高校教師 〜いとあはれ〜



「先生はの裸エプロン姿が見たいです」
「……『いとあはれ』って、どういう意味だったっけ?」

唐突に突き付けられた願望を、は渾身の力で持って投げ捨てた。
何の前触れもなく、いきなりだ。
呆れを通り越して、もはや哀れむような気分に陥りながら、は全力で聞かなかったことにする。
ちなみに古文の『あはれ』と現代文の『哀れ』の意味が違うことくらいは、如何に国語全般の成績が悪いでも知っている。
ここは学校。今は補習の時間。たとえ他の生徒がサボったために教室に二人きりなのだとしても。たとえその二人が恋人同士なのだとしても。
やはりTPOは弁えてほしいとは思うのだ。
しかし教師のくせにTPOなど無視する銀八は、平気でセクハラ発言をしてくる訳で。
どうしてこんなセクハラ教師を好きになってしまったのか、としては頭を抱えたくなる瞬間でもある。

「いつからは銀サンの言うこと無視する子になっちゃったんですか。あ、『いとあはれ』は『大層趣深い』って意味な。つまりの裸エプロン姿のこと」
「ふぅん」
「って、まただよ! また流そうとしてるよこの子は!!」

正面で嘆く銀八を気に留めることなく、はカリカリとシャーペンを紙の上に走らせる。
大体、嘆くならの方こそ嘆きたいのだ。
幼い頃、何でもしてくれ、優しくてカッコよかったお兄ちゃんが、何がどうなってこんなダメ人間になってしまったのだろう、と。
それなのに、昔から大好きだったお兄ちゃんのことが、今でも大好きで。恋人にしてもらえて。
友人たちには総じて「趣味が悪い」と言われるものの、それでも好きな気持ちに変わりはなく……変わらないけれども、こんな時ばかりは少しばかり、自分の趣味の悪さを呪わずにはいられない。
結局、何も見なかった聞かなかった、と実に消極的な手段でもって黙殺することにして、はひたすら補習のプリントを埋めていく。
その中に『あはれ』という文字を見つけ、はまたもや頭を抱えたくなった。
自分の解釈が間違っていなければ、『あはれ』とは、自然とかに対してしみじみと感じいった時に使う表現のはずだ。少なくとも作為的な裸エプロンとは真逆のはずだ。
言葉は間違っていないけれども意味合いが違う。流石に銀八がそこに気付かないはずがないから、これはわざとなのだろう。強引に話をそちらに持っていきたかっただけに違いない。
溜息を吐きたくなったが、ここで反応しては今まで流してきた努力が無になってしまう。込み上げてきた溜息は喉の奥へと押しやって、ひたすらプリントと向き合う。

「一回でいいからさ。フリフリの可愛いエプロン買ってやっからさ。可愛いの好きだろ?」

確かに可愛いものは好きだが、それとこれとは別物だ。
突っ込みたいのを堪えて、は目の前のプリントに集中する。ああ、『枕草子』なんて大嫌い。これさえ無ければ今の耐えがたい状況に陥ることもなかったのに。
『枕草子』だけでなく、『平家物語』も『土佐日記』も、古文は全て苦手だという自分自身を棚に上げ、は胸中で責任を押し付ける。
それでも、プリントを終わらせなければこの状況からも解放されない。
しかし、話しかけてくる、というよりもセクハラ発言を投げかけてくる銀八を無視してプリントと向き合うことは、どんな努力をもってしても不可能だった。

「なァ。可愛いって。絶対可愛いって。似合うって。可愛いエプロンと可愛いで可愛いが二つで楽しさ通り越してパラダイスだよ。だって言ってたじゃん。大好きな俺と大好きなノンタンが揃ったら大好きが二つで楽しいって。俺だって可愛いさ二つを堪能してーんだよ」

真正面から「可愛い」を連呼されて、堪らずは手を止めた。
何だってそんな発言を恥ずかしげもなく口にできるんだろう、と思わずにはいられない。連呼されるほど自分が可愛いとは思えないだが、それでも気恥ずかしいながらにどこか嬉しくて、どうしても頬に熱が籠ってしまう。
プリントに集中していた視線をちらりと上向けると、目の前で銀八がにやにやと笑っていた。
ああもうこれは絶対にわかって口にしているんだと、そんな余裕のある大人が口惜しいような羨ましいような。自分ももっと大人になれば、こんな余裕が持てるのだろうか。
こんな時、どうしようもなく年の差を感じて落ち込みそうになる。今の場合、落ち込むべきなのは自分の国語の成績に対してだとわかっていても尚。
集中などとっくに途切れてしまっている。無視するにしても、このままではセクハラ発言がエスカレートしそうだ。
ただでさえ気の重い補習。早く終わらせるためには、銀八を黙らせるしかない。
と言っても、銀八の言葉に頷くなど論外。いくら可愛いと言われようとも、裸エプロンなんて恥ずかしい真似、できるはずもない。
それなら、とは考える。目の前の補習プリントそっちのけで考える。いくら『枕草子』を読み解いたところで、目の前の銀八を黙らせる術などわかるはずもないのだから。
そうして出した答えは、ひどく単純と言えば単純なものでしか無かったが。

「じゃあ、先生が先にやってくれたら、私もやってもいいよ?」
「…………」

自分がされて嫌なことは、人にもしてはいけません。
誰しも一度は教わったであろう。見れば、銀八は言葉もなく固まっている。
別にとて銀八の裸エプロン姿が見たいわけではない。想像するだけでげんなりしてしまう。言われた銀八本人もそれは同じだろう。
銀八が黙り込んだことで、この件は終わり。一件落着、とは今度こそ目の前のプリントへと意識を集中させたのだった。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
『おうちデート』
その響きが何となく可愛らしくて好きだな、とは思う。
何より、家の中ならば他の誰に見られる心配もないから、触れることも触れられることも躊躇いを覚えずに済む。
教師と生徒という関係上、二人が付き合っていると他に知られたら、大変なことになりかねない。それを思うと、いつ誰に見られるかも、と外ではふとした瞬間に心配になってしまうのだ。銀八はあまり気にしていないようだが、にしてみれば自分のせいで銀八がクビにでもなったら…と不安になるのだ。
それだから、どちらかと言えば部屋の中で二人きりで過ごす方がは好きなのだ。
今日はその『おうちデート』。銀八に呼ばれて、は足取り軽く銀八の住むマンションへと向かう。
テストも補習も先週までに終わっている。お気に入りのワンピースを着て、大好きなおうちデート。いつになく浮かれていたは、だからすっかり忘れていたのだ。
マンションに着いて、その扉が開かれるまで。

「お、。いらっしゃい」

出迎えた銀八に、いつもなら満面の笑みで応えるだったが。
今日ばかりは違った。
正確に言えば、浮かべた笑みが凍りついた。そして、反射的に目の前のドアを閉めていた。普段から鈍くさいだのトロいだの言われているにしてみれば奇跡的なまでの反射神経だった。
今、目にしたものは何だったのだろうと自問自答する。できれば見間違いであってほしいと心底思う。先週までのテストと補習で疲れているのかもしれない。そうだ、そうに決まっている。
深呼吸して、自分を落ち着かせて。玄関の向こうにはいつも通り、年上で少し我儘で、でも結局は優しい恋人が待っていてくれるはず。
そう、信じていたのに。

「オイオイ。どうしちゃったの、?」

ガチャ、と再び開けられた扉。
目の前にいたのは、恋人と言うよりも変人と呼ぶべき人間だった。
少なくともにとって、首元にボウタイ、手首に白いカフス、腰に短い黒エプロンをつけている他は素っ裸の人間は『変人』以外の何物でもない。
恋人の部屋の扉を開けたら変人が出てきた時の対処方法など、知るはずもない。
ならば逃げるしかないではないか。
そんなことを冷静に考えられるようになったのは、マンションから少し離れた公園に辿りついた頃だった。
どうやってここまで来たかは覚えていないが、ガクガクする足と苦しいぐらいに酸素を求める肺からするに、全力疾走でここまで逃げてきたのだろう。本能って凄いと、自分のことながらは尊敬してしまう。
公園内に設置されているベンチに腰をおろして休んでいると、次第に呼吸も落ち着いてくる。それに伴い、思考能力もまた回復してくる。
玄関を開けて現れた変人は、認めたくはないが銀八だった。
何がどうなったらあんな突飛な格好になるのかわからない。頭でもおかしくなったのではないかと本気で心配したくなる。素っ裸にエプロンだなんて正気とは思えない―――
そこまで考え、はたと思い出す。素っ裸にエプロン。裸エプロン。それは、つい最近耳にしたフレーズ。補習の時に、銀八が唐突に口にしていたもの。
それに対して、自分は何と答えただろうか。
記憶を辿り青褪めると同時に、携帯への電話着信を告げるメロディが鞄の中から流れ出す。
誰から、など、電話に出るまでもなくわかるような気がした。
それでも、止まることを知らないメロディに促されて、しぶしぶと携帯を取り出す。
表示されている発信者は、予感的中。
押したくもない通話ボタンを押せば、耳に入る最後通牒。

『約束は守りましょうって、いい子のはわかってるよな?』

携帯電話越しにも、銀八がにやにや笑っているのがわかるような気がして。
その場凌ぎで浅はかな答えを返してしまった先週の自分を、は恨まずにはいられなかった。



<続>



先生が着てるのはアレです。
イギリスの執事出張サービス的な。実際にあるサービスです。男の裸エプロン。ってか裸執事。
続きは18禁で。一応。多分。

('10.11.09 up)