君子危うきに近寄らず。
ふとそんな故事成語が、土方の思考を過ぎる。
折角の休日。面倒な事に巻き込まれるのは御免被る。
古人の教えに忠実に従い、土方は敢えて無視することにした。目が合ったのはきっと気のせいだ。
とりあえず努力はした。平穏な休日を守るべく努力はしたのだ。
しかし世の中には、努力をしたところで報われない事もある。高校生にしてそんな世知辛い悟りを開きたくはなかったが。
「無視すんなっ、風紀委員副委員長っ!!」
大声と同時に、後頭部に重い衝撃が走る。直後にバサリと物が落ちる音。何を投げつけられたかはわからない。考えたくもない。
男の矜持にかけて、倒れ込まなかっただけ上出来だ、自分で自分を褒めてやりたい―――逃げられない現実に、土方は無理矢理自身を慰めたのだった。
もってけ! セーラーふく −盛り上がり、盛り下がり−
「かよわい女子が複数の男に囲まれて困ってるのを無視して素通りするなんて、それでも風紀委員副委員長かお前は!」
かよわい女子は通行人に向かって辞書を投げつけてきたりしない。断じて。
足元に落ちていたのは、英和辞典。しかも簡易式ではない、本格的な。
図書館で勉学に励んでいたのならばともかく、がいたのは通りに面したカフェのオープンテラス。何故こんなものを休日に持ち歩いているのか疑問には思ったが、追究しない方が身のためだろう。何せ見間違いでなければは、テーブルの上に辞書だけを広げていたはずなのだから。ノートか教科書でもあれば説明はつくが、そんなものは無かったように思う。が、彼女の行動にいちいち理由など探していては身が持たない。
そのは、土方の前までやってきて仁王立ちしている。流石に休日は私服で、その服装だけならば世間一般の女子高生らしい可愛らしさも垣間見えるというのに、仁王立ちで台無しだ。実際、を取り囲んでいたと思われる男数人が、唖然とした顔つきでこちらを見ていた。女子高生がいきなり通行人に辞書を投げつければ、誰だとて現実についていけないだろう。
だがその理不尽さこそがだと、その中身を知る土方は思う。むしろその可愛らしい服装にこそ違和感を覚えずにはいられない。
「『かよわい』だァ? テメーはいつから詐欺師にな――ぅぐっ」
「女の子は女の子であるだけで『かよわい』んだから、尊び敬えコノヤロー」
かよわい女子は、ノーモーションで鳩尾に蹴りを入れてきたりはしない。断じて。
しかも傲岸不遜に「尊び敬え」などと言ってきたりはしない。未来の妻の名に賭けてもいい。
呻く土方の視界の端で、を囲んでいたらしい男らが走り去って行くのが見えた。当然だろう。いきなり通行人に蹴りを入れる女になど、誰だとて関わりたくない。土方とて関わりたくなどなかった。だから無視しようとしたのだ。その努力はまるで実らなかったが。
足元に落ちていた英和辞典を拾い上げ埃を叩きながら、は何故かその場から動こうとはしなかった。まるで土方が落ち着くのを待っているかのように。
実際、待っていたのだろう。ようやく回復した土方の腕を掴むと、有無を言わさず歩き出す。の唐突な行動に逆らう間もあればこそ、あっという間に土方はオープンテラスの椅子に押し込まれていた。そしてテーブルを挟んで向かいには。テーブルの上に辞書を開くと、飲みかけのジュースを手に取る。
「副委員長も、好きなの何でも頼めば?」
それだけ言うと、は開いた英和辞典へと目を落とす。
そんなものを見ていて何が面白いのか。しかもこんな場所で。
疑問には思ったものの、これもまた土方は追究しないことに決めた。
無視を決め込んでしまえば、やる事は一つ。先程の口振りからして、の奢りなのだろう。今日といわず、かけられた迷惑は積もり積もって日本一の山と並ぶ勢いだ。この程度は当然の酬いだ。
納得した土方は、近くのウェイトレスを呼んでアイスコーヒーを注文する。程なくして運ばれてきたアイスコーヒーを口に運んだところで、注文を促して以来口を開かなかったが、不意に顔を上げた。
「ところでこれ、副委員長の奢りだよね?」
「ぶっ!?」
思わぬ言葉に土方がアイスコーヒーを噴き出せば、「汚いなぁ」とは顔を顰める。土方のことを心配するよりもテーブルを拭くよりも先に、手にしている辞書に飛沫がかかっていないかを確かめているあたり、にとっての重要度が計れそうだ。最も、が土方のことを第一に心配するなどありえないだろうが。
英和辞典をひとしきり確認して。大丈夫だと判断したのか、隣の椅子に置いてあった鞄の中へと辞書を片付けると、代わりにポケットティッシュを取り出す。
それを使ってテーブルを拭きながら、「なんで驚いてるの?」と不思議そうな顔をは向けてくる。土方にしてみれば、本気でわからないといった感のの反応こそが不思議でならないが、そこはのことだ。きっと。
「だって男なら、女の子の分も払うのが常識でしょ?」
「テメーが無理に引っ張ってきたんだろうが!!」
きっとと言うかやはりと言うべきか。
確かに世間一般的に、男と女が食事をした場合、男が奢るというパターンが多いだろう。それは男のプライドと考え方の問題で、決して画一的なものではないのだから、当然の行為というわけではない。のだと思う。
だがこの場合は、それ以前の問題だ。無理矢理に付き合わされた人間が、何故飲食代まで払わなければならないのか。無茶苦茶な論理を展開するの思考は、今日も健在のようだ。土方をここまで引っ張ってきたのは、そのデタラメな論理に因って奢らせるためだったのか。
「副委員長のケチ。風紀委員副委員長なんだからお金持ってるくせに」
「どういう理屈だそれは」
「だって風紀委員って、町の人たちに上納金差し出させてるんでしょ? 裏社会まで牛耳っちゃってるチンピラ集団で、逆らったらトンファーで噛み殺して」
「二次元と現実を混ぜてんじゃねェェェ!!」
明らかに漫画の読みすぎだ。真剣に頭が痛くなってくる。そんな風紀委員が現実に存在していたら困るどころの話ではない。万が一存在したとしても、そんな存在に問答無用で奢らせようとするの神経がわからない。
とっととこの場を離れるに限る。貴重な休日の一時を、の存在一つで無茶苦茶にされてはたまらない。
決意し、けれどもせっかく注文してしまったアイスコーヒーは飲まなければ勿体無いと、一気に飲み干そうとした時だった。
「ところで副委員長って、あの子に告白しないの?」
「ぶはっ!!?」
前振りも何もなく斜め130度左上空くらいに方向転換した話題に、土方は盛大に噴き出した。それはもう、先程の比ではない。何せ一気に飲みかけた瞬間だったのだ。テーブルの上は勿論、にまで飛沫が飛んでいた。
瞬間、が顔色を変えたが、土方はそれに構うどころでない。げほげほと咳き込みながら、牡牛座でA型の人間の今日の運勢は最悪だったかと、今朝のテレビで流れていた占いの結果を思い出そうとしてみる。そもそも真剣に見ていたわけでもなし、記憶に残っていないのだから思い出しようがないのだが。
流石にこれはポケットティッシュでどうにかなるものではないと判断したのか。テーブルの隅に置いてあったおしぼりでまずは自分の服を、それからテーブルを拭くと、は無言のままそのおしぼりを土方の顔面に向かって投げつけてきた。べちょり、と不快な感触とコーヒーの匂いに、最悪な運勢どころではない、今日は厄日だと土方は確信する。
投げつけられたおしぼりは使えた物ではない。テーブルの端に置くと、土方は仕方なくポケットからティッシュを取り出した。街頭で配っていたものを貰った、というよりも押し付けられた物ではあったが、迷惑なティッシュ配りもたまには役に立つらしい。それにしたところで今日が厄日である事に変わりはない。
そうこうしているうちに、席を立つタイミングを外してしまった。が再度、「で、どうして告白しないの?」と問いかけてくる。唐突すぎる話題転換に、誤魔化しの言葉も何も出てきはしない。
「副委員長が告白してうまくいけば、坂田先生は私が貰えるのに」
「そっちかよ!!」
「だって。私は……私はちゃんと、告白、したもん……」
珍しくも語尾が小さくなっていくの言葉に、思わず土方は言葉を詰まらせる。
曲がりなりにもは、銀八相手に告白したのだ。結果は勿論玉砕。それでも告白は告白。当たって砕けたにしてみれば、好きな相手に告白もしない土方をもどかしく思っているのかもしれない。
しかし土方にとて言い分はある。十割方玉砕するに決まっている告白をして今の友人関係を壊すくらいならば、今のままでいいと。消極的ではあるが、それ以上の良案など浮かびはしない。
眺めているだけで満足、とは言わない。だが眺めることもできなくなるよりはマシだ。
深々と溜息を吐けば、そんな土方の心境がにも移ったのか。続けるようにもまた溜息を吐いた。
「上手くいかないよね、人生って」
「まァな」
珍しくも意見が合う。
中身が半分以下にまで減ったアイスコーヒーを、最早飲む気にはなれない。何とはなしにグラスを弄ぶ視線の先で、が自分のグラスを手に、通りへと顔を向けていた。
特に何を見ているわけでもないのだろう。その横顔はぼんやりと、けれども切なげにも見えて。こんな表情もするのかと、正直なところ土方は驚かずにはいられなかった。
遠くに投げた視線の先に、は何を見ているのだろうか。銀八の姿でも思い描いているのだろうか。
思い至った途端、何やら面白くない感情に囚われる。無視を決め込んだはずの土方を、無理矢理ここへ引っ張ってきたのはだ。それなのに今、その存在を忘れたかのように物思いに耽っている。
本当に、面白くない。
「いつまでも引き摺ってんじゃねーよ」
だからなのか。気付けば、そんな言葉が土方の口から飛び出していた。
意外な言葉に、引き戻されたようにが顔を土方へと向ける。目を瞬かせること数秒、言われた内容を理解したか、さっと顔を赤らめる。
反応からすると、やはり銀八のことを考えていたのだろう。
面白くない。まったくもって、面白くない。
「ひ、引き摺ってなんかないもん!」
「引き摺ってんだろ」
「引き摺ってないってば!」
が頑迷に否定すれば否定するほど、それは肯定の意として伝わってくる。
振られても、彼女がいることがわかっても尚、それでも好きなのか。
銀八に絡むこととなれば、も途端に年頃の女らしく女々しい―――などと表現しては性差別になるのだろうか。ともあれ、真っ当な人間臭さを感じることができる。
しかしそれを好ましいと思うかどうかは別問題。
別の視点からすれば、単に諦めが悪いだけ。いっそきっぱり諦めてしまえばいいものを。
の態度に苛立ちを覚える理由は簡単。同じだからだ、自分自身と。無駄だとわかっていても尚、諦めがつかない。視線がその姿を追ってしまう。
諦めが悪いのは土方も同じ事。それを目の前に突きつけられているようで、苛立ちを抑えることができない。
「だったら言い方変えてやろうか。未練タラタラなんだよ、テメーは」
「―――っ!!」
完全な八つ当たりだと自覚はしている。そしてその言葉はそのまま、自分にも返る言葉だ。
だから自業自得なのだろう。図星を突かれて顔色を変えたに、問答無用で物を投げつけられたのは。
額に一撃。鈍い音が骨に響き、目の前で星がちかちかと瞬いてさえ見える。
「うるさい! 繊細な乙女心はガラス細工なんだからバカ!! 副委員長なんか、アフロでボンとかひょっとこ芸人に指差されて笑われる人生を一生リピートしてればいいんだ!!!」
相変わらず捨て台詞は意味不明。
痛みに悶絶している間に、ガタガタと椅子を引く音、そして足早に去っていく音が耳に入る。
既視感を覚える状況だが、いつぞやと違うのは、が腹を立てた理由が土方にはわかっているという点である。
の性格を考えれば、物を投げつけられただけで済んでマシなのかもしれない。
自業自得とわかっていても、つい舌打ちをしてしまう。マシと思っても、それでも痛いものは痛いし、何より相手がでなければこんな目には遭わないのだ。
ようやく痛みが治まった状態で、今度は一体何を投げつけてきたのかと土方は足元に目を落とす。そこに落ちていたのは、これも既視感。というよりも先程と同じく、辞書だった。
しかし拾い上げてみると、それは国語辞典。ということはつまりは、英和辞典だけでなく国語辞典まで持ち歩いていたというわけだ。休日に。その理由については追究しまい。
埃を払い落としながら、過ぎるのは、この辞書を投げつける瞬間に見えたの表情。
涙ぐんでいたのだ。あのが。
気のせいなのかもしれないし、どちらかというとその可能性の方が高いような気もする。
しかしそれを差し引いたところで、確かに言い過ぎた。失恋の際には泣きまでした女だ。本人曰くガラス細工の心らしいが、それは極論としても多少は繊細な神経をしているのかもしれない。
何より、単なる八つ当たりだと自分自身でもわかっている。無理に引っ張られてきたものではあるが、だからと言って関係のない事で責めてもいい理由にはならない。
茶代くらいなら払ってやるか。自己嫌悪もあって、注文票を手にとり何気なくその内容に目を通す。
「……オイ。俺に全額払えってか……?」
注文票の一番下には、土方が注文したアイスコーヒー。その上にはオレンジジュース。更にその上には、ケーキだのサラダだの紅茶だのアイスクリームだのパフェだの、いくつものメニューが並んでいる。
ご丁寧にもその横に書かれた金額。それらを全部足した金額を大雑把に暗算し、土方は頭を抱えた。
そしてに対して詫びる気持ちは、財布の中身と同様、綺麗さっぱり消えてなくなったのだった。
<終>
何だか長くなりました。
あれ? これって夢小説? あれ? なんか違わね?
なんかおかしな方向に話が展開してる自覚はあります。でも勝手に話進めるんですもの、この人たち(キャラのせいにしたよ、この人)
そして、二次元世界の風紀委員についてはツッコミ不要でお願いします。スミマセン。
('08.09.10 up)
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