彼女は、立ち竦んでいた。
ただひたすらに呆然として。呆気に取られたように放心して。目の前の現実に唖然として。
ある一点を、穴が開くほどに凝視する。
まるで、その視線の強さがあれば、目の前の物が都合よく変化するとでも思っているかのように。
 
しかし、現実とは非情である。
そこには微塵の遠慮も躊躇いも思いやりすらも無い。
ただ機械的に、真実のみを伝えてくる。絶対無二にして残酷な、真実を。
 
「…………あぅ」
 
一言、奇妙な呻き声をあげたきり、沈黙に支配される。
打ちのめされた彼女は、ガクリと力なく肩を落とす。
それでも現実には立ち向かわなければならないことは、承知している。
このまま燻っていても、何も進まないのだということも。
 
ややあって上げられた彼女の表情には、何かしらの決意が表れていた。
 
 
 
 
 
 
乙女心と梅雨の空
 
 
 
 
 
 
梅雨時の季節。珍しく晴れ間を見せる空の下。
束の間の太陽を求める人々が忙しなく働く江戸の町。
窓を開け放てば、その喧騒が室内にも届く。
逆に言えば、外の喧騒が耳に届くほど、室内が静まり返っていたということでもある。

ここは、かぶき町の一角にある『万事屋銀ちゃん』
いつもは賑やかなこの部屋が、今この瞬間に限っては沈黙を保っていた。
誰もいないというのであれば、それも道理。
けれども四人も部屋にいてのこの沈黙は、異常ですらある。
外の喧騒と、注目されてもいないのに勝手に喋るテレビの音が、不気味なほどの静寂にやけに大きく響く。
 
その静寂を最初に破ったのは、部屋の主たる銀時だった。
 
 
―――悪ィ。なんかよく聞こえなかったみてェだわ。もう一回言ってくんねーか?」
 
 
手にしたテレビのリモコンを操作するでもなく、何とはなしに弄びながら。
何気ない風を装ってはいたが、決して冷静ではないことが、とりたてて暑いわけでもないのにその顔を伝う汗から察せられる。
再度の言葉を促されたのは、。周囲からは総じて「男の趣味が最悪だ」と評される―――銀時の、恋人。
そのは部屋の入口に佇んだまま、困ったように目を伏せる。
が、沈黙に後押しされるようにして、再び視線を銀時へと向けた。
そして、真っ直ぐな視線を逸らすことなく、口を開く。
 
 
「銀ちゃん。私と別れてほしいの」
 
 
音を立てて、銀時の手からテレビのリモコンが落ちる。
再びの、沈黙。静止状態。
訪れた静寂は、しかし今度は長くは続かなかった。
「イヤイヤ、落ち着け俺。落ち着こう」とぶつぶつ呟いたかと思えば、銀時はやけに真剣な顔を神楽と新八へと向けた。
 
 
「お前ら、この辺で評判の耳鼻科ってどこか知らねーか?」
「銀ちゃん。現実逃避は良くないアル」
「そーか。夢かこれは。夢なんだなコノヤロー」
「現実ですよ。逃避しても無駄ですからね」
 
 
しかし返ってきたのは、銀時に止めを刺すような言葉ばかり。
の突然にして最大クラスの爆弾発言に呆然としていた二人は、我に返った途端に容赦ない言葉を銀時に浴びせる。
 
 
もようやく目が覚めたアルか」
「いくら恋は盲目でも、銀さんと付き合えるなんておかしいと思ったんだよ」
「銀ちゃんと付き合うなんて、どれだけボランティア精神に溢れてても無理だということネ」
「来るべき時が来ただけなのかな。前触れもなかったのは銀さんにはキツいかもしれないけど」
 
 
好き勝手絶頂な言葉は、傷口に大量の塩を塗りこむが如し。
まるで現状理解を放棄したように呆然と硬直している銀時に構う人間は、この場には誰もいない。
成り行きを妙に納得した面持ちで眺めている新八と神楽。
そして、言うべきことを言ってしまったことに安堵する
余計な事を聞かれる前に、面倒な事になってしまう前に辞去してしまおうと。
そう思って玄関へと足を向けたの行動は、正しくはないが当然の判断だ。誰だとて面倒事に巻き込まれたくはない。
 
けれども。
自分で投下した爆弾は、自分で処理しましょう。
この言葉もまた、正しくこそはないが、道理ではあるのだ。
 
 
「……ちゃーん? せめて理由くらい言うもんじゃねーの?」
 
 
言葉こそ軽いものの、銀時の表情は硬い。
その表情に一瞬は黙りこんだ新八と神楽だったが、しかしすぐに口を開く。
基本的にこの二人は、銀時よりもの味方につく傾向にあるのだ。
 
 
「銀ちゃん。自分の胸に手を当てて考えてみるヨロシ」
「稼ぎの無い糖尿病寸前の男ってだけで、お先真っ暗ですよ」
「おまけにジャンプも卒業できないダメ大人の天パーのくせに、と釣り合うわけも無いネ」
 
 
まるでダメな大人の見本とも言うべき銀時と、気立ても器量も面倒見も良いと。
余程の事が無いかぎり、誰だとての味方に回るだろう。
むしろ、今までが銀時に対して愛想を尽かさなかった事の方が謎で不思議で奇跡体験でアンビリバボーだ。
そう言いたげな二人の言葉を、しかし銀時は黙殺する。
たとえ真実そうなのだとしても、本人の口から聞かなければ、納得できるはずもない。
第一、昨日は何事もなかったのだ。何事もなく、普段通りで。
それが一夜明けて唐突に降って湧いた別れ話。銀時でなくとも理不尽に思うしかない。せめて納得できるだけの理由は欲しいところだ。
もちろん、理由があったところで素直に別れ話に応じるつもりも無いのだが。
 
項垂れるはまるで捨てられた子犬のように庇護欲をそそられる。
いや、捨て犬ならば銀時は無視できる。子犬以上の何かがあるのだ、には。
理不尽な話にどう責め立てるべきかと思った銀時だが、の様子にそれは無理だと一瞬で判断する。
心を鬼にしたところで、今のには勝てはしまい。鬼だろうと白夜叉だろうと無理なものは無理。不可能を可能にすることは不可能。今のは最終兵器的なものだ、銀時にとっては。
 
呆然として、腹を立て。今度は弱りきっている。忙しいことこの上ない銀時だが、本人は至って真剣だ。
 
 
「なァ、オイ。お前、俺のこと嫌いにでもなったの?」
「違うのっ! 嫌いじゃなくて! そうじゃなくてっ!!」
 
 
銀時の言葉に、思わず反論する
泣きそうな顔で、それでも必死に否定するの表情は、もはや汎用人型決戦兵器並の破壊力だ。
「嫌いじゃない」と言われたことを喜ぶべきか、いっそのこと布団の上に転がして一日じっくり語り合うか。
一瞬とはいえ本気で悩んでしまった銀時の心境は、しかし表に出されなかった以上、現状にはまるで関係が無い。
 
 
「で、でも……っ! 銀ちゃんが悪いんだよ! 銀ちゃんのせいなんだからっ!!」
―――浮気でもしたんですか、アンタ」
「酷いヨ、銀ちゃん。女の敵ネ」
「するわけねェだろ! 勝手に人を悪者扱いしてんじゃねーよ!!」
 
 
横槍を入れてきた二人に、思わず食って掛かる銀時。
だが実際、浮気などはしていない。断じて無い。信じてもいない神に誓っても無い。に誓ってもありえない。
浮気疑惑ならば、誤解を解けば済むことだ。
しかしが、ただの疑惑だけで、弁明も無く銀時を切って捨てたりするだろうか。
それはの性格から考えると、違和感のある行為だ。
銀時のせいだ、銀時が悪い、と断じている以上、推定の疑惑ではない。は何かを確信した上で断罪しているのだ。
その「何か」がどういうことなのか、銀時にはさっぱりわからないのだが。
 
 
「銀ちゃんの、せいだもん……銀ちゃんの、せいで」
「どうなったんですか!?」
「身も心もボロボロアルか!!?」
「……さ」
「さ?」
「さ…3キロも太っちゃったんだからぁぁぁっ!!!!」
 
 
自棄になったように叫ぶと、は泣きながらばたばたと駆け出していってしまった。
銀時が止める暇も無い。と言うよりもむしろ、言われた事の意味を理解するまでに時間がかかり、止める余裕も無かったと言うべきか。
そんな銀時よりも先に我に返ったのは、新八と神楽。
 
 
「……そういやさん来ると、いっつもケーキか何か食べてますもんね、アンタら」
「どうせデート中も必ず甘味処行ってるアルヨ」
 
 
いつもいつもカロリーの高そうなものを食べていれば、太るに決まっている。
それは確かにその通りであり、更には銀時の趣味なのだから、銀時に責があるというのもその通りではあるのかもしれない。
事実関係は、正しい。原因と結果は、正しい。因果律は、正しい。
けれども、腑に落ちない。理に適わない。納得できない。
正しいくせに、間違っている。間違っているのは、何か。
 
 
―――んな理由で別れられっかァァァ!!!!」
 
 
答えはまさしく、銀時の言葉に集約されていた。
の後を追い全速力で駆け出していく銀時は、きっと数分も経たぬうちにに追いつくのだろう。
そこでどのようなやり取りが交わされるかは、もはや興味の外。
何事も無かったかのように、新八は床の上のモップの柄を持ち上げる。が最初に投下した爆弾発言以来、取り落としたままだったのだ。
無言で掃除を再開した新八に、やはりが来る前と同じく定春を構い出した神楽が言葉を投げかける。
 
 
「新八ィ。銀ちゃんと別れたら、痩せられると思うアルか?」
「……さんはきっと、そう思ってるんだろうね」
 
 
銀時と一緒にいることで甘い物を際限なく食べてしまい、それによって太ってしまったというのならば。
逆に考えれば、一緒にいなければ、甘味類の摂取量も減り、太らなくなると。そういう図式は確かに成り立つのかもしれない。
成り立つのかもしれないが―――腑に落ちない。もっと言うならば。
 
バカバカしい。
 
失礼だと思いながらも、新八はに対してそう思わざるをえない。
にとっては深刻な問題なのかもしれないが、傍から見ればバカバカしい。少なくとも、別れ話に発展するほどの事態とはとても思えない。
 
 
「銀ちゃんと、実はお似合いだったアルネ」
「……そうだね」
 
 
もしかしたらは、今まで知らなかっただけで、意外と理不尽の塊なのかもしれない。
そしてその理不尽さについていけるのは、いい加減さの塊である銀時くらいなのかもしれない。
 
万感をこめた溜息をつきながらも、新八の胸中を過ぎるのはただ一つ。
 
今日も平穏な一日になりそうだと。そんな程度のことである。



<終>



いつもと書き方変えてみようかと思ったけれども、結局玉砕。
人間、一朝一夕に変わるもんじゃないですね。精進します。頭良さそうな文章書きたい…
ネタは、恐怖の体重測定の直前に降臨したもの。
それにしても「汎用人型決戦兵器」ってお前……このヒロインちゃん、暴走でもするんだろうか(笑)