右手には箒。左手には塵取り。足元には黒い不透明なゴミ袋。
そんな高杉の隣に立つ銀八は濡れ雑巾を片手に煙草を吸っている。その足元には水をはったバケツ。
道具だけ見たならば典型的な掃除スタイルだ。それがこの二人に似つかわしいかどうかは別問題として。
部屋の主であるはずのは不在。放課後の保健室で、一体自分は何をさせられると言うのか。
 
「決まってんだろ。大掃除だよ」
 
まるで高杉の疑問を見透かしたかのように、事も無げに銀八が言い放った。
 
 
 
 
保健室の天使 3



  
大掃除と言っても、範囲は決して広くない。保健室の壁際に設置された大きな棚、その下段の引き戸になっている棚の中。そこだけである。確かに棚は大きいが、下段部分だけとって『大掃除』と表現するには些かどころでなく大袈裟であろう。普通ならば。
だが普通でないことにこの棚の下段部分。「絶対に開けてはならない」開かずの棚として、前任の保健医からは引き継いだらしい。当初は素直に引き継ぎを守っていた―――というよりも放っておいただったが、どうにもならない事情ができてしまったのだ。
 
「そこからね。『出る』気がするの……」
 
放課後、とりたてて目的もないまま保健室に入り込んでいた高杉と銀八に対してが酷く悲壮な顔つきで口にしたのは、そんなような事だった。
『出る』と言われて真っ先に脳裏に浮かぶのは、幽霊の類い。だがの場合は違う。この場合『出る』のは幽霊ではなく家庭内害虫。所謂ゴキブリだ。
何せゴキブリから逃れるためならば窓から飛び出すことも厭わず、初対面の男にでも抱きつく女だ。ゴキブリと同じ空間にいるくらいならば、喜んで幽霊屋敷に逃げ込むに違いない。
の話によると、昨日ゴキブリが出たかと思うと、その棚の付近でいなくなったのだそうだ。根拠としては乏しいが、それでも『開かずの棚』なんてものが存在し続ける限り、はこれから先も怯え続けるのだろう。
だからどうしてほしい、とが口にした訳ではない。流石に図々しいとは思ったのか。
しかし縋るように見つめられて、高杉も銀八も嫌だと言えるはずもない。
 
「じゃ、何が入ってるか先に俺らだけで確認すっから」
 
そう言って銀八がを一時的に保健室の外へ出したのは、何かしらの予感があったからなのか。
預かった鍵を使って、その『開かずの棚』とやらを開けてみれば。
 
阿鼻叫喚地獄絵図
 
反射的に引き戸を閉めたものの、それで今目にしたものまで記憶の底に閉じ込めてしまえる訳ではない。
が見ていなくて良かった。
瞬間、胸中を過った安堵感は奇しくも二人して一致する。
 
「どうでした?」
 
廊下に出たところで、当然ながらに問われる。
しかし本当の事を言ってもいいものか。高杉と銀八が顔を見合わせたのは一瞬。
その一瞬で、しかしどうすべきかはお互い通じ合った。当人たちにしてみればちっとも嬉しくない意思疏通ではあったが。
 
「ゴキブリが」
 
高杉が口にしたその単語一つで、面白いくらいにの顔色が変わる。いつもならばからかって遊びたいところだが、流石に今はそんな気にはなれない。極端なまでにゴキブリを嫌うの気持ちが、今ならば高杉にもわかるような気がした。
 
「死んでんのと、つがいのがいたわ」
 
銀八があっさり続けると、泣きそうな顔で数歩後ずさられた。何やら自分たちが避けられているような気分になって、高杉は面白くない。勿論、にそんなつもりが無いことは重々承知してはいるのだが。
のそんな態度は予測済みだったのか。銀八は怒るでもなく、むしろ笑った。
 
「ま、駆除は俺たちがやってやっからさ。ちゃんはウチのクラスで補習見ててくんねー?」
「え?」
「って俺もかよ!?」
 
高杉の反論はしかし、瞬時に銀八の手によって封じられた。
抗っても軽く押さえつけられ、その間にも銀八が勝手に話を進めていく。
 
「で、でも……」
「いいっていいって。ゴキブリ見たら、ちゃん失神すっだろ」
「そ、そこまでじゃないですよ!」
 
否定するだが、あの光景を目にすれば失神どころかショック死するのではないかと高杉は思わずにはいられない。
確かに銀八は嘘は言っていない。だがそれは嘘が無いというだけに過ぎず、全てを話した訳ではないのだ。
棚の中は、口にするのもおぞましい程の惨状だった。あれなら死骸もつがいもいくらでも揃っているに違いない。
またすぐに直面しなければならないのであろう現実に、高杉はげんなりせずにはいられない。しかしの、申し訳なさそうな、けれども安堵したような顔を見ると、嫌だとも言い辛い。何よりここで抜けたら、銀八にいいところを全て持っていかれてしまう。
銀八一人だけにいい思いをさせてなるものかと、それだけで高杉はこの場に留まることを決意した。
 
「あの、本当にいいんですか?」
「ウチのクラスのヤツらも、ちゃんが見ててくれるなら真面目に補習やるだろうし」
 
だからお互い様なんだよ、と笑う銀八につられるようにして、も笑みを溢す。
二人の世界が出来上がっているようで、横で見ていて高杉はまるで面白くない。
だがは高杉の存在もちゃんと気にしていたようで。
 
「じゃあ高杉くんは?」
「は?」
「お礼。私にできることだったらなんでもいいよ? 欲しいお菓子とかある?」
 
小学生か、俺は。
思わずツッコミたくなったが、は至って真剣なのか。確かには菓子を貰えば喜びそうだ。
褒美に欲しいものならばある。しかしそれは菓子などではない。
 
「付き合えよ、俺と」
 
高杉がそう口にした瞬間、驚いたようにが目を瞬かせた。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
「にしても近頃のガキは手が早いし人の言うことも聞いてねーな。ちゃんは俺のだって言っただろ」
「まだてめーのじゃねェだろ」
「この予定は決定事項なんだよ」
 
そこに当の本人の意思はあるのかと言ってやりたくなったが、どうせ煙に巻かれるだけであろうと高杉は口にするのを止めた。
理屈勝負になれば、仮にも国語教師の銀八に分があるのは明らかだ。
それに今はつまらない応酬をしている場合ではない。が補習の監督から戻ってくる前に、開かずの棚の地獄絵図をどうにかしなければならないのだ。
とりあえず棚の中に殺虫剤を放り込んでみた。死んだ頃を見計らって、ひたすら死骸を片付ければいい―――と、言うのは簡単だが、実際にその片付けの事を思うと気が滅入る。が絡んでいなければ誰がやるものか。
相手にされていない事はわかっている。
今しがたとて、「付き合えよ」との言葉に対する返答が「うん、いいよ? どこに行きたい? 食べたいお菓子とかある?」と来たものだ。いい加減に菓子から頭を離せと言ってやりたくなった。隣で銀八が笑いを堪えていたのが余計に腹立たしい。
とは言え、前向きに考えればこれは、デートの約束を取り付けたのと同じことだ。ささやかではあるが、進展と言えばそう言えなくもない。
そうして何とか折り合いをつけようとした高杉だったが、それを嘲笑うかのように銀八が声をかけてくる。
 
「まァでも、アレだな。いくらお前がデートのつもりでも、ちゃんはまったくそのつもりが無ェだろーし。良くて姉弟デートってな気分なんじゃね?」
 
実際、嘲笑っているのだろう。わかるからこそますます苛立たしい。
銀八に比べたら余裕が無いことなど、高杉自身もわかっている。こちらは高校生に過ぎず、普通に考えれば恋愛対象になどなるはずもない。
だが年の差だけみれば4、5歳程度の男と女なのだから、可能性がゼロというわけでもないはずだ。ならば早々に諦める事などしたくはない。出来る限りの事はやっておきたいのだ。
 
「やってみなきゃわからねェだろうが」
「そのチャレンジ精神は別のトコで発揮してもらいてェもんだけどね、担任としては」
 
わざとらしい溜息は、高杉の宣戦布告を受けて立つと言うことか。
歯牙にもかけられない事を半ば予想していただけに、高杉は驚きを禁じえない。
もしくはそこまで見越しての言葉にだったのか。高杉の様子に銀八は煙草をくわえたまま口角を上げる。
 
「まァ俺は譲る気も奪われる気もねェけどな」
「俺も引き下がるつもりはねーよ」
 
お互い一歩も譲るつもりは無い。睨み合った一瞬確かに火花が散ったが、しかし互いに掃除用具を手にした状態では様にならない。
その事に気付いたのかどうか。不意に銀八が息を吐く。
 
「それより先に、コイツどうにかしねェとな」
「…………」
 
銀八が顎でしゃくってみせたのは、当然ながら『開かずの棚』。
確かにこれをどうにかしなければ何も始まらないのだ。
時計を見れば、そろそろ頃合いか。早く終わらせたい反面、棚の中に広がる地獄絵図を二度と見たくないという思いも正直なところだ。
だが。
地獄の後には天使のようなが待っていると思えば、耐えられないこともない。かもしれない。
 
「はい、じゃあ開けてみような?」
「俺かよ……」
 
最早反論する気も起きない。
いいようにあしらわれている事を自覚しつつ、促されるままに高杉は棚の扉に手をかける。
ただただ、この想いがいつか報われる事を願って。
目の前の扉を、勢いよく開けた。



<終>



終わりです。スミマセン。中途半端でスミマセン。
書きたいもの書いてスッキリしたので、ここで終了です。
また何か書きたいネタが降って湧いたらこっそり書くかもしれませんが、その可能性は低い気が。
世間の需要は無いでしょうが、とりあえず自分の需要は満たされたので満足です。
自給自足な自家発電の自己満足ネタにお付き合いいただきまして、どうもありがとうございました。

('08.06.29 up)