その日、携帯電話に届いたメールの文面は、彼女にしてはあまりにも簡潔なものだった。
『14日、銀ちゃんの部屋に行ってもいい?』
断る理由など、銀八には微塵たりとて存在しなかった。
バレンタイン狂想曲
ドアチャイムの音に玄関の扉を開ければ、そこにはいつになく緊張した面持ちのが立っていた。
無理に浮かべたような強張った笑みは、彼女には全くもって似つかわしくないと銀八は思う。の本来の笑顔はもっと、ふんわりと柔らかで可愛らしく無邪気で可憐で花のようで、見る者全てをうっとりとさせるものだ。これは恋人としての贔屓目による誇張表現などではない。断じて。
それはさておいて、やってきたの用件は何か。聞かずとも今日の日付を考えれば瞭然。
2月14日。バレンタイン・デー。
携えている小さな紙袋の中身はきっと、チョコレートなのだろう。何せ恋人なのだから。チョコレートでないにしても、バレンタインの贈り物であることは確かだ。もし違っていたら泣きそうだ。
だが現実は、そこまで無慈悲ではなかったらしい。
「あ、あのね。これ……銀ちゃん、に……」
バレンタインだから、と。
玄関先に立ったまま押し付けるように紙袋を差し出してくるのその顔は、耳まで赤く染まっている。
その赤みが寒さのせいによるものばかりではないだろうとは、銀八の自惚れではないはずだ。
付き合いだして、もうどれほど経っているのか。バレンタインのチョコにしたところで、恋人になってからは初めてだが、幼い頃は毎年贈ってくれていたというのに。
今更になってのこの態度。つられるように銀八までもが妙な緊張感を覚えてしまう。
ああもう。甘酸っぱい十代の青春時代など、とうの昔に通り過ぎてしまった、擦れた大人だというのに。だが恋人はまさにその甘酸っぱい青春時代真っ只中。引き摺り込まれてしまうのは、それだけ銀八の中での占める部分が大きいからなのだろうか。
必死とも呼べる表情で伸ばされたその腕は、微かに震えている。
そんなに緊張しなくとも、銀八がからのプレゼントを拒絶することなどありえないと言うのに。
だが、この年の離れた恋人はいつだって不安の光をその瞳に浮かべているのだ。何の躊躇も無く銀八を信じきって真っ直ぐに見つめてきた瞳は一体どこへ行ってしまったのか、昔が少しばかり懐かしくなる。
それでもは。昔も今も、変わらない部分は確かにある。
「ありがとな」とただ一言の礼にさえ、本当に嬉しそうな笑顔を浮かべるところなど、その最たる部分だ。
受け取ってみれば、小さな紙袋から微かに漂う甘ったるい香り。十中八九、中身はチョコレートだろう。自他共に認める病的なまでの甘党は、微かな匂いからそれを確信する。
できることならば今すぐにでも開封したい衝動を何とか堪え、銀八は身を引く。それは部屋へ上がれという無言の促し。
恋人からのバレンタインチョコにがっつくなど、大人の男としての自尊心が許さない。一秒でも早く中身を見たいと胸の内で暴れる性急な感情を抑え込み、まずは年下の恋人をエスコート。茶を出して談笑しながらプレゼントを開封、雰囲気が高まったところであわよくばそのままベッドへ―――
などと脳内で瞬時に立てられた計画は、しかしものの一瞬で砕け散る事となった。
「じゃ、じゃあ! 私、帰るね!!」
引き止める間もあらばこそ。
嘗て無いほどの俊敏さでもってはくるりと回れ右すると、パタパタと駆けていってしまった。
銀八が我に返った時はもう遅い。その素早さはいっそ感心するほど、普段からそれだけ俊敏に動くことができれば、鈍いだのトロいだのと周囲にからかわれて不貞腐れることもないだろうに。
今この瞬間にはあまり関係の無いことを考えつつ、さてどうすべきかと銀八は思案する。
おそらく今からでも追いかければ、を捕まえることは然程難しいことではないだろう。捕まえて、無理矢理にでも部屋に連れ込むことは簡単。だがが逃げ出した理由によっては逆効果もありうる。単に恥ずかしさのあまりの行為ならばともかく、決してそれだけとは限らない。女心は複雑怪奇、それが年下の十代の少女となれば尚更だ。下手をすれば会話の成立すら危うい世代なのだ。その思考回路は銀八の考え及ぶところではない。
逡巡は束の間。諦めの篭った溜息を盛大に吐いて、銀八は部屋の中へと戻った。
自分から逃げ出したのだ。後から「なんで追いかけてこなかったの?」などと怒られる謂れはないはずだ。世間にはそんな理不尽な女が掃いて捨てるほどいるようだが、少なくともは違う。そこまで理不尽ではない。
せっかくのバレンタインデー。恋人達のための日、などと行事に踊らされるのは癪だが、それでも無意識にでもと二人きり甘やかな一日を過ごせることを根拠無く信じていたことに今更ながらに気付く。途端、期待を裏切られた故の落胆を感じると同時、そんな自身に銀八は苦笑する。自分はこの程度で一喜一憂するようなキャラだったろうか。まぁでも相手がだからソレも有りなのだろう。
まだ十代の青春真っ盛りな恋人に振り回されている事実を実感しつつ、けれどそれが決して不快ではないのは、それだけの存在にハマりこんでしまっているからなのか。生まれた時から見てきたくせに、未だに抜け出せる気配が無い。抜け出す気が無いことも原因だろうが。
その点に関しては諦めの境地。今はそんな問答よりも、からのバレンタインのチョコレートの方が重要だ。
恋人になって、初めてのバレンタイン。女が男に告白する日。それが菓子業界の陰謀の末の認識だろうとも、世間一般ではそれが常識として罷り通っている。
故に恋人にチョコレートを渡すことは、「好きだ。愛している」と口にしているのも同義。甘い言葉の代わりに、甘い甘いチョコレートを。普段なかなかそんなことを口に出してくれないなのだから、チョコレート一つ渡すだけでも勇気を振り絞ったに違いない。幼い頃の義理チョコとは訳が違うのだ。
そう思えば愛しさを覚える反面、やはりその口で愛の言葉を紡いでほしかったという思いも少なからずある。内気で恥ずかしがりな恋人は、滅多にその言葉を口にしてくれないのだから。
紙袋を弄びながら、の思いを推し量ってみる。おそらくそれは無駄な行為。手の内にある重さで何がわかるというのか。きっと自身わかっていないだろう。或いは幼い頃の憧れの延長上に過ぎないのかもしれない、その想いの深さを。
「まァ、そこにつけ込む俺も大概ヤな大人だよなァ」
との年の差の分だけ、狡猾さも身についてしまった。利用できるものは何であれ利用すればいい。狡かろうとも卑怯だろうとも、目的のためならば手段は選ばないとは、まさにこの事だ。
現に今、紙袋を開封して中身を取り出しながらも、が逃げ出した事も含めてこれをどう利用すれば一番効果的か、そんな事を考えている。
素直に喜ぶだけならば可愛いもの。だが可愛いだけの人間には自分はなれそうにもないし、そんな自分を想像するだけで吐き気がしそうだ。
紙袋から出てきたのは、赤いリボンでラッピングされた桜色の箱。店名がどこにも記載されていないところを見ると、どうやらこれはが自分でラッピングしたものらしい。ならば、この中身もの手作りだろうか。
年甲斐も無く跳ねる心臓に落ち着くよう言い聞かせながら、シュル、とリボンを解く。呆気なく解けるリボン。呆気なく開く箱。その呆気なさに反比例するかのような高揚感。ああ本当に年甲斐も無い。こうなると、に逃げられて正解だったのかもしれない。いくらポーカーフェイスを取り繕おうとしたところで成功したかどうかはわからない。チョコ一つで狂喜乱舞する様など、年下の少女に見られたいものではない。これでも大人の男という矜持があるのだ。
けれども予想は半分当たって半分外れ。
手作りのチョコ、は間違いない。綺麗に並べられているのは一口大の丸いチョコレート。数はわからない。行儀良く並んだチョコレートの上に、予想外のものが鎮座していたからだ。箱と同じ淡い桜色の、小さな封筒。
その封筒を取り上げてみれば、封はされていなかった。折り曲げられただけの口を開いて中から取り出したのは、やはり桜色の小さな便箋。メモ用紙と一筆箋の中間のような、そんな紙。
可愛らしいその便箋には、やはり可愛らしい文字が小さく並んでいる。何につけても可愛らしいと思えてしまうのは恋人の欲目なのだろうか。だとすれば重症だ。苦笑しながら文字を追った銀八は、しかしすぐに笑う余裕すら失うこととなった。
幾度も文字を追い、反芻し、思い返し、思い出し―――そして、顔に熱が篭るのを自覚する。
―――が逃げ出してくれて良かったと、心底から思う。
ああでも、これはが逃げ出すのも納得かもしれない。銀八が辿り着いた結論が、の意図と一致しているのならば、ではあるが。だが他にどんな意味がこの言葉に含まれているのか、銀八にはまるで見当がつかない。
或いはそれは自分に都合のいい選択肢を選んでいるだけなのかもしれないが。
それにしたところで、こんな意味深なメッセージを送ってくる方が悪いのだと、逆ギレにも近い心境になる。
ただでさえ恥ずかしがり屋のだ。こんなメッセージを忍ばせておきながら、目の前で読み上げられたら卒倒してしまうかもしれない。だから逃げた。銀八にしたところで、卒倒までは至らないものの、を前にして醜態を晒す羽目になっていただろう。
大人の余裕。そんなもの、勢いで行動する若さの前には無意味だ。そうだろう。イベントに乗じてテンション高く、ついうっかり書いてしまったのかもしれないメッセージ。普段のならば考えられない。
イヤでも待てよ。この遠回し加減はらしいと言えばらしいのかもしれない。そう銀八は思い直す。どこまでも遠回し。直球では来てくれない。これで意味を取り違えていたら悲劇を通り越して滑稽極まりない喜劇だ。
他の意味を探ろうと、再び便箋に目を落とす。だが何度読み返しても、他の意味は読み取れない。あまりにも都合のいい解釈ができたものだから、他の可能性に無意識に目を瞑っているのかもしれないが。
小さく小さく遠慮がちな文字は、それでもチョコレートを押し退けて存在していたのだ。
『昔の約束、まだ有効ですか?』
愛の告白を軽やかに飛び越えて突きつけられたのは、昔交わした、他愛も無く幼い口約束―――
<To be Continued...>
ホワイトデーに続きます。でもホワイトデーって卒業式の後ですよね。
……そのあたりは無視しても良いですか? 良いですね?(ヲイ
余裕ぶろうとして結局余裕なんて持ててない先生が好きです。
('09.02.15 up)
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