高校教師 〜冬の朝の空の下で〜
吐く息が真っ白。
風を切ってすぐ横を走り抜けていった自転車が冷たい空気を揺らして、思わず身震いしてしまう。
いつもなら私も自転車で走り抜けていくんだけど。
昨日の帰り道の途中で、自転車のチェーンが外れちゃったから。
時間も遅かったし、今日は今日で朝から直してる時間なんか無いし、で。
だから今日だけ、電車を使って。駅から学校までは歩き。
あとどれくらいで学校に着くかな。
時計を見ると、予鈴まであと30分。ここから自転車なら学校まで5分ちょっと。歩きなら……15分くらい?
わからないけど、それでも30分もあるから大丈夫だよね。
でも時間とは関係なく寒いから、私は早足で歩く。
もう少しで信号のある交差点。ここで引っ掛かっちゃうと、寒い中でずっと待ってなくちゃいけないから嫌なんだけど。
そして皆それが嫌で、信号無視して渡っちゃったり。車もそんなにたくさん走ってる訳じゃないし。
早足で歩きながら、もし赤信号でも車が来てなかったら渡っちゃおうかな、なんてちらりと思う。
もちろん、それが悪いコトだってわかってるんだけど。
わかってても、寒いのはもっと嫌で。
それに皆、渡ってるし。
赤信号、皆で渡れば怖くない。
なんて駄目な五七五なんだろう。
だけど間違ってるのは承知の上で、それでもその五七五を理由にしてしまう私がいるし、他の皆だってきっとそう。
だから今日も―――
「あれ? 先生?」
「お、じゃん。おはよーさん」
自転車はどうしたって聞かれて、チェーンが外れちゃったって答える。
信号のある交差点。車が来てないし、いつもなら皆赤信号を無視して渡っちゃうところなのに。
だけど今日はどういう訳だか先生が―――銀ちゃんが、だるそうにして交差点の手前に立っていた。横断用の黄色い旗を片手に、もう片手は白衣のポケットに突っ込んで。
先生がいるから、流石に皆今日は信号無視できないんだろうな。
大人しく横断歩道の前で信号が変わるのを待ちながら、皆寒そうに手を擦ったり身体を揺らしたりしてる。
だけどこの中で一番寒そうなのは……
「先生。寒くない?」
「さみーよ。寒すぎて頭ん中まで凍結しそうだよ、先生は」
それなら上に何か羽織ってきたらよかったのに。
銀ちゃんの格好は、いつも授業する時とまったく同じ。シャツの上に白衣羽織って、それだけ。
見てる私の方が寒いよ、そんなの。
そう言ったら「しゃーねェだろ。俺こういうキャラなんだし」なんてよくわからない答えが返ってきただけだった。
まだ信号は変わらない。もうそろそろ青になる頃だとは思うんだけどな。
「でも、どうして今日は先生がここに立ってるの? 何かあったの?」
「んー。まぁ、アレだよ。交通安全運動の一環ってヤツ」
「先生も大変だねぇ」
「ってのは建前で、学生が信号無視しまくって危険でしゃーないって近所の住民から苦情が来てさ。で、お目付け役として教師がここに立つことになったワケ」
……う。
「まァはいい子だし? 信号無視なんかしてねェと思うけどな?」
「…………ごめんなさい」
銀ちゃんが私のこといい子って言ってくれるのは嬉しいし、信じてくれてるのも嬉しいんだけど。
だからこそ余計に悪い気がして、思わず謝っちゃった。
きっと黙ってたら銀ちゃん、何も言わなかったと思うんだけど。
でも私が謝ったことで、いつもは信号無視してるんだってこと、銀ちゃんにもわかったらしい。
「マジでか。あー。なんか俺、カエサルな気分」
「え?」
「ブルータス、お前もか! ってコト」
シェイクスピア読んどけよ、なんて、こういうところはちゃんと先生なんだなぁって思う。
今日のお昼休みにシェイクスピアの本、図書館で探してみようかな。
そんなことを考えてる間に、やっと信号が青に変わった。
動き出した自転車に、じゃあ私も、って歩き出したところで。
ぐいと、腕が後ろに引かれた。
「先生?」
「いつも信号無視してる罰な。しばらくここで立ってなさい」
「なんで私だけ!?」
他の皆だっていつもは信号無視してるのに!
そう言ってみても、銀ちゃんは知らん顔。私の腕を離そうとしてくれない。
それどころか、右手の手袋を取り上げられて。手袋はそのまま、右手だけ銀ちゃんの白衣のポケットに押し込まれてしまった。
ポケットの中は意外にも温かくて、カイロ入ってるんだ、って思った次の瞬間。
「あー。やっぱの手は温かいわ」
「せ、先生!?」
同じポケットに入ってきたのは、銀ちゃんの左手。
カイロ触って暖まろうとしてた私の手を握ると、人心地ついたみたいに息を吐いた。
銀ちゃんの息も真っ白。今日は寒いから、だからこんなカイロ一つで暖まることなんてできないし、確かに手を握ったら温かいけどそれはそれだけだし、それに、それに……!!
「あーっ! 先生セクハラしてるーっ!!」
途端、ドキンと跳ね上がる心臓。
だって。だって皆に見られちゃうのに、こんなことしてたら……!!
だけど銀ちゃんは全く気にしてないどころか、逆に私の手をぎゅっと握り締めてくる。もう片方の手に持った黄色い旗を適当に振りながら。「セクハラされたくなかったら信号無視すんじゃねーぞ」って。
言われた女の子達は、笑いながら自転車をこいでく。後から来るみんなも。尽く、セクハラだ、セクハラだって。
…………えーと。
「先生。みんなセクハラだって、これ」
「……にしか見えねェらしいな」
何だか銀ちゃんが落ち込んでるように見えるのは、気のせいなんかじゃないかもしれない。
最初は笑って受け流して、「誰も怪しんだりしねェだろ?」って余裕ぶってたのに。もう何人に指摘されたんだろう。セクハラだって。
段々と表情が引き攣ってく銀ちゃんが、ちょっとだけ可哀想になっちゃうくらい。
私としては、私と銀ちゃんの関係を下手に怪しまれるよりはよっぽどいいんだけど。それでも複雑な気分。セクハラって、セクハラって……うん。やっぱりセクハラなのかなぁ、これ。
「普通に考えたら、セクハラ以外の何物でもないよね。これ」
「まで!!」
「だから、銀ちゃんじゃなきゃさせないもん。こんなこと……」
他の先生にこんなことされたらどうしただろう。
考えてみようとして、だけど考えるまでもなくそんな事は絶対にイヤだ、って思えたけど。
だけど銀ちゃんだから。見られたら困るとは思ったけど、だけど、イヤじゃなかったから。
他の子たちに聞かれないように小声で呟いて、銀ちゃんの手をぎゅっと握り返す。
皆の前で、こっそりではあるけど、銀ちゃんと手を繋いで。恥ずかしいようなくすぐったいような、でも何だか嬉しいような。そんな、色んなものが入り混じった思いを込めて。
その声が銀ちゃんに届いたかはわからないけど。
繋いだ手が温かいから。もうちょっとだけこうしていたいな、なんて。そんなことを考えちゃった、冬の朝の出来事。
<終>
去年の冬の終わりに書きかけて放置してたものを発掘しました。
……あー。とりあえず、日の目を見られて良かった、のか?
冬まで保留しておこうかとも思ったんですが、その頃にはまたどこかに埋没してるかな、とか何とか(笑)
('08.11.1 up)
|