悪夢だ、と土方は思った。
どう考えてもそうとしか考えられない。
よりによって、あのにマウントポジションを取られているのだ。
要するに、馬乗り状態。然程苦しい訳ではないが、精神的には既に苦しい。何せフェンスの上から飛び蹴りを食らわせてくるような女だ。この位置を取られたが最後、格好の攻撃の的。一体どんな理不尽な暴力を振るってくることか。
一体どうしてこんな状況に陥る羽目になったのか。記憶を掘り起こそうとする土方をしかし遮るように、頭上からの声が落ちてきた。
 
「副委員長…あのね……」
 
呼びかける声は、いつもの喧しいだけの声とは違う、甘さと艶を含んだもの。
声だけではない。その顔もいつになく熱を帯びていて、知らず心臓がドクンと大きく脈打つ。
スッと伸ばされた手の先が、土方の頬に触れる。暴力的な中身とは裏腹に、白く細い指。そういえば蹴られること、物を投げつけられることは日常茶飯事ではあったが、その手で直に殴られたことはなかったと、今更になって土方は気付く。
頬からゆっくりと首筋へと辿る指先。首でも絞められるのではと焦ったのは一瞬、どう見てもの表情はそんな行為にそぐわない。
だからと言って何が安堵できるわけでもない。不本意な体勢は変わらない。
しかしが土方のことを慮るはずもなく、その上から退くつもりは無いようだ。
一言「退け」と言えばいいのかもしれない。それでが言うことを聞くとも思えないが。だがどういう訳か、言葉は喉の奥に張り付いたように出てこない。
焦る間に、気付けばの顔が目と鼻の先にある。潤んだ目を縁取る、長い睫毛。熱っぽい視線。濡れた口唇。桜色に染まった頬。さらりと落ちてくる前髪の擽ったさに眉根を寄せた瞬間だった。
ふわりと、重ねられた口唇。柔らかいそれは、口吻けられたのだと認識するよりも早く、あっさりと離れていく。
 
「……好き、なの」
 
何事が起こっているのか理解できない土方にまるで追い討ちをかけるかのようにの口から零れた、そんな言葉。
天変地異の前触れか、有り得ない、などと冗談にして誤魔化す余裕など土方には無かった。それ以前に、目の前で起こる出来事にまるでついていけていないのだから。
一人混乱する土方を他所に、しゅるりと衣擦れの音が響く。
引き抜かれた、セーラー服のリボン。躊躇うことなく、の手が自身のセーラー服へとかかる。
ゆっくりと露わになる白い肌。思わずごくりと唾を呑み込む。だが、やけに大きく響いたその音に、ハッと土方は我に返った。
違う。自分が好きな相手は別の少女だ。いくら色めいた仕種をされようとも。熱っぽい瞳を向けられようとも。切なげに迫られようとも。
 
―――っ、だぁぁあああっ!!!」
 
叫びながら、渾身の力でもってを押し退けて上半身を起こす。
息切れを落ち着かせてみれば、目の前にはいなかった。
そこはいつもの自分の部屋。布団の上。びっしょりとかいた寝汗が気持ち悪い。窓の外では雀が呑気に囀っている。
夢だったか、とホッとしたのも束の間。下半身に感じる違和感に、寝汗とは別の汗が伝うのを感じながら土方はそっと掛け布団を捲る。
そして。
 
「……悪夢だ」
 
夢の中でも思ったことを、呟いたのだった。
 
 
 
 
もってけ! セーラーふく −胸どっきん☆−



 
この世界は自分に優しくできてはいないと、土方はそれを朝から実感することになった。
せめて今朝くらいはの顔を見たくはなかった。遅刻常習犯とはいえ、毎日毎日遅刻してくる訳でもない。ならばと、会わずにすむ可能性に縋っていたのだが、それは脆くも崩れ去った。
は本日も堂々と遅刻し、上機嫌でフェンスの上に立っている。校則規定を無視した短いスカートが風にはためき、白い太腿がちらちらと見え隠れする。それは、夢で見たのと同じ白。
瞬間、土方はパッと視線を逸らした。
普段であれば、夢など起きた途端にその内容を忘れるはずだというのに。今朝方の夢に限っては、忘れるどころか鮮明に脳裏に焼きついている。その肌の白さも、艶めいた顔も―――少なくとも表情だけは、現実とは真逆だが。
何にせよ、後ろめたさも手伝って、とてもではないがの顔を見られる心境ではない。何故よりによってこのであんな夢を、と思わないでもないが。それでも、見てしまったものはどうしようもない。
しかしあまりにも不自然な視線の逸らし方に、疑問に思われたらしい。ストン、と軽やかに着地する音が聞こえたかと思うと、カツカツとローファーが地面を叩く音が近付いてくる。
誰か止めろよと思ったものの、いくら遅刻者とは言え、見事な飛び蹴り技の持ち主に対抗する気概を持つ風紀委員は生憎とこの場にはいなかったようだ。
 
「副委員長? どしたの? なんか変じゃない?」
 
身長差もあって、下から見上げるようにして土方の顔を覗きこんでくるの目は、心底不思議そうにぱちくりと瞬いている。
いっそ出会うのならば、今朝も何を考えるよりも先に蹴り飛ばされた方が余程マシだったと土方は考える。そうであれば少なくとも、こんな間近での顔を見ることにはならなかっただろう。
本人を前に、より鮮やかに脳裏に蘇る夢の中身。
むしろあどけないと言えそうな、目を瞬かせながらカクンと首を傾げる仕種が、より一層夢に見た姿を色めかせる。これがギャップ萌えとかいうヤツなのか、とまるで関係のない思考を巡らせ、慌てて土方は首を振る。
これではに対して「その気」があると認めているようなものだ。
土方には他に好きな相手がいるし、第一、夢の中身と朝勃ちは関係ないはずだ。朝勃ちは単なる生理現象であって、断じてで勃ったという訳ではない。断じて。
そう、懸命に自身に訴えているというのに。
 
「明らかに変なんだけど。熱でもあるの?」
 
その努力を無碍にするかのように、は何の躊躇も無く手を土方の額へと当ててくる。
勿論、は土方の懊悩など知る由も無い。ただ熱を測ろうと、何の気なしに手を伸ばしただけだ。
冷静に考えればその程度の事は土方にもわかる。しかしこの時の土方に、冷静さなど欠片も存在していなかった。
それは夢で見たのと同じ、白く細い指。暴力を振るう事などまるで知らないかのような華奢な手。それが今、土方の額に触れている。その手がそのまま顔の輪郭を辿り、頬に、首筋にと触れてくる―――瞬間、そんな錯覚に襲われ。
カッと身体が熱くなるのを悟られたくなくて、土方は咄嗟にの手を振り払ってしまった。
それが失敗だったと気付いたのは、目の前のの顔色がさっと変わったのを目にしてからだった。
にしてみれば、どういう風の吹き回しだかわからないが、純粋に心配しての行為だったのだろう。それをこんな風に拒絶されては、でなくても腹を立てるに決まっている。
そして相手がなのだから、腹を立てるだけで済むはずがない。
 
「わ。悪―――ぃっ!?」
 
しかし可及的速やかなる謝罪の言葉が終わるよりも先に、土方の側頭部を衝撃が襲った。
感触からしてが鞄を振り回したのだろうが、それを把握できたのは後になってから。この時はそれと理解するよりも先に、続け様に鳩尾に蹴りを入れられる。
頭部と腹部と。両方の痛みに耐えかねて思わず蹲る土方に、止めとばかりにの容赦無い蹴りが加えられた。
 
「どうせ私じゃない子に心配されたかったんでしょ! 副委員長なんか一生童貞の魔法使いになってればいいんだ!!」
 
仮にも女が「童貞」とか口にするなと言ってやりたかったが、それどころではない。
痛みで呻くしかできない土方を尻目に、はスタスタと昇降口へと向かっていってしまった。やはりと言うか、それを止める風紀委員はこの場にいない。なんとも意気地がない事だが、それを責める気力も土方には無かった。
 
「今のは明らかに、土方さんが悪いですぜィ」
「……うるせー」
 
そんなことはわかっている。だが、他人から、しかも沖田から指摘されると腹立たしい。
確かに今日に限っては、土方に全面的に非がある。それは認めよう。だが、かと言ってここまでされる謂れも無いはずだ。
恨むべくはか、それとも自分か。何故あんな夢を見てしまったのか、土方自身にもわからないが。
痛みと、そして一体誰にぶつければよいのかわからない恨み辛みを胸中で持て余しながら土方は、ホームルームの始まりを告げるチャイムを聞いたのだった。



<終>



ぶっちゃけ、前半が書きたかっただけとも言います。
副委員長だって健全な男子高校生ですもんね☆(ヲイ

('09.05.25 up)