玄関を開けたと思えば、来訪者の顔を確認した次の瞬間にはぴしゃりと音を立てて戸を閉められた。
来訪者たる自身の今この瞬間の気持ちは、一体どう表現すればよいのだろうか。
トイチ関係
「最悪だな」
まさにその一言に尽きる。
招かれざる客だろうという自覚は無きにしも非ずではあったが、それにしたところで一言も無く目の前で戸を閉められるというのは想定外だった。
家主の性格からして、持ちうる語彙力を総動員しての罵詈雑言を並べ立てた挙句、最後には暴力に訴えてくるであろうと。そんな予測を立てていた高杉ではあったのだが、得てして現実とは予測通りにはいかないものである。
だが結局、高杉は家の中へと入れてもらえている。ただし目の前には、煮えたぎった茶がなみなみと注がれた湯呑みと、何の変哲もない茶漬け。前者が憎茶であれば、後者はおそらく京のぶぶ漬けであろう。憎茶はともかくぶぶ漬けを出してしまってはこの場合意味が通らないであろうが、言いたいことはわかる。
昔は口と暴力に訴えるだけだった女が、よくもまぁこんな高等技術を身につけたものだと、いっそ感心すらしてしまう程だ。
その感心の対象となる女―――は、高杉の目の前で、こちらは適温の茶をゆっくりと啜っていた。しかしその表情は苦虫を口一杯に頬張って噛み潰しでもしたかのように苦りきっている。
嫌々ながらに部屋へと招き入れてから、一言たりとて口を開こうとはしない。これは相当に機嫌が悪いらしい。下手な事を口にしたが最後、憎茶やぶぶ漬けなどでは済まない、もっと破壊的な手段で以って排除されるだろうことは想像に難くない。
一先ずはの出方を待つしかないだろう。
煮えたぎっている湯呑みには手を出せず。かと言って茶漬けを口にするつもりにもなれず。手持ち無沙汰のまま時が過ぎるのを待つこと幾許か。
「―――なんでここがわかったのよ」
ようやくが口を開いた時には、煮えたぎっていた茶が何とか飲める程度までには冷めていた。とは言え、不機嫌極まりないの前で茶に手を出すのは、流石の高杉にも憚られることではあったが。
しかし、「なんで」も何も無いだろう。自分から知らせておいて。
茶化してやろうかと思わないでもなかったが、この状況でそんなことをすれば火に油を注ぐようなもの。本気でをキレさせようものなら、無事に済むはずがない。からかいたいのは山々だが。
とりあえずは穏便に事を進めよう。そう判断し、高杉は懐から一枚の葉書を出す。
使わずじまいで終わった年賀葉書の表面には当然ながら宛先と、そしてご丁寧にも差出人の住所氏名まで。
「これでわからねェって方がバカだろうが」
「……だからって、指名手配犯がのこのこやってこないでよ」
書かれたリターンアドレスを指差せば、は頭を抱えて机に突っ伏した。
実のところ、指摘した途端に逆ギレされる可能性も考えていたものだから、害の無い反応に高杉は安堵する。それが束の間でしかない事は重々承知の上で。
「で、持ってきてくれたの?」
不意に顔を上げたが、机の上に置かれた葉書を裏返す。
そこには表面に書かれた丁寧な字とは真逆に、怒りに任せて書いたと思しき字面でただ一言。
『金返せコノヤロー!!』
と。
一体いつ借りた金の話だ、と正直言いたくもある。
確かに借りた記憶はある。金額にすれば五千円ではなかったか。そして返した記憶はまるで無い。
それは攘夷戦争に参加していた頃の記憶。すっかり忘れ去っていたその記憶は、突然やって来たこの葉書を契機に何とか引きずり出してきたものだ。
しかしはしっかりと覚えていたらしい。たかが五千円。こんなにケチくさい女だったろうかと記憶を辿る。されど五千円。「利子はトイチね」と冗談交じりに口にしていたを思い出す。それが冗談でなかったとすれば、十日で一割の利息計算。今では一体幾らになっていることか。元が五千円であることを考えると、払えないほどの大金というわけではないだろう。しかし大人しく払うのは馬鹿らしい話。
動かない高杉に、不機嫌なが更に眉間に皺を寄せる。
「返しに来たんじゃないの?」
「その前に一ついいか。どうして今更請求する必要があった?」
本当に今更でしかない。
長い間、互いに住んでいる場所すら知らず音信不通だったにも関わらずの、この葉書。
はした金、と言ってしまえなくもない金の返済を、わざわざ住所を調べ上げ、しかも指名手配までされている相手に請求したりするだろうか。
少なくとも昔はそうではなかった。面倒事に関わるのは御免だと、そうはっきり口にする女ではなかったか。
そうは言いながらも結局他人の面倒を見てしまうのが、という女なのだが。
けれども自ら進んで動く人間ではない。となれば、を動かした何か裏があるに違いない訳で。
「……ヅラや銀時と喧嘩したんだって?」
最初から、そちらが本題だったのだろう。
言葉と共に吐いた溜息は呆れからなのか、ようやく本題へと入れたことに対する安堵からなのか。
冷めた視線を投げかけてくるその態度から推し量ることは難しいが、の裏に誰がいるかはこれではっきりした。
銀時か桂か―――きっと桂だろう。銀時であればこんな回りくどい手段はとらないに違いない。
一体に何をどこまで吹き込んだのか。わからないが―――に説得させるつもりだとでも言うのだろうか。
馬鹿げていると思う。いくらに説得されたからと言って、それで今までの行為を全て無かったことにできるものか。それ以前に、が説得などという面倒事を本気でやるとは到底思えない。
「喧嘩なんて生温いモンじゃねーよ」
「ふぅん。何でもいいけど、私に迷惑かけないでね」
それ見たことか。
まるで自分には関係の無いことだと言わんばかりに、は茶を啜る。それこそ本気で、ただの喧嘩だと思っているかのように。
昔と変わらないの物言いに、一瞬、あの頃の情景が目の前に蘇る。くだらない言い合いをするその横で、我関せずとそ知らぬ振りをしている。それでいてすべて聞いていて、最後に収拾をつけるのがなのだ。
もしかしたら今回も、最終的にはに収拾をつけられるのかもしれない。それがどのような形であるかはわからないが。
かと言って、昔のように男の雁首揃えてに一発ずつ殴られ説教される、などというのは御免被りたいものだ。
笑いすら込み上げてくる光景を思い浮かべたのも束の間。「わかったならお金返して帰ってよ」との声が冷たく浴びせられる。
借金は高杉を呼びつけるための口実だと思っていたが、しっかり徴収するつもりらしい。
相変わらずの不機嫌顔。そういえば久々に顔を合わせたというのに、この不機嫌な表情しか見ていないと今更ながらに高杉は思う。
元々、感情表現の激しいタイプの女ではなかったとはいえ。昔懐かしい顔に会ったというのににこりとも笑わないのはどうか。この状況下でそれを望む方が間違いなのだとしても。
無理して笑ってもらわずとも構わない。笑わせたい訳でもない。だがせめて、不機嫌以外の表情を拝みたいと思うのは、昔少なからぬ好意を抱いていた相手に対する感情としては当然のものだろう。
ああ、と少なからず高杉は納得する。桂がを利用しようとした理由を。
の歓心を得るためならば何でもした昔。ふとした折に浮かぶ笑顔が見たくて躍起になっていたあの頃。の言葉にだけは従順なその姿を指して、主人と飼い犬のようだと揶揄する人間を陰で叩きのめしながら、誰のものでもないを独占したつもりになっていた。
確かにあの頃を知る人間ならば、であれば高杉を止められるだろうと、そう考えるのも道理なのかもしれない。
だが所詮、それは昔の話に過ぎない。今はもう―――
「そんなに返してほしいなら、身体で払ってやろうか?」
今はもう、の歓心を得るだけで満足できるはずもない。
長年会っていなかったというのに、子供じみた恋心は胸の内で根をはり成長を続けていたのだろうか。
浮かぶ笑顔を想像するだけで、を自分のものにしてしまいたい。そんな欲求が知らず湧き起こる。
机を回り込み、その顎をくいと持ち上げる。真っ直ぐに向けられる不機嫌な瞳は変わらぬまま。けれども抵抗も何もしないに、一瞬、本当にこのままモノにしてしまえるのではないかという淡い期待が高杉の胸中を過ぎる。
もちろん、このに限ってそんな甘い現実は待ち受けているとは到底思ってもいなかったが。
「アンタの小汚いその下半身に価値があると真面目に思ってるの? むしろマイナスでしょうが」
「小汚いかどうかは見てから言えよ」
呆れ返った面持ちでが冷たく言い放つ言葉に、思わず高杉も言い返す。
けれども抵抗は無い。
果たしての真意はどこにあるのか。
強い意思を孕むその瞳の奥を覗き込むように見返し、「それに」と高杉は付け加える。の思いを探るために。
「てめェが俺のものになるって言うなら、喧嘩もやめてやってもいいんだがな?」
まだ抵抗は無い。
ただ、その瞳が揺らいだようにも見えた。
それでもそこに宿る凛とした光は薄れることなく輝いている。たとえどの選択肢を選ぼうとも、それは紛う事無き自身の意志なのだと。きっと彼女は胸を張って口にすることだろう。
抵抗の無い身体に空いた腕を回し、引き寄せる。
自然、近付く顔。表情は変わらない。どこまでその表情を保てるのか、むしろそちらの方が気になりかけた時だった。
表情は変わらない。その瞳に宿る光も変わらない。何も変わらない、そのままで。
「だーかーらーっ!!」
今にも口唇が重なろうとした瞬間だった。
言葉と同時に何か物理的な衝撃が高杉の頭を襲う。
それがの手刀だと気付いた時には、はさっさと高杉の腕の中からすり抜けていた。相変わらずの不機嫌面で。まさに口吻けせんとしていた所だったというのに、頬を赤らめることもなく。
「あんたらの喧嘩に私を巻き込むなって言ってるのよ、私は!!」
更に頭上に拳骨が一発。これでは昔と何ら変わりが無いではないか。
思わず頭を押さえて呻く高杉に構うことなく、は「シケてるなぁ」などと的の外れた感想を述べている。
一体何がシケているというのか。顔を上げた高杉の目に映ったのは、いつの間にやら高杉の財布を手に五千円札を抜き取っているの姿。
どうやら会わない間に、性格も手癖も悪くなっていたらしい。昔の思いを引き摺ったままを抱かなくて良かったと、しみじみ思わずにはいられない。そんなことをしようものなら、最終的に身包み剥がされ巻き上げられていたかもしれない。
思い出は美しいとは言うが、その美しいはずの思い出をここまで見事に破壊する女というのも珍しいとは思う。
そう、思うのだが。
「こんなのでよく鬼兵隊のトップなんて張れるわね。また貸してあげよっか?」
「どうせ利子はトイチなんだろ?」
「それはもちろん」
口元を艶やかな笑みの形に結ぶを見てしまうと、幻滅する気も起こらなくなってしまうのだ。
一瞬にして男を虜にするような笑顔は健在。どころか更に磨きがかかっているのではないか。これは相当数の男を誑かしてきてるのではないかと、容易く想像がつく。
金にガメつくなろうとも、性格が悪くなろうとも。その根本はまるで変わっていない。
巻き込むなと。そう言うのであれば、最初から関わってこなければ良かったのだ。桂に何を言われようとも、連絡などとってこなければそれで済む話だったのだ。
それを持ち前の素直でないお節介を出したところがの運の尽き。そして高杉にとっては運の始まり。
久々に顔を合わせた嘗ての仲間は、すでにその笑みを消し愛想の無い顔でひらひらと五千円札を振っている。
細い二本の指の間で揺れるその五千円札を引っ手繰るように取り戻し、高杉はにやりと笑う。
「借りてってやるよ、ありがたくな」
―――仮にが自分のものになったとして。だからと言ってこの世界に売った喧嘩を買い戻すつもりはない。
もちろんとて、自身をダシにされる条件など飲みはしないだろう。面倒事は嫌だと、きっぱり言い切る女なのだから。
ならば巻き込むまい。この喧嘩には。
ただし、自分の人生には巻き込ませてもらおう。面倒だと喚かれようとも、これだけは譲るつもりはない。
ここで会ったが百年目。逃がすつもりは、毛頭無い。
<終>
ツンデレ目指したらこうなりました。
要するに私にツンデレを書くのは無理だという話です。
('07.11.28 up)
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