Red Angel



あたりに充満するのは、血の臭い。
一体どれほどの血が流れたのか。
もはや考えるのも億劫で。
本来ならば噎せ返るほどのこの空気にも慣れてしまう程度には、流れているに違いない。
同胞の、紅い血が。
もうこの周囲で生き残っているのは誰もいないだろう。麻痺した嗅覚に代わるように鋭くなった勘で、はそう判断する。
悔しいとも思えなくなってしまった―――戦争なのだ、これは。他人の生死に一喜一憂などしていられない。ただひたすら自分が生き残ることだけを、天人を一人でも多く斬ることだけを考えるだけで精一杯なのだから。
そんな事を考えている間にも、の手は休みなく動く。
手慣れた応急処置は、真実急場を凌ぐ程度のものでしかない。
戦場の最前線に包帯などあるはずもない。代わりに自分の着物の袖を引き裂いて止血帯としているのだ。
 
「はい終わった。って言ってもここじゃ、血止めるくらいしかできないけど」
「イヤ、十分だ。悪かったな」
 
礼を言う高杉に「珍しい」と笑い返すと、はそっと周囲の様子を窺う。
どうやら天人が近くにいる気配はなさそうだ。その事に安堵するものの、だからといって安心しきってしまえる状況ではない。
今、二人が身を潜めているのは崩れ落ちた家屋の一角。こんな場所にいてはいつ天人に見つかってしまうかわからないし、第一、高杉の怪我の手当ても満足にできはしない。
だが、移動しようにも高杉の怪我の具合は簡単にそれを許してくれるようなものではない。
身体中至る所にある傷、中でも左腕にざっくりと刻まれた傷から溢れていた血は止まることを知らず、ようやく止血できた今でも高杉の顔色は青ざめている。
おまけに高杉は何とも無いと言って頑として触らせなかったから憶測でしかないが、きっと右足は骨が折れているだろう。
まさに満身創痍。自身はそれほどの深手を負っていないが、この状態の高杉を連れて無事に皆のところへ戻れるかと言われれば、言葉に詰まらざるをえない。万が一途中で天人たちと遭遇しようものなら、高杉を庇いながら戦える自信は流石のにも無かった。
留まることも動くこともできない。一体どうすればいいのか。
 
―――銀時たちは、みんなは、大丈夫かな……」
「簡単にくたばるタマかよ、アイツらが」
「それも、そっか」
 
何気なくが発した言葉に、あっさりと答えを返す高杉。
それは何か根拠があるわけではない、ただ絶対的信頼の上にある返答だろう。
自身、そんな言葉を口にしておきながら、銀時たちは無事でいると信じている。
裏を返せば向こうも、たちが無事に戻ってくることを当然の事だと考えていることだろう。それもまた、根拠の無い絶対的信頼の上に。
ならば、何を迷う必要があるのか。
自信など関係ない。戻らなければならないのだ。待たれているのならば。それが当然の事象だというのならば。
埃を払い落としながら立ち上がると、「じゃ、戻ろっか」と何気なく声をかける。
折れた足でどう立ち上がるのか見物だが、何とも無いと言った手前、意地でも立ち上がろうとするに違いない。無様な姿を見せてくれたらとりあえず指差して笑ってやろうと。こんな時だと言うのにそんなことをつい考えてしまっただったが。
しかし高杉は、思いもしない言葉を返してきた。
 
「……テメェだけ先に戻ってろ」
「え?」
「俺はもう少し休んでから戻るって言ってんだよ」
 
聞き返すに、重ねて告げられた言葉。
耳を疑ったが、未だ立ち上がろうとする気配も見せない高杉に、今の言葉が聞き間違いではないことを知る。
いっそ聞き間違いだった方が良かったと、悪い冗談だとしか思えないような言葉に、は引き攣った笑みを浮かべた。
 
「なに、言ってるの……?」
「テメェ一人で行けって言ってんだよ」
「じゃあ晋助は?」
「後から行くから心配してんじゃねェよ」
「一人で? その怪我でどうやってよ!」
「いいから行けって言ってんじゃねェか!」
「イヤよ! そんなのできるわけ―――っ!!?」
 
途中ではっとしたようにが口を噤む。
戦場で馴染んだ感覚、研ぎ澄まされた勘が、何かしらの気配を察したのだ。
それは高杉も同じことで、口の中で小さく舌打ちをする。
迂闊に様子を窺えない以上、気配で察するしかないが、それでも天人が、しかも多数いることはわかる。正確な数こそわからないものの、この状態で捌ききれるような数ではないだろう。
どこからやって来たのか、それとも引き上げていった天人たちが様子を窺いに戻ってきたのか。どちらにせよこの状況に変わりはない。
だが。
 
「早く行けよ―――テメェ一人なら、逃げることくらいはできるだろ」
「でも!」
「ガタガタ言うんじゃねェ!」
「言う! 言ってやる!! 今の晋助置いていったら見殺しにするようなものじゃない!!」
 
自分が口にした言葉に、は色を失っていく。
口に出してしまったことで、現実味を帯びてしまった予測。
血の海の中、もう動かない仲間たちの姿。そしてその中の一人となってしまった、高杉の姿―――
途端、目の前に思い浮かべてしまった光景が、に悲鳴のような声をあげさせた。
 
「イヤ! イヤ、そんなの!! やだよ、晋助も一緒じゃなきゃやだ!!」
「……泣いてんじゃねェよ。そんな女じゃねェだろ、テメーは」
 
右腕で手を引かれ、の身体はさしたる抵抗もなく高杉の腕の中に収まる。
泣いている自覚などなかったが、反論しても高杉は受付けはしないだろう。
それよりも肌に感じる体温に、切なさが込み上げる。
仲間の死に感情を左右されることなどなくなったと、そう思っていた。
一々振り回される暇があるならば、自分が生き残る術を考えるべきだと。そう、信じていたのに。
それが今、こうしてたった一人の男の生にしがみ付いている。
他の誰がどうなろうとも構わない。
けれどもこの男だけは。高杉だけは、失いたくない。失うわけにはいかないのだ。
頑是無い子供のように首を横に振って縋りつくに、その頭を撫でながら高杉は諭すように耳元で囁く。
 
「惚れた女をみすみす死なせたくねェんだよ、俺は」
「…………」
「……最後まで守ってやれなくて、悪かったな。
 
言葉が、出なかった。
突然降って湧いたような告白。何もこんな時に言わなくてもいいじゃないと、そう思わずにはいられない。
けれども、おかげで決心が固まった。失わないために、これからすべきこと。それはたった一つ。
高杉の存外に穏やかな目をは見返す。きっと覚悟を決めたが故の穏やかさなのだろう。死ぬという、覚悟を。
見返すにも、覚悟はあった。いや、覚悟とは少し違うのかもしれない。ただ単純に、決めたのだ。これからすべきことを。
黙ったまま立ち上がり高杉に背を向けると、すらりと刀を抜く。散々天人を斬ったこの刀は、あとどれほどもってくれるだろうか。いや、そんなことは関係ない。すべてが終わるまでもたせなければならないのだ。
抜いた刀をしばらく見つめ、は顔だけを高杉に向けた。そこに、この状況にはまるで似つかわしくない、ふわりとした笑みを浮かべて。
 
「晋助。もし……もし私が生きてたら、返事、聞いてくれる?」
「な……っ!!?」
 
柔らかい笑みを浮かべながらも凛とした瞳は、これから逃げようとする人間のものではない。
その意図を察した高杉はを止めようとするが、身体が動かない。折れた足と、多すぎた失血。動かない身体と判断できたからこそ、だけでも逃がそうと思ったのだ。
逆に言えば、が何をしようとも、止める事が叶わないのだ。
そして、それがわかっていたからこそ、は自由に動く。自分の意志で。
ふいと正面を向くと、迷うことなく歩き出す。
高杉の制止の声も無視して物陰から出ると、視界に入るのは仲間の死体。そしてやや距離を置いたところに、天人たちの姿を認めた。
一体何人いることか。あの数をすべて斬り伏せようなどとは、正気の沙汰ではない。ならばきっと自分は正気ではないのだろう。
けれども、恐怖は感じなかった。
大切な人を―――高杉を失うかもしれないことを思えば、他の何も恐ろしくなどは、無い。
きらりと陽光を跳ね返す刀。きっともう鞘に納まることのないであろうその刀の柄をぎゅっと握り直す。 
 
覚悟ではない。
失いたくない。
ただそれだけの、ささやかな願いのために。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
「……なんだ。やればできるもんじゃない」
 
あは、と笑いを零してはみたものの、それほどの余力がに残っているわけではなかった。
地面に突き立てた刀は血糊と刃毀れで最早使い物にはならない。その刀を支えにして、どうにか地面に座り込んでいる、そんな状況だった。
支えがなければ座っていることすらできないであろう今のは、それこそ満身創痍。着物と言わず顔と言わずに付着した血は、自分の血なのか返り血なのかまるでわからない。自分の怪我の程度すらわからない。痛覚は完全に麻痺している。
周囲に立っているものは人間も天人も含めて誰一人としていない。座り込むものすら、以外には存在しない。
その自身、座り込んだまま動くことができずにいる。
指先を動かす事すら億劫なほどの疲労。このまま倒れこんでしまえば、二度と目覚める事がないのではと思うほどだ。
それでもその状態の身体をして、背後で上がった音に首だけとは言え振り向かせたのは、戦場にいることに慣れた人間の持つ反射的行為なのかもしれない。
が振り向いた視線のその先。そこに立っていたのは一人の天人だった。
斬り損ねたのだろうか。血を流しているとは言え両の足で立ちを見下したように冷笑を浮かべるその姿に、は死を予感した。
恐怖は感じなかった。
ただ、残念だった。
せっかく伝えられると思ったのに。高杉に対する返事を。
好きだと。あなたのいない世界など考えられないほどに、好きなのだと。
どうにもままならない世の中だと思う。それでも高杉さえ無事ならばそれで構わない。
それ以外特に感慨も無く向けた視線の先で、天人は勝ち誇ったような笑みを浮かべ―――そして、途端に目を見開き、苦悶に表情を歪めた。
憎憎しげに背後へと目を向けたのを最後に倒れた天人に、驚く暇も無かった。
 
「晋助……」
 
どうして、と疑問を投げかける余力も無い。
呆然と見つめるしかできないだったが、次第に霞がかった思考も明瞭になる。
荒い呼吸に、額に浮かぶのは脂汗であろうか。明らかに右足を庇っている体勢。応急処置として左腕に巻いてやった着物の袖は真っ赤に染まっている。
まともに歩ける状態では無かったはずだ。少し休んだ程度で治まる怪我でも痛みでも、無かったはずだというのに。
それでもこうして刀を手に、高杉はの目の前に立っている。にやりと、口角を上げて。
 
「言っただろ。惚れた女をみすみす死なせるつもりはねェんだよ、俺には」
 
それが、今にも倒れこみかねない男の口にする言葉だろうか。
思わず笑みを零し、「ばか…」とは呟く。
その言葉が聞こえたのか聞こえていないのか。「立てよ」と高杉はを促す。
立てるものなら、とっくに立っている。とてもではないが今のは自力で立ち上がれるような状態ではない。
けれども。
似たような状態であるにも関わらず、高杉は立っている。危な気にではあるが、それでも二本の足で、血に濡れた地面を踏みしめている。
 
「戻るぞ、
「え……」
「一人で戻れねェんだろ? だったら俺が連れ帰ってやらねェとな」
 
からかうような声の調子は、常と変わらない。
身体の痛みなどおくびにも出さず、にやりと笑ったままの反応を待っている。
その高杉の姿に、も弱音など吐いていられるはずがない。
力の入らない身体。それを奮い立たせて、もまた立ち上がる。ふらつく身体は自身危なっかしいとは思ったものの、それに対し高杉が何かを言うことは無かった。高杉もまた、自身の状態を十分にわかっているのだろう。
立っているだけで精一杯のはずの、男女が一組。それでも二人の目には、絶望感など微塵たりとも浮かんではいなかった。
先程は無理だと思った事だというのに。尚状況が悪化した今、それでも当たり前のように戻ろうとしている二人。自分たちが帰るべき場所へ。
戻れないわけが、ない。
この男と一緒ならば、できないことなどありはしないのだと、そんな思いが自然との胸の内に宿る。
きっとこの先も。
だから。
 
「さっきの返事、だけどね……」
 
満身創痍。どころか自身の血と返り血とで真っ赤に染まった身体。
血生臭い身で、色恋の何を語ると言うのか。
それでも、自分たちには相応しいのではないかとは思う。戦場での血塗れの告白。少なくとも、一生忘れられない記憶にはなるだろう。
できれば今この瞬間の幸福感、高揚感も忘れたくないものだと思う。
その思いを噛みしめて。
は笑みを浮かべて、ゆっくりと言葉を紡いだ。



<終>



タイトルはポケットビスケッツから。あまりの懐かしさに勝手にフィーバーしてます。
思いつきで書き始めたはいいものの、途中かなり頭悩ませてました。そんな話。