「どうしよう……」

ぽつりと呟いた言葉に、当然ながら返ってくる言葉はない。
この部屋には自分以外の誰もいないのだから。
それでも、知らず零れてしまう言葉。
自室のベッドの上に座り込んで。涙だけは堪えようと、腕の中のぬいぐるみをぎゅっと抱き締める。
柔らかな感触が心地好い。だがそれはそれだけのことで、不安が拭い去られるわけではない。
堪えきれず、とうとう涙が零れ落ちる。一度零れてしまえば、あとは堰を切ったかのように溢れ出して止まることを知らない。

「どうしよう……どうしよ…銀ちゃん…銀、ちゃん…っ」

ぽろぽろと涙を溢して、はただその名を呼び続ける。まるで他に縋るものがないかのように―――




高校教師 〜まずは落ち着け 話はそれから〜




頬に当たる風が心地好い。
先生が授業をサボってここに来る気持ちがちょっとわかるかな、と手すりに手を置いては目を細める。
しかしそれも束の間。すぐにその顔は不安げに歪む。
学校には来てみたものの、とてもではないが呑気に授業を受けていられる心境ではない。聞いていても、まるで頭に入ってこない。
それでも皆の前では何でもない振りをして。
昼休み。とうとう誤魔化すことにも疲れて、屋上へと一人でやってきたのだ。
本来ならば立ち入り禁止になっているこの場所に、生徒が来ることはあまりない。ついでに言えば、教師がやってくることも滅多にない。
故に、普段は施錠されている屋上の扉。
しかし何事にも例外は存在する。この屋上の鍵を持っている人間をは知っている。そして彼は、教師でありながら授業をサボってよく屋上へとやってくるのだ。
もしかして、と思えば案の定。午前中にでもサボったのか、屋上へと続く扉の鍵は開きっぱなしになっていた。おそらく午後もサボるつもりで鍵をかけなかったのだろう。
それが今のにはありがたかった。
誰もいない屋上に一人。何の解決にもならないことを承知で、は重い溜息を吐く。
昼休みが終わるまで屋上にいれば、少しは気が紛れるだろうか。
あまりそんな気はしなかったが、少なくとも今は教室に戻る気分ではない。
眼下の校庭では、男子生徒らがサッカーをやっている。楽しそうな彼らに比べて自分は…と思ったら何やら悲しくなってしまい、再度溜息を吐いてしまった。

「な〜に辛気くせェ溜息なんか吐いてんだ?」

突然背後からかけられた声に、はビクリと肩を跳ねさせる。
立ち入り禁止の屋上。振り向けばそこに立っていたのは、当然と言えば当然なのか、サボり魔であり鍵の持ち主でもある銀八だった。
「屋上は立ち入り禁止だろ?」とまるで説得力のない言葉をおざなりに口に乗せ、それで教師としての役目は終わったとでも言うように銀八はそれ以上の事は言わなかった。
代わりに、頭の上にポンと手が置かれる。
ただそれだけで、銀八がそれ以上聞いてくることはない。が一人で屋上に来るなど普通ではないとわかっているだろうに、それでも何も言わない。
けれども、頭に乗せられた温かく大きな手が、心を占める不安をゆっくりと溶かしてくれるようで。
気が緩むと同時、堪えていたものがポロリと零れ出してしまった。

!?」
「銀ちゃ…どうしよ……どうしよう、私……」

いきなり泣き出したに銀八は流石に慌てふためく。にしても銀八を困らせたい訳ではないのだが、止めようと思って止まる涙ならば苦労は無い。
堰を切ったかのように溢れる涙を止めることもできず泣きじゃくっていると、不意に抱き寄せられる。
そのまま、宥めるように背中を撫でてくれる大きな手と、身体全体に感じる体温が心地好く、溢れるばかりだった感情が次第に落ち着いてくるのをは感じた。
だが今度は、別の不安が込み上げてくる。落ち着いたことで、自分がしなければならないことはわかったが、しかしそれを受け入れてもらえるのか。
けれども、ただ泣いているだけでは何も解決しないことは確かだ。
落ち着くように、一つ深呼吸をする。
微かに鼻腔を擽る煙草の匂いに、縋るようにして目の前の白衣をぎゅっと掴んだ。皺にしちゃうな、とそんなことを頭の片隅でやけに冷静に考えながら。

「…………こない、の」
「何が?」
「……生理」

途端、の背中を撫でていた銀八の手がピタリと止まる。
言ってしまった、とはまたもや泣きたくなってしまった。突き放されたらどうしよう、拒絶されたらどうしようと、そんな不安を抱いて身を置く沈黙は、やけに長く感じられ。居たたまれなくなっていっそ逃げ出したくなった時だった。

「やっぱ俺、殴られんのかなァ」
「え?」

銀八が漏らした言葉と今の状況が繋がるとは思えず、は顔を上げる。
だが、次の瞬間にはきつく抱き締められ、小さな悲鳴を上げた。

「銀ちゃん?」
「だってよ。くださいっつって、更にデキちゃいました、なんて報告したら、普通は殴られんじゃね?」
「く、ください、って…」
「決まってんじゃん。俺のお嫁さんに」

何でもないことのように口にされた言葉に、涙も引っ込んでしまう。悩みも不安も、今だけは消え去っている。今のの脳内を占めるのは、ただただ驚愕と混乱、そして「お嫁さん」という言葉だ。
何かを口にしようにも、パクパクと口を開くだけで言葉は何も出てこない。そもそも何を言えば良いかもわからない。
その間にも銀八は一人勝手に話を進めていく。「スーツ、クリーニングに出す暇あっかなァ」だの「手土産は何がいいんだろうな」だの、放っておいたら本当に家まで挨拶に来かねない。
別に家に来られる事が困るわけではない。ただ、何事にも心の準備とか順序といったものがあるわけで。

「できれば最初はに似た可愛い女の子がいいと思うんだけど、俺は」
「っ!? 銀ちゃん!!」

更に飛躍した話になり、咄嗟にそれ以上の言葉をは遮った。
いくらなんでも話が飛びすぎだ。自身は今の状況でいっぱいいっぱいだというのに、先の話をされてもついていけない。

「挨拶とか、そういうのは……」
「早い方がいいだろ、こういうのは。結婚式はやっぱ教会がいいか? 神前もいいけど、バージンロードもいいもんなァ。バージンじゃねーけど」
「しないから!!」
「ああ、うん。しないのか。うん……って、えぇえ!? !?」

やっと口にできた反論に、今度は銀八が狼狽える。何をそんなに動揺することがあるのかと、逆にが落ち着いてきた。
人間、自分よりパニックになっている人間を目の前にすれば、どんな状況でも落ち着けるものらしい。
そして、落ち着いて考えてみれば。

「だって。まだ、できちゃったって決まった訳じゃないし」
「イヤ、もう決まった感じだったよね? むしろ確定って感じだったよね? いっそ婚姻届にサインしそうな雰囲気だったよね?」
「ないよ、そんなの」

冷静に切り返せば、やけに絶望的な表情を銀八が浮かべる。
対するは、いつの間にか不安も何も吹き飛んでしまっていた。
きっと、何があっても大丈夫。銀八ならば、無条件に味方になってくれる。そう思えて、の顔に自然と笑みが浮かぶ。
そんなに銀八がこっそり安堵したことには、は気付いていなかった。










「銀ちゃん…その……やっぱり、できてなかったよ?」
「んじゃ、今から作っか」

後日。
ホッとしたように報告に来たに対する銀八の提案が即座に却下されたのは、また別の話。



<終>



一度は書いてみたかった話。
できちゃった婚は本意じゃないけれども、できちゃえば問答無用で結婚できるよなぁ、なんて割と真剣に考え始める先生を想像したら、なんかものっそい萌ゆりました。そんだけ。

('10.02.21 up)