空が青かったからだ、と高杉は思う。
雲一つ無い空はどこまでも澄んで、蒼かった。
だからなのだ、と思わずにはいられない。
晴れ渡った空は限りなく広く蒼く。
 
「きゃあああっ!!!」
 
突如として破られる静寂。
甲高い悲鳴と共に視界に広がるのは白。曇り一つない、純白。
だからなのだ、と高杉は再度言い聞かせる。自身に対して。
悲鳴と共に高杉の上へと落ちてくる真っ白な女。
―――天使が落ちてきたと。一瞬ではあるが、確かにそう本気で思ってしまったのだ。
 
 
 
 
保健室の天使 1



 
実際のところ、彼女は天使でも何でもない、単なる保健医だった。
重力に逆らうことなく自由落下してきた彼女の体は、それ相応の衝撃と共に高杉の上へと落ちてきた。
その衝撃に思わず悶絶しているところを、有無を言わさず保健室へと引きずられたのだが。
落ち着いてみれば、白いのは白衣。そして白衣の下にはごく薄い水色のワンピース。白衣との対比で水色と判別できるが、今日のような青空の下では白く見えてもおかしくはない。
しかも落ちてきた理由が傑作だ。
休んでいる生徒がいないのを幸いに保健室を掃除していたところ、現れたゴキブリに驚いて逃げようと窓から飛び出したらしい。ゴキブリ程度で逃げ出すのも何だが、逃げるにしても普通はドアからだろう。
 
「だって。そっちから出てきたんだよ?」
 
詫びのつもりか茶を用意しながら彼女が指差したのは、入口近くに設置してある棚。
嫌なものを目の前にした時に後ろへと逃げたくなる心理はわからないでもない。
だが、もう少し自分が置かれている状況を把握してから逃げ場を判断してもらいたいものだ。
 
「だって! 窓の下で寝てる子がいるなんて思わなかったんだもん!」
「俺だってまさか窓から飛び出してくる人間がいるなんて思わねーよ!!」
 
窓の高さは腰よりも少々上という程度。一階ではあるから決して不可能ではないが、だからと言って乗り越えてくる人間がいるとはまさか思うまい。
子供のように膨れているその表情は、生徒らを指導すべき立場にある人物のそれにはとても見えない。ただでさえ若いのだから、そんな顔をされては益々指導者としての威厳など見当たらない。
こんな保健医が主では、不安で保健室になど来られたものではないだろう。
一週間ほど前だったか。一身上の都合とやらで退職した保健医の代わりに赴任してきたのが、目の前で膨れている女だ。確か名前はと言ったか。大学を出たばかりだという話だったはずだ。
差し出された茶を飲みながら、何とはなしに新しい保健医を観察する。
どう見ても保健医には見えない保健医。白衣は着ていると言うよりも着られていると言った感がある。白衣を脱いだら女子大生にしか見えないだろう。近所に住むそそっかしいお姉さん、という立ち位置が最も相応しいかもしれない。それはそれで親近感は湧くかもしれないが、それと信頼は別である。保健医として信頼できるかと問われれば、否と即答したい。
高杉から密かにダメ出しを食らったとは露知らず。「まだ痛い?」と保健医は心配そうに眉根を寄せて聞いてきた。
 
「思いきりお腹踏みつけちゃったし……あんまり痛むなら病院行った方がいいかもしれないよ?」
 
行って何をどう説明しろと言うのか。授業をサボって外で寝ていたら、上から女が降ってきて全体重をかけて腹に落ちてきた、などと、確かにその通りではあるが、あまりにも馬鹿馬鹿しくて説明したくもない。
まだ痛みはするが、我慢できないほどではない。「痛くねーよ」とそっけなく言ったものの、「でも…」と更に言い募る。
 
「さっき、蛙が潰れたみたいな面白……えと、痛そうな声出してたから」
 
何を思い出したのか。慌てて言葉を言い直して口元を押さえてはいるが、その目が笑っている。
余程おかしかったのかもしれないが、その原因はお前だろうと言ってやりたい。
原因の張本人が笑うな、と。
だがそれを口にする前に高杉の内にふと悪戯心が湧く。目には目を、歯には歯を。笑いには笑いを。
 
「オイ」
「どうしたの? やっぱり病院行く?」
「そこにゴキブ」
「きゃぁぁあああ!!!」
 
窓から飛び出してくるくらいだ。余程のゴキブリ嫌いなのだろう。
からかってやろうと口にしたその単語が終わるよりも早く、保健医はつんざくような悲鳴をあげる。
それだけなら良かったのだ。嘘だと言って大笑いしてやるつもりだったというのに。
大笑いどころか、高杉は言葉を失ってしまった。
悲鳴をあげた保健医は、あろうことか抱きついてきたのだ。何の躊躇いもなく。
 
「お、オイ……」
「いやぁぁあっ!! 取って! 取ってぇっ!!」
 
悲鳴をあげ、ますますしがみついてくる保健医。真実ゴキブリがいたとしても、これでゴキブリをどうにかしろと言う方が無理だ。
冗談だと口にし身体を離そうとしても、人の話など聞いていないのか、悲鳴をあげてますます頑にしがみついてくる。かなりの恐慌状態に陥っているらしい。
だが高杉もまた軽い混乱状態に陥っていた。
予想以上の反応。それだけならばまだ対応のしようがあったかもしれない。
だが、何の躊躇もなく正面から抱きついてこられたのだ。最初はその事態に驚いたものの、やがてその事実を認識するや、今度は別の事が気になって堪らなくなる。
ふわりと立ち上って鼻孔を擽る甘い香りはシャンプーなのか、それとも保健医自身のものか。
直に伝わってくる身体の震えは、思わず庇護欲をそそられる。
何より、押し付けられてくる柔らかな身体が。特に、胸が―――これまでに女に抱きつかれたことが無いわけではない。今こうして戸惑いを覚えずにはいられないのは、それでもこの保健医が『大人の女』だからなのだろうか。
途端、生々しい現実を高杉は認識する。
理由はどうあれ、女が男に抱きついていて。部屋には二人きり。
無意識に唾を飲み込み、抱きついてくるその身体にそろそろと腕を回し―――
 
「何やっちゃってんの、お前ら」
 
―――現実とは得てしてこんなものなのか。
ガラリと開けられた保健室の入口。
そこには銀八が、呆れたような面持ちで立っていたのだった。
 
 
 
ともあれ。
これが新任保健医・との出会いであった。



<続く>



需要なんて無視して、ついうっかり書いてしまいました。生徒×教師なネタ。
と言っても、この設定でどうにかなるとも思いませんが。
一応、三話で完結予定です。完結と言っても恐ろしく中途半端な結末ですがね。

('08.06.19 up)