鏡花水月 6
目の前を幾人もの人々が通っていく。
荷物を抱えた人、親子連れ、恋人たち……夜とは打って変わった賑やかさを見せる昼間の橋上。
その中央付近、欄干に背を預けて私は何とはなしに通り行く人々を眺めていた。
―――こうして昼間の太陽の下で顔を合わせるのは初めてではないだろうか。隣に立つ高杉の姿をちらりと視界の端に入れ、そんなとりとめのないことを思う。厳密に言えば、顔を合わせてはいないのだけれども。
高杉は流れ行く川に視線を落としたまま。
どうして私はここにいるのだろう。
呼ばれたわけではない。けれども何かにつき動かされるようにして、気付けばこの場所に立っていた。高杉の、隣に。
どれほどの時間が経っているのだろう。互いに視線も会話も交わさず、ただ相手の存在を痛いほどに感じて。
川面から吹いた風が、私の髪を弄ぶ。それほど強い風ではなかったけれども、ふわりと風に遊ぶ髪を押さえ付ける。
それがきっかけになったのだろうか。
「―――結局、あの野郎のところに戻りやがったんだな」
恨み節でもない、ただ事実を確認するためだけの言葉に、私は黙って頷く。
互いに向き合ってすらいない、どころか正反対の方向を向いているこの状況で、言葉にしなければ伝わらないのはわかりきっていることだけれども。それでも私が頷いたのを気配で察したのだろうか。「そうか」と低い声が返ってきた。
また沈黙が流れる。けれども今度はそれほど長いものではなかった。
「悪かったな―――ウチのヤツらに、色々言われたらしいじゃねェか」
「当然のことだと……普通に受け入れてもらえると思う方がどうかしてます」
いくら高杉本人が連れてきたとは言え、元真選組監察の肩書きを持つ私を鬼兵隊の彼等が容易に受け入れるはずがない。私の存在を隠したところで、秘密というものはどこかから必ず洩れるものだ。
副長から突き放された時点で失った私の居場所は、結局、他の何処にも存在し得ないのだと。そう思い知らされただけだったけれども。
だからと言ってそれを恨むつもりは私にも無い。高杉自身を恨むのは筋違い、鬼兵隊の彼等にしたところで当然の行動。結局のところ間違っていたのは、この私の存在そのものだったのだろう。
今こうして生きている事に対しても、実のところ疑問が残っている。
あの夜、副長は「そばにいろ」と言ってはくれたけれども。その真意はまるでわからない。外見とは裏腹に人が好い副長のことだから、多分に同情が含まれているとしか思えない。
それでも「そばにいろ」と言われた以上、私に逆らう術はない。
私にとってはあの人が全てで。絶対の存在で。どうしようもなく―――身の程知らずだとわかっていても尚、愛してしまった人だから。
けれども。
「もし……もし、貴方に先に出会っていたら……私は貴方のことを愛していたのだと思うんです」
こんな仮説は、立てたところで無意味に過ぎないのだけれども。
それでも、と思わずにはいられない。私を愛してくれた。愛されることの幸せを教えてくれた。包んで、手を差し伸べてくれた。
本当に嬉しくて。縋ってしまって、いっそこの人を愛せたら楽なのにとまで思ったほど。もし先に出会っていたならば、この男の隣に自分の居場所を見つけていたかもしれない。
けれども所詮は仮定の話。私はあの人を選んでしまった。あの人でなければ駄目だと、思ってしまった。
愛されることよりも、愛することの方を選んでしまったのだ。
申し訳無いと、素直に思う。でもきっとこれで良いのだろう。私がそばにいない方が、この男のためにもなるだろうから。
不意に風に流れて聞こえてきた低い笑いに、何がおかしいのかと反射的に振り向く。
高杉は変わらず川面に目を向けたまま。こちらを見ようとはしない。
「そういう台詞は、フったヤツに向かって言うもんじゃねェよ」
諦めがつかねェだろ―――そう微かに聞こえたのは気のせいだったろうか。
一瞬吹いた強い風に言葉が流されてよく聞こえなかったけれども……聞き返すのも妙な話だろう。
その横顔はよく見えないけれども、どこかしら近寄りがたい雰囲気に、このまま立ち去るべきかと考える。私がこれ以上この場にいたところで、かけられる言葉など持ち合わせてはいないのだから。
―――会うのはこれで最後だろうか。
もしかして状況が違えば愛していたかもしれない男。そう思うと寂寞とした思いに駆られて、なかなか足を踏み出せない。
何をしているのだろう。私は選んだというのに。
感傷めいた思いを捨て、一歩を踏み出す。一歩、また一歩。
「」
三歩目で呼び止められる。
けれども私は振り向かない。振り向けない。
だからと言ってその声を無視して立ち去ることもできない。なんて中途半端なのだろう、私は。
「別れの挨拶くらい、していけよ」
告げられたのは、道理に適った言葉。対して返すべき言葉はただ一つ。
私自身のけじめのためにも、その言葉は必要なのかもしれない。
伝えるべき言葉を胸に、ゆっくりと身体を反転させる。
思っていた以上に近い距離にいた高杉に、言葉が喉の奥に閊えたかのように出てこない。
その間にも更に近付く距離。無言で見つめられ、呪縛に囚われたかのように身動きがとれなくなる。
無言のまま降りてくる口唇に、ああそう言えば、と思い出す。子供のように別れの口吻けを求める、そんな一面もこの男にはあったのだと。
これも子供のおねだりのようなものかと思えば避ける気も起こらず。ただ従順に口唇が降りてくるのを待っていたのだけれども。
それよりも先に腕を後ろへと引かれ、たたらを踏んだ私は一瞬にして我に返る。
とは言え、何が起こったのかまではわからない。ただ高杉から引き離されたことと、その目に宿る殺意に気付かされるのみ。
ぞくりと背中を悪寒が走る。
その殺意が私に向けられているものではないとわかっていて尚、抑えることができない恐怖。
身体の震えが伝わったのだろうか。片腕で抱き寄せられ、その温もりに少しだけ安堵する。
覚えのある感覚。そして背中から伝わる殺気。振り返らずとも、誰なのかわかる。
「副長……」
「白昼堂々歩いてんじゃねェよ―――いい機会だ。今日こそ捕まえてやるよ」
「てめェ如きにやられると思ってんのか? 大した過小評価だぜ」
殺伐とした空気に、気付けば橋の上には私たち以外には誰一人としていなくなっていた。尋常で無い事が起こると、誰でもわかるだろう。この殺気では。
私にしてみても、一体この状況下でどうしたらよいのかまるでわからない。何をするにしてもこのままでは邪魔だろうとは思うものの、けれども副長はどうやら私を離す気がないらしい。これでどうやって高杉を捕らえるというのか。
只ならない殺気に反して、実のところ両者とも本気で斬り結ぶ気は無いのではないか。
ふとそんな考えが浮かんでみれば、案の定、二人とも腰に差した刀の柄に手をかけてすらいない。ただ睨み合ったまま。居心地の悪さに軽く身を捩ると、逆にますます強く抱きしめられてしまった。どういうことなのだろう、これは。
「チッ……今日のところはに免じて許してやるよ。さっさと消えろ」
「それはこっちの台詞だぜ」
……よくわからないけれども、人を免罪符みたいにしないでほしい。
それでも、何事もなく収まりそうな雰囲気に安心する。真選組に属する人間として間違っているとはわかっていても―――それでも今の私では、高杉と対峙することなどできないと思う。
「オラ。行くぞ、」
副長に促され歩きかけて。
ふと思うことがあって、私はそのまま足を止めた。
別れの挨拶―――伝えるべき言葉はたった一つ、などではない。
私を愛してくれて、ありがとう。そして……さようなら。
言葉にしてみたらたった二言。けれども伝えたいのは、言葉に収まりきるようなものではなくて。
だから私は、ただ黙って頭を下げた。何もかもの思いを込めて。それが全て伝わるとは思わない、自己満足でしかない行為かもしれないけれども。
ゆっくりと顔を上げると、高杉は笑みを浮かべていた。世の中を皮肉っているような、そんないつもの笑みを。
「ソイツにフラれたら俺の処に来いよ。待っててやるぜ」
「永久に待ってやがれ!」
私よりも先に何故か副長が返事をして、そのまま私は強引に腕を引かれる。
ちらりと振り向くと、高杉もその場から去っていた―――私たちに背を向ける形で。
未練、とは違うと思う。けれども離れてしまう事に一抹の寂しさを隠せはしなかった。
この先、きっと逢うことはないだろう。会うとしたらそれは、お互いに敵対する立場として、に違いない。
その時私はあの男に対して、刃を向けることができるのだろうか―――
「―――二度とあの野郎に会うんじゃねーぞ。ついでに監察の仕事もだ」
「はい?」
唐突に振られた話についていけず、思わず聞き返す。
副長は正面を見たまま、こちらを見ようとはしない。
相変わらず腕は掴まれたまま。正直痛いのだけれども、振り払えるような雰囲気でもないので大人しく引かれるまま私も歩を進める。
早足でついていきながら、今し方言われた言葉を脳裏で反芻してみる。
「あの。それは、監察の仕事もするなということですか?」
「だったら何だって言うんだ」
「じゃあ私は何のために貴方のそばにいるんですか!?」
「うるせェ!! どこの世界に、惚れた女が他の野郎どもに抱かれるのを黙って見てられる男がいると思ってんだ!!?」
一瞬、何を言われたかわからなかった。
わかっても、理解ができなかった。
呆然とする私に構うことなく、副長はさっさと歩いていく。私の腕を掴んだまま。
引かれるまま、足だけが動く。もつれそうになっても副長は気にも留めないらしい。
私自身も、自分の足元にさえ気が回らない。
だって。だって、もし今の言葉を信じてしまったら―――
「―――笑えない冗談はやめてください」
「奇遇だな。俺も笑えねェ冗談は嫌いだ」
不意に、ぴたりと副長の足が止まる。
腕を引かれていた私もつられるように足が止まって。
どうしたのかと顔を見上げても、副長は顔を逸らしたまま相変わらず私の方を見ようとはしない。
笑えない冗談。
確かにそんなものを口にするような人ではない。この人は。
ならば今のは、今の言葉は、本気、なの…………?
「……わかったか」
「わ、わかりません! だって、そんな……っ!!」
嘘。嘘に決まってる。とびきり優しくて残酷な、嘘。
そんなことありえるわけがないのだから、信じられるはずもない。
早く嘘だと言ってほしい。まだ傷つかないでいられるうちに。
訴えるように見上げるものの、副長の口からは望む言葉も何も出てきはしなかった。
無言のまま、代わりに再び腕を引かれる。先程までよりもやや早い歩調に、引っ張られる私の足は自然駆けるような足取りになる。
「副長っ!?」
「だったらわからせてやるよ―――屯所でじっくりとな」
横目に私を見下ろし口の端を上げるその表情に、どくんと心臓が高鳴る。
信じて、いいのだろうか。
今までにない予感に、頬は高潮し、心臓もうるさいくらいに脈打っている。掴まれた腕からこの鼓動が伝わってしまうのではと思うほどに。
綯い交ぜになる期待と不安を胸に、ちらりと副長の横顔を盗み見る。
真っ直ぐに前を見据える眼。そして、ぶっきらぼうだけれどもどこか優しい腕と、温もり。向かう先は、屯所。
まるであの夜の再現のよう。
―――信じて、みようか。
あの夜から、私にとって絶対の存在となったこの人の言葉を、信じこそすれ疑う理由など、どこにあるのだろう。
屯所に近付いたところで、再度こっそりとその横顔を見上げる。
迷い無い意志を感じる横顔に、あの夜のことを思い出す。
この人についていけば大丈夫だと、自然にそう思うことができたあの夜。
それはきっとこれからも変わらない。これから先何があっても、ついていこうと思った―――この私の存在が許される限り。
<終>
いやもう、言い訳すべき点は山の如しなんですけどね。
土方さんの態度だとかご都合主義的登場だとか、ちゃんと理由はあるんですが……まぁ、適当に行間を妄想してください(ヲイ
高杉さんに関しては、アレです。高杉さんだから、という理由で納得できそうな私がいるんですがダメですかそうですか。
ところでこの後屯所でじっくりとわからせてやるらしいですが(笑)
そこまで書くべきかどうか悩んだ挙句、疲れたのでやめました。すみません。どうせエロシーンだけですよ、ハイ。イチャイチャと甘ったるく!!
……それはそれで書いてみたいような、でも疲れるだけのような。
それでは。
ここまで長々とお付き合いいただきまして、ありがとうございました。
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