大学受験は滞りなく終了。
高校の卒業式も無事に迎えて。
大学からの合格通知も受け取って。
『3月14日15時、駅までおいで』
それから受け取ったのは、とてもとても簡潔なメール―――
ホワイトデー夢想曲
待ち合わせの駅に着いたのは、約束の時間5分前。いつだって理想的な5分前行動に、はこっそりと満足する。
けれどもそれよりも早く銀八は来ている。男が女を待つのは当たり前だと口にしたその言葉通り、銀八と待ち合わせをして待たされたという事がにはこれまで一度たりとて無い。
だからこそは、待ち合わせをする時は必ず5分前に到着するようにしているのだ。一度でも時間より早く着いてしまえば、銀八は次の待ち合わせから更に早く来てしまうだろう。逆に遅れるのは勿論余計に待たせることになるから申し訳ない。いつもきっかり5分前に到着していれば、銀八はそれに合わせて来るだろうし、無駄に長い時間待たせる事にならないだろう。多分。
『多分』と付くのは、そんな事を銀八には言っていないからだ。言ったところで「はそんなコト気にしなくていーの」と笑われるだけに決まっている。年上の恋人に甘やかされている自覚のある身としては、それでもやはり、あまり気を遣わせたくないのだ。恋人なのだから、少しくらい対等にありたいと―――結局自己満足に過ぎない、5分前行動なのだけれども。第一、銀八が一体何分前から待っているのかわからないのだから、自己満足の結果が果たして現れているのかどうかもにはわからない。だからこれは本当に、自己満足。
「お待たせ、銀ちゃん!」
「ん。今日もちゃんと5分前行動だな」
偉い偉い、と頭をくしゃりと撫でられて、思わずの頬が緩む。
完全に子供扱いされている行為に落ち込みたくなる事もあるが、やはりこうして触れてもらえるのはそれだけで嬉しい。何より、褒めてもらえたのが無条件に嬉しくてならない。単純だなと自覚しても、緩む頬は抑えられない。
「じゃ、行くか」
「うん」
が頷くのを待って、頭上に乗せられていた手が、今度はの手を絡め取る。壊れ物を扱うかのように優しい手は、幼い頃に繋いでいた時と変わらず大きくて、力強い。その温かな手が好きだと思うと同時、いつまで経っても縮まらない年の差を感じて切なくなるなんて、贅沢な悩みなのだろうか。
そんな思いを振り切って「どこに行くの?」と聞けば、「秘密」と悪戯っぽい笑みを返される。
時間が時間だ。駅で待ち合わせをした事を考えると電車に乗って行くような場所なのだろうが、それでもそう遠い場所が目的地ではなさそうだ。
案の定、駅の中へと手を引かれる。程なくしてホームに滑り込んできた電車へと乗り込んで、本当にどこへ行くのだろうとは首を傾げる。けれどもたとえ可愛らしくおねだりしてみたところで、きっと銀八は教えてくれないに違いない。そもそも『可愛らしいおねだり』などできもしないが。
上目遣いで「銀ちゃん、お願い」と瞳を潤ませれば、銀八は一も二も無く大概の事に頷いてしまうという事実には本人はまるで気付いていない。
窓の外を走っていく風景を何とはなしに眺めていると、「そうだ」と唐突に銀八が小さな紙袋を渡してきた。
「バレンタインのお返しな、コレ」
「あ……う、うん。あ、ありがと……」
何の気負いも無く手渡されたそれに、の胸がドキリと高鳴る。
バレンタインデー。渡したチョコレートと一緒に潜ませていた言葉の意味に、銀八は気付いてくれたのだろうか。
あれから一ヶ月。何の反応も無いまま、大学受験に高校の卒業式と、の周囲は慌しく過ぎていった。忘れていたわけではない。けれども、おそらく気付いてもらえなかったのだろうとは諦めていた―――幼いばかりの子供がねだるようにして指切りをした、遠い日の約束など。
気付いてもらえたとしても、それはそれでとても恥ずかしいのだけれども。
そもそも『約束』と一口に言っても、幼い頃にどれほどの約束を銀八と交わしたことか。公園に行くことだとか、絵本を読んでもらうことだとか。細かいものまで数え上げたらキリが無い。その中からたった一つの『約束』を思い出してほしいなどとは、虫の良い考えだったのだろう。
安心したような、残念なような。複雑な思いを胸に、どれほど電車に揺られただろう。それほど遠い場所には行かないだろうという予想は外れ。気付けば窓の外は仄かに橙色に染まり始めている。
本当にどこに行くのだろうともう一度問いかけようとしただったが、しかしそれよりも先に耳に入ったのは、次の停車駅を告げる車内アナウンス。聞き覚えのあるその駅名に、問い質すよりも疑念が湧いた。
「銀ちゃん?」
「あー……わかったか?」
それは、昔住んでいた街の駅。まだ幼くて、そして隣の家には銀八がいた。が引っ越す事になるまで、生まれてからずっとずっと傍にいてくれた、そんな街。
けれども到着した駅の改札を通り抜けても、懐かしさは不思議と込み上げてこなかった。こんなところだったろうかと首を傾げてしまう。もう記憶が曖昧になっているのかと思いきや「駅前開発とかで変わったからなァ。全然わかんねェだろ?」と銀八が笑いながら言う。道理でと納得したものの、仮に昔どおりだったとしても覚えていたかどうかはには自信が無かった。
だからは手を引かれるまま、大人しく銀八についていく。最早見知らぬ街と化してしまった、かつて住んでいた場所。万が一にでも銀八とはぐれてしまったら、自力で帰れるかどうかも危うい。
情けなさを覚えつつも歩いていく内に、いつしか周囲の景色がどこか懐かしいものに変わっていく。それは漠然とした記憶でしかなかったけれども、それでも頭の片隅に確かに残っている。それは10年以上前の、小学校に上がる前の記憶。それでも、毎日毎日通っていたのだから―――
「この公園……」
「覚えてるか? そりゃ毎日ここで遊んでたもんな、は」
笑いながら懐かしむように言う銀八に、は無言で頷く。
そう。毎日毎日通っていた公園。家の近所にも公園はあった。ただ遊びたいだけならば、そこで構わなかった。けれどもは、幼稚園から帰ってくると必ずこの駅近くの公園まで歩いてきたのだ。決して短い道のりではなかったと言うのに。
遊びたい遊具がここにしか無かった訳ではない。それでもこの公園には、にとっての『特別』が確かに存在していたのだ。
「……今の道」
「ん?」
「銀ちゃん、いつも今の道通って帰ってきたから。だから私、ここで銀ちゃん待ってたの」
ここで遊んでいれば、夕暮れ時、学校帰りの銀八が必ずのことを呼んでくれる。遊んでくれる。それが嬉しくて。ただそれだけのために、は毎日この公園まで通っていたのだ。
今まで誰にも話したことのなかった、小さな子供の小さな秘密。ポロリと口に零してしまったのは、柔らかな橙色のせいだろうか。ここだけ鮮やかに記憶に残っていた公園。昔と変わらない夕焼け。まるであの頃にタイムスリップしてしまったかのような。
の言葉が予想外だったのか、呆気に取られたように銀八が目を見開いている。いつもの死んだ魚のような目が見せたそんな表情に、はおかしくてついくすりと笑ってしまった。これが見られたなら、秘密を漏らした甲斐があったと言うものだ。
懐かしむように周囲を見回してみる。すべり台やブランコ、鉄棒―――色鮮やかにペンキで塗り上げられたそれらは、きっと何度も塗り直されたのだろう。それでも配置はそのままに。
幼い頃はもっと広いと思っていたこの公園。いつもいつもはここで銀八の帰りを待っていた。一緒に遊んでくれるのを楽しみにしていたのだ。幼いにとって隣に住むお兄ちゃんは絶対的な存在で、世界の中心で、それで―――
「……どうしてこの公園に連れて来てくれたの?」
ただの酔狂、気紛れであるはずがない。
今日。ホワイトデー。バレンタインデーの返事。チョコレートと一緒に伝えた言葉。
まさか、と思う。
約束なんて幾つもした。この公園で交わした約束だとて、それこそ幾つあるかわからない。
けれどもの脳裏に浮かぶ約束は、たった一つ。こんな夕暮れ時に指切りをして。そして。
「バレンタインの返事。さっきあげた袋の中身、見てみ?」
促され、は慌てて袋の口を開ける。
中に入っていたのは小さな箱。過剰包装にもどかしく思えば思うほど、なかなかそのラッピングを解く事ができない。
幼い頃の約束。それに対する返事。そして、掌に乗るような大きさの小箱。予想してしまう中身に、まさかと思いながらも、それでも高鳴る胸は抑えられない。
震える手でようやく開けた箱。その中から現れた物に、は小さく息を呑んだ。予想通りと言えば予想通り。けれどもこれほどまでに都合よく事が運んでいいものなのか。
恐る恐る銀八へと目を向けると、顔が赤いように見えた。きっと夕焼けのせいばかりではないだろうと、にもわかる。自身、頬も胸も熱い。手も脚も震えて、何を考えて何を口にしていいのかもわからなくてどうにかなってしまいそうだ。
「やくそく」
震える声で、ポツリと呟く。
考えて出た言葉ではなかった。多分、これが夢や冗談などではないと確認したかったのだ。
後から考えてみればきっとそんな理由だったのだろう。だがこの時のは、ただただ、訳もわからないままに必死だった。
必死で、言葉を紡いでいた。
「約束、もう一回……ちゃんと、して…いい?」
『銀ちゃん、あのね! ね!』
「わ、私……私を」
『ね、大きくなったら銀ちゃんのおよめさんになりたいの!』
「私を、銀ちゃんの……お嫁さんに、してください」
幼い頃。銀八こそが世界の全てだったあの頃。そんな子供の言葉に銀八は笑って頷いて、そして夕暮れ時の公園で指切りをしてくれたのだ。
そして今。呆然としている銀八を、じっとは見つめていた。まるで全身が心臓になってしまったかのようにドキンドキンと身体中が脈打っている。
昔の自分は何の躊躇いも無く口に出来たはずの言葉。いつから口に出せなくなったのだろう。
返事が早く欲しいのに、それを促すこともできない。ただ見つめる事しかできず、緊張で震える膝がそろそろ限界を訴えてきている。
耐え切れずにガクンと膝が折れるよりも早く、その身体がふわりと抱きしめられた。
「俺がのお願い断れるワケねェだろ……ったく、何だってそんなに可愛いんだよ」
耳元にかかる苦笑混じりの言葉に、鼓動が更に跳ね上がる。本当にこのままどうにかなってしまうのではないかと、心配になるほどだ。
抱きしめられて、昔のように背中を撫でられて。それでも鼓動は治まらない。
「約束、な。じゃあ指切り……っつってもなァ」
「銀ちゃん?」
「やっぱこっちだろ、この場合は」
もうガキじゃねェんだし、と銀八はが手にしたままだった箱を取り上げ、その中に収まっていた物を手に取る。
銀八の言わんとしていることがわかったも、頬を染め嬉しそうに笑う。
幼い頃の約束。今、同じ場所で誓いましょう。この指輪に。
<終>
何か、アレですね。
このシリーズが終わるかのような締め方ですね(笑)
そんなコトは無いはずなんですが、終わってもいいような感じだよ、コレは……
('09.03.13 up)
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