羅生門の人物像について
「羅生門」の主人公はただの「男」ではなく「下人」なのである。
今昔物語の原典では単に「男」であった主人公が、「羅生門」においては「下人」となっている。このことは、「羅生門」という作品の主人公の特徴を決定づける最も重要なことだと思うのだが、ほとんどの解説書がこのことを軽くしかとらえていないのはどうしてなのだろうか。
そもそも「下人」とはどういう人間なのか。多くの指導書には明確な説明がなく、「身分の低い人」と記す程度であるが、言うまでもなく「下人」とは一般的な、ただの人間ではない。作品中にも「長年、使われていた主人」があったとはっきり書いてあるとおり、この主人公は、今は「暇をだされ」ているかもしれないが、四、五日前までは比較的安定した生活が保証されていた「支配階級の末端」に位置する人間だったのである。彼は「太刀」を持っていて、老婆を取り押さえた時も、それを突きつけて「今し方この門の下を通りかかった旅の者だ」と嘘をつくことができるような、あきらかに老婆より上位の階級に生きていた男なのだ。身分は低いが、決して被支配階級の人間ではないのだ。
だからこそ、彼にはまだ「死」に対する切迫感がないのである。飢え死にするかどうかという状況なのに「右のほおにできた、大きなにきびを気にしながら」ぼんやりと雨空を感傷的にながめていられるのだ。そんな主人公の性格を、芥川ははっきりと「サンチマンタリスム」と表現している。
彼は(1)支配階級にいてぎりぎりの生活苦を体験していない男、であり
(2)性格は感傷的、
なのである。老婆と出会ってから彼の心の中に起こる変化(合理的な判断からでなく感傷的に「悪」を憎んだり、自分が優位にたった時には老婆への憎悪を「冷まし」たりすること)は、すべてこの2つの特質から理解できる。それが倫理感とは呼べないものであることは、明らかであろう。
このような人間である「下人」に対して、被支配階級に生きる老婆はどうだろうか。
怪奇的なものを好んでいたこの時期の芥川は、「肉食鳥のような」とか「蟇のつぶやくような」といった醜悪な動物の比喩を用い、執拗に老婆を「悪」の象徴のように描いているが、彼女ははたして本当に「悪」なのだろうか。毎日「飢え」と戦う、不安定な、ぎりぎりの生活を強いられている「被支配階級」の彼女が、生活苦のない支配階級の「下人」の目に醜く見えるのは当然のことだろう。しかし、「下人」の目で捉えられた老婆のイメージを、客観的なものと見るべきではないし、ましてや「下人」の感情的な偏見に乗って老婆を「悪」のイメージで捉えるべきではないのだ。
早い話が、老婆の行為である「死人の髪の毛を抜く」ということがどうして「悪いこと」なのか私には分からないのである。
生きている人間を殺して髪の毛を抜いているわけではない、捨てられている死体から髪の毛を抜いているだけなのに、どうしてそれが「なんぼう悪いこと」(老婆自身の言葉)になるのだろうか。考えられるのは宗教的な罪だけである。しかし、宗教的に許されなかったとしても、老婆の行為は他者に対して害を与えた訳ではないのだ。しかも、この時代は作品の冒頭にある「仏像や仏具を打ち砕いて、その丹が付いたり、金銀の箔が付いたりした木を、道端に積み重ねて、薪の料に売っていた」ような、生きるためには宗教の権威すら踏みにじられていた時代なのであるから、もし老婆が宗教的な罪悪感を持っていたとすれば、それだけでもむしろ立派なことと言わなければならないだろう。また、髪を抜いた女にしても、確かに蛇を干し魚だと言って売ったのは詐欺行為ではあるが、相手はそれをうまいと言って買っているわけだから、それは拡大すれば「商行為」の部類と考えてもいいような軽微な「悪」の行為なのである。老婆と死体の女は、飢え死にを避けるためにやむを得ず「悪」を行ったのだが、その「悪」は相手を害するぎりぎりの手前で止められているような種類の「悪」といっても良いのではないだろうか。
それに対して「下人」の「悪」は、はっきりと違っている。彼は他者から「盗む」のである。他を害するわけだから、これは「本当の悪」である。彼は自分の行為を正当化する理屈を老婆から学び、「悪」に走る勇気を手にいれ、そして、はっきりと「本当の悪」に走ったのである。
生存苦の中で生き続けて来た人間は、生きるために醜悪なこともするだろうが、ぎりぎりの線で他者との共存を計ろうとするのではなかろうか。生存苦のない人間は、観念的な「善」の「感情」に浸るが、極限状況に陥ると簡単に「悪」に走ってしまう。「羅生門」にはそういう「下人」のようなタイプの人間のもろさがよく描かれているのだ。
私は、この作品を、主人公が「下人」であるという特徴をしっかり押さえず、一般的な人間として読むことは誤りだと思っている。芥川龍之介は自分自身の人間としての特徴をしっかり意識した上で、「生活苦のない支配階級」(芥川の生きた時代においてはプチ.ブルジョア階級がそれに当る)に属する「情緒的、感傷的な人間の弱さ、にせ倫理感」をこそ描いているのだ。
それがこの小説のテ−マなのである。
荊軻伝
司馬遷は歴史書として「史記」を書いた。決して文学書として書いたのではなかった。彼は太史令の地位にあった父司馬談の企てた歴史編さんの事業を受け継ぎ、世界(言うまでもなく中国を真の意味で統一し得た「漢」が彼の世界であった)の歴史を「全体」として書こうとしたのであった。その際、彼は世界を「動かすもの」に着目した。政治を担うものが世界を動かすもの、と彼は考えた。そして、その「動かすもの」こそ「人間」だった。人間の姿を描くことによって世界の姿は描き出される、人間の動きを見つめることによって歴史全体が見渡せる、というのが司馬遷の発想の基本であった。
その結果として「史記」は、歴史書でありながら歴史文学書となり得たのであった。「史記」には人間がみごとに描かれている。生きた人間の悲しみや喜びや怒りや苦しみが、見つめられている。そして、武田泰淳「司馬遷」の中の言葉をかりるなら、そこに描かれている人間たちが、必ず「政治的人間」であることによって、世界の歴史につながっているのである。
歴史の裏面で、歴史の主体である「動かす人間」に一瞬の接触を企て、死んでいった者たちがいた。彼等を「刺客」という。「刺客」となることによって「政治的人間」となり、歴史に関与することになった一人の人物の物語として、「列伝」中の「荊軻伝」を取り上げてみよう。「荊軻伝」はいかなる意味で優れた歴史文学といえるのだろうか。
荊軻が「政治的人間」となったのは、田光先生の推挙によってであった。当時弱小国であった燕に、秦の侵略は迫りつつあった。事態を憂慮した燕の太子丹は田光先生に相談し、田光先生は荊軻を推挙するが、その時丹は一言、「願はくは先生泄らす勿かれ」と言ってしまう。田光先生は荊軻と会い、太子の所へ行けと告げた後、荊軻を励ますために「願はくは足下急ぎ太子に過り、光已に死して言はざるを明らかにせりと言へ」と言って自刎する。この時から、荊軻は「政治的人間」となって「動かすもの」に関与するのである。 さて、荊軻は、秦から逃走して丹にかくまわれていた秦に将軍、樊於期を訪ね、その首を献上物として持参し、秦王に接触したい旨を告げる。自分の死によって恩義ある燕の患を除き、秦王に対する恨みをはらせると知った樊於期は、すぐさま自剄して首を与える。彼もまた、死ぬことによって「政治的人間」となり、「動かすもの」に関与したと言えるだろう。
「政治的人間」となったときから、その人間は個人であることをすて去る。荊軻はもとより、田光先生も樊於期も、個人としての自己をすてることによって(つまりこの場合死ぬことによって)「全体」とつながったのである。人間は、社会に属して生きる限り、個人として生きるとともに、必ず「全体」とつながって生きなければならない宿命にある。そして、その個人が美しく光り輝くのは、個人を優先した時ではなく、「全体」とのつながりを優先した時であることは、いつの時代でも変わりはない。「史記」は「荊軻伝」に代表されるように、そこに取り上げられ愛情をこめて描かれている人物が「全体」とのつながりのために自己をすて去った人物であることによって、人間の生き方の真なるものを描いた「文学」となり得たと言えるのではないか。だから、易水のほとりで「風蕭 として易水寒し 壮士一たび去って復かえらず」と歌い秦に向かう荊軻の姿は無類に悲しく、美しく我々の胸に迫るのである。秦王に謁見する時、付き添った燕の勇士秦舞陽は「色変じて振恐」するが、自己をすて切っている荊軻は動揺しない。あいくちを取って秦王に迫る場面の、短文を連ねた迫力ある文体によるダイナミックな展開は比類ない。事は成就せず、荊軻は殺され、当然のことながらこの事件は「動かすもの」である秦王の激怒する所となって、燕はたたき潰される。荊軻の意図した世界の動きとは逆の動きではあるが、荊軻は世界を動かしたのである。
「全体」につながり、個人をすてた人間は確かに美しい。「全体」につながることは、人間の生き方の真なるものではある。しかし、そのつながるべき「全体」、「動かすもの」の中身を、我々は常に見つめなければならないと、私は思う。個人の生命をあまりにも軽く考えすぎていた過去の「世界」、「全体」のあり方自体を考えずに、死んでいった個人の美しさにひたってばかりいるわけにはいかない。歴史文学として、確かに「史記」は優れていると思うが、それはあくまでも過去の一つの「歴史」的時代における人間の生き方の真なる姿を描いた「文学」という意味で優れているのであって、だからこそ「歴史文学」と言われるべきなのであると思う。我々の時代である「現代」には、新たな形で「全体」とつながって生きる、人間の生き方の真なるものが描かれなければならないだろう。そしてその時、司馬遷の構想した「全体」、「世界」、「動かすもの」を参考にして、我々はまず、我々の「全体」、「世界」、「動かすもの」のあるべき姿を構想することが必要となるだろう。その中で個人の生き方が描き出された時、真に新しい我々の時代の「文学」が生まれるに違いないのである。
蚤の籠抜け、武勇、駿河の国府中にありし事
(西鶴諸国ばなし巻三の第一話)
西鶴諸国ばなし巻三の第一話は「蚤の籠抜け、武勇、駿河の国府中にありし事」と題されている。
話は、「歴々の牢人、津河隼人」が自宅に押し入った盗人大勢を追い払い、それを「沙汰なし」(当時の幕府の触書きに違反して、近所にも知らせなかったこと)にしたことから別の強盗事件の犯人とされ「籠者」にされてしまう。7年たって京都の牢に移されるが、彼は出牢しうるつてはあるけれども「その身に科を覚えて、今更公儀を恨みず、命をおしま」ぬまま、「都の憂き住ひ、武運の尽きなり」と観念している。ここまでが前半である。後半は、入牢者の中に「ちょろりの新吉」という片耳のない男がいて、その男が、実は隼人の家に押し入り、追われて後すぐに別の強盗殺人を犯した、隼人に嫌疑がかかった事件の真犯人であることが判り、「侍の悪名とって、相果つる事の口惜し。何とぞこの難の晴るるやうに」と言うと、新吉は「我々はそれのみならず、この度は、女を殺しての科、かれこれのがるる事なし。御身の事、御訴訟申さん」と答えて、隼人の嫌疑が晴れる。奉行が長い間の難儀を考え、何でも望みがあればかなえてやろうと言うので、隼人は自分の悪名を晴らしてくれた二人の者の命を助けた、ということで終わる。
この話は、その内容から見る限り、明らかに潔い武士の心情を中心とした「武勇」伝なのであるが、不思議なことに、作品の題名は「蚤の籠抜け」という奇妙なものなのである。私は初め、題名のイメージとその内容の、あまりの相違に当惑した。話の内容とこの題名はかけ離れすぎてはいないだろうかと思った。題名の由来はこの編のちょうど中間部の、牢中の色々な特技、才能を持つ者たちを描いた中にある、一人の老人が「食物には、我が太腿を食はし」て九年も蚤を飼い、なついて「蚤は籠抜けする」というくだりから取ったものらしいが、このことは話の本筋とは直接関係しないことなのである。にもかかわらず、西鶴はそれを題名にしている。このことは、あるいは俳諧師でもあった西鶴の、隼人の出牢のイメージを「籠抜け」という「蚤」の芸のイメージに連想させた結果かも知れないとも思ったが、それ以上におそらく町人としての西鶴の視点と大きく関係すると考え、私は「諸国ばなし」の中で武士を扱った他の話を読み比べて、西鶴の描き方を調べてみることにした。
大阪のかなりゆたかな町人の子として生まれた西鶴が武士を描くさい、武士道の賛美あるいは批判から離れて町人の視点で冷静に、そして説話的興味から描こうとしていることは、例えば敵討ちをテーマとした「武道伝来記」などにも明らかであるというが(日本古典文学全集、井原西鶴集二、解説)、「諸国ばなし」の中で最もポピュラーな巻一の第三話「大晦日はあはぬ算用、義理」を見ても、まさにそのことは言えると思う。この有名な話は、一両の小判を巡って展開される武士仲間の義理と、あるじ原田内助の「即座の分別」を賛美するような展開なのだが、その原田内助が、冒頭において米屋の掛け取りに対して支払いをせず、「すぐなる今の世を、横にわたる男」として描かれていることは重大な点なのである。西鶴はこの話で、単に武士の義理や「即座の分別」を賛美しているのではなく、武士と庶民の身分差別観を鋭く描き出していると言える。金子十両を手に入れるまでのこの冒頭の短い一節によって、西鶴の町人としての視点がみごとに浮かび上がってくる。
また巻三の第七話「因果の抜け穴、敵討」も武士を扱った話なのだが、その展開たる や実に奇妙なもので、まさに冒頭に書かれている「武士の身程定めがたき物はなし」(これは当時の町人の武士観そのものであったという)そのままと言えるのである。判右衛門は兄の仇討ちのため浪人となり、一子判八を連れて敵、弥平次の屋敷に乗り込むが、見つかり、つかまってしまう。そこで判八は親、判右衛門の首を斬り、山奥に入って首を埋めようとすると、そこに髑ろがあって、その夜の夢に右衛門が現れ、自分は前世で弥平次の一門八人を殺していたのでこういう目に会ったのだ、おまえは武士の志を捨てて出家しろという。ところが判八はそのお告げを聞かず仇討ちの志を持ち続けて、最後は「判八も又、返りうちにあひぬ」という非情な一文で結ばれる。ここには、夢のお告げを無視士して死んでしまう武士の姿が、あきれはてたもののようにさえ描かれているように読めるのである。町人西鶴の、さめた視点と言えるのではなかろうか。
このように他の話を見てみると、巻三、第一話で一見「武勇」を描くかに見える西鶴の目が、前半と後半のちょうど中間部に挿入されている入牢者(庶民のイメージが強い)の種種の特技、才能を描く場面に熱く注がれていることは疑いないのである。蛤の貝で髭を抜く者、塵紙で仏を作る者など「一人も鈍なる者なし」と描かれた彼等を見て、かつて「武運の尽きなり」と嘆かせていた隼人に「悲しき中にも、をかしさまさりぬ」という心情を描き込む西鶴は、そういう才能ある入牢者たちへの賛美をこそ描きたかったのではないだろうか。もちろん、この作品はそのことがテーマとなっているわけではない。しかし、西鶴の意識の根底にあるそういうものが、題名を「蚤の籠抜け」とさせたのではないだろうかと思うのである。そして、これは少々考え過ぎかも知れないが、そういう「独りも鈍なる者なし」とされる入牢者たちの中の者であったからこそ、西鶴は、隼人に難儀を掛けた「ちょろりの新吉」たちの命を、最後には助ける展開にしたのではないかとさえ、私には思えるのである。
鼻 ──その構造的<矛盾>の現れについて──
「鼻」は、なかなか面白い設定の小説だと思うが、中童子や下法師たちの描き方がしっくりしない。私には、内供の<長い鼻>が治療によって<普通の鼻>になったとたんに、彼等が「前よりも一層」哂うようになるという展開は、どう考えても不自然に思えてならない。芥川はそれを「だれでも」持っている「傍観者の利己主義」という心理で納得しろと言う。しかし、内供が、<長い鼻>を治療したことを「恨めしく」思うようになるほど、「一度や二度のことでなく」「つけつけと」哂い続ける彼等の態度は、少し<特殊>と考えなければ納得できない。
*
芥川は「傍観者の利己主義」を、次のように説明している。
人間の心には互いに矛盾した二つの感情がある。もちろん、だれでも他人の不幸に同 情しない者はない。ところがその人がその不幸を、どうにかして切り抜けることができ ると、今度はこっちでなんとなくもの足りないような心持ちがする。少し誇張して言え ば、もう一度その人を、同じ不幸に陥れてみたいような気にさえなる。そうしていつの 間にか、消極的ではあるが、ある敵意をその人に対して抱くようなことになる。
これが人間の心に<一般的>な感情であって、中童子や下法師たちが内供の<普通>になった鼻を見て哂う理由もそういうものだというのである。しかし、彼等は<普通>の鼻になった内供を「一度や二度のことでなく」「つけつけと」哂うばかりでなく、中の一人は、以前使っていた鼻持上げの木の片を振り回して毛の長い、痩せた尨犬を追い回し、「鼻を打たれまい。それ、鼻を打たれまい」とはやすという<あてつけ>までするのだ。このような態度は、中童子や下法師たちの「敵意」が、<一般的>なものでなく、ある<特殊>な、<歪んだ>ものと考えなければおかしいだろう。芥川の説明によれば、<一般的>な心理とは「なんとなくもの足りない心持ち」であり、「同じ不幸に陥れてみたいような気」になるのも「少し誇張して言えば」のことで、「ある敵意」を抱いたとしてもそれは「消極的ではあるが」のはずだ。内供の鼻をしつこく哂い続ける彼等の「敵意」は、とても「消極的」とは言えず、従って<一般的>とは思えない。
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では、彼等の「敵意」が<特殊>だとするなら、その原因をどう解釈するべきか。唯一思い当たることは、内供と下法師たちの身分関係である。
内供は内道場供奉という高い地位の人物。舞台が階級社会の時代で、しかも寺院の中であってみれば、内供と中童子や下法師たちとの上下関係は近代人である我々の想像を超えた厳しいものであったはずだ。内供は、おそらく絶対的権威者、あらゆる点での優位者として中童子や下法師たちの上に君臨していたに違いない。そんな下法師たちにとって、唯一内供に対して心理的に「優位に立てる」ものが、内供の長く醜い鼻だっただろう。だからこそ、内供の鼻が正常となり、その「優越感」が持てなくなったとき、彼等の感情は反動的にきつい「敵意」となった。 そう解釈すれば、中童子や下法師たちの態度は、なんとか納得できるかもしれない。
*
しかし残念なことに、芥川の「鼻」をそう読むには、内供が、中童子や下法師たちの上に絶対的権威者として君臨していたという描写がないのだ。不機嫌になって叱り飛ばすことは書かれているが、「抑圧者」のイメージはない。特に、鼻の治療を始めるまでの所で、内供と下法師たちは次のようなやりとりをする。
内供は、いつものように、鼻などは気にかけないというふうをして、わざとその法もすぐにやってみようとは言わずにいた。そうして一方では、気軽な口調で、食事の度ごとに、弟子の手数をかけるのが、心苦しいというようなことを言った。内心ではもちろん弟子の僧が、自分を説き伏せて、この法を試みさせるのを待っていたのである。弟子の僧にも、内供のこの策略がわからないはずはない。しかしそれに対する反感よりは、内供のそういう策略を取る心持ちのほうが、より強くこの弟子の僧の同情を動かしたのであろう。弟子の僧は、内供の予期どおり、口を極めて、この法を試みることを勧め出した。
ここには、ほとんど「対等」といっていいほどの内供と弟子との「ほほえましい」関係が描かれているではないか。中でも下法師たちが内供に「同情」してことは注目に値するだろう。絶対的上下関係の中で「抑圧」されている時、下の者が上のものを「同情」するということは考えられない。そもそも「同情」とは、相手と「対等」か、あるいは相手より「優位」な関係のなかでのみ成立するものだろう。してみれば、このように描かれた内供と下法師たちは、少なくとも「絶対的上下関係」ではなく、従って、中童子や下法師たちの「敵意」の<特殊性>を、両者の上下関係から解釈することはできないのだ。
いや、そもそも、鼻が他人にどう見られるかを気にするということ自体、他人を<対等な存在>と考えることが前提となるのではないか。そうだとすれば、内供は、本来上から見下していればいいはずの中童子や下法師たちをも<対等な人格>としてとらえているような「愛すべき」人物だということになる(ちなみに原典である今昔物語で描かれた内供は、自分と同じような鼻を持つ人物が他にもいるのが当然と錯覚しているほど、鼻を気にすることなど全くない人物である)。芥川は、内供をそのような「近代人」として描こうとした。彼を君臨する絶対的権威者として描くつもりはなかったのだ。
*
そこで、結論。
中童子や下法師たちの態度を、芥川はあくまで「傍観者の利己主義」という人間の<一般性>において説明し、彼等の置かれている立場(内供との上下関係)の<特殊性>から描こうとはしなかった。しかし、内供の心理を展開し、鼻の治療を後悔させるためには、どうしても彼等の「敵意」ある態度を<強調して>描かなければならなかった。そこから、不自然さが出現することになった。
「鼻」における中童子や下法師たちの態度の不自然さは、既に、主人公を<近代人>として設定した段階から作品が内包していた、構造的<矛盾>の現れだったのである。
ワイルド・スワン
──膨大なエピソードで綴られた
狂気の時代の全体像 ───
読書によってこれ程大きな充実感を味わったのは、何年ぶりだろうか。
私は、その膨大なエピソードの量に、まず圧倒された。
日本軍の敗退後、国民党に幻滅した筆者の母は共産党に身を呈する。筋金入りの共産党員である父は幹部となり、共産党の理想のために家族を優先させない生き方を貫く。筆者が誕生するのは上巻三分の二ほどの所であるが、その頃から、両親は共産党システムが生み出す様々な苦難を果てしなく体験することになる。
それらのエピソードの中で、私が最も恐ろしいと思ったのは、1957年に行われたという「へびをねぐらからおびきだす」運動であった。反乱分子を摘発するためのチェックとして、その年毛沢東の言葉に従い、党は、5パーセントを「右派」として告発せよと指示する。もし出さなければ、監督者自身が右派のレッテルを貼られる。そこで、頭数をそろえるため個人的な恨みが持ち出され、気にいらない者に片っ端から右派のレッテルが貼られていったという。私は開いた口がふさがらなかった。何という残酷なやり方だろう。しかし、これが毛沢東のやり方だったのである。筆者の母も父も、良心的幹部であったがために、このようなやり方を「行わなければならない側」の苦しみを味わい続けたのである。
全編を読み終わって、改めて感ずることは、それらのエピソードが体験の実感を伴った見事な文章で、しかも、時代の全体像が浮かび上がるように構成され、綴られているということであった。その中でも特に印象に残ったのは、筆者の父親の、まさに壮絶とも言える生涯の描写であった。
父親は心から共産党を愛し、その清廉潔白さのために過剰なほど一族に厳しい態度を取り続けた男だった。母は、どのようなときも党を優先し、母への優しさがない父を憎み続ける。そんな彼が、幹部であったため紅衛兵によって毎日のように批闘大会でつるし上げられるようになって、しだいに文化大革命の真の狙いに目覚め始める。彼はついに「こんなことは、いかなる意味においても革命とは言 えない。 どう考えても間違っている。こんなことは犯罪行為だ」と口走り、毛沢東に直訴の手紙を書く。当然のこととしての逮捕。そのための発狂、回復。そして、巨大な労働キャンプ「幹校」への収容。身も心もぼろぼろになった父は、過去の家族に対する行為を後悔し、最後に言う。「もし父さんがこんなふうにして死んだら、もう共産党を信じることはないぞ」と。
ノン・フィクションにおける重要な側面は、一連の事実の中から何が選びとられていて、それがどのような視点で描かれているかということであろう。父親の描写でまず印象的だったことは、紅衛兵による凄まじい拷問やリンチの場面、あるいは発狂して母に暴力を振るったりする個所が、実に淡々と、事実の記述に徹するかのような書き方になっていることであった。そして内面描写はまったくといっていいほどない。それは、この作品が筆者自身の体験と母から聞いたことをもとにして書いている(エピローグにそう書かれている)からだとは言えるのだが、母親においては、妊娠した頃の父の冷たい態度に対する憎しみの気持ち(内面)がかなり克明に書き込まれているのと比較すると対照的なのである。つまり、この作品は視点が筆者自身と母親とにあって(冒頭では祖母にも置かれているが)、この二つの目で見つめられた父親の姿が、父親をつき抜けて「狂気の時代」全体を照射するという構造になっているのである。父親は時代の一つの典型的な「現象」として見つめられているのだ。それゆえに、個人としての内面は描かれず、凄惨な弾圧行為も個人のドラマではなく時代の多数の「事実の一つ」として記述されているのである。
最後のところで、筆者は、あの「狂気の時代」をはっきりと認識した時点で、周恩来についてまとめている。
「文化大革命の暗黒の中で、ひとり周恩来だけが、かすかな希望の光であった。 だが、周恩来が毛沢東に協力して文化大革命を推し進めたのも、また事実だ。 周恩来は、安全と思われる範囲で多くの人間を救った。 もちろん、自分の身を守ることも、必死で考えていたのだろう。毛沢東にたてつけば自分もつぶされるであろうことを、周恩来はよく知っていたはずだ。」
人物を見る目の確かさがこの記述には伺える。苛酷な体験によって認識力が破壊されたり歪んだりすることは多いに違いない。しかし筆者は、あれだけの非人間的な状況の中でも、これほどの文章を書く知性を持ち続けられたのである。私は、彼女の存在自体が、おそらく人間の可能性への一つの希望として、語り続けられるに違いないと思っている。
「曽根崎心中」
近代小説のようにこの作品を読むことは出来ない。しかし、戦後の生命を尊重し逞しく生きるという教育を受けて育った私にとって、曽根崎心中を読んだ率直な感想は、作者の、とにかく心中場面へ結び付けようとするストーリー展開の強引さであり、そこから漂ってしまった「死にさえすればよい」という主人公の安易で敗北的な姿であった。
近松の描こうとしたのが、人間性を抑圧された封建体制の中で人間的な可能性を貫いて生きるためには死ぬしかない、つまり「死ぬことでしか生きることの出来ない」悲劇的性格を持つ男女の姿であったということは理解出来る。しかし「曽根崎心中」に於ては、そういう近松作品全体に漂う意図が、状況設定と展開(主人公の行動における葛藤)に於てかなり不自然な描かれ方をしていると思われるのである。その不自然さ(あるいは飛躍)によって主人公の死に向かっていく姿に、私はどうしても、安易で敗北的なものを見てしまうのである。
主人公徳兵衛は天満屋のお初との愛を貫くため、主人公平野屋の内儀の姪との結婚話を「言葉を過す返答」によって断り、そのために国もとの継母に渡した二貫目の銀の返却を四月七日という期限で申し渡されている状況にある。彼は「男の我」を貫くため実に精力的に行動し、国もとへ二度も行ってやっとのことで吝嗇な継母から銀を受け取って来る。銀を返却しても大阪からは追放されるという覚悟も固めているが、お初の「どうしてなりとも置く分は、わしが心にある事なり」という言葉に勇気づけられながら、この段階ではあくまでその愛を貫いて生きる姿勢を持っているように読めるのである。その状況に九平次の「逆ねだれ」という悪状況が重なってくる。「たった一日要ることあり、三日の朝は返さうと、一命かけて頼む」ためその銀を油屋の九平次に貸したのだが、彼は悪辣な計略で銀を奪ったばかりでなく、徳兵衛を「謀判」の大罪人にしたて上げたのである。徳兵衛は「男も立たず、身も立た」ない程に打ち叩かれ、その時「この徳兵衛が正直の心の底のすずしさは、三日を過ごさず、大阪中へ申し訳はしてみせよう」という言葉を発する。この言葉を廣末保氏は非常に重視し、「追い詰められ、みじめさに終わろうとする瞬間、主人公が事件の展開に対してイニシヤチブをとりはじめる」と書き、「この状況のなかで徳兵衛は絶対に死ぬほかなかったか。徳兵衛は死ぬほかない。それが悲劇の主人公として創造された徳兵衛の性格である」と無条件にとらえて、「そういう決意をする徳兵衛の性格創造は、すでに最初から一貫して、劇の葛藤をつくっていたのである」と規定している。この点について、私は大いに疑問を持つのである。
それは、まず、この状況でどうして徳兵衛が死ぬほかないのか、ということである。「後に知らるる言葉」と書いているからには彼の言葉は間違いなく死の決意の表明であるのだが、お初との愛を貫くためかつてあれほど精力的に状況に立ち向かい、建設的に行動して生きようとしていた徳兵衛が、どうしてこの場面だけであっさり死を決意してその死のためにのみ(つまり悲劇の主人公として)行動しなければならないのか。何とか九平次の銀を取り戻そうとする意欲(あるいは復讐でもかまわない)、明日に迫っている平野屋への返済期限がたとえ遅れても、とにかく返済してやろうとするようなかつての「男の我」がどうして持続され得ないのか。廣末保氏はこの重要な問題を含む徳兵衛の決意を、「金を貸すという重要な行為を既定の事実としたことからくる葛藤の中絶を、その決意という行為を書くことによって乗り越えようとする。そして或る程度それに成功していた」という葛藤の展開の中でむしろ好意的にとらえようとしているが、私にはあまりに不自然な展開としか思えない。「そういう決意をする徳兵衛の性格創造」が「最初から一貫して」いるとはどうしても思えないのである。九平次との事件を、決定的な「悲劇を生きる主人公の性格創造」の場に設定したこと自体に、私は大きな無理を見てしまう。それは、それまでの「男の我」を貫く強い性格の一貫性を断ち切り、ただやみくもに死ぬしかないと諦める敗北的な性格を徳兵衛に植えつけたとしか思えない。不自然な「悲劇を生きる主人公」にはなったとしても、「男の我」を貫く主人公では、もはやないのである。
さらに、そこで決意された死の意味が、それまでのものと内容的にズレているという曖昧さも見逃せないと思う。この個所によれば、徳兵衛は「正直の心の底のすずしさ」を証明するために死ぬことになるのだが(はたしてそれが証明になるかどうかも疑問だが)、そうすると劇の最初に設定されていた「逢ふに逢はれぬその時は、この世ばかりの約束か」というお初の言葉に象徴される、徳兵衛がお初との愛を貫くためであるべき死の意味と、その内容にズレが出てくるのではないかと思うのだ。
このような曖昧で不自然な点を、近松は次の「天満屋の場」で強引に心中悲劇の情緒に溶かし込み、悲劇の感動を盛り上げて忘れさせてしまおうとする。そして、「道行」の美しい場面にと、設定された状況と不自然な主人公の行動(葛藤の展開)を飛躍的に結び付けて行く。とにかく徳兵衛とお初の二人を心中させねばならないといった発想に基づく近松の、安易な展開とも言えるものがそこにはある、と私には思えるのである。