とある教師の愛情衝動 −あなたとならば−
理事長からは二人揃って説教をされ。
教室に戻れば生徒らに散々囃し立てられ。
職員室では祝福されていたのだか嫌味を言われていたのだか。
気付けば日はとうに沈み、夜空には月がかかっていた。
「―――ごめんなさい。私のせいで……」
恐縮しきりの態で謝るの隣を歩きながら、しかし銀八はその言葉を右から左へと聞き流していた。
それより何より、今のこの状況が夢ではない事実を噛みしめ、喜びに浸っていたのだ。
人生に絶望しかけていた午前中は何だったのか。喉元過ぎれば熱さを忘れる。終わり良ければ全て良し。まさにそんな心境だ。
ちらりと視線を向けたならば、の左手薬指には、確かに指輪が。当たり前と言えば当たり前なのだが、それが当たり前の事実だという事が銀八には嬉しくてならない。
小躍りしたいのを辛うじて堪え、職員用駐車場までの短い距離を連れ立って歩く。
月と常夜灯に照らされたその道のりは、あっという間。
どうせ明日も会えるというのに、今日に限ってはやけに名残惜しい。喜びの余韻に浸って出来る事ならば今夜一晩共に過ごしたいくらいだが、明日も仕事がある以上、それは叶うべくもない。
「坂田先生」
車の前まで来て、が足を止める。
いい加減、二人きりの時くらいはその呼び方をやめさせようかと、そんな事を銀八は思う。
だがいくら聡いでも、銀八の心境までは読み取れまい。
逆に言えば、銀八とての心境など知る由もない。
言いよどむに疑問を覚えたのは束の間。
「あの……もう一度、言ってもらえますか……?」
「何を」
「その…あ、愛してる、って……」
恥ずかしいのか、もじもじと落ち着かない様子で薬指の指輪を弄るのその姿は、可愛らしい事この上ない。やはり今すぐにでも自宅に持ち帰りたくなる。
だがそれは外見だけの話。の要望に、銀八の方こそ落ち着かない気分にさせられた。
ただでさえこっ恥ずかしい台詞。勢いで全校放送で口走ってはみたものの、それは面と向かっていないからこそ言えた台詞だ。
そう言い訳したいところだが、期待するような目を向けられては、嫌だとはなかなか言えない。
言わなければならないのだろうか。言わなければならない雰囲気なのか、これは。
精神的に追い詰められたような気分になって、銀八は逃げ道を探すように空を見上げる。
見上げたところで、空に浮かぶのは瞬く星と柔らかな光を照らす月ばかり。救いの手など差し伸べてくれるはずもない。
今度は銀八が言いよどむ番だった。
何も言わないのでは、が不安に思うであろうことは目に見えている。
言葉が欲しいとは、つくづく女は面倒な生き物である。が、それでもに惚れてしまっている事実は変わらないのだから諦めるしかないのかもしれない。
空を睨みつけながら、迷うことしばし。
「あー……月が綺麗だよなー」
話題を逸らすかのように、そんな事を口にしてみた。
情けないが、これが銀八にできる精一杯だ。直球の愛の言葉など、相当ノリノリで勢いがある時でなければ絶対に無理だ。
これで何とか悟ってくれないか。そんな銀八の祈りにも似た思いは、に伝わったのか。目を瞬かせたかと思うと、ふわりと柔らかい笑みを浮かべた。
「夏目漱石、ですか?」
「っ!!?」
驚いてを見ると、くすくすと可笑しそうに笑みを零している。
なんで知ってんだよ!? と叫びたくなったが、そんな事をしても照れ隠しにしかならない事は自分でもわかっている。
だがいつまでも笑われていては男が廃る。
お返しとばかりに銀八はの手を取った。
「だったら、俺も言ってもらえますかねー?」
「死んでも構わない、とでも?」
「二葉亭四迷、ねェ……」
日本の文学者は偉大だ。おかげでどうにか愛の言葉を交わせたのだから。それは認めよう。
だけど俺はこっちの方がいいね。
そう呟くと、の手を引いてその身体ごと引き寄せ、深く口吻けた。
煌々と照らす月の下、いつまでも―――
<終>
「I love you.」を、夏目漱石は「月が綺麗ですね」と訳し、二葉亭四迷は「死んでもいいわ」と訳したそうです(二葉亭四迷が訳したのはロシア文学だったと思いますが)
それだけの話。
や、夏目漱石に二葉亭四迷なら、国語教師の銀八先生はその程度さらりと出てくるかなぁと思って……
('08.04.14 up)
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