夢まほろば
遠くから微かに聞こえる喧騒がどこか心地よく感じられるのは、どうしてだろう。
締め切った部屋の中、ふとそんなことを考えてしまう。
室内に柔らかい光を投げ掛ける行燈。
和紙を通したその光は幻想的にさえ思えて。
だからなのだろうか。今が確かに現実なのだと、喧騒が教えてくれるようで。安心、できるのかもしれない。
その喧騒に混じって耳に届くのは、穏やかな寝息。
隣室に布団は用意してあるというのに、この人は必ずと言っていいほどここで寝る。ここがいいのだと、幼い子供のように言い張る。
私の膝の上に無防備に寝顔を晒すその姿は、本当に子供のよう。この人が真選組で鬼の副長と呼ばれているなんて、信じられなくなりそうだ。
それにしても―――思わず私は笑みを漏らす。
わざわざ遊廓に来て、女の膝の上で寝るだけだなんて。この人くらいではないだろうか。
バカにしてる、と腹を立てる遊女もいる。金さえ払ってくれれば、と楼主は言う。そして私は―――
―――私は、何を思うのだろう。
膝の上の少し硬い髪をそっと撫でながら、思うことは。
この時間が、永遠に続けばいいと。
それだけでも私には過ぎた望み。わかっているけれども願わせてほしい。祈らせてほしい。
その先にある想いには、気付かないでいるから。気付かない振りを続けるから。
だからせめて、今この時を望むことだけは―――
軽快にして無粋な機械音が、突如として室内に響き渡る。
それは、この夢のように甘い時間の終わりを告げる音。本当の現実へと引き戻される時。
つい今し方まで気持ちよさそうに寝ていた土方さんは、その音に跳ね起きる。
鳴り響いていたのは携帯電話の着信音。
電話で二言三言話すと、土方さんは苛立ったように舌打ちをして立ち上がった。
「お仕事ですか?」
「あァ」
聞く間でも無く、そうではないかと思いはしたのだけれど。
この人の立場上、仕方の無いことだとはわかっている。
落胆する気持ちを押し殺して私も立ち上がると、衣桁にかけられた羽織を手に取り着せかける。
短く口にされた礼に会釈で返すと、廊下へと続く襖に手をかけた。
「―――引き止めもしねェんだな、てめーは。いつもの事だが」
土方さんは、きっと何気なく口にしたのだろう。遊女なら大抵はここで引き止める言葉をかけるはずだから。もしくは次の約束をせがむ言葉を。たとえそれが心にも無い言葉なのだとしても。
もちろん私も他のお客に対してなら口にする。それが仕事の一環なのだから。
でも土方さんに対してだけは、引き止めることも次の登楼を請うこともできない。
それは私が押し殺している感情から発せられる言葉になるだろうから。口にしてしまったが最後、気付かない振りを続けている想いが、溢れてしまいそうだから。
遊女がたった一人の相手に縛られるなど、許されるはずがない。
「お仕事、でしょう? 引き止めるだけご迷惑でしょうから」
誤魔化しの返事を口にすると共に浮かべたのは、曖昧な笑み。
いつもならばこれで土方さんも引き下がる。
そのはずだった、のだけれども。
襖にかけた手が、不意に掴まれる。
思いの他強く掴まれたその痛みに、顔をしかめる間も無かった。
不意をついて重ねられた口唇。
―――初めて、だった。
いつもここに来ては、私の膝の上で眠るだけ。
ただ一度抱かれたことはあったけれども、その時でさえ口吻けられることはなかったというのに。
なぜ、今更。
掻き乱されそうになる自分を、必死で繋ぎとめる。
理性と感情が鬩ぎ合う中、受け入れることはもちろん、拒絶することもできない。
軽く混乱している間に、口唇が解放される。長く感じたけれども、実際は短かったのかもしれない。
動悸の止まない胸をさりげなく押さえて。平静を装えるのは、日頃の努力のおかげだろうか。
「土方さん。いきなりどうし―――」
「てめーが何を考えてんだか、わからねェんだよ」
それは当然のこと。わかってしまわれては困るのだもの。
困ってしまうから、だから―――お願いだから、抱きしめたりしないで。
その腕の中、私にはもう笑みを浮かべる余裕など無い。泣きたくなるほど心地よいこの温もりにしがみつきたくなる思いを、ただ懸命に押さえ込むことしかできない。
「俺のことをどう思ってんだよ―――」
……こんな時にその名前を呼ばないで。
いつだったか。さりげなく聞かれた私の本名。何気なく答えた、「私」の本当の名前。
ここではその名前で呼ばないよう頼んだし、土方さんも呼んだこともなかったのに。
私の方こそ問いたい。あなたが何を考えているのかわからない、私のことをどう思っているのか、と―――
お願いだから、私に言わせないで。気付かせないで。
私は所詮、廓の中で生かされている女だから。一夜の夢幻を男たちに鬻ぐ立場の女が、逆に希望や夢を持つことなど許されるはずがない。
だから私は、何にも気付かないようにしているというのに。
「……」
耳元で囁かれる私の名前。本当の私。
優しい声と、甘い温もり。
私は一体どうしたら―――
「土方、さん……」
何を言えば。何を伝えれば。何を……
誤魔化すための言葉も笑みも、今の私には出すことができない。
知らず、零れ落ちる涙。
止める術も知らず、ただ思う。
きっと私は、数分前までの私にはもう戻れないのだろうと。
気付いてはならなかった想いが、今、溢れ出す―――
<終>
何だかシリアスが書きたくなったのです。
それにしても遊郭ってのは、調べれば調べるほど奥が深いというか、大嘘書いてしまってるような気がするんですがそこはそれ。気にしないでいただけると……
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