まっさらな紙に筆を滑らせる。
綴られる、クセのある文字。明瞭簡潔にして穏やかならぬ文面。
それが特に問題になるわけでもない。
書き終え一通り目を通すと、満足して折りたたむ。
表書きをどうするか逡巡したものの、結局は何も書かないことにする。
気分的には『果たし状』とでもしたいところだが、そこまで殺伐としなくても良いだろう。
一つ頷き、後ろを振り返る。
そこに転がっているのは、知り合いのツテを使って探し出して捕まえた「あの男」の部下。と言っても使い走り程度だろうが。
そして今まさに、使い走りを頼むのだ。
縛り上げてはいても口を塞いでいるわけではない。それなのに男は大人しい。
訝しくは思うものの、騒がしくされないのは良いことだ。
墨がまだ乾ききっていないだろう、書き上げたばかりの文。男に差し出すと、不自由な体ながら後ずさろうともがく。
特に危険など迫っているわけでもなかろうに。何を怯えることがあるのか。
 
「別に何かするつもりも無いわよ。ただこれを届けてほしいだけ」
 
いい? と問えば、矢鱈な勢いで首を縦に振る。普段から動作が大きい男なのだろうか。
別に詮索することでもなければ、興味深いことでもない。
どうやら飛脚の役目を了承してもらえたようで、とりあえず目的の第一段階は成功。
にこりと笑うと、「あ、そうそう」と言葉を付け加える。
 
「これも伝えておいてほしいの―――『命が惜しいなら言うとおりにしやがれこのボケナス』ってね。一言一句間違えず、晋助によ?」
 
わかった? と再度問えば、血の気の引いた顔で、先程以上の勢いで首を縦に振る。
まるで化け物を目の当たりにしたかのようなその表情が少しだけ苛立って、縄を解いてあげる時についうっかり脇腹を蹴り上げたのはここだけの話。
 
 
 
 
続・そんな彼らの恋愛衝動



 
来るか来ないか。確率は半々。
どころか、9割方は無視されることを覚悟はしていた。
何せ相手は指名手配中の身。深夜、人通りの無い倉庫街への呼び出しとは言え、素直に応じる方がバカだと、呼び出した身ながらは思う。
頼りなく灯る街灯。空には、猫の爪のような、と表現するに相応しい細い月がお情け程度に夜の街を照らしている。
しかし、その頼りない明かりすら避けるかのように、は今、隣り合う倉庫の間の細い隙間に身を潜めていた。
来るとも思えない人物を待ちながら。倉庫の壁に背を預け、手慰みに愛刀の柄を撫でる。
共に在りすぎて、今では手元に無くては落ち着かない愛刀。
普通であれば廃刀令が出ているこのご時世、見咎められないはずがないのだが、女の身で堂々と持ち歩いていると、まさかそれが本物だとは逆に誰も思わないようである。
それをいい事に、はついぞ愛刀を手放したことがない。
いつでも、どこでも。
だがいくら愛刀が共にあるからと言って、それで退屈が凌げるわけでも気が紛れるわけでもない。
暗がりに身を置き、ぼんやりと空を見上げる。
さて、アテも無いままにどれだけなら待っていられるだろうか。簪一本のために。
覚えてもいない一夜。思い出したくも無い翌朝のやり取り。
だがその記憶を忘れ去ろうとするよりも先に簪を忘れていたことに気付いた時は、何かしらに呪われているような気分に陥ったものだ。
少しだけ期待して宿に連絡を取ったものの、忘れ物は無かったとの回答。
となれば、忘れてきてしまった簪がどこに―――誰の手にあるかは考える間でもない。
忘れてしまいたい記憶とは、どうやらもう少しお付き合いしなければならないらしい。
それも今日までの話だ。相手が素直にこの場にやってきたら、の話ではあるが。
そんな不自由な思いをしてまで、一本の簪に拘る必要があるのだろうか。
失くしてしまったところで、謝るべき相手は存在しないというのに。
だが謝るべき相手がもはやいないからこそ、失くすわけにはいかないのだ。
誰に詫びることもできず、ただ罪悪感に苛まれるだけだというのはわかりきっている。彼の思いを―――唯一の形見を失くしてしまったという、罪悪感に。
その事実に、古い記憶が蘇り、胸の奥に突き刺さる。こちらは忘れたいわけではない、けれども奥底に仕舞い込んでいた記憶―――
 
不意に耳に届く足音。
感傷を断ち切り、は手にした刀を握る手に力を込める。
こんな時間のこんな場所。やってくる酔狂な人間などいるはずがない。
まさか、と思う間にも、足音は近付いてくる。ゆっくりと、だが躊躇いも無く。
その足音が、ぴたりと止まる。からは見えないが、気配でわかる。この暗がりから一歩外に出た目の前に、悠然と相手が立っているだろうことが。
 
―――いるんだろ?」
 
その声が、自分の感覚が間違っていなかったことをも同時にに伝える。
1割方の勝率がまさに当たったという喜びと、蘇る面白くもない記憶とが綯い交ぜになるあやふやな感情。
それを一息に飲み干すと、はゆっくりと足を踏み出す。わずかな街灯と頼りない月明かりの世界へと。
刀を握る手の力は、緩めない。
一歩。二歩。踏み出す足に、とて躊躇いは無い。
そして五歩目。睨め付けるように向けた視線の先には、当然ながら声の主にして呼び出した人物の姿。
頼りない明かりの中でもわかる、派手な着流し姿。腰には仕込み刀を、手には煙管を。うっすらと皮肉めいた笑みを浮かべる口元に、狂気すら感じさせる光を帯びた隻眼。
指名手配犯としての自覚があるのかどうか。
待ち合わせ場所と時間の選択に間違いは無かったと、こっそりは安堵する。
目の前の男を、高杉を心配したからではない。一緒にいるところを他人に見られて、万が一自分まで指名手配されてしまっては堪ったものではないからだ。
 
「持って来てくれたんでしょう?」
 
だからと言って、いつまでも一緒にいては、ここにもいつ酔狂極まりない人間がやってくるかわからない。
用件は早く済ませるに限ると、催促するようには手を出す。
苛立ちを覚えるような薄い笑みを浮かべたまま、高杉は懐に手を入れる。
しかし取り出したのは、が要望したものではない。白い紙―――が高杉に宛てた文だった。
 
「恋文にしては穏やかじゃねェな」
「それが恋文に思えたなら、今すぐ病院に行ったら? そのまま呪われた第9病棟的な場所に閉じ込められて一生出てくんな」
 
悠長に冗談を聞いているつもりはない。
軽口を切って捨てると、早く返せと言外に促す。
そのの催促に、浮かべた薄い笑みは変わらず。高杉は文と仕舞う代わりに袱紗包みを取り出した。
包みを開けば、一本の簪。
月明かりにすら鈍く光る、にとってはかけがえの無い簪。
すぐにでも返してもらえるかと思いきや、高杉は検分でもするかのようにそれを月明かりに翳して、なかなかに返そうとはしない。
 
「返さねェ……と言ったら?」
「殺してでも奪い取る」
 
それは、半ば以上は本気の言葉。
刀の柄に手をかけたは、冗談や酔狂を口にしている目をしてはいない。
それでも、すぐに刀を抜いて斬りかからなかっただけ、前回よりは冷静だということか。
「冗談だ」と告げて簪を差し出すと、は引っ掴むようにして手の内に簪を取り戻す。
だが、手の中の簪を確認した瞬間の、安堵した、嬉しそうなの表情を、ろくな明かりも無いとはいえ高杉は見逃さなかった。
余程大切なものなのか。
それなりに高価な物であろうことは見当をつけていた。だからは取り戻しに来るだろうと、期待を抱く程度には。
けれどもそれだけのことで、がここまで必死になるだろうか。
いや、なるかもしれないが、勝気ながこんな無防備な表情を浮かべたりはしないだろう。
故に直感する。ただ高価なだけの簪ではない、にとっては何か特別な意味を持つものなのだと。
 
「えらく大事にしてんだな。男にでも貰ったか?」
「別に晋助には関係無いじゃない。まぁ確かに男から貰ったものと言えばその通り―――っ!!?」
 
何の気なしに口にしたであろうの言葉が最後まで紡がれることは無かった。
言葉が終わるのを待たず、高杉はのその手首を掴んで身体を引き寄せ、性急且つ強引に口吻ける。
考えがあったわけではない。ただ身体が勝手に動いた。その結果がこれだ。
あまりに唐突な出来事に反応できないでいたが抵抗する動きを見せて、ようやく高杉の思考も働くようになる。
そして、今更になって気付く。否定の言葉を望んでいたのだと。の口から他の男の存在を聞きたくなかったのだと。
一体どれだけ狭量なのかと自嘲しかけたところで、高杉は咄嗟にから身を離す。
次の瞬間には、鞘に収まったままのの愛刀が、二人の間の空間を微塵の躊躇も無く薙いだ。
もし反応が一瞬でも遅れようものなら、直撃は免れなかっただろう。死にはせずとも、下手をすれば大怪我にも繋がりかねない。
昔馴染みであろうとも遠慮はしない。敵と認識すれば躊躇いなく叩き斬る。それがという女だ。
そのは、掠りもしなかった事に舌打ちをし、完全に高杉を敵と認定したかのように鋭い眼差しを向けてくる。
 
「ったく……なんで弟から貰った簪大切にしてるだけで、こんな目に遭わなくちゃならないわけ!?」
 
そのまま攻撃されなかったことが奇跡的だと思えるほどに、の顔には苛立ちが露わとなっている。
だが、奇跡を喜ぶ余裕は今の高杉には無い。
たった今、が口にしたばかりの言葉。普段であれば理解しようとする必要すらないその意味が、この時ばかりはなかなか理解に至らない。
 
「弟……?」
 
ゆっくりと呟いた単語は、問いかけというよりもむしろ、自身でその意味を確認するための作業に近い。
が、そんなことをが知る由も無い。
呆然とした様の高杉に苛立ちをぶつけるかのようには捲くし立てた。
 
「そうよ! それがどうしたって言うのよ!? 他の男から貰ったとでも思った? でもそれだって晋助になんか関係無―――
 
しかし、またもの言葉が不自然に止まる。今度は、自身の思考によって。
そう。関係無いはずだ。
が誰から簪を貰おうとも、仮に誰か男と付き合おうとも、高杉にはまるで関係の無い話。関係が無いのだから、が誰から何を貰おうとも気にする必要も無いはずだ。
だが今の高杉の行動は、どう考えても関係の無い人間がとる行動だとは思えない。これではまるで―――
 
「……なに赤くなってんだよ、てめェ」
「赤くないわよ! 見えてないくせに適当なこと言うな、バカ!!」
 
不意に黙り込んだに何かを察したのか、余裕を取り戻した高杉の態度がは癪で仕方が無い。
誤魔化すように、は手にした刀を振り回すが、軽くかわされ、返ってきたのは低く笑う声。
頼りない明かりの下、顔色まで判別できるはずがない。
それでも頬が火照っていることは、自身もわかっている。
見透かされているようで、腹が立つ。
腹立ちまぎれに地面を軽く蹴飛ばすと、はようやく取り戻した簪を懐へと仕舞う。
二度と忘れるものかと、あやふやな何かに誓いながら。
もはやこの場に用は無い。
これ以上いても、高杉といてはいつ何時危険に晒されるかわかったものではないし、そうでなくても不愉快だ。
特に、可笑しそうな表情を浮かべている今の高杉と一緒にいるというのは。
 
「もういい。帰る」
「また今度抱かせろよ。なァ?」
「誰がやらせるか!!」
 
それは、いつぞやとほぼ同じやり取り。口にしてからはそうと気付く。
だが、状況も心境もあの時とは異なっている。
ただ高杉が腹立たしいだけだった、あの朝。
けれども今は、高杉に対してはもちろんのこと、動揺している自分自身に対しても腹が立つ。
苛々とした気持ちをどこにぶつけることもできず、睨みつけることで、せめてもの発散へと変える。大した効果は無かったが。
くるりと振り返ったものの、背中に届く低い笑い声が気に障ってならない。
こんなものは無視してしまって、さっさと帰って何もかも忘れてしまおう。
そう思っただったが、踏み出した足を一瞬止めたのは何かの気紛れだったのか。
更に口をついて出た言葉は、どんな戯言だったのか。
 
「……もっとマシな口説き文句言えるようになったら、考えてあげるわよ」
 
自身、驚いた言葉。
だが背後の笑い声が途端に止んだことを考えると、どうやら高杉もそれは同じことのようだ。
その事に、少しだけ気分を良くして。
今度こそは歩き出す。振り返ることもなく、真っ直ぐに、迷い無く。
 
『姉ちゃんも、たまには女らしくしろよ。だから彼氏の一人もできないんだよ』
 
不意に耳の奥に蘇る声。
笑って言いながら簪をくれた弟は、事故で呆気なく死んでしまった。
だが、まるで弟が簪を介して今日の事を仕組んだかのようにも思えてしまう。
霊魂の存在など信じてはいないし、バカらしいとさえ思うのだが。
それでも脳裏にちらつく弟の姿に、「大きなお世話よ」とは呟く。
 
―――忘れてしまいたいはずの記憶とは、どうやらもうしばらく付き合う羽目になりそうである。



<終>



なんか前回のと違う気がする……
……気にしないでください(お前が気にしろ)