口付けは、どんな意味があるというのだろう。
 
考えてみたところで、答えなど出るはずも―――出せるはずも、ない。
突然の口付けに翻弄されるしかない私には。
わけがわからないまま、私は従順に口付けを受けるしかない。
ようやくのことで口付けから解放されても、身体は解放されず。
疑問の眼差しを向けると、見下ろしてくる副長は、相変わらず不機嫌を隠そうともしていなかった。
 
「てめェ、まさか全部謀ってやがったか?」
「はい?」
 
何を言っているのだろう。この人は。
どこをどう考えれば、そのような結論に至るのだろうか。あまつさえ、口付けられるのか。
そもそも、何がしたくて、何が言いたいのか。
そこがさっぱり理解できない。
やはり今日の副長はどこかがおかしいようだ。
 
「少しお休みになったらどうですか? 今日はおかしいですよ、本当」
「……そーだな。マジで頭痛がしてきやがった……」
 
道理で。
頭を抱えた副長から自由になった私は、一歩下がる。
お大事に、と声をかけても大した反応も無く。
少々心配ながらも、あまり居座り続けるのも悪いかと、静かに退室した。
のだけれども。
 
「オイ! 頼むから、他の野郎とキスなんかすんじゃねェぞ!!」
 
部屋を出て数歩も進まないうちに、後ろから声が追いかけてきた。
確認するまでもなく、それは副長の声に他ならない。
驚いて振り返ったものの、ちょうど部屋の障子が閉められたところだった。
それにしても。
今の言葉はまるで……やきもちを焼いているみたいだ。
そんなこと。
 
「……ありえるわけ、ないじゃない」
 
声に出して否定する。
期待してしまいそうになる自身を抑え込むために。
途端、理解できなかった副長の一連の行動に回答が見えた気がしたものの、それにも目を瞑る。
きっと気付いてしまったら最後、私は監察の仕事などできなくなってしまうだろうから。
愛だ恋だを求めて縋る、ただの女に成り下がってしまうだろうから。 
だから私は、何も気付かない。
前を見据え、再び歩き出す。
 
私が信じるものの、ために。



<終>



だからどうしてこんなに長くなってるんですかオマケ話のくせに!!!
で、書きながら土方さんが不憫になってしまったり。
それならもう少し報われる展開にしてやればよいものを。