Melancholia



さん、どうしたんですか?」
「んー……」
 
市中見廻りの最中、不意に足を止めたに、同行していた隊士が声をかける。
その声がやや潜められていたのは、万が一の事態を考慮してのこと。
足を止めた視線のその先。見止めたのが攘夷浪士なのだとしたら、相手側に気取られては決してならない。
同行しているのは真選組内でも隊長たちに引けを取らないほどの剣の腕を誇る。相手の人数次第では、このまま斬り込む可能性すらある。
じわりと掌に滲む汗。それを隊服の裾で軽く拭くと、腰に帯びた刀の柄に手をかける。
だが隊士のそれは杞憂にすぎなかった。
の視線を辿った先。そこにいたのは攘夷浪士ではなく、見慣れた人物。
 
「あ、副長……」
「昼間っからお盛んなことで」
 
二人からは少しばかり距離のある店先で、真選組副長たる土方十四郎が、数人の女性達に囲まれていた。
この距離では土方の表情までは読めないが、あれだけの女性達に囲まれて普通ならば悪い気はしないだろう。もちろんその程度の事すでに飽きて辟易しているという可能性もあるだろうが、それはそれで羨ましいものだと、平々凡々たる隊士は思ってしまう。
土方の様子に、は何を思ったのだろうか。
口にした言葉は、心底からの本音だったのか。
ふい、と視線を逸らすと、は何事もなかったかのように足を進める。
慌てたのは同行していた隊士で、わたわたとの後に続く。
 
さん!?」
「やぁ……副長がいるなら、この辺は見廻りしなくても大丈夫ってことじゃない? 攘夷浪士が出てきたって、副長なら軽く斬り捨てるわよ」
「それは、まぁ……」
 
の言葉通り、確かにあの土方ならば多少どころでない事態に陥ろうとも、軽く切り抜けてしまいそうではある。攘夷浪士に斬られる姿など、想像するのも困難だ。
それは土方に対する絶対の信頼なのか。それとも単に見廻りが面倒なだけなのか。更に加えて第三の理由があるのか。
量り知ることもできず、隊士はの後を追うしかできない。
無言のまま、どれほど歩いただろうか。
先程と同じく不意に足を止めたに、今度は隊士も何の警戒をすることもなかった。
の視線は、気だるそうに中空を彷徨ったまま。これで何をどう警戒しろと言うのか。
 
―――ごめん。面倒だから見廻りサボる。帰ったら適当に誤魔化しといてね」
「え、ちょっ、さんっ!!?」
 
これまた堂々たるサボり宣言だ。
引き止める間もなくは方向転換すると、ふらりとそのまま人ごみに紛れていってしまった。
後に残された隊士は呆然としたまま。何となく、第三の理由が濃厚だと考える。
第三の理由―――単なる苛立ち。突き詰めれば、単なる嫉妬。
好いた相手が他の異性達からチヤホヤされているのを見て楽しい人間などそうそういるはずもない。そしてが好きな相手とは土方ではないかというのが、局内におけるもっぱらの噂だ。
好きだからこそ苛立ち、そして苛立ちが収まらないからこそ仕事をする気にもなれずサボる。
あまりにも我が侭が過ぎる振る舞いだが、それでも許されてしまうのは、紅一点のが局長を筆頭に局内中から好かれ、少なからず甘やかされているからなのだろう。
そんな分析はさておいて。
取り残された隊士の脳内を占めるのは、噂の真実性を突きつけられた衝撃と、そしてのサボりをどう言い訳するかという。その二点であった。
 
 
 
 *  *  *
 
 
 
ちゃん、たらいまもろいまいたよ〜〜!!!」
 
夜更けに響く、けらけらと甲高い笑い声。
TPOを考えろと怒鳴りつけたくなるような耳障りな声に、苛立ちも露わに声のした方へと足を向けたならば、そこにはすでに数人の隊士たちが集まっている。
その中心。両脇から見知らぬ男たちに抱えられるようにして、がくてんと首を垂れて立っていた。
立っているというよりも、支えられてようやく立っている状況なのかもしれない。ここまで漂う酒気が鼻につく。
 
「……あ〜、副長ら〜〜。へんなかお〜〜」
 
土方がやってきたことに気付いたのか。顔を上げたが開口一番そんなことを言い、きゃはきゃはと笑い出す。
ただでさえの帰りが遅いことに苛立っていたところに、夜中の笑い声。そしてこの状況。お世辞にもいい気分とは言えず、土方の眉間に追加して皺が刻まれることとなった。
その様子に、集まっていた隊士たちは何かを感じたのか、次々とこの場から立ち去っていくのだが。
酔っ払っているらしいが空気を読むはずもなく、相変わらずけらけらと笑っている。
そしてその両脇で立ち去ることも叶わず居心地悪そうに立っている男が二人。しかし黙っていても事の進展が望めないのは重々わかっているらしく、躊躇いがちに口を開いた。
 
「あの。すみません。僕ら、ホストクラブ『高天原』の者なんですが」
「ホストクラブだァ!!?」
 
土方の眉間に更に皺が刻まれたのを見て、男二人は逃げ腰になる。が、はけらけらと笑うばかり。
その声が土方の苛立ちに拍車をかけていることなど、今のは気付いてもいないのだろう。
 
「いえ。その。僕らはこの娘を送りに来ただけですので。もう失礼させていただきます」
「ありがと〜〜。じゃあこれ、おれ〜〜」
 
両脇の男らが慌てて辞去の意を述べると、が不意に甲高い笑い声を止める。
代わりに浮かべるのは、花も綻ぶような笑み。酔いのせいで朱に染まる頬と相まって、その笑みは一瞬ならず人の目を惹き付ける。それは両脇の男たちも、土方すらも例外ではなく。
ふわりと口元を彩る微笑に、黙って見惚れていられたのは幾許のことだったのか。
礼を述べたかと思うと、不意にが横を向き―――その身体を支えていた男に口吻けたのだ。もう一人の男にも同様に。その口元を掠めるだけの一瞬のものとは言え。
途端、男三人は凍りついたように動けなくなった。
突然の出来事にどう反応してよいのやらわからずにいる中、何がそれほどまでに可笑しいのかだけが再びきゃはきゃはと笑い声をあげる。
癇に障るような笑い声に、真っ先に我に返ったのは土方だった。
 
―――何やってやがんだ、てめーは!!?」
 
怒鳴りつけると、の腕を引っ手繰るように掴んで自分の方へと引き寄せる。
ようやく解放された男たちは土方の剣幕に恐れをなしたのか、再度辞去の言葉をもごもごと口の中で呟きながら逃げるように帰っていってしまった。
だがすでに男二人については土方の眼中には無い。
イラついたように舌打ちすると、未だ笑っているを屯所内へと引き摺っていく。
の甲高い笑い声に何事かと顔を見せる隊士も少なからずいたが、土方の剣幕を見るや皆一様にして何も言わずに引っ込んでしまう。
とはいえ、仮に話しかけられたところで、土方の方がそれに答えられるような心境ではなかったのだが。
を引き摺り、真っ直ぐ向かうは浴室。とっくに追い炊きの火も止められた時間、浴槽内の湯もすでにぬるま湯どころか水に戻っているであろうが、むしろその方が都合が良い。
ガラリと引き戸を開けると、未だけらけらと笑うの襟首を掴み、そのまま水の張った浴槽内へと突き落とす。
「きゃふっ!?」と間の抜けた声をあげて水の中から顔を出したに、とどめとばかりに桶に汲んだ水を頭から被せてやった。
 
―――目ェ覚めたか?」
「…………ハイ」
 
冷ややかな声を向けてやれば、咳き込みながらもが頷く。
水の中に座り込んだまま恨めしげな視線を投げかけてくるものの、その程度で怯む土方でもなく。
逆に睨みつけてやれば、やはりその程度で応えるはずもないのこと、ぶつかり合う視線は互いに一歩も引かない。
 
「で、クリーニング代払ってくれるんですか、この服」
「元はてめーで撒いた種だろうが。てめーで払え」
「大元の種を撒いたのは副長なんですが」
「あァ!?」
 
土方にしてみれば理不尽としか思えないの言い草。
自身にとっては実に理路整然とした結論ではあったのが、同時に土方には理解できないこともわかっている。本気でクリーニング代を請求するつもりなど毛頭ない。
溜息を一つ吐き、この話はこれで終いとばかりに立ち上がる。
ザバリと音を立てて浴槽内から出てみれば、全身濡れ鼠。水も滴る何とやらとは言うものの、これでは度が過ぎて色気も何もあったものではない。ついでながら、このままでは完璧に風邪をひいてしまう。
髪を軽く絞って水滴を落とすと、は着ている服に手をかけ―――思い出したように土方に視線を向けた。
 
「いつまで見てる気ですか、この変態」
 
酔いが醒めたとは言え、その機嫌はまるで芳しくないようで。
ジト目で睨んでくるの言葉は確かに正当なものではあるのだが、機嫌が芳しくないのは土方も同じこと。睨め付けてくるの視線に苛立ちは増す一方。
なぜ自分が睨み付けられなければならないのか。文句を言いたいのはこちらの方であり、ついでながら変態呼ばわりされる筋合いも無い、と。
 
「誰がテメーの色気も無ェ裸なんか見たがると思ってんだ。自意識過剰も大概にしろよコラ」
 
そんな苛立ちからか、売り言葉に買い言葉とも取れる言葉をに投げつける土方。
それでも流石に悪いとは思い、視線を逸らすついでにこの場からも一旦離れようとはしたのだ。
いくらでも男の前で着替えるような真似はできるはずもなく、しかしこのままでは確実に風邪をひかせることとなってしまう。そうなれば仕事をサボったことから夜更けに酔って帰ってきたことまでに至る説教もできやしない。
だが土方の配慮が伝わったのか伝わっていないのか。
浴室から出て行こうとした土方の腕が、不意に掴まれる。
誰に掴まれたのかなど、考える必要も無い。この場には土方の他にはもう一人しかいないのだから。
しかしここでに引き止められる意味がわからない。見るなと言外に言っておきながら、この行為はどういったことなのか。文句を言い足りないとでも言うつもりなのか。
だが土方がその意味を問い質すことはできなかった。
問い質そうと振り向くと、思いの外間近にある不機嫌そうなの顔。
驚いたのは一瞬。何故と問う間があらばこそ。胸元を掴んで引き寄せられ、投げつけられたのは罵詈雑言などではなかった。
それは、たった数秒。けれども土方の思考を停止させるには十分すぎるほどの出来事。
 
重ねられた口唇が艶やかに濡れていたのは、頭からかぶせた水のせいだろうか。
 
―――色気無くて悪かったですね」
 
相変わらず不機嫌そうな面持ちで。つい先程まで口吻けていたその口唇で、はそんなことを口にする。
ふいとそっぽを向くと、はそのまま行ってしまう。髪も服も全身ずぶ濡れのまま。不貞腐れたはそんなことはまるで気にしていない様子で、そして土方もそれを気に留める余裕がまるでなかった。
たかが、触れるだけの口吻け。それもたった数秒。のあの様子では、せいぜい腹いせ程度の意味しか持たないのであろう、そんな口吻けだというのに。
まるでに何もかもを見抜かれたかのような心境に、土方は羞恥で顔が熱くなるのを感じずにはいられなかった。
中学生のガキでもあるまいし、と自身に言い聞かせたところで熱は簡単には引きそうにない。
まさか本当に見抜かれてはいないだろうが―――が礼と称してホストたちに口吻けたことに嫉妬したなどということは。
途端蘇る不愉快な記憶を、首を振って頭から振り払う。
つい今し方の口吻けにしたところで、にとっては大した意味など無いはずなのだ。ホストたちに何の気なしに口吻けたように。
そう結論付け、無理矢理に思考を現実に引き戻す。
はとうに去った後。後姿すら見当たらず、残されたのは土方と。
 
「……誰が掃除すんだ、コレ」
 
ずぶ濡れの状態だったのだから、当然の結果だろう。
が通った後を忠実に辿って、廊下は水浸しと言っても差し支えないほどベタベタに濡れてしまっている。
現実に戻ってみれば、理不尽が目の前に広がっているだけだった。
その事実に頭を押さえずにいられなかった土方がまず思ったことは、明日の朝一番でに説教をくれてやると。そんなことだった。



<終>



互いの気持ちに気付かないで、勝手にヤキモチ焼いて勝手に苛立ってればいい。
なんて思って書いたら、ヒロインがやけに不機嫌な子になってしまいました。

('07.08.20 up)