過去の雑記帳   2003年3月まで





12月22日(水)  住吉神社と今宮戎

先日大阪の住吉神社と今宮戎を探索した。
今宮戎神社は、商売の神さまなので明治以後にできた神社だと思っていたら、推古天皇の頃に四天王寺の西の守護神として建てられたものだそうだ。労働者の町今宮のまんなかにあって、実に狭い境内で、山はもちろん木もほとんどない。元旦には、こんな狭い境内に、人があふれかえるのかと思うと奇異な感じだ。
住吉神社は立派な神社で、楠の大木がたくさんあり、今は住宅地になっているが明らかに背後は山だったと思われる急な坂の下にある。万葉時代には、すぐ前の今は公園になっているところまで海が迫っていたようだ。万葉の歌がいくつか記録されている。この神社の成立はそうとう古いようで、苔むした巨大な楠の林立する様子からみても記紀神道(国家神道)以前の古神道と融合する形で神殿が造られたと思われる。とても好ましい神社である。

私は古神道との融合が感じられない記紀神道のみの神社が嫌いである。(多賀神社は悪い印象。明治神宮、靖国神社は大嫌い)。実在した人間を祀るなんて気に入らない。祟りを恐れる怨霊思想によって、神社が災い封じ込めの「ゴミ捨て場」みたいになっていったのは日本人の心性の必然だったようだが、私はもっと原初的な、自然崇拝、生命力賛美(象徴としてペニスをご神体とするような素朴な信仰)が残っている神社が好きだ。
最近は古神道がどれくらい融合されているかという観点でいろいろな神社を探索している。古神道との融合とは、要するに「木」との関係をしっかり残していることだ。巨木に宿る神を崇め、森に住む動物(代表として蛇)を祀る、そういう原始的宗教心が文明の発生以後もしっかり取り込まれている神社なら、お参りしたい。(そういう神社以外はただ見学するのみ)

古木こそが、日本人の宗教の原点である。
古木、巨木の、大地にしっかり根を生やしている姿には、生命というものの原初的なイメージがある。苔むした見事な古木、がっしりと大地に食い込んでいる太い根っこにとても魅了される。古木というものは、太い根を無数に伸ばして存在の根源と結びつき、その上で堂々と個としての生を育んでいるという感じがする。

12月15日(水)    倫理観とは (5)

「ブラームスなら到底、こんな色事師めいた文句は死んでも書けなかったろう。倫理の欠如自体をシューマンに責める気は私にはない。少しも。だが倫理観の欠如した人間には所詮、断片でしか美は創れない。シューマンに構成力のないことは前にも言ったが、とりもなおさず彼には倫理観がなかったからと私は言う迄である。倫理をもたぬ男に人の心をうつものが創れようか。ブラームスのあのバイオリン協奏曲のハートが、感動がのぞめようか。おしなべて倫理のない音楽を私はしりぞける。そんなものは才能があれば足りるのだ。才能なら私にだってある。私は音楽に倫理を聴きたい、神よ、それは私に欠けているからだ・・・そんな祈念の如きおもいで私は音楽を聴いている人間だ。
かくて私には、シューマンはつまらない。その浪漫的、シューマン自身の言葉をかりれば「ドイツ人に特有な<情緒的と知的とのたくみな融合>で、フランス語には無い感じ」の「ユモレスク」(作品20)に、クララがよくアンコールに使ったというセンチメンタルな「花の曲」(作品19)に、あるいはきわめて抒情的なその歌曲の幾つかに聴き惚れることはある。たしかにそれらは珠玉のごとき小品である。だが断じて小品で、こう言ってよいなら片々たる美にすぎない。私は曲趣を一貫する倫理性を欲するものだ。悪漢あのワグナーにさえそれは厳としてあり、多くの人に憎まれ社会通念に背き続けた背徳者のネガティブな倫理観ともいうべきものがワグナー楽劇の底流に血をふいて流れている。私はその意志のつよさに感動する。シューマンにはないものだ。意志薄弱な人間の、私同様な甘さがあるだけだ。シューマンがつよい意志で生きるのはあのライン川に身を投じる時だろう。紛れもなくそのとき甘い男はどっと倫理の血をほとばしらせた。精神錯乱ではない、もっと正気なモラリストとして、こういっていいならリアリストになって、彼は死を選ぶのである。だが遅すぎたのだ。・・・・」    (五味康祐「音楽巡礼」)

                    

12月14日(火)    倫理観とは (4)


「山下清という人の絵は、色彩は美しいかもしれないが、なにも語りかけてくるものがない。いくら見ていても、その美しさのなかから人間が現れてこない。生活感情っていうかな、生命感がないんだな。美しい、鋭敏な色感というものはあるけれど、これは、だれにも性欲があるのと同じでね、ほんとうの美しさとはいえないんだ。・・・人は、人とともに生きるのだ、という根本の倫理がなければならないんだ。けっきょく、美というものは、広い意味で倫理的でなければならない。倫理的でない美はない、といえるね」
                             (高見沢潤子「兄小林秀雄との対話」)


12月5(日)  「年次改革要望書
            もっとも明瞭な<日本はアメリカの属国>資料


犬山市民総合大学で政治評論家、森田実さんの講演を聴いた。
現在の日本の絶望的な状況を具体的に指摘した講演だった。会場は静まりかえり、時々かすかにため息がもれる。
構造改革と称する小泉内閣の進める日本社会の改造が、すべてアメリカの「年次改革要望書」に基づいて行われていると指摘した、関岡英之(著)「拒否できない日本」(文春新書)の紹介が主要な内容だった。この本によって、日本が完全なアメリカの属国であるという最も明瞭な資料が一般に知られるようになったのだ。

「拒否できない日本」の中の『年次改革要望書』についてのくだりが、HPで紹介されていた。
引用させてもらう。

<数年後の日本を知る必読の文献>
これから数年後の日本に何が起きているか。それを知りたいと思ったとき、必読の文献がある。アメリカ政府が毎年十月に日本政府に突きつけてくる『年次改革要望書』である。日本の産業の分野ごとに、アメリカ政府の日本政府に対する規制緩和や構造改革などの要求事項がびっしりと書き並べられた文書である。
『年次改革要望書』では、最近まで五つの優先分野が指定されていた。通信、金融、医療機器.医薬晶、エネルギーとならんで住宅分野がそのうちのひとつだったのだ。しかし二〇〇一年版以降の『要望書」からは住宅分野が優先分野から姿を消した。住宅分野に関しては、アメリカは欲しい物をすでに手に入れた、というわけである。
住宅分野に関してアメリカ政府が日本政府へ要求していたのは、ひとことで言えば木材製品の輸入拡大、ということに尽きる。もともと日本はアメリカにとって木材製品の最大の輸出市場なのだが、アメリカはビジネス・チャンスを更に拡大しようとして、過去数年さまざまな要求を日本に突きつけていたのである。日本政府がこれまで建築基準法の改正、「定期借家権制度」の導入や「住宅性能表示制度」の導入など一連の規制改革を進めてきた最大の理由はここにあったのである。

<日本政府はなぜ外国業者の利益をはかるのか>
私はなにもそれをインサイダー情報や内部告発などによって知ったのではない。アメリカの情報公開法のお世話になったわけでもない。アメリカまで行く必要さえなかった。自宅に居ながらにして、インターネットで誰にでも公開されているアメリカ政府の公式サイトから簡単に知ることができた。アメリカ政府自身が、その事実を公式文書のなかで堂々と公表しているのだから。
それにしても日本の政府はなぜ、外国業者のビジネス・チャンスを拡大するために、審議会に諮問して答申書をつくらせた上で法改正まで行うという、手の込んだ手続を踏んでいるのだろうか。なぜそこまでする必要があるのか。

<クリントン政権の考え出した「年次改革要望書」>
そもそもこの『年次改革要望書』とはいったいどういうシロモノなのか。日本とアメリカとの外交関係において、それはどのように位置づけられているのだろうか。アメリカ通商代表部の『外国貿易障壁報告書』二〇〇〇年版に、『年次改革要望書』というものが毎年提出されるようになったいきさつが書いてある。それによると、これは一九九三年七月の宮沢首相とクリントン大統領の首脳会談で決まったことらしい。
個別産業分野の市場参入問題や、分野をまたがる構造的な問題の是正を日本に迫るための、アメリカ政府の包括的なアプローチである、と説明されている。わかりやすく言えば、アメリカが日本に外圧を加えるための新しい武器として、クリントン政権が考え出したもの、ということらしい
この宮沢・クリントン首脳会談のときの政府間合意を根拠として、一九九四年に最初の『年次改革要望書』が提示された。それは三十二ぺ-ジの英語の文書で個別産業分野としては農業、自動車、建築材料、流通、エネルー、金融、投資、弁護士業・医薬・医療・情報通信など、分野横断的なテーマとしては規制籍や行政改革、審議会行政や情報公開・独占禁止法と公正取引委員会、入札制度や業界慣行、そして民事訴訟制度などが網羅され・まさに日本の産業、経済、行政から司法にいたるまで、そのすべてを対象にさまざまな要求を列挙したものだった。

<マス.メディアが今まで報道しなかったこと>
日本政府も同時にアメリカ政府に対する要望書を提出することになっていて・表面上は対等かつ双方向という建前になっている。しかしもともとこの要望書は外圧の一手段としてアメリカから提案されたものだ。ことの発端からして双方向ではなかったのである。
外務省の公式ホームページには、日本政府が毎年アメリカ政府へ送った『年次改革要望書』は掲載されているが、アメリカ政府が日本政府へ提示した方は公開されていない。不思議なことにマス.メディアでも従来このことはほとんど報道されていないのだ。
二〇〇三年十月にもアメリカ政府から日本政府へ『年次改革要望書』が出されているが、なぜか主要な新聞はそのことを報道しなかった。二〇〇一年十月のときは・シンガポールで開催されたWT0」の非公式閣僚会議の際に田中真紀子外務大臣(当時).がゼーリック通商代表部代表と『年次改革要望書』を交換し合ったということを、十月十五日付けの日本経済新聞が小さなベタ記事で報道した。
しかし「米国側の要望内容は明らかになっていない」として、内容にはいっさい踏み込んでいない。日本の将来にとってこれほど重要な意味を持つアメリカ政府からの公式文書である『年次改革要望書』の全文が日本のマス・メディアで公表されたことはないのだ。それでは、アメリカ政府が日本政府に毎年どんな要求を突きつけているのか、われわれ一般の国民はどうやったら知ることができるのだろうか。

<内政干渉を隠そうともしないアメリカ>
種明かしをすればどうということはないのだ。アメリカ政府の日本政府に対する『年次改革要望書』は誰でも簡単に読むことができるのである。全文が日本語に翻訳され、在日アメリカ大使館の公式ホームページで公開されているからだ。過去数年のバックナンバーも、すべてそこで日本語で閲覧することができる。
私は大学院の修士論文を書くために、建築基準法の改正についてインターネットでいろいろ調べているときに偶然それを見つけたのだ。なるほどアメリカという国は堂々と構えているものだ。内政干渉の事実を隠そうともしない。伏せようと努力しているのは、干渉している側ではなく、もしかしたらされている側の方なのかもしれない。

<要求の進捗状況は日米当局者が点検>
『年次改革要望書』は単なる形式的な外交文書でも、退屈な年中業事でもないアメリカ政府から要求された各項目は、日本の各省庁の担当部門に振り分けられ、それぞれ内部で検討され、やがて審議会にかけられ、最終的には法律や制度が改正されて着実に実現されていく。受け取ったままほったらかしにされているわけではないのだ。
そして日本とアメリカの当局者が定期的な点検会合を開くことによって、要求がきちんと実行されているかどうか進捗状況をチエツクする仕掛けも盛り込まれている。アメリカは、日本がサボらないように監視することができるようになっているのだ。
これらの外圧の「成果」は、最終的にはアメリカ通商代表部が毎年三月に連邦議会に提出する『外国貿易障壁報告書』のなかで報告される仕組みになっている。アメリカ通商代表部は秋に『年次改革要望書』を日本に送りつけ、春に議会から勤務評定を受ける、という日々を毎年過ごしているわけである。(P47−P53)
< 引用、終わり >

絶望的な森田講演の中で、少しだけ明るい日本の状況が2点、紹介された。
1、選挙が公正に行われていること。今やアメリカが選挙の監視を国連やヨーロッパ諸国に依頼 するという動きがでるほど、民主主義の腐敗が進んでいる。日本は世界で一番選挙が公正に 行われている。
2、出版業界が、マスコミの報道しない真実が書かれた書籍を販売し始めた。それによって日本 国民も、少しずつ真実を知ることができるようになってきている。

12月2(木)   紅葉巡り、雑感

彦根城と玄宮園、湖東三山と言われる西明寺、金剛輪寺、百済寺の紅葉を見てきた。
朝6時半に出発して9時過ぎに彦根に到着。もう遅いだろうと半分諦めていたのだが、何の何の、ほぼ真っ盛りという状態だった。

彦根城の古木の間に点在する紅葉の美しさも素晴らしかったが、井伊直興(4代藩主)の庭園である玄宮園の景色は息をのむほどであった。私も少なからず名園は見てきたつもりだが、これほど見とれた景色はかつてなかったように思う。紅葉と常緑樹と池と東屋に加えて城の配置が絶妙なのだ。

玄宮園の茶室には殿様がすわる位置がある。庭を眺める時、構造上どうしても柱が4本、景色を遮るように立っているのだが、そこに座って庭を見ると、何と、二カ所の2本の柱がうまく重なって1本になるのだ。つまり、その一カ所からだけは、庭を眺めるとき2本の柱で景色が遮られるだけになるのだ。茶室の女店主と話をして、これは教えてもらったことである(こういう所では、とにかく色々な人に質問して話を聞き出すことが肝心で、私は常にそう心がけている)。

湖東三山の紅葉も素晴らしかった。それぞれに伽藍と庭園と紅葉がマッチした絵に描いたような美の世界だった。
西明寺で気づいたことだが、紅葉の美しさは、太陽の光線を受けた葉っぱを裏側から見るときが最高である。これは教会のステンドグラスの美しさと同じ原理だ。光で透かされた紅葉の輝きは、まさに美の極致であった。

途中で多賀神社にも立ち寄った。だが、この由緒ある有名な神社には失望した。建物だけは堂々として立派なのだが、境内が狭いのだ。熱田神宮や伊勢神宮、住吉大社などのように歩くことを楽しめない。確かに古木もあるが、数が少ない(神社の裏に森はあるが入れないようになっている)。
ここには、イザナギ・イザナミの神という古事記に描かれた日本国の祖神が祀られている。拝殿の横に天皇陛下、皇后陛下の大きな文字が掲げられている所から見ても、この神社は非常に「国家神道」のにおいのキツイ神社だ。記紀神話が作られた時から始まる「国家神道」の流れは、それまでの国家と関係ない「神道」の神、つまり「森」「古木」「森の生き物たち」を脇に追いやって、堂々たる建造物(神社)による威厳で人々を精神的に支配する傾向を見せ始めた。この神社は、そういう歴史の必然的な流れを、強く、忠実に体現して来た神社ではないかと想像した。新しい「国家神道」の中に古来の(古層の)「神」を含み込んで、いわば新古習合の「神道」として現在に続いている(例えば、諏訪神社のような)神社も多い中で、この神社の拝殿の立派さ(修復した直後らしいが)には、何となく建て方に豪華さが強調されているように思えて好ましくなかった。
<言うまでもなく一番強く「国家神道」を体現した神社は靖国神社である。あそこには古来の神道の神などはかけらもない。ものすごく狭い、細長い敷地のだれかの屋敷を神社にしたもので、縦の方向から歩かせて拝殿まで距離感を味わせる工夫がされているが、戦争の道具類の展示と拝殿だけが立派で、「自然」との接点はない>

アントニオ・ガウディが有機体に近づけるような曲線を強調した建造物をやたら造って有名だが、彦根城の天守閣の棟木など、グニャグニャの木がわざと使われていて、まるでガウディのような作り方だった。(どうみても、合理的な作り方ではない。そこらにあった太い木を使って作ったようだったが、実に面白かった)ヨーロッパの絢爛豪華な宮殿や、ガウディが構想して、何百年もかけて作られつづけている豪華な教会などがあるようだが、そういう、建造物にとことん人間の手を加える西洋風の美より、自然の美しさの中にちょっぴり建造物が加えられているという感じの、小さな城、神社、仏閣、庭園の美の方が、私は好きだ。

11月30(火)   古木

先日、息子の子供のお宮参りに同行した。
「子守り神社」という、いつも行く地元の神社である。
神社には必ず古木がある。その神社にも形のいい太い古木が何本かあった。
みていて気持ちが落ちつく。特に根っこの様子には感動する。
古木、巨木の、大地にしっかり根を生やしている姿には、生命というものの原初的なイメージがある。古木というものは、太い根を無数に伸ばして存在の根源と結びつき、その上で堂々と個としての生を育んでいるからだ。
苔むした見事な古木、がっしりと大地に食い込んでいる太い根っこにこんなに魅了されるのは、自分の存在にまだまだアヤウサを感じているからなのだろうか。

11月27(土)  色即是空、空即是色

昨日の私の投書文を友人の橋本さんが自分のHPに引用して、補足として数学も言語であるという従来の主張を展開された後に、次のように書いていた。

<私は「色即是空、空即是色」もまた、「具体から抽象、そして再び具体へ」ということではないかと思っている。言葉は「空」である。しかし、この「空」を通り抜けることで、私たちは一段と豊かな現実に再会する。「空」を媒介とした生きた現実との出合いがふんだんにある人生を、私は「日々是好日」と呼びたい。>

これはまさに私が書こうと思っていたことそのものだった。
「色即是空、空即是色」は、深遠な仏教哲理であると同時に、とても身近な人生原理でもあるわけだ。我々はこの原理をしっかり体得し、最初の「色」の世界に生きるのではなく、「空」を通り抜けた後の「色」(最初の「色」とは異なる「色」)に生きることを目指さなければならない。

11月26(金)  久しぶりの投書

「倫理観のリニューアル」を考え続けていて、しばらく新聞投書をしていなかったが、ふと思い立って従来の自分の読書指導についての考えをまとめて朝日新聞に送ってみた。それが、先週の高野山旅行中に掲載されていた。

抽象的思考力、読書指導で

 高校で教えているが、常に強調していることは「具体から抽象、そして再び具体へ」ということである。具体的な事柄の中で生活している我々は、目前の問題の処理に追われて毎日を過ごさざるを得ないが、時にはそれを抽象化して問題の本質をとらえ直し、その上で再び取り組む姿勢がなければ、正しい判断ができないからである。
 事例として、生徒にとって一番身近で深刻な友達関係のことをあげたりする。「君たちがもし友達とうまくいかなくなってどうしても関係が回復しない時は、一度『友情』ということ自体を考えてみてはどうか。その人との関係という具体から少し離れて、その人との『友情』を抽象的に考えてみるのだ。そうすると、その友人との関係の本質が見えてきたりする」と。
 そのような抽象的思考力を養うために、私の勤める学校では読書指導が重視されている。行事の時を除いてほぼ毎日10分間の読書時間が設定されており、本を紹介する読書案内のプリントがほぼ毎週配布されている。抽象的思考力というものは、活字を読むことによって習得される言語能力が高まらなければ養えないと考えるからである。

11月24(水)   韓国ドラマブーム

韓国ドラマ「冬のソナタ」を数回飛ばし見して、私には好みが合わないドラマだと感じた。
その時、昔テレビで放映されていた石原裕次郎の映画「乳母車」をふと思い出した。裕次郎がやたらしゃべりまくる映画で、戦後民主主義の理念を一つ残らずセリフにして語らせているような印象を受けたのだ。

この二者の作品に共通しているものは、早く先進国のような民主主義精神を身につけたいという熱意のようなものだったらしいということに、佐藤忠男氏の文章を読んで気づいた。

「いま日本の女性たちを熱狂させている純愛メロドラマ系の作品もそうだ。深く儒教が根を下ろしていたこの国としては、男女平等や女性尊重、恋愛の自由といった文化がそう急速に進行するわけはないのだが、そこを進めなければ韓国は世界の一流の国にはなれないという思いが、熱意をこめてそれを進めた。だから韓国の純愛メロドラマは観念的なまでに熱っぽくて一途であり、一途さという美徳を見失っていた日本人に新鮮なショックを与えたのだ」(文芸春秋10月号)

観念的に一途さ、純愛を求める日本人の最近の傾向の中に、韓国ドラマブームが位置づけられる。「真珠婦人」なんていう古風なメロドラマが流行ったのも同じ根っこからだ。「蛇にピアス」というマゾ小説も、主人公の一途さ、純愛、ということで受け入れられたりするわけだ。

石原慎太郎原作の「弟」がドラマ化されて(母が好きだったので私も全部見たが)、ふと、裕次郎ブームも再燃するかなと思った。しかし粗製濫造された彼の映画は、純愛よりもアクションの要素が多く、それがあまりにもチャチだから、強烈なアクションを見慣れている現代の観客は白けるだろうと思い直した。戦後に作られた一途な純愛ドラマなら、裕次郎映画なんかより他にもかなりある。純粋に恋愛だけをえがいたような作品であれば、映像技術の進化に左右されないから、再評価される可能性はあるかもしれない。


11月17(水)  教育講演会

昨日の教育講演会はひどい内容だった。
テレビのバラエティ番組あたりに出るようなレベルの人の人生観を、あれだけ長々と聞かされたのにはまいった。そもそも「スローライフ」が見直されている時代に、歩く百億円とかいわれる全身宝石衣装がウリの成金さんのモーレツな「ナンバーワン主義」を聞かされたって、学べるようなものはなにもない。

私は、同じキンキラキン衣装のタレントとして美輪明宏を対比してみた。
美輪さんの方は、その生き方にしっかりした芸術家としての「美意識」が貫かれていて、しかも非常に倫理観も強く、宗教心もあって、本物だと思う。今回の講師○○さんの人生観は、失礼だが美意識なんてものではなくて、すべて金額に換算されるような価値観だ。彼女は「夢をあたえるために」あえてこういう格好をしているというが、私としてはそんな「夢」は与えてもらいたくない。

今回の講師は、Pの人々だけを対象とした「人生を楽しく生きる講演会」といったようなものであれば、まあいいだろうが、生徒まで参加させる「教育講演会」には、とても適する人だったとは思えない。

11月15日(月)  「デイ・アフター・ツモロー」

映画「デイ・アフター・ツモロー」を見た。
娘がDVDを借りてきてくれたので、我が家の「大画面」(34インチ)5.1チャンネルで、ウーハーも利かせて大音響で鑑賞した。

地球温暖化問題をサスペンスにした、実に健全な内容の大迫力映画だった。襲いかかる大自然の驚異に対し、けなげに対抗する親子の物語。昔のディズニー映画などによく感じた健全さで貫かれている。
あまりに健全すぎ、しかもニューヨークが氷河期のようになってしまうという途方もない展開をド迫力の画面で見せてくれたので、本当は身近な深刻な問題であるべき地球温暖化の恐怖が、かえって絵空事のように遠のいてしまう印象を受けた。
温暖化が氷河期を作ってしまうという理屈(今一わからないが・・・)。
「北大西洋海流によって北半球の温暖化は保たれています。北極の氷が溶けて海水温度が下がると、海流が乱れます。流れが止まると、北半球の気温は下がります」
1万年前の凍土から発掘された、ほぼ完全な形のマンモスの体内から未消化の草が出てきたという。つまり食事中に凍り付いたということらしい。
それと同じ現象が起こり始めるという設定。
海水温度が急激に下がり始める。同時に巨大竜巻が起こる。こぶし大のヒョウが降る。そして、北半球をすっぽり覆うような巨大な低気圧の雲が発生し、その目の部分では1秒間に10度ずつ気温が下がり、零下100度以上になる。飛んでいたヘリコプターの燃料が凍結して落下し、はためいていた旗が瞬間に凍り付く。
後半のクライマックスはその「目」がニューヨークにやってくる。あらゆる手段で暖をとって室内に籠もっていなければ凍り付くのに、ちょうど室外に出ているときにそれがやってくる。凍結状態が生き物のように地面や建物を次々に襲って主人公たちを追いかけてくるなんていう場面は初めて見た。

「京都議定書を守る費用は誰が払うんだ」なんていう副大統領の言葉も入っている。科学的な理屈はよく分からないが、とにかく温暖化を止めなければ恐ろしいことが起こる(かもしれない)という内容の警告映画になっている。そういう映画が、京都議定書を破棄したアメリカで作られてヒットするという「歪んだ」国がアメリカだ。それは、自分もライフル協会の永久会員であるマイケル・ムーアが、協会会長のチャールトン・ヘストンに銃社会の罪を詰問するような映画を作ってヒットするという「歪んだ」感覚と、どこか共通しているように思った。


11月11日(木)  「特別な一日」

エットレ・スコーラ監督のイタリア・フランス合作映画「特別な一日」がBSで放映された。ソフィア・ローレンとマストロヤンニの黄金コンビで作られた映画はいずれも高い水準のものであるが、これはその中でも傑作だと思う。
ムッソリーニ支配下のローマにヒトラーがやってくる。歴史的な同盟が実現するということで、アパートの住人全てがファシスト集会に出向く。後に残された6人の子を持つ主婦(ローレン)と、官憲に追われそこに忍んでいた反ファシストの男(マストロヤンニ)の、一日だけの恋を描いた作品。
ファシスト集会の様子がラジオで流れ続ける。その中で、偶然に二人は出会い、倦怠期の主婦であるローレンは男に惹かれていく。自殺を考えていた絶望的な男は、主婦と出会ったことで思いとどまり、会話を求める。全体主義に染まっている社会の中で疎外された男の孤独感がマストロヤンニの演技によって、無教養であることでファシストの夫に軽く扱われながら6人の子供の世話にあけくれる主婦の倦怠感がローレンの演技によって、それぞれ見事に表現される。二人ともファシズムの犠牲者であるが声高な社会批判の言葉はこの映画にはない。ただ哀しく、寂しく、相手を求めあう二人の姿が描かれるだけだ。
設定としては「マディソン郡の橋」に似ているかもしれないが、中身は全く違う男女の恋が描かれている。この監督のもう一つの作品「ル・バル」も観たが、台詞が一つもないダンス映画で、

11月8日(月)    倫理観とは (3)


社会学者の宮台慎司が若者向きに質問に答えた「これが答えだ」(朝日文庫)は、実に刺激的な本だ。「最新の学問的成果がギューギューに詰め込まれている」と作者が自負するように、身近なしかしそれだからこそ難解な疑問に対する社会学的「説明」(答えだとは必ずしも思わない)がこれほど明瞭になされている本はあまりないだろう。

今まで自明のこととして考えていた参政権の行使について、宮台氏は「棄権、超オーケー」として、次のように説明する。

「民主制は皆で支えないとダメになるという考え方がありますが、完全にデタラメ。積極的に投票に行く人が一割しかいなくても、その一割が真剣に民主制を守ろうとする限り民主制が崩壊することはありません。残りの何も考えない九割がヒトラーや麻原のような人間に熱狂して投票すれば、その瞬間に民主制は終わりを告げます。皆で支えるべきかどうかってことは、民度との兼ね合いで決まってくるんですね。・・・・(棄権するようになることをさして)それでいいんですよ。欠乏の共有がなくなって、幸せや不幸のイメージが人それぞれになった成熟社会では、皆が政治に関心を持つなんてことはむしろ異常です。みんなで支えないと方向を誤るような政治システムは、その時点ですでにブッ壊れています」

「鼓腹撃壌」という言葉を思い出す。本当に太平な世の中なら人々が政治になんか興味を示さない、ということはあるだろう。しかし(宮台氏が言う)現代という「成熟社会」が、「鼓腹撃壌」的社会でないことだけは確かだと思う。
宮台氏の説明はそれなりに論理的だ。おそらくポイントは<民度との兼ね合い>ということだろう。この点をふまえてもう少し考えてみたい
11月7日(日)    倫理観とは (2)

報道ステーションで古館伊知朗がとてもいい報告をした。
新潟地震の被災地で援助物資を受けていた一人の老人がひどく怒っていたという。
最初、物資の届くのが遅いことを怒っているのかと思ってよく聞いてみると・・・・その老人は、物資を送ってくれた人が誰なのかが分からないことを怒っていたというのだ。
これではお礼を言うこともできない、ということが老人の怒りだった。

何という素晴らしい<感覚>だろう!
倫理観というものの、もとになるべき根元的な<感覚>の実例として、私はこの話を深く心にとめた。

村上春樹の世界   3月6日(木)

村上春樹の「海辺のカフカ」を読み終えた。
つまらない小説だった。
週間ブックレビューで話していた佐高信さんの、村上春樹についての評言が面白かった。
「類」と「種」と「個」という三つの次元がある。
「類」とは・・・人類というような次元。
「種」とは・・・人種、民族、国家、という次元。
「個」とは・・・個々の事柄。
村上春樹の作品には、この中の「種」の次元がスポッと抜けている。
「個」の次元から、いきなり「類」の次元に飛び込む。
「個」の次元と、「人類みな兄弟」といった次元を往き来する。
村上春樹が好きな人は、そこが気持ちいいのだ。
こういうタイプの作家として、沢木耕太郎もそうだという。


大湫宿(オオクテジュク)へ行った
3月5日(水)


先日の日曜日、19号線を北上して瑞浪の近くにある大湫(オオクテと読む)宿というところへ行った。
ここは中山道の宿場町で、皇女和宮が泊まった本陣跡がある。
よく紹介されていたので一度行ってみようと思っていた。
本陣跡は小学校になっていた。歌碑などがあった。
雰囲気はとてもいい宿場町だったが、あまりにも小さかった。歩いて30分ほどで全部見てしまえる。あの和宮一行が歩いた道なのだなあと思いながらブラブラした。
見ごたえがあったのは神明神社にある大杉。
樹齢1200年という杉が神社の中央にあって、それは見事だった。

皇女和宮一行の大行列のものすごさは想像を絶する。
幕府はこの時とばかり、衰えぬ威勢を示すため、お迎えの人数 2万人を送ったという。道路や宿場の整備・準備・警護の者たちを含めると総勢20万にもなった。公武合体に反対の連中から護るため、庄屋の娘三人を、和宮と同じ輿を造り計四っの御輿で中山道を通って江戸へと行列は続いた。京より他の土地を知らない宮の御心を慰めようと、途中名勝を通る時など御輿をお止めして添番がご説明申し上げたという。和宮は、その時つぎのような一首をつくった。。
 落 ち て 行 く 身 を 知 り な が ら 紅 葉 ば の
 人 な つ か し く こ が れ こ そ す れ
行列が宿場を通り過ぎるのに3日かかったという。荷物をもつ従者が倒れて死んでいったという記録もあるそうだ。確かに大湫宿の外れにも急な坂道がある。京都から江戸まで、ものすごい量の荷物を持たされた従者の苦しみは大変なものだったろうと思う。


徳川家康はそんなにいい人間だったのか?
3月4日(火)

昨年末に放映された山岡荘八原作のNHK大河ドラマ「徳川家康」の総集編(6時間ぐらい)をやっと見終わった。
山岡荘八がどういう角度で家康を描いているのか知りたかったのだ。
取りあげた人物をとにかくよく描こうとするなら、なるほどこういう風に描けばいいのだなという<型>とでもいうものを学べた。

このドラマでは、家康は実に人間味あふれる素晴らしい人物として描かれている。
その視点が全編に貫かれていたが、特に関ヶ原で勝利した後の姿は、私の持っていたイメージとかなり違っていた。
家康は終始、豊臣家も存続させながら天下太平の世を作ろうと尽力するのだ。
(そのあたりを松本清張の「徳川家康」で確かめてみると、清張さんは、はっきりと「家康の目的はあくまでも秀頼が当主である豊臣家の根を絶やすにあった」と書いている)
大阪冬、夏の陣に至る経過も、豊臣秀頼、淀君が大阪城という「城」にいることが戦乱の種になるということが強調される。
家康はそのために、秀頼に大和郡山の城に移ることを求める。つまり、豊臣家を潰したいわけではなく「大阪城」が反乱軍の根拠地になることを避けたかったというわけだ。
そして、そのような家康の意向に反する行動が、徳川側では将軍職を次いだ秀忠から、豊臣側では秀頼を担ごうとする側近から出てくるという風に描かれる。
大和郡山の城も秀頼側の軍勢によって焼かれてしまい、家康が最後まで願った秀頼移動もかなわない。
命を救おうとした願いも、家臣の攻撃の仕方がまずくて出来なかったので、家康は家臣に怒りをぶつける。
つまり、主役にした人物をいい者にしたければ、事実として残っている悪い行動の原因をすべて側近や周囲の状況による<やむを得なさ>として描けばいいわけだ。
そうすれば、東條英樹もヒトラーも、スターリンも毛沢東も、カエサルもナポレオンもいい人間だったと描くことができる。

結局は、どんなに資料が出てきても、歴史の真実は分からない。
その資料の読み方で<物語>が作られる。
歴史上の事実から、我々は我々にとって有益な<物語>を作ることしかないのである。

「ドラッグ・デリバリー・システム」    
3月3日(月)

先日の「ブロード・キャスター」で、ナノテクノロジーの特集をしていた。
それによると、私の大好きなSF映画「ミクロの決死圏」と類似した世界が実現しそうだという。
もちろん映画のように人間がミクロサイズになって人体の患部に潜入し治療するなんてことではない。ナノサイズのカプセルに仕込んだ抗ガン剤で、ガン細胞だけをピンポイント治療するという薬が、3年以内に販売されると言うのだ。

それは東大医学部が開発している「ドラッグ・デリバリー・システム」
高分子ナノミセルという50ナノメートル(10億分の50メートル)のカプセルに抗ガン剤を含ませて血液中に入れる。
するとカプセルは、正常な細胞は通過するが、ガン細胞に冒されている箇所では血管にナノサイズの穴が空いているので細胞内に侵入する。
そしてガン細胞内でカプセルが破れて抗ガン剤がそこにだけ注入される、というのだ。
正常な細胞には影響を与えずにガン細胞だけに治療が出来る。
まさにピンポイントで、ドラッグをデリバリーするわけだ。

今は、抗ガン剤がガン細胞以外にも働くので、激しい副作用がある。この薬が開発されると、少なくとも抗ガン剤による副作用の苦しみから、人々は解放される。
素晴らしいニュースだった。科学の進歩は本当にありがたい。
頭のいい東大の人たち!がんばってくれ。
父親がガンで死んだ私は、そろそろガンにかかりそうな予感がするので、とても明るい気持ちにさせられた特集だった。


映画「チョコレート」  3月2日(日)

黒人女優ハル・ベリーが史上初めてアカデミーの最優秀主演女優賞を取ったことで話題となった映画「チョコレート」を見た。

夫(死刑囚)と死別し家賃も払えず困窮している黒人女性レティシアを演じたハル・ベリーは、確かにアカデミー賞に該当する重厚な演技だった。
ラストは、彼女の表情で締めくくられ、過酷な状況から脱して白人男性を愛し始めた黒人女性の姿が強調されていた。
しかしこの作品は、全体的にはどう見ても相手役のハンク(ビリー・ボブ・ソーソトン)が主人公の作品だと思う。

ハンクは、黒人差別主義者の父親の言いなりで生き方を支配されていた。
父の仕事である刑務官になり、自分の息子も刑務官にしている。
そして息子を軟弱だということで憎んでいる。
死刑執行の時吐いてしまう息子を怒って殴りつける。
となりの黒人の子供と付き合うのを銃を持ち出してやめさせる。
そんな父親に反抗できない息子は、憎まれていることを苦にして自殺してしまう。
それをきっかけに、ハンクは変わっていく。

ハンクは、レティシア(ハル・ベリー)の子供がひき逃げにあった時、たまたま通りかかって彼女を助け、子供を病院に運ぶ。そして、彼は人間的な愛情から、子供が死に悲しみにくれるレティシアを慰めるのである。
レティシアはそんなハンクに惹かれていく。ハンクも彼女を求める。
つまり、父親の影響で黒人差別の心を持っていたハンクが、息子を亡くしたことをきっかけに、父親とも訣別し、黒人女性との新しい愛を育む・・・といった物語。

南部アメリカの黒人や女性を蔑視する風土の中の異常ともいえる家族の様子は、冒頭のハンクの息子のところに売春婦がやってくる強烈な場面でまず描かれていた。
これにはびっくりした。
女は金をもらい、全裸になって後ろ向きに尻を突き出す。息子はズボンをおろし、女を触りもせずにただペニスを入れて1分ほどで終わってしまう。そして会話も何もなしで女は出ていくのだ。
さらに驚いたのは、その息子が自殺した後、父親のハンクが夜中に同じ女を電話で呼ぶのだ。「夜中にしたくなったの?」と言いながら、女は息子の時と全く同じように服を脱いで尻を突き出すではないか。
女が息子のことを一言聞くと、ハンクはセックスできなくなってしまう。
親子が同じ売春婦で性欲処理をしていたのだ。

この異常なセックスシーンと、ハンクとレティシアの激烈ともいえるセックスシーンは対象的である。
つまりそれは、ハンクとレティシアの「人間としての愛し合い」を強調して描いていると言えると思う。
(考えてみれば、後背位というのは動物の性行為の形である。人間と一部の知能の高い動物のみが向き合ってセックスする。つまり後背位というセックス自体が、機械的、事務的、動物的なセックスを象徴しているのだ)
この映画は、異常な人間関係から脱して、差別意識も乗り越え、人間として生き人を愛し出したハンクという人間の変貌の物語ということができるのである。

シャドー81  3月1日(土)

今読んでいるルシアン・ネイハムの「シャドー81」は、ミステリー小説の歴代ベストテンで常に上位に入っている定評のある作品だ。
ベトナム戦争中の話である。犯人はTX75という合衆国で最も精巧な他用途垂直離着陸戦闘爆撃機を操縦する空軍将校グラント。
彼は、ベトナムを攻撃している途中で消息を絶つ。操縦している最新鋭の爆撃機を奪ったのだ。
そして、その爆撃機で、あるジャンボ機の背後につき、機長と管制塔、合衆国政府首脳にアナウンスして、101名の乗客の命と引き替えに莫大な金塊を要求する・・・というお話。

機内に乗り込んでハイジャックするというのはよくある話だが、ジェット戦闘機で乗っ取るというのがまずすごい。
しかも、乗っ取るまで180頁にわたって、グラントが準備する場面がたっぷりと描かれるのである。
まず造船所で改造船を注文し、TX75を操縦して消息を絶ち、その戦闘機を改造船に積み込んで隠れて移動し、浜辺で垂直離陸する・・・といった緻密な描写が延々と続くのだ。
最初船を注文するなんていう場面があって、一体これは何をしているのだろう、と思ってしまった。
もちろん、ハイジャックしてからの、ジャンボ機内の様子、管制官、機長、政府首脳、大統領のさまざまな対応の描き方は見事!。ハラハラ、ドキドキの連続。
なるほど、これは普通のハイジャック小説とはレベルが違う作品だと思っている。

描写がいいので早く読むのはもったいないから、ゆっくり読んでいるのである。
あと3分の1ほど。
読み終わったら、また感想を書きたい。

妹尾河童の契約結婚   2月28日(金)

数年前放映された「未来潮流」で、妹尾河童が、自分たちは30数年にわたって、毎年、結婚を継続するかどうかを話し合って決めていると話していた。
1年ごとに二人の関係をしっかり考えて契約を更新するのだという。
惰性での結婚生活は送らないということらしい。
ずっと更新されてきたが、それでも今までに4、5回、破綻の危機があった。
それは河童さんの<本気>によるという。
河童さんは惚れっぽくて、本気で女性を好きになってしまうのだという。<浮気>は出来ない。しかし、奥さんへの愛情は持ち続けてきたらしい。
危機の時、奥さんは「あなたが私に愛情を持っていないことがはっきりしたら、相手がいようといまいと離婚する」と言って、結婚を継続してきたという。
河童さん夫婦の並みでない関係が彷彿としてくる。
聞き役の山田太一が感心していた。


心が弱くなった時は・・・ラッセル。     
2月27日(木)


「自分の関心を内へ内へと向けるのではなく、外界へとふりむけてあらゆることに好奇心を抱くこと」こそが幸福獲得の条件であると説いたバートランド・ラッセル。
何というみごとな言い回しだろうかと、つくづく感心する。
<幸福>について語った言葉で、こんな単純な、しかし深淵な、そして実用的な言葉は他にないように思う。

こんなことなら簡単にできそうだ、と思う。
しかし実はこれがとてつもなく難しいことであることは、世に<うつ病>と言われる状態に陥る人がいかに多いかによって明らかだ。
自分の関心を内へ向けてしまうというのは、要するに<欲>にとらわれているということなのだ。自分のことをどれだけ度外視できるか・・・その人の幸福の程度は、それによって決まってくる。
宮沢賢治が、まったく同じ事をこう言っていた。
「・・・あらゆることを自分を勘定に入れずに、良く見、聞きし、分かり、そして忘れず・・・」(「雨にも負けず」)


小沢昭一を明治村村長(三代目)にしよう!  
2月26日(水)


小沢昭一のエッセイ集を読んでいたら明治村について書いてあった。
2002年のことらしいが、明治村に来て、中にある呉服座(これはクレハザと読む)という芝居小屋で話をしたらしい。その話の内容が書いてあった。
呉服座は私の大好きな建物の一つで、頼み込んで地下の通路や舞台裏まで見学させてもらったこともある。あそこで大ファンである昭一さんの話が聴けたら最高だろうなと思いながら読んでみると、その時、実に彼らしいことをしゃべっているのだ。
彼の話に、なるほどと思った。
思っても見なかったことだった。
では、全文を引用しよう。
話芸の天才といってもいい彼の話の雰囲気も少しは感じられるかも知れないので。

「かねて私は、かつての遊郭の建物が消えていくのを、しのびないと思っているのです。急いでおことわりしておきますが、私は遊郭の復活論者ではありません。問題はあの建物です。日本各地津々浦々に存在した遊郭には、独特の立派な木造建築が並んでおりましたが、昭和33年以降、急速にその多くは改築、あるいは取り壊されてしまいました。でも、いまならまだ、あちらこちらに多少は残っていることを知っております。それを何とか『明治村』に移築、保存できないものでしょうか。ここには監獄や銭湯の建物も残されているのですから、お女郎屋があってもよろしいじゃございませんか・・・。
 そこでです。『明治村』の村長は初代が徳川夢声さん、現二代目が森繁久弥さん。その三代目に私をご指名いただけないものかと考えたりするのです。いえ、私なんぞはその器でないことは十分に承知しておりますよ。しかし私としては『明治村』の村長となって・・・村長の権限がどれほどのものかわかりませんが、できれば、村長のチカラで、ぜひ遊郭建造物を一棟、誘致したいのです。
 つわものどもの夢の跡。その建物を見るだけで、お父さん、お爺さんは、若き日の想い出をそっと胸に宿して、きっとお喜びになること間違いなしと思いますし、若い人のガクモンにもなると信じます。そのために、不肖ワタクシ、及ばずながら尽力したいと願っているのであります」

この素晴らしい提案!明治村(名鉄さん)には是非実現させてもらいたい。




東野圭吾『白夜行』を母に贈った。   2月24日(月)

昨日は母(80歳)が遊びに来てくれていた。
ちょうど私の誕生日だったので、生んでくれたことを感謝して本を贈った。
ミステリーが大好きな母には、東野圭吾の『白夜行』を是非読んでもらいたかったのだ。
この小説はミステリー通の人に薦めて間違いなく満足される傑作なのだ。
息子ものめり込んで読んだ。カミサンもはまった。
古今東西のミステリーを読みまくってきた母はどういう感想を言ってくれるか、楽しみだ。

午後、懐かしい映画『カサブランカ』を一緒に観た。
フランス領カサブランカ。フランスはドイツに占領されたが、ここには直接ドイツの支配権が及ばない。そこでナチスに迫害されてアメリカに亡命しようとする人々が集まっている。そんなカサブランカで展開するカッコイイ名場面の連続にはため息がでた。何度観てもほれぼれする映画だ。
たとえば・・・酒場でドイツ兵が「ラインの護り」を歌っている。
それを聞いた対ナチ抵抗運動の指導者ラズロは、対抗してフランス国歌「ラ・マルセーズ」を演奏させる。
するとフランス人たちが立ち上がり、大合唱となってドイツ兵の歌声を圧倒する。
涙が出るようないい場面。
これが「ラ・マルセーズ」だからいいのだなあと思った。「君が代」みたいな歌では全くサマにならない。

往年の名画に堪能して、母は帰って行った。
来てくれて本当にうれしかった。
もてなしてくれたカミサンに感謝した。



結果的善行    2月22日 土

真保裕一の新作ミステリー『誘拐の果実』を読んだ。
ある病院の病院長の孫娘が誘拐される。犯人の要求は、その病院に身を隠している贈賄容疑の被告人を殺すこと。担当医によって、内密に殺害すれば孫娘は返す、という。
極秘に連絡を受けた警察は、看護婦たちにも被告人の家族にもマスコミにも知られないように、被告人の死を演出する作戦にでる。
ほとんど不可能に思える作戦が、驚くべき緻密さで実行される。
そして、被告人の死がマスコミ報道され、誘拐された孫娘は返ってくるが・・・

実に手の込んだ誘拐事件に仕上がっている。よくこれだけ複雑な構造を考えついて小説にできるものだと感心した。読書の醍醐味は味わえた。
しかし、説明過多のきらいがあることと、凝りすぎた構造によってリアリティがなくなっていることが、欠点としてあげられるだろう。
ま、それはともかく、この小説を読むことで、私は前々から考えていて結論が出せないでいる一つの問題を、また考えさせられることになった。
それは、<結果的善行>・・・とでも言える問題である。
小説のラストで、作者はこんな一文を書いているのだ。
「金は、どうやって手に入れたのか、よりも、どう使ったのか、によっても判断されなくてはならないものだろう」

犯人は、複雑極まる手段で被告人に金を出させて、小さな民間施設にその金がまわるように社会福祉法人を設立させる。法を犯した手段で手に入れた莫大な金で、多数の不幸な子どもたちを救う善行をするのだ。
また、病院に逃げ込んでいる被告人<疑獄事件で起訴された大企業バッカスの会長>から資金援助を受けていた病院長は、自分の行為についてこう語る。
「大学病院にも負けない設備のおかげで、何千何万という患者の命が助かってきたんだぞ。満足な医療を受けられないような恵まれない子供たちも、積極的に受け入れてきた。それができたのも、バッカスの援助があったからだ」
こういう論理だ。
これは、まったく問題にもできない愚論だろうか。

山田太一の「不ぞろいの林檎たち」パート3で、汚職して権力の座についた議員が同じような論理を語る場面があった。
・・・確かに私は汚い金を使って現在の地位を手に入れた。しかし、私はそうして手に入れた権力を決して自分のために使ったわけではない。こうして議員になったからこそ、市民のためにさまざまなことが出来た。権力を手に入れなければ、これだけのことは出来なかった・・・
確かそんなような主旨のことを語る場面があった。
実は私はその時、疑問をもちながらも、一理あるなあ、と感じてしまったのだ。
これは、泥棒にも一分の理ってやつか。

私は基本的に、悪いことが出来ないような者によいことも出来ない、と思っている。
悪いことをしないのはただ弱いからだ、という哀しい人間の一面を信じている。
だから、善を行うためには、力が必要であると思うのだ。
人々を救うためには権力がいる。
もし、本当にそのためだとしても・・・本当に本当にそうだとしても・・・権力を手に入れるために行う最低限の悪行は許されないのだろうか・・・。
<ただ、ドラマなどでは、そういうギリギリの選択を提出したくないためか、その人物が私的な欲望も持っていて行ったことにしているケースが多い。そういう風に設定すれば悩まなくてすむからだ。山田太一のドラマは、そうではなかったようで、その点に彼の視点のすごさが感じられたのだが・・・>

こんなことを考えて、結論が出せないでいる。
この拙文を読んで戴いた方、是非、意見を聴かせてほしいと思います。

残酷な内職商法    2月21日 金

昨日の<クローズアップ現代>で、内職商法の実態が紹介されていた。
テープ起こしという主婦向けの内職が、実は研修の費用を稼ぐことが目的で、研修合格はさせず、実質上仕事の斡旋はしない詐欺商法であるということだった。
契約した人は、ほんとうに気の毒だった。
毎日、何時間も研修のためのテープを聴き、文字にして送り、そのたびに「再提出」と指示される。
研修期間にすべてのコースをマスターしなければ仕事をすることができない。
結局合格せずに、それは自分の能力が足りなかったのだと諦めてしまう。
研修費用6万数千円と、全く無駄な莫大な「時間」が奪われたのだ。
被害に遭った人がかわいそうでたまらなかった。

実は、若い頃、手紙のの宛名書きという内職に関心を持って、案内書を請求したことがあった。
送られてきた案内を見てびっくり。手紙というのは、通信販売のダイレクトメールであって、それを送って、それを見て商品を購入した人がいるとその代金の何%かがもらえるという内職なのだ。
何千通書いても、商品が売れなければ収入はないというシステムだ。
もちろん手は出さなかった。

詐欺とは言えないが、希望を与えて無駄な努力をさせるようなことなら、専門学校の入試でもあった。
以前3年生の担任をした時、クラスでとても真面目で優秀な女生徒が3人、医療事務の専門学校を「特待生入試」で受験したのだ。
それは合格すると入学金免除、学費も免除?減額?という入試だった。
3人は成績もよかったので、親の負担を軽くしようとそれを目標にして、本当に真面目に頑張った。
ところが結果は、3人とも不合格。
しかし3人ともが、普通の形での入学なら合格、と通知されたのだ。
そこで、実態はほとんど不合格にして普通の形で合格させるものらしい、と分かった。
つまり、特待生入試というのはお客集めのためのものだったのだ。

親の負担を考えて努力していた生徒がいじらしかった。

綾小路きみまろの<笑い>    2月20日 木

人はどういうことを笑うか。
何を笑うかで、その人の精神の質が分かるような気がする。

綾小路きみまろの漫談は、実に巧みな語り口で、年齢に伴う肉体の衰え、結婚生活の惰性、女性性の喪失などを露骨に表現し、中高齢の女性たちの笑いを誘う。
彼女たちはそれを聞いて、ああ自分もその通りだがみんなそうなんだ、という安心感を味わいながら笑い転げる。
彼女たちにはそれが、自虐的な笑いの中で快感を味わっていることだという自覚がない。
そこには高齢者の<誇り>が見られない哀しさが漂っていた。

現代に繋がる<水俣>という視点     2月19日(水)

昨日、国語科のSさんと話していて、思考する上での<視点>の置き方がいい人だなあ、と感心した。
彼は、現代を考える上で、水俣病問題は原点になるのではないかというのだ。
水俣問題は一企業の問題ではない。国家によって推進された「被害に目をふさいで高度経済成長を求める」という日本の戦後路線の、もっとも大きな問題点が噴出した事件だった。
水俣が第一号となって、それ以後も類似した事件が続いている。
修学旅行で、長崎へ行くなら、原爆のことだけでなく水俣を見せて考えさせたい。現代の問題ということでは、原爆はもうかなり離れたものとなっている。直接繋がっているのはむしろ水俣ではないか、というのだ。
確かに、成長路線の本質的な問題点を具体的な現象を通して考える上で、水俣は重要な事例であると思う。
橋本さんが、日本の戦争について考える時、広島でなく沖縄に注目したのと同じような、実にセンスのいい<視点>だと思った。

映画「アイ アム サム」       2月18日(火)

映画「アイ アム サム」を観た。監督ジェシー・ネルソン。
知的年齢が7歳の父親サム(ショーン・ペン)と娘ルーシー(ダコタ・ファニング)の愛の物語。
ショーン・ペンの演技がなかなかのもの。ルーシー役の女の子が素晴らしく可愛い。
ルーシーが7歳になったとき、サムにはもう子育てが不可能と判断されて、施設がルーシーを引き取り里親にあずけてしまう。
里親の夫婦は、ルーシーを養女にしたいと申し出る。
サムは法廷で親権を争う。
ひょんなことで無料でサムを弁護することになる女性弁護士リタ(ミシェル・ファイファー)が活躍する。
最後はルーシーのためにサムが養育を諦めるのだが、サムとルーシーを周囲のすべての人間が温かく包むという形での結末となる。
2時間13分の長い映画だったが、登場人物の演技が素晴らしいので、目が離せなかった。
カミサンはボロボロ泣いていた。

これは、親子の間には愛情が一番重要だということを理屈抜きで<感じさせて>くれるような美しい映画である。
そして、人間の善意というものが実に素直に描かれている。
この映画には、悪人というものが出てこないのだ。
みんな善意の人ばかり。
ひねくれた映画通などはきれいごと過ぎると言うかも知れないが、その単純、素朴な姿勢がいい。
善意の人間社会が、薄っぺらでなく、うまく描かれているのだ。
(悪人が1人も出てこないというと、シドニー・ポワチエがアカデミー賞を取った「野のユリ」という映画が思い出される。あれも人間の善意を無条件で信じたような、実に気持ちのいい映画だった。)
そして、サムの仲間の障害者たちの言動で、何度も笑わせられる。
後半が少し冗長だなと感じたが、ビートルズ・ナンバーが全編に流れ、深刻な内容なのにさわやかな味わいに仕上がっていた映画だった。

村上春樹の『坑夫』観    2月17日(月)

村上春樹『海辺のカフカ』の中に、主人公田村カフカが夏目漱石の『坑夫』について語る場面がある。
私は、夏目漱石の作品はほとんど読んだけれど『坑夫』は読んでいない。『坑夫』は漱石の作品の中でほとんど取りあげられることがない小説だからだ。
しかし村上春樹は実に面白い読み方をして、小説に取り入れていたのだ。

主人公のカフカは『坑夫』の内容を次のように要約する。
「主人公はお金持ちの家の子どもなんだけど、恋愛事件を起こしてそれがうまくいかず、なにもかもいやになって家出をします。あてもなく歩いているときにあやしげな男から坑夫にならないかと誘われて、そのままふらふらとついていきます。そして足尾銅山で働くことになる。深い地底にもぐって、そこで想像もつかないような体験をする。世間知らずの坊っちゃんが社会のいちばん底みたいなところを這いずりまわるわけです・・・それは生きるか死ぬかの体験です。そしてそこからなんとか出てきて、またもとの地上の生活に戻っていく。でも主人公がそういった体験からなにか教訓を得たとか、そこで生き方が変わったとか、人生について深く考えたとか、社会のあり方に疑問をもったとか、そういうことはとくには書かれていない。彼が人間として成長したという手ごたえみたいなのもあまりありません。本を読み終わってなんだか不思議な気持ちがしました。この小説はいったいなにを言いたいんだろうって。でもなんていうのかな、そういう<なにを言いたいのかわからない>という部分が不思議に心に残るんだ。うまく説明できないけど・・・・三四郎は物語の中で成長していく。壁にぶつかり、それについて真面目に考え、なんとか乗り越えようとする。そうですね?でも『坑夫』の主人公はぜんぜんちがう。彼は目の前に出てくるものをただだらだらと眺め、そのまま受け入れているだけです。もちろんそのときどきの感想みたいなのはあるけど、とくに真剣なものじゃない。それよりはむしろ自分の起こした恋愛事件のことばかりくよくよと振り返っている。そして少なくともみかけは、穴に入ったときとほどんど変わらない状態で外に出てきます。つまり彼にとって、自分で判断したとか選択したとか、そういうことってほどんどなにもないんです。なんていうのかな、すごく受け身です。でも僕は思うんだけど、人間というのはじっさいには、そんなに簡単に自分の力でものごとを選択したりできないものなんじゃないかな」

もし『坑夫』が本当にこういう作品なら、そんな受動的な人間像を読みたいとは思わないが、しかし、私は本質的には人間の<主体性>とか<能動性>に対してかなり悲観的なのだ。
それに、人間がそんなに劇的に変化するなどと思っていない。
豹変は君子にしかできない。
凡人はゆっくり、ゆっくり、嫌になるくらいゆっくり変化すると思っている。
そういう意味で、この『坑夫』の読み方は新鮮で、面白かった。

ちなみに、宮崎駿が「千と千尋の神隠し」のパンフレットで、こう書いていた。
「この映画は千尋の成長物語ではない・・・最近の映画には成長神話みたいなものがあって、そのほとんどは成長すればなんでもいいと思ってますね。だけど現実の自分を見て、お前は成長したかと言われると、僕なんかも何かこの60年ただグルグル回っていただけのような気がするんです。せいぜい自分をコントロールすることが少しできるようになったくらいでね。だから、成長と恋愛があれば良い映画だっていう下らない観念をひっくり返したかったんです」
何だか、発想の共通性を感じる言葉だった。


堤中納言物語『虫めづる姫君』   2月14日(金)

ある人の講演を聴いて堤中納言物語『虫めづる姫君』を再読した。
実に珍しい内容の、すごい作品だと再認識した。
平安末期に、こんな女性を描いた作品があったということは驚くべきことだ。
冒頭で主人公の姫はこんなことを言う。
「人々の、花、蝶やとめづるこそ、はかなくあやしけれ。人は、まことあり、本地たづねたるこそ、心ばへをかしけれ」
(世の人々が、花よ蝶よともてはやすのは、全くあさはかでばからしい了見です。人間たるもの、誠実な心があって、物の本体を追究してこそ、心ばえもゆかしく思われるというものです)
この姫は、外見の美を愛するのでなく、その本質を愛する女性なのだ。
そして、毛虫をかわいがる。
こんなことも言う。
「よろづのことどもをたづねて、末を見ればこそ、事はゆえあれ。・・・・鳥毛虫の、蝶とはなるなり」
(万物の現象を探求し、その流転の成り行きを確認するからこそ、個々の事象は意味をもってくるのよ。・・・毛虫が蝶になるんですよ)<小学館日本古典文学全集訳>
これは科学的な態度とも言える。
そういう女性だから、もちろん自分の外見にもこだわらない。
「人はすべて、つくろふところあるはわろし」
(人間たるもの、すべて自然のままがいい)
そこで、眉を抜かず、黒々とした毛深い眉のまま。
お歯黒もつけず、「いと白らかに笑みつつ」いる。
当時、眉を抜き、お歯黒をつけるのが、成人女性の当たり前のたしなみだった。
(ちなみにお歯黒は明治直前まで続いていた日本の風習。幕末の開明的な幕臣小栗上野介が妻にお歯黒をやめさせたというエピソードがある)
さらにこの姫、恋文をもらうと、カタカナで返事を出す。
当時、女性は「仮名」(仮の文字)であるひらがなを使うのが一般であった。
漢字とカタカナは男性がつかっていたのである。
手紙の紙も、ごわごわした厚い紙。
当時は、風流な薄い紙に書くものだったのだ。

こういう平安朝の好みと全く違う女性を、「イオウ病」とかいう変態性の病気だと診断する学者もいるそうだが、私は病気だとは思わない。
この姫は、ただの異様な変人として描かれるのでなく、実に生き生きと描かれているのだ。
本当に、この作品には驚嘆するばかりである。


ネグレクトされた赤ちゃん  2月13日(木)

クローズアップ現代でネグレクト(親の放置)された赤ん坊が紹介されていた。
ほったらかしにされた赤ん坊は感情表現がなくなり、人を見つめることも笑うこともなくなる。泣きもしなくなる。
見ていて胸がしめつけられた。
それは、母親が肌を接し、あやし、感情を芽生えさせて人とのコミュニケーションの基盤を作る段階(私はそれを「魂の教育」と考えている)が抜け落ちた幼児だった。
おそらく3歳を過ぎていれば回復させることは不可能ではないのだろうか。
3歳までの「魂」の教育があってこそ、言語を用いた「心」の教育が始まるのだ。

1歳半ほどの女の子が、かろうじてコミュニケーションの基盤を修得した事例が紹介されていた。
こんな残酷な現状を見ると、ずっと以前から主張している私の極論が再燃してくる。
それは、子どもをネグレクトするような親に出産させない「出産許可」制度が必要ではないかというものである。
本当に子どもを大切に思うなら、そういうことも考えなければな


人間を信用しつづけよう    2月11日(火)


2月23日は私の誕生日である。
前日から母が来てくれることになった。
前日は土曜日なので名古屋まで母を迎えに行ける。
23日には母と同居している甥が来て、一緒に帰ってくれる。
今から待ち遠しい限りだ。

誕生日は生んでくれた母に感謝する日だと思っている。
これは淀川長治さんに教えられたこと。
お祝いなんかもらう日では決してない。こちらから感謝の気持ちを表す日だ。
しかし、自分は、生んで戴いただけの価値ある人間だろうか・・・
考えると不安になってしまう。

1年前のこの時期にとても辛いことがあった。
人とのつながりで自信を失ないかけた体験だった。
かろうじて回復しかけているがトラウマはずっと残るだろう。
ちょうど授業で夏目漱石の「こころ」が終わったところ。
漱石の文学のテーマとも言える「愛の不可能性」ということを考えてしまう。

先日、組合で退職者を送る会があった。
その席で私のよく知っている退職教員が若い頃友人に裏切られた体験を語った。
人間不信に陥ってしまったというその人は、スピーチの途中で泣き出した。
辛い体験をしている人は沢山いる。
私は希望を失わず、人間を信用しつづけようと思っている。



奥田ヒロシ(漢字が出ない! )の提言
      2月9日(日) 


図書館で、アエラ03年1月20日号を借りてきた。
元旦の「奥田ビジョン」についての論評が載っていた。

アエラの記者によれば、奥田ひろしは「ふてぶてしい合理主義者」だそうだ。
かつて「三河モンロー主義」と揶揄されたほど中央政財界との縁が薄かったのがトヨタ。その社長だった奥田ひろしが、02年に日本経団連の初代会長になると「日本経済を変えられないか」という思いが募り、政界との関係を持とうとして、政治献金の復活をぶち上げた。
金権自民党が復活した今や「口を出したいから、金を出す」と言い出したのだ。
それは、古巣トヨタ自販時代の「報奨金方式」(販売店にノルマを与え、達成できたらドカッと報奨金を出す)を、政党がキチッとやれば献金をドカッと出すという形に当てはめた発想である。
「利益1兆円のトヨタから見れば、政党も官僚組織も、経営がなっていない。堂々とカネを出して政府を善導しよう」ということらしい。

奥田ひろしの持論が「外国人労働者の受け入れ」。これが提言にも盛り込まれた。
日本の「横並び画一」体質を、外国人の受け入れも一助として多様性を確保したいとの思いらしい。左遷されてフィリピンに飛ばされた時の体験が背景にあるようだ。
しかし、トヨタは終身雇用制を維持している。
「人員削減に手をつける前に経営者はもっと努力すべきだ」と99年5月には発言しているようだ。
消費税アップは「無駄な公共事業を減らし、社会保障給付を抑えてもなお、高齢化によって財源不足に陥ると想定して提言した」とアエラは書いている。贅沢品を中心に引き上げるなどの条件をつけている。欧州諸国が軒並み15%から20%台、韓国も10%で、日本は世界相場から見て著しく低いことを背景にしている、という。

その他、面白い発言としては組合に対して、「労組の組合費が高すぎる。企業はコスト削減しているのに労組はまだバブル時代から変わっていない」と言ったこと。
また、99年に夫婦で日本尊厳死協会に会員登録して、奥田ビジョンにも「最後の迎え方も選べる」という章を割いて尊厳死容認にまで言及しているという。
非常に面白いと思った。


ゴッホ作の絵   2月8日(土)


昨日、オークションに1万円でかけられるはずだった作者未詳の絵が、実はゴッホの絵だったという報道があった。
ゴッホの絵と分かったので300万円から売り出されるという。数千万の値がつくかもしれないとのこと。
実に気に入らない!不愉快なニュースだった。
これはつまり、オークションというものは絵自体の素晴らしさによって価値がつけられるのではなく、誰が書いたかということで値がつくということである。そのもの自体の価値は無関係ということを語っている。
ばかばかしい!
なんという下らない世界だろう。

ふと私は、志賀直哉の小説「清兵衛と瓢箪」を連想した。
小説ではあるが、あそこには本当に「いいもの」は名前とは関係なしに存在するものだということが、しっかり描かれていた。
清兵衛が丹誠こめて作った瓢箪は、学校で教員に取りあげられて、小使に与えられる。
小使はある時金に困って、ふとそれを骨董屋に持っていってみる。
すると何と彼の4ヶ月分の給料に相当する50円で売れたのである。
骨董屋は、瓢箪自体の素晴らしさで値段をつけたのだ。
そして彼は、その瓢箪を地方の豪家に600円で売りつける。
それは何も、瓢箪の作者が有名な芸術家だから売れたわけではないということで、瓢箪自体にそれだけの価値があったという設定なのだ。
清兵衛の作った瓢箪は、実はその物自体に素晴らしい価値がついているものとなっていたということなのだ。

ここには、志賀直哉の芸術に対しての、実に真っ当な見方がうかがえると思う。
作者が誰であろうと、そんなことは関係ないのだ。
肝心なのはそのもの自体がいいか悪いかである。
そういうことを前提に、この小説は書かれているのだ。

オークションに出るというゴッホの絵は、本当に数千万もの価値のある「いい絵」なのだろうか?


上海のすさまじい変化    2月5日(水)

テレビで上海の様子が紹介されていた。
ものすごい成長をしている。
高層マンションが建っている横に、古い町並みがある。
佐川急便が進出。
マンションにはトイレのTOTO。
レトルトのカレーが売り出される。
ホンダは最新式の車を発売している。
世界が中国市場での争いを始めている。



ミステリー『黄色い下宿人』(山田風太郎)の趣向
<ラストの趣向をバラしてしまいますから、そのつもりで>

2月4日(火)


山田風太郎の短編ミステリー『黄色い下宿人』には感心した。
シャーロック・ホームズ物のパスティーシュ(贋作)である。
おきまりの殺人のトリック、意外な犯人。
しかし、それらのトリックは別に目新しくもない。
ただ、現場でホームズとワトソンのやりとりに絡んでくる奇妙な東洋人が面白いのだ。
それは、病気持ちのような変な仕草の少々気味悪い人物だ。
精神不安定で、ちょっと頭がおかしいのではないかとも思える。
しかしその東洋人が、ラストでホームズの推理を覆してしまう。
ホームズが負けるのだ。
しかも、その後の一頁で・・・・ええい!書いてしまうぞ。
その変な東洋人が、何とキンノスケ・ナツメと名乗るのである。
あの夏目漱石なのだ!

小説の最後に漱石の「文学論」序文の一節が引用されている。
「倫敦に住み暮らしたる二年は尤も不愉快の二年なり。余は英国紳士の間にあって狼群に伍する一匹のむく犬の如く、あわれなる生活を営みたり。・・・・英国人は余を目して、神経衰弱なりと云えり。ある日本人は書を本国に致して余を狂気なりと云える由。賢明なる人々の言う所には偽りなかるべし」

漱石が倫敦で極度のノイローゼ状態だったことは有名だ。
それにシャーロック・ホームズを絡ませるなんて、何という面白い趣向だろう。
この作品は、殺人事件のトリック、犯人当てなんかが本当のねらいではなかったのだ。
それは題名がはっきり暗示していた。
山田風太郎は天才だ。



コミュニケーションに関する話(2)  
1月31日(金)


『こころの深みへ』の中には、男と女の生物学的な相違から、中年男のベタベタした傾向が説明されている箇所もあった。

河合「免疫学者の多田富雄さんによれば、女性は子どもを孕んで産むことができるから確かな存在感があるが、それに比べて男は単なる現象なのだそうです。だから男は、何かに触っていないと不安になってくるわけ(笑)」
柳田「それは中高年になるほど加速されてくるんですよね」
河合「そうなんですよ」
柳田「女性は中年を過ぎるとセックスの面がだんだん淡泊になって、ひとりでいたい、たまには旦那と離れていたい、ひとり旅したいと思うようになる。逆に旦那はベタベタするようになって、特に定年後は奥さんベッタリの濡れ落ち葉みたいになる」
河合「それで、家で触れないから外へ行って援助交際するような人も出てくる。でも、おカネである程度解決できても、そんなものほんとうに触れ合ったことにはならないんです。だから、どうも不満が残るわけ。この問題は、世界中で深刻になってきつつあるんじゃないでしょうか」

中高年の男は、みんな女性に触りたいのだ。
自分が異常なのかなと思っていたが、どうもそれが自然なことのようだ。
私が別に特別なのではなかった。
多田富雄さんの説明を読んで、ちょっと安心した。


「たましい」という言葉   1月29日(水)

ノンフィクション作家の柳田邦男が河合隼雄と対談した『心の深みへ』という本を読んだ。
その中で2人がこんなことを言っていた。

柳田「・・・私、このごろ<たましい>という言葉にものすごく魅力を感じているんです。我々は戦後の科学主義とか物質的豊かさが進んでくる中で<たましい>というものを忘れていた。戦前、精神主義がイデオロギー的に日本の国を支配して、そして精神というもののうさんくささにあまりにも警戒心が強くなったために、戦後は科学主義がのさばって<たましい>とか心というものを怪しげな目で見るようになってしまった。だけど、今こそ<たましい>というものを見直さないと、ほんとうの意味での人間の豊かさというものが再建できないんじゃないかということをこのごろ痛切に思っていましてね」
河合「<たましい>というのは危険な言葉ですから、私はだいぶ長いあいだ言わずに黙っていたんです。たとえば、心理学会で<たましい>なんて言うと除名ですよね(笑)。しかし、だんだんそういうことを言えるようになってきました。脳は死んでも<たましい>はあるというようなことが徐々に理解されてきて、そういうものがあるんだったら、その根本に名前をつけていいじゃないかという格好で言ってきたんです。・・・・ただ怖いのは、<たましい>の話を現実の戦争に勝つか負けるかとか、金が儲かるか儲からないかという次元にもっていく人がいることです。・・・大和魂で戦争に勝つとか、ものすごくばかげたことをやるわけです。」

ほほう、<たましい>という言葉は危険な言葉だったのか。
そう言えば、私の教育論の原点みたいな文章である「魂の教育論」を同人誌に出した時、近代主義の同人に何となくうさんくさそうな目で見られていたことを思い出す。
私はその文章を、「心の教育」よりも「魂の教育」が大切だという言い方で、「三つ子の魂百まで」という日本の言葉から書き始めたのだ。
そこに書いた内容は、私の教育に関する考え方の基本であって、今でも全く訂正することはない。私は早い時期から<たましい>という言葉には何の抵抗もなかったし、むしろ「心」よりも大切なものとしてとらえていたのである。
この対談を読んで、メクラヘビに怖じずの面があったらしい、と思った。
しかし、河合隼雄なら当然だが、「事実」をあれだけ徹底して追究してきた柳田邦男が<たましい>という言葉を使いだしたというのは面白い。

『半落ち』読了した  1月28日(火)

「このミステリーがすごい」の人気投票で第1位になった警察小説、横山秀夫の『半落ち』を読了した。
とても面白かった。
容疑者が完全に犯行を認め事件が完全に解決するのが「完落ち」。不完全な解決が「半落ち」。
そんな用語があることを初めて知った。
とにかく人物が良く書けている。
県警察の教育係であるベテランの現職警官が、アルツハイマーの妻を絞め殺した事件。いわゆる嘱託殺人。それを、県警本部捜査官、検事、、新聞記者、弁護士、裁判官、刑務官という6人の視点で描いていくという構成である。
それぞれの視点人物がよく描かれている。
警察と検察局の対立、新聞記者と警察官の凄まじいかけひき、同じアルツハイマーの父を抱える裁判官の内面などがしっかり描き込んである。
そういう構成で、妻を殺した警察官の、犯行後自首するまでの空白の2日間の謎に迫っていくというミステリーだ。
感動的な結末だった。(明かせないので紹介はここまでしかできない)

NHKの「週間ブックレビュー」でこの本が取りあげられた時の会話。
レギュラーの北上次郎がラストの展開に感動したというと、相手の大読書家のゲストが不満を表明した。その時、北上が「あんたは本を読みすぎて素直に感動できなくなっているんだよ」と言ったのは面白かった。
北上次郎こそ1日3冊本を読むという怪物のような大読書家だからだ。

世界にたいする本当の脅威は、ブッシュ!  
 
1月26日(日)


先日の「ニュース・ステーション」に、27年前ハーバート・ビジネススクールでブッシュ大統領を1年間教えたという、現在ニューヨーク市立大学教授のツルミヨシヒロ(漢字が難しいのでカナ書き)という人が出ていた。
彼は、恐ろしいことを2つ語ってくれた。
授業は国際経営学、経済政策、国際関係学だったが、当時のブッシュは成績以前に、人間的にもっとも悪いということで印象的な生徒だったという。
ブッシュは弱い人に対する思いやりとか社会責任感などがひとかけらもなく(これはブッシュに面と向かって言ったということだが)、徹底した自己中心的な性格だったそうだ。
そして、それが現在、ますますひどくなっているという。

ブッシュがいわゆるアホだということは、国内ではっきりそう指摘する本がよく読まれ、ドキュメンタリー映画も作られ、フランスなども彼をコケにした映画を作り、インターネットでも広く流れているということで、定評があるので、いまさら驚くことはなかった。
また、ツルミさんが分析した彼の取り巻き連中の話、イラク攻撃の真の目的が石油にあることなども知っていたので、それらも特に目新しくはなかった。
ただ、次の2つの指摘には、恐ろしくなった。

一つは、アメリカがイラクを攻撃してフセイン体制を崩壊させると、現在イラクの各部族が管理している(はずだとツルミさんは言う)生物化学兵器が各部族の手に渡る。今はフセインの強力な独裁で部族が統合されているので、それらが強力に管理もされているが、体制が崩壊されると、かつてソ連が崩壊たときに外部に流れたように、それらがテロ集団などに流れる可能性が強いということ。
それに、体制崩壊後は、アフガンのように部族間の内部抗争がはじまる。(私はすぐにユーゴを連想した)
それらの状態が、はたしてしっかり治められるのかどうか。

もう一つは、ブッシュがキリスト教原理主義になっている、ということ。
ツルミさんが教えていた独身の頃は、彼は原理主義者ではなかった。飲む、打つ、買うの素行が悪くて問題だったほど。
しかしテキサスに行って、また結婚して、テキサスの保守グループの中に入って、彼は(素行の悪さはおさまったが)原理主義者になった。
だから、神がかったことを言う。
ほとんどイスラム原理主義のビン・ラディンと変わらないくらい狂信的な面を持つキリスト教原理主義者であるということだ。

そこでツルミさんの結論。
「世界に対する脅威というならば、残念ながら、ブッシュです」

でも希望はまだある。
アメリカ国内でも、ブッシュへの本音がわかってきて、支持率は落ちている。
フランスとドイツがはっきりイラク攻撃反対の姿勢を打ち出した。
27日に終了させるという国連の査察を、もっと継続させればいいというのが世界の世論となってきている(イギリスもその姿勢)。
日本の小泉だけが、アメリカにべったり付き従っているような状況だ。
イラクの査察を継続させる運動を、もっと進めたいと思う。


お前の態度はカッコ悪い!  1月25日(土)

最近、ケジメのつかないふざけた態度(携帯電話をいじるとか、プリクラを見続けるとか、ウオークマンを聴くとか、マンガを見るとか、チャイムが鳴っても弁当を食っているとか・・・)をとる生徒に対して、こんな注意の仕方をしている。

「やるときはバシッとやれ!ケジメがつかない奴はカッコワルイんだ。切り替えがビシッと出来る者がカッコいいんだ。
お前の態度はカッコ悪い!カッコよく生きろ」

特に効果があるというわけでもないが、生徒は、ああまた言っとるなーという感じで、しぶしぶ態度を変える。
教員の注意の仕方としては、あまり適切ではないかもしれない。
しかし、彼らの行動形態を見ていると、
「きちんとしなさい。今、授業中でしょ。そんなことは今やってはいけません」
という注意が、あまりにも虚しいのだ。

基本的な彼らの価値観、行動の基準は「カッコイイ」か「カッコ悪い」ということである。
それなら、そこに切り込んで、「正しい」態度を「カッコイイ」態度だと思わせられないか、と考えた。
ケジメのある態度の切り替えを「カッコイイ」ものであると言い続けることによって、だらしない態度がなんとなく「カッコワルイ」ものと感じるようにならないか。
そんなことを願って、ちょっと風変わりかもしれないが、こういう注意の仕方をしている。


中高年文化復興のきざし  1月23日(木)


日曜日の報道番組で、日本の文化状況の変化について特集していた。
業界用語で「F1」というのがあるそうだ。
Female1ということで、テレビや広告などのマスコミが視聴者を年代別に分類する際に使った記号。女性の20歳から34歳。
業界ではこれまで、この層をターゲットにして商品開発をしていたという。
しかし、ここ2年ぐらいの間に変化が出てきたらしい。
シニア世代に受けるものが多くなってきた。

プロジェクトXのヒット。
中高年をターゲットにした文字の大きい携帯電話の発売。
綾小路ふみまろのCDがバカ受け。
「たそがれ清兵衛」が100万人を突破。
コンビニも利用者は若者だけではなくなって、中高年向けの商品が多く置かれている。

若者をねらえばよかったという時代に変化が出ているという。


もう一度だけ「ボーン・コレクター」  1月22日(水)


(今日は、犯人を明かさないとどうしても話ができないので明かします。原作を読みたい人は、これを読まないように!)

「ボーン・コレクター」の最大の特徴は、犯人が主人公のリンカーン・ライムに復讐するために、わざと犯行現場に手がかりを残しライムの鑑識眼との知恵比べをしながら、ライムを少しでも長く生かして苦しめることをめざしている人物だということである。
犯人のボーン・コレクターは・・・何と、彼の脊椎専門の担当医だったのだ。
彼はある事件でライムがミスをしたことによって悲惨な目にあったことを恨み、ライムの担当医の一人となって近づいていたのだ。
そして、安楽死を望む彼に対して、生きることを説き続ける。
安楽死団体からやってくる医師と対決する。
ライムが発作を起こすと、必死になって人工呼吸までして蘇生させようともする。
しかしそれは、死ぬことを望んでいるライムに「死」を与えることは彼への復讐にならないからなのだ。
主人公を重度障害者にした真の意味がここにあった。
この見事な設定には唸らされた。

サックスとライムの心の交流が素晴らしいユーモアの会話で表現されている所がある。
ライムは新人のサックスに、現場に踏み込む時には靴に輪ゴムをはめて、犯人の靴跡と自分の靴後の区別をつけるように教えていた。
教会が爆破された時、ライムは特別製の車椅子にのって現場にやってくる。
迎えたサックスは、完全に破壊された現場に犯人は何も残していないと告げる。

<「だったら、犯人が故意に残したのではない手がかりを探すまでさ。この現場は一緒に捜索しよう、サックス。君と私とで。さあ行くぞ」
ライムがストローに二度短く息を吹き込むと、車椅子は前進を始めた。教会に向かって十フィートほど進んだとき、サックスが急に立ち止まった。
「待って」
車椅子が停止する。
「ぼけが始まったんじゃないの、ライム。車輪に輪ゴムをかけるのを忘れてるわよ。あとであなたの車輪跡と犯人の足跡の区別がつかなくなったらどうするの」>

この場面には、本当に脱帽した。 (終わり)


再び「ボーン・コレクター」  1月21日(火)

「ボーン・コレクター」は恋愛小説の要素もあるミステリーである。
ヒロインのサックス巡査は赤毛の素晴らしい美人。
彼女が最初の犯行現場において実に見事な現場検証をやってのけたことによって、今は事故によって脊椎損傷し、頭と一本の指先しか動かせない鑑識の神様のようなリンカーン・ライムの病室に招かれる。
最初の出会いは、ライムの視点で描かれている。

人間の他人を見る目は、自身をどう見るかに左右される。事故以来、リンカーン・ライムが他の人々を肉体という観点からとらえることはまれになっていた。彼女のすらりと伸びた背、形のよい尻、燃えるような赤い髪はライムの目にも映っていた。他の男ならそういった要素に注目し、いい女じゃないかと考えただろう。しかしライムの心にはそんな言葉は浮かばなかった。ライムに強烈な印象を与えたのは、彼女の目に浮かんだ表情だった。それはお馴染みの驚愕ではなく(ライムの体が不自由であることを前もって聞かされていなかったのは明らかだった)何か別の種類のものだった。これまでにライムが出会ったことのない表情。まるでライムの境遇を目にして、緊張がほぐれでもしたような。大多数の人間が見せるのとは正反対の反応だった。彼女はリラックスした様子で部屋に入ってきた。

この不思議なサックスの表情の謎は、後半部分で明かされる。
彼女は汚職警察官の恋人ニックとの悲惨な恋愛体験を語った後、次のように話す。

「・・・私はひとりぼっちが嫌い。誰かとつきあいたい、誰かに出会いたいとは思うわ。だけど、ニックを失ったとき、セックスをしたいという気持ちもなくしてしまった」サックスは無理に笑ってみせた。「私のような外見だったら素敵だろうと誰もが思うみたい。男なんかよりどりみどりだって。現実は正反対よ。私を誘う勇気のある男がいたとしても、お目当ては体。だから私、もうあきらめたの。一人のほうが気楽だもの。ひとりぼっちはいやだけど、そのほうが気楽」
 その瞬間、ライムは、彼と初めて会ったときサックスが見せた反応の真意をようやく理解した。あれは安堵だった。身構えなくていいとわかったから。彼が体が目当てで近づいてくることなどありえないから。うまくあしらう必要がないから。そして、おそらくある種の仲間意識も芽生えただろう・・・どちらも同じ重要な遺伝子が欠けた人間だという親近感も。
 「なあ」ライムは冗談を言った。「君と私なら、セックス抜きのつきあいができるぞ」
 サックスは笑った。

最初は反発し、ぶつかり合ってもいた二人の心が、次第にうち溶け始める。
サックスはライムを尊敬し、ライムは安楽死を望みながら、ひとときサックスに恋をする。
ラスト近く、一度だけライムの病室で泊まったサックスは、下着だけになってライムのベットにもぐりこむ。

サックスは靴を脱ぎ捨て、スウェットスーツとTシャツも脱いだ。レースのブラジャーを着け、厚手の綿のパンティを穿いている。サックスは、美しい女が異性とともにベッドに入るとき漂わせる威厳を存分に発散しながら、クリニトロンのライムの隣に潜り込んだ。
「このベッド、気持ちいいのね」そう言って猫のように伸びをした。それから目を閉じて訊いた。「かまわないわよね?」
「ああ、ちっとも」
・・・・一分もたたぬうち、彼女は寝息を立てていた。
 足のほうに目をやると、彼女の乳房は彼の胸に押しつけられ、彼女の膝は彼の腿にのっていた。頬に女の髪を感じるのは何年ぶりだろうか。くすぐったかった。くすぐったいものだということさえ忘れていた。昔は毎晩のようにこのような感覚を味わっていたのに、そして幸せな記憶ばかりが残っているというのに、最後に同じこそばゆさを感じたのがはたしていつのことだったか、思い出せずにいる自分に驚きを覚えた。蘇ってくるのは、ブレインとともに過ごした幾多の夜が入り交じった記憶ばかり・・・それもおそらくはあの事故の前の。確かに覚えているのは、眠っている妻を気遣って、髪を払いのけずにこのままくすぐったいのを我慢していようと考えたことだった。
 そしていまもやはり、たとえ神に命じられたところでサックスの髪を払いのけることはできなかった。いや、払いのけようという考えはまるで浮かばなかった。それどころか、正反対のことを考えていた。宇宙の終わりが来るまで、そのくすぐったさを感じていたかった。

魅力的な人物像、切ない恋愛心理、緻密な推理、緊迫したアクション、意外な展開・・・・・それらをすべて盛り込んだ「ボーン・コレクター」は、読書の楽しみを満喫できる第一級の娯楽小説であった。


「ボーン・コレクター」   1月20日(月)

ジェフリー・ディーバー著「ボーン・コレクター」を読了した。
実に面白かった。いや、素晴らしかった。
デンゼル・ワシントン主演で映画化されたものは、それなりにしっかり作ってはあったが、犯人が違っていたし、重要な要素である主人公リンカーン・ライムの安楽死願望の心理が出ていなかった。
大読書家のGさんが、ミステリーで初めて4回読んだという超オススメの本だったので読んでみたのだが、なるほど、これは読み返したくなるような展開だった。

主人公のライムは、事故で頭部と指先だけしか動かなくなった寝たきりの障害者。
しかし、ものすごい知識の持ち主で、鑑識のプロである。
犯行現場の微細な残留物から、見事に犯人を絞り込んでいく。
その詳細な過程が読みどころの一つ。
ライムの指示で、新人なのに素晴らしい働きをする美人巡査サックスは、実に魅力的。
ライムが障害者であろうと有名な鑑識の先生であろうと、臆せず自分の意見と感情をぶつけていく。
「あなたが自分の足でここまで来て調べたらどう!」なんて言ったりする。
映画では黒髪だったが、原作では燃えるような赤毛とある。
(ちなみにライムは映画では黒人であるが、原作では別に黒人とは書いてない)
そういう人間像が魅力的なのだ。
ライムとサックスの心の交流が切なく、美しく描かれている。
一度だけ、ライムのベッドにサックスが入り、一晩を過ごすシーンがある。
サックスの髪の毛がほほにあたったまま、身動きできないライムは、そのくすぐったさに無上の幸せを感じる。
「・・・宇宙の終わりが来るまで、そのくすぐったさを感じていたかった。」
というくだりには、胸がしめつけられた。


「スキ」と「弱み」   1月19日(日)

「違いの検証」と名付けて言葉を集めている。
類似した言葉を対比して概念の相違を明確にすることから<ものの見方>を鍛えよう、と思っているのだ。
これまでに30例くらい集まっただろうか。

最近、宮本武蔵のことがよく話題になるのだが、童門冬二が書いた武蔵の新刊本に、武蔵が言ったという
「時にはスキを見せろ、しかし弱みは見せるな」
という言葉が紹介されているという。
この「スキ」と「弱み」の対比は面白い、と思った。
童門さんによると、「弱み」というのは<ことさらに自分の欠点を他人に告げる一種の甘え>であるという。
それに対して「スキ」というのは、<他人への愛であり、ゆとり>だというのだ。
なかなか面白い解釈だと思った。

確かに、「弱み」を見せる人間はいやらしい。
相手が時に「スキ」を見せてくれると、こちらも安心して接することができたりする。
そう考えると、この言葉には、
「スキを見せられるくらいに強くなれ」
というメッセージがこめられていることが分かる。
つまりこの言葉は、「スキ」なんか見せられないような「弱い」人間に向かって投げかけられた、キツイ言葉なのである。

<通念>の変容をとらえたい   1月18日(土)


<パラダイム>といってもいいが、私には<通念>という言葉がもっともイメージに合う「一般の多くの人が無意識にもっている考え方」の変容について興味がある。

その変容にもっとも大きな力を持つのは、テレビであろう。
それから、情報誌、マンガ、新聞、歌謡曲、週刊誌、ラジオ。
最近はインターネット情報なども大きくなってきている。
これらによって<通念>は形成され、また変容していく。

このように考えるのは、社会には知的レベルによる厳然たる「階層」があり、もっとも分かりやすいその区別として<新聞の第一面と社説を読む階層>と<読まない階層>に分かれるように、私は思っているからである。
私の感覚では、<新聞の第一面と社説>を読まずに、テレビと情報誌とマンガだけで「ものの見方、考え方」を養っていく人の方が、多数ではないかと思う。
それが、日本社会の<通念>になっていると思う。

かつて新聞に投稿した文章に、この問題意識を「感性」という言葉でまとめたことがあった。再録してみよう。

<感性の質、根本の課題では>
1950年は、朝鮮戦争をきっかけに、日本が高度成長につき進むことになった年だ。その頃、豊かさを増した日本は中間文化(大衆文化)の時代と名付けられ、テレビ時代の幕開けとされた。
私は、その年に生まれた。やがて、ウオークマン、テレビゲーム、マンガ、情報雑誌があふれるようになった。この頃あたりが、戦後日本の転換期だったように思う。
テレビがない幼少時代を過ごせなくなった世代から、感性(世界観、自然観、幸福感、美意識など)に変化が生じてきたのだ。論理的な思考より映像イメージが重視され、批評より情報が、対話よりおしゃべりが、自然より人工的な美が、徐々に求められるようになった。それに伴い、羞恥心が薄れ、倫理観がなくなり、自制心や公共心が低下して、人間関係が希薄になる。ついに、高校生が携帯電話を持つのが当たり前という時代になって、そのマイナス面は、はっきり形となった。
私たちの世代あたりを境にして、日本人の感性は、確実に、不自然な形に変化してきた。感性は生き方を規定する。この感性の変化にどう向き合っていくか、これは日本人全体に突き付けられた、今後の根本的な課題といえるのではないだろうか。

<通念>は<大衆文化>と言ってもいいだろう。
<通念(大衆文化)>をしっかり見つめた上で、それを原理と照らし合わせて、修正あるいは補強あるいは深化するためにこそ、<学校教育>が必要であるように思う。

まず、現在の<通念>を出来るだけ正確にとらえたい。
どうもそれは、70年代からの<変容>でとらえるのがよさそうな感じがしている。


70年代回顧の風潮   1月16日(木)

最近の日本では、どうも1970年代が回顧されているようだ。

衛星放送の「週間ブックレビュー」で紹介された新刊の「劇画狂時代」という本は、60年代の手塚治虫マンガの手法に対抗する新しいマンガ「劇画」の登場を<ヤング・コミック>という雑誌を通して語っている。そこには、若者の生き方を真剣に模索するような新しい内容がもられてきたという。
ふと、現在の宮本武蔵ブームの中心である「バガボンド」も、70年代劇画の復活的な雰囲気かもしれない、と思った。
司会者は「これを読むと70年代というのはいい時代だったのだなあと思います」と語った。

やっと読み終えた「どうにもとまらない歌謡曲」という本では、歌謡曲の歌詞を使って70年代の日本人の<通念>が分析されていた。
「70年代はウーマンリブの時代」
「恋愛結婚イデオロギーの時代」
「欲望の磁場である都市が、飛躍的に女性の領分へと変容した時代」
「若者たちに固有の価値や資質として<やさしさ>が求められた時代」
「現代のJ−popでは考えられないほど自殺のモチーフないしは死の主題一般を扱う作品があふれていた時代」
70年代は、歌謡曲全盛の時代だったのである。

こういう70年代を分析する本が、どんどん出てきている。
「クレヨンしんちゃん、大人帝国の逆襲」でまず感じさせられた70年代回顧の風潮が、さまざまな分野に感じられるのだ。
時代の風潮をうまくつかんで巧みに作品を出している(と私は感じている)津本陽が「異形の将軍」を書いたのも、ひょっとしたらそういうブームの予感があったからではないかと思う。
田中角栄が首相になったのは1972年である。
まさに70年代の日本人の<通念>が変容しようとしていた時代に、高等小学校卒の総理大臣が登場して、ダンプカーで一挙に日本列島を均等化しようとしたのだ。
田中角栄の回顧も、どうも70年代の見直しの一つであるようだ。


素晴らしいスキー日和  1月12日(日)

木曽駒高原親和スキー場で、15年ぶりにスキーをした。
高所恐怖症で心臓病の私は、もうスキーなど縁がないと思っていたのだが、長野県平沢という所に住む友人夫婦が誘ってくれたので、もう一度やってみようという気になったのだ。
昔は、スキー用具一式を借りて民宿に泊まって行ったのであるが、今回はスキー用具すべて余っているから貸してくれるし、友人宅の旅館並みの座敷に寝かしてもらえ、地元の料理をご馳走してもらえるということで、お言葉に甘えることにした。

友人宅から「親和スキー場」まで40分ほどである。
もっと近いところなら「やぶはらスキー場」もあるが、そこゲレンデの幅が狭くて距離も短いということで、初心者には「親和」がよかろうと選んでくれたのだ。
日頃いいことをしていたために、神様が最高のスキー日和をプレゼントしてくれた。
風がなく、素晴らしい青空だった。
ボーゲンでゆっくり降りてくるだけのスキーだが、中級コースを10回くらい滑った。
スビードが出せるようになるためには、もっと転ばなければダメだと言われたが、ゆっくり滑るだけで気分がいいので、優しいコースでのんびり滑った。
転んだのは3回だけだった。
リフトの半日券が無駄にならない程度に、しっかりと楽しむことが出来た。

夕方から、松本市にある牛伏寺(これで、ごふく寺と読む。不思議な読み方だ)という「長野県下随一の厄除観音」の厄除け祈願祭にでかけた。
真言宗の山寺で、この日は山門までの沿道にとても多くの露店が並んでいた。
とても長い道のりだったが露店を覗くのが面白かった。
山の上にあるので、松本市の夜景がとても美しかった。

ヨーグルトの素晴らしさ!   1月11日(土)


年末に、NHKが反響の大きかった番組をアンコール放送していたので、全部収録した。
一番アンコールの希望が多かったのが、「ためしてガッテン」の中のヨーグルトをとりあげた番組だったという。
「ためしてガッテン」は、科学的に様々な現象を検証し常識を覆す意外なことを教えてくれてとてもいい番組なので、出来るだけ見るようにしているが、ヨーグルトがテーマの時は見そこなっていた。
カミサンも誘って、見てみた。
いやあ、ほんとに目が点になるほど意外だった。

ヨーグルトは、デザートではいつも食べているし、身体にいいことは若い頃から知っていたが、アミノ酸を作り出して様々な食材のうま味を引き出す力があることは知らなかった。
カレーにヨーグルトを入れると美味しいのだそうだ。
肉はヨーグルトに付けると軟らかくなる。
何と、みそ汁にヨーグルトを入れると、全く出汁を使わなくても驚くほどおいしく飲める、というのだ。

和食にヨーグルトを使っているという料理店が紹介された。
あらゆる和食の食材に、ヨーグルトの効果を出しているという。
日本に住むブルガリア人の冷蔵庫には、スーパーで買ったヨーグルトのパックがいっぱいだった。
3食の料理すべてに使っているという。
日本でも聖徳太子が食べていたというヨーグルトだが、食材のうま味をそんなに引き出すとは知らなかった。


推理小説トリックのパクリ   1月8日(水)


今日、始業式で校長が盗作のことを語った。
池宮彰一郎氏の歴史小説「遁(に)げろ家康」(朝日新聞社刊)に故司馬遼太郎氏の「覇王の家」(新潮社刊)と類似した記述があることが分かり、朝日新聞社が「遁げろ家康」を絶版とし、自主回収することを決めた、というニュースである。

記述がほぼ同じというのは、あまりないことだろう。
だが、ネタがパクリというのは、いくらでもある。
そのために全く興ざめだった最近の体験を書いておく。

昨年末に、推理小説の傑作として有名な「占星術殺人事件」を読んだ時のことだ。
この作品のトリックは非常に斬新なもので、数ある推理小説の中でも傑出しているものらしいので楽しみに読んだのだが、私は途中まで読んで、トリックがすべてわかってしまったのだ。
何と、私は別の作品でそのトリックを知っていたのである。

その別の作品とは、「名探偵コナン」か「金田一少年の事件簿」か、どちらかだったと思う。
たまたまテレビでどちらかのアニメ番組をみたのだが、それはこの「占星術殺人事件」に使われた奇抜なトリックと全く同じ手口で話が作られていたのだ。
全く白けてしまった!
このトリックは、偶然一致したというようなことは考えられないほど斬新なものである。
間違いなく、「コナン」か「金田一」かがパクッているのだ。

偶然トリックが同じという作品に出会ったことはある。
アガサ・クリスティの「ナイル殺人事件」と坂口安吾の「不連続殺人事件」である。
この二つの作品は、犯人の設定がそっくりだったが、これはたまたま偶然に類似したアイデアが浮かんで書かれた作品であることは、読んでいてわかった。
トリックも、「占星術」ほどの斬新さはないから、偶然の一致もあり得たのだ。

しかし、「コナン」や「金田一」のような、明らかに過去のアイデアを寄せ集めて作っているとしか思えない推理マンガは、許せない!

こういうパクリは、問題にはならないのだろうか。


燃料電池、水素の生成方法がカギ

人類最大の希望といっていい「燃料電池」実用化についての課題が記された文章があった。

「まず最初は小型機器に使われるようになるだろう」と米マイクロコーティング・テクノロジーズ社の電気化学素材部門責任者でもあるファガイ議長は言う。ニュージャージー州のハイウェイの表示ランプはすでに燃料電池を使っているとファガイ議長は説明する。
ファガイ議長はさらに、「今は、燃料電池をノートパソコンに利用できないものかということに話題が集まっている」と言う。また、小型機器の次に燃料電池が使えそうな応用機器は、一般住宅その他の建物へのエネルギー供給だろうという。「世間の注目は車に集まっているが、キロワットあたりのコストが高いのが大きな問題だ。すべての部分についてコストを下げていかなければならない」とファガイ議長。
会議出席者の多くは、車への応用を考えるとき、燃料電池エネルギーにはいくつかの問題点があると指摘する。その1つが、エネルギーの生成過程で発生する水をどう処理するかだ。これは、寒冷地の場合特に厄介な問題になる。
 燃料電池は近い将来商業ベースにのるだろうと、米エネルギー省燃料電池製品部門主任のマーク・ウィリアムズ氏は語った。ただしそれは、より安く簡単に水素を生成する方法が見つかればという条件つきではある。
「水素生成のインフラはまだなにもない。問題なのは、巨大なプラントを開発して水素を生成するのがいいのか、それともガソリンを処理して水素を作るべきなのかということだ」とウィリアムズ氏は言う。
燃料電池の製造コストも大幅に下げる必要があるし、他にも解決しなければならない科学的問題点が多々ある。
ウィリアムズ氏いわく、魔法の鍵は原料を水素iに変換する小型で安い装置にある。そして、それこそまさに多くの企業が懸命に生み出そうとしているものなのだ。
ウィリアムズ氏は、燃料電池は今のところ隙間市場でしかなく、1キロワットのパワーを生み出すのに3000ドル〜4000ドルのコストがかかると語る。これに比べて平均的な大型の発電施設(石炭や天然ガスを使用するもの)は、約1000ドルで1キロワットの発電ができるという。
ウィリアムズ氏は、2005年までには病院やホテル、大型のコンピューター・センターといった商業施設の電力源として、燃料電池が使われるようになると予想する。一般家庭への普及は2010年頃、車に至っては2015年まで実用化は難しいだろう。
研究者たちはさらに、燃料電池技術によって社会の化石燃料への依存度を低めることに貢献できるかどうかについても論じている。
ウィリアムズ氏は、「人類が化石燃料から本当に乳離れできるかどうか確信は持てない。それはとても骨の折れる挑戦だ。現状を見る限り、まだまだだと思える」
水から水素を取り出すには大きなエネルギーが必要になるため、今のところほとんどの燃料電池で水素の製造過程で化石燃料が使われている。そんな中で、米エナジー・コンバージョン・デバイシーズ(ECD)社のような一部の企業は、水素の取り出しに太陽発電を利用している。ECD社のスタンフォード・オブシンスキー社長は、今はまだ「理想的な解決策はないが、やれることはいろいろある」と語った。
会議の出席者たちによれば、大手石油会社や自動車メーカーは、化石燃料が時代遅れになるという見通しには興味を示していないようだ。

宮本武蔵が人気となる時代


昨日、NHK大河ドラマ「武蔵」を見てあきれ返った。
全くといっていいほど「七人の侍」のパクリである。
野武士との闘い方ばかりでなく侍を集める方法まで模倣するとは、あまりに安易に作りすぎている。
あの名作の名場面が汚れるような嫌な気がして、途中で見るのをやめてしまった。

宮本武蔵については、いろいろ考えてみたいことがある。
第一に、若者層にすごい人気のコミック「バガボンド」について。
原作が吉川英治だと知って驚いた。原作は読んでいるし、映画化されたものもほとんど見ているが、あんな教訓的な自己研鑽型の英雄物が若者に受け入れられるというのは不思議なのである。

バガボンドの魅力について書かれたものを検索してみると、まず、カッコよさだった。
強くて、外見がいいということだ。
コミックの作者が「スラムダンク」の作者で、この人の「絵」がいいらしいのだ。武蔵の顔がカッコイイので見とれてしまう、なんてのもあった。
人物像も、現代の若者に好まれるようなキャラクターにアレンジしてあるようだ。

予想通り外見に魅力があるということかと思ったが、ちょっと面白い文章もあった。
<真の自由人とは、現実には「バガボンド」だけであろう。放浪者の意味を持つバガボンドは、一見「ルンペン」と同じと思われるが、その成り立ちと自由さにおいて全く異なっている。>
ほほう、この若者は「自由人」という点で、武蔵をとらえているのか。
「フーテンの寅」さんなんかも「自由人」だと思うが、あの映画に魅了されるのは疲れた中年以上のオヤジ連中であって、若者には人気がない。
同じ「自由人」でも、武蔵は強くて、カッコイイ外見をしている上に、<成り立ちと自由さ>で質が違うということだろう。
武蔵の<成り立ちと自由さ>とは何か。
才能とての「強さ」と、自分を鍛え上げるために権威や常識にとらわれない、ということだろうか。

武蔵人気の背景として、低成長の時代があると思う。
高度経済成長を謳歌していた時代には、その豊かさを背景にして「北斗の拳」なんてのが現れた。
あのコミックの主人公ケンシローは、自己研鑽なんかしない。初めから「強い」のである。自分を磨き上げて強くなっていくような英雄ではなかった。
豊かな時代が生み出した、異様な英雄だった。
苦しい時代には、敗北を繰り返し、それを乗り越えていく克己勉励型がもてはやされる。
武蔵は・・・まあ「北斗の拳」の前の時代の「巨人の星」的な英雄ということだろうが、組織の中で頑張るタイプではない。

権威や常識に縛られず「一人」で「自由意志」を貫き「強く」て「自分を鍛え上げる」「カッコイイ外見」の人間がもてはやされる時代になったということなのではなかろうか。

「暗黒農民」の論理

田中角栄の見直しが流行ってきているようだ。
以前から、ロッキード事件はアメリカの謀略だという説はよく聞いた。
石油ショック以後に、歴代首相で唯一、アメリカべったりの石油獲得政策を変更して独自の「資源外交」をやろうとしたためにアメリカが怒って、ロッキードの罠で角栄を潰した、という説。
確か、田原聡一郎がその視点で本を書いて、世に出てきたはずだ。

そういう視点を拡大して、角栄のビジョンをいろいろ推理するのは面白い。
朝日新聞に津本陽の「異形の将軍 田中角栄の生涯」についての紹介文があったが、その中に興味深い一節があった。

<角栄を支えたあの「越山会」イデオロギーは、子供が肺炎で死にかけても医者も呼べない雪深い越後の農民の心がわかるか、というものだが、その「暗黒農民」の論理は、実は戦前の飢餓農村が娘を身売りする時にも、2.26事件のクーデターや満蒙進出にも使われた理屈だ。なら、もしかしたら角栄の日本列島改造論=高度経済成長とは、挫折した満州の「王道楽土」(暗黒農民が食ってゆける幸福の地)を日本国内に再構築する夢の実行だったかも知れない・・・>

私には、この発想の連続性がとてもよく納得できた。
戦前の「暗黒農民」の論理は、侵略戦争という最大の暗黒状態に日本を導いた。
同じように、角栄の「暗黒農民」の論理が、国税を使った土建事業のばらまきで日本経済を破滅的な暗黒状態に導いたともいえないか。

そこで、いつも頭に浮かんでくるのは、私の持論。
「たたき上げの苦労人が自分の体験から発想して政治を行うと非常に危険」
ということである。
「指導者には、帝王学を学んだ真のエリートがなるべきだ。悲惨な体験はせずに教養を身につけられて、広い視野でものごとを考えられるようなエリートを養成して、その指導のもとに政治は行われる方がいい」
という、これもまた「非常に危険な」と思われるような考えなのだ。

今、NHKテレビで大河ドラマの特別番組として取りあげられている「信長」「秀吉」「家康」で、もう一度このことを考えてみたい。


1月3日(金)  私に影響を与えたもの

アイデンティティというのは日本語にしにくいカタカナ語として有名だが、ある本に最も近い意味は「自信」ではないかと書いてあった。
なるほど、自己同一性とか自己証明なんていう非日常的な言葉で訳したりしているが、考えてみれば、結局「自信」ということなのだ。

自分のアイデンティティとなっているものは何か・・・
そんなことを考えていて、メール友達への年賀の挨拶に、
<自分に自信を持つためには、自分を知らなければならない。
自分を知るためには、自分に影響を与えたものを知ることである。>
という、映画評論家、佐藤忠男の言葉を書いた。

すると、tenseiさんがそれを読んで、自分に影響を与えたものを考えて、返信をくれた。彼は、イエスや太宰治やメルロ・ポンテェなどを挙げていた。

私に影響を与えたものは・・・と、いろいろ考えてみて、結論として父親と「歎異抄」という答えを得た。
「反面教師」だった父親。
今になってつくづく彼の影響は大きかったように思う。
もちろん直接的に最も大きな影響を与えてくれたのは、母親だった。
母からは映画や本の世界を教えてもらって、それが生き甲斐のようになっている。
しかし、そういう母からの影響をしっかり受け止めた背景には、父親に対する嫌悪の情があったことを、今になると感じるのだ。
彼の存在があって、それに反発する形で、現在の自分があるのかもしれない、と思う。
だから、あえて母でなく父親を挙げてみた。

もう一つは、「歎異抄」の教え。
絶望から救ってくれたこの書の言葉の影響は、計り知れない。
この本を読んで、こんなどうしようもない惨めな自分でも生きていていいのだ、救われるのだ、と思った時のことは忘れられない。
それ以来私は、自分で勝手に、親鸞の弟子だと思って生きてきた。
今でも、あんなすごい言葉がこの世にあったということが、信じられないほどなのだ。


1月2日(木) 温泉で過ごした元日

元日は家族と息子の彼女さん計5人で温泉に行った。
長野県木曽郡大桑村にあるフォレスパ木曽・恋路が湯、という所である。
大晦日から彼女と一緒の息子と、19号線の恵那で待ち合わせ。
そこから私の愛車「キャパ」に5人乗りして大桑村に向かう。
約1時間で到着した。12時すぎだった。
裏山に作ってある長い滑り台で遊び、展望台まで歩いて木曽の山並みをながめた。
青空の中に、雪を抱いた駒ヶ岳連峰が鮮やかに見えた。
陰影のある雪の白さがとても美しい。

食事をして温泉に入った。
ここは、水着を着用して男女が一緒に過ごせる露天風呂や温水プールなどもあるので、分かれて温泉を楽しんだ後、合流してプールで遊んだ。
息子は何年も泳いでいなかったので、大いに喜んでいた。
彼は中学時代に泳ぎはうまくて、特に平泳ぎはとてもきれいで早く泳げるのだが、高校を卒業してから泳ぐ機会がなかったようだ。
水泳の面白さを思い出したらしく、なかなかプールをでようとしなかった。

温泉を出て、彼女さんも一緒に家まで来て、漫才番組を見ながら夕食を食べた。
我が家はみんな漫才が大好きなので、大晦日から放映されている漫才番組を録画してあるのだ。
笑って、食べて、大いに楽しんだ、いい元日だった。

(恋路が湯は、お風呂の種類が多くなく、湯の質もそんなに特徴がなく、800円では少し高いと思った。プールがあったことはよかった。裏山にはパターゴルフ、変形自転車の貸し出し、滑り台などがあって、小さな子供を連れて行くにはいいかもしれない)

1月1日(水)  私の初夢

ニューヨーク神学校、ラインハルトニーバー牧師は、神に祈った。
「変えられることを変える知恵と、変えられないことを受け入れる勇気と、この二つを区別する聡明さを、私に与えてください!」と。

年頭に当たって、私は神になど祈らない。
私は、次のように言う。
「私は、変えられることを変える知恵を身につける。
変えられないことは、勇気を持って、受け入れる。
そして、何が変えられて何が変えられないかを、自分で見極めてみせる!」

今年は景気がよくなって欲しい?・・・何が、欲しい、だ!
景気をよくするんだよ!
日本をよくしよう!
職場をよくするぞ!
家族を幸せにする!
友達を大切にするんだ!

ナポレオンが言ったように、状況は自分が創るんだよ。

(かっこいい夢だった)



「ローマ人の物語、第11巻、終わりの始まり」を読み始めた。
ローマ帝国の衰退期を、史上名高い哲人皇帝マルクス・アウレリウスから描き始めるという設定である(これは、ハリウッド映画「ローマ帝国の滅亡」がこの時期を描いたドラマだったことからみても定説となっているのだろう)。
冒頭は、マルクス・アウレリウスを皇帝にしたハドリアヌスの偉大さが強調されている。
塩野七生は、ハドリアヌスを、カエサル、アウグストスと並べて3番目の偉大な指導者として評価しているのである。
彼の功績として強調されていたことで印象に残ったことを一つ記す。
まずハドリアヌスは、(アントニヌスを中継ぎにして)マルクスを後継の皇帝にしようとして帝王学を施した。そのための教授として3人を指示したが、それらは、ギリシャ、イタリア、北アフリカの出身者であった。
選ばれた彼らは、アウレリウスに正しいラテン語やギリシャ語を教える一方で、それらの言葉を「ネイティブでない生まれのゆえに不純な言葉をはさんだり文法上の誤りを犯しがちな人の話も、不快感や軽蔑をあらわすことなく聴く」ように教えた。
「最も重要なことは、相手が伝えようとしている内容を知ることで、伝え方などは二次的なこと」
「相手の語法やアクセントの誤りは絶対に直してはいけない」
「統治者の前で沈黙するような人が多いようではかえって統治者側の利益にならない」
彼らは、こういうことを、マルクスに教えたというのだ。

私はこれはすごいことだと思った。
言葉づかいを気にして言いたいことがいえないということは、本当にある。
どの属州の出身者であってもその意見を聴く姿勢を、「相手の言葉の誤りを直さない」という形で教えたということはたいしたことであると思う。
そういう姿勢は、ローマをコスモポリタンな国家の絶頂期にしたハドリアヌス帝の姿勢であったと考えられるのである。

今年観たDVD映画や演劇(ビデオ)で面白かったものを思い出してみる。

「七人の侍」」が上映された1954年は、ちょうど朝鮮戦争によって作られた警察予備隊が自衛隊になった年でした。
そこでこの映画を、自衛隊を正当化するものだとして不快に感じる知識人(特に社会党系)が出たようです。
私の愛読している映画評論家の佐藤忠男氏も、そういう論調の文章を発表しています。
あの佐藤さんも「七人の侍」を反動的な作品として不快に感じたような時代だったということです。信じられないようなことですが・・・。
三船敏郎という俳優は大根役者ですが、黒沢監督の独裁的な指示のもとで人形のように演じている映画では絵になっていると思います。中でも「七人の侍」では、ただ暴れ回って叫ぶだけのような人物を演じて、彼の持ち味が発揮されていました。
「GO」・・・これは何度も書いた。青春映画として素晴らしい傑作。深い内容の青春映画として今まで一番いいと思っていた北野武の「キッズ・リターン」よりもよくできた作品だと思う。
「home」・・・2月にシネマテークで上映されるドキュメンタリー。引きこもりの兄とぶつかっていく様子が、弟によって手持ちビデオで撮影されたもの。演技ではとても出せない迫力があった。息子の暴力に怯える母親の姿が生々しい。
「クレヨンしんちゃん、大人帝国の逆襲」・・・70年代の雰囲気の描き方が秀逸。ドラマとして実によくできたアニメ。
「バッドニュース・グッドタイミング」・・・三谷幸喜作の演劇ビデオ。10年前に解消した漫才コンビの娘と息子が結婚しようとしている。ケンカ別れした二人の父親を、結婚することを内緒で披露宴会場へ呼ぶ。直前に何とか結婚を許してもらおうとするのだが、話の行き違いで、二人の父親は自分たちのコンビを復活するための祝賀会だと思い込んでしまう・・・漫才コンビの伊東四朗と角野卓造が実にうまくて、爆笑させてもらった。
「ビッグ・ビジネス」・・・後藤ひろひと作の演劇ビデオ。幽霊会社を電話だけで本当の会社にしてしまうハチャメチャコメディ。シナリオがしっかりしているし、役者がうまいので何度も見て楽しんだ。


私は本を読むのが大好きなので、職場の読書好きな教員とよく話をする。
この一年を振り返ってみると、いろいろな人から、実に多くの有益な、あるいは面白い本を紹介してもらった。
感謝をこめて、その内のいくつかを書いてみよう。

「ゲノムの方舟」・・・ミステリー大好きの英語の女性教員に教えてもらった。人口抑制が地球上の最大の問題だとする視点で、新しい人種差別政策ともいえるゲノム操作による黒人の抹殺を謀る恐るべき白人の陰謀を、国際関係の豊富な資料を散りばめて書かれたミステリー。国際情勢の情報量の多さにびっくり。実に面白かった。しかし、小説としては人間が描かれていない。
「幸福論」(ラッセル)・・・こんなに有益な本はなかった。幸福になるための処方箋として最高の本だと思う。とても辛い思いをしたときに橋本さんに教えてもらい熟読し、救われた。
「千利休」(赤瀬川原平)・・・千利休を考えていて偶然読んだのだが、予想外に面白かった。原平さんの実にユニークな視点、柔軟な発想には感心した。
「写楽殺人事件」・・・写楽が松平定信の権力に文化で対抗しようとした版元蔦屋グループの創作した人物だという解釈をもとにしたミステリー。田沼意次との関係まで推理した内容は実に面白い。権力に<文化力>で対抗した、という所が素晴らしい解釈。
「ガダラの豚」(中島らも)・・・中島らもが大好きという国語科の先生に紹介してもらった。こういうとんでもない展開をする、非常識な発想の面白い小説もあるのだなあ、と関心した。中島らもを少し読んでみたいと思っている。
「イスとイヌの見分け方」(きたやまようこ)・・・何という面白い発想だろう!硬直した頭がやわらかくなる。絵本の素晴らしさをあらためて感じた。
「模倣犯」(宮部みゆき)・・・被害者の家族の心理がよく描かれていて、犯罪の全体像を描き出そうと意図して成功した作品だと思う。実に重厚で、心に残る<ことば>が散りばめられている。こんなすごい構想力を持っている宮部みゆきという作家は、非常に強い倫理観の持ち主だと思った。


塩野七生のローマ賛美は、支配者側に都合のいい発想を流しているのではないか・・・そういう不安を持ちながらも、基本的に<安定した秩序>が好きな私は、彼女の言葉に惹かれていく。
日本経済新聞の11月18日に、彼女が古代ローマのインフラを述べた座談会が載っていた。
そこで彼女は、ローマが二大政党制を採用しなかったことを賞賛している。

<私はこの本(ローマ人の物語)の中で、古代ローマのもっていた「公」と「私」という概念を訴えたかったんですね。それを日本の人はどう読むかというと「官」と「民」に置き換えていると知って愕然としました。「パブリック」と「プライベート」の違いを私は言っているんですよ。ところが日本では「官」と「民」なんです。これは日本のためによくない。なぜなら「官」と「民」に分けると対立関係になってしまう。対立関係とは、一方が勝ち一方が敗れないと解決しない関係です。
 また、「政」はどこに入ってくるのか。今まで「政」は「官」とくっついていたわけです。ところが「政」が今度は「民」とくっつきはじめて、共同で「官」と対立している感じ。これは実に不毛です。
 ところが古代のローマ人は、この種の対立関係をひどく嫌っていたんですね。ただし、ローマでも共和制時代の中期には、平民と貴族という対立関係があったんです。その時期、平民側はこういう要求を送るんです。『執政官は二人だからそのうち一人をわれわれによこせ』と。貴族側が一人、平民側が一人というと二大利益代表制の構造になるんです。それで、当時の先進国であったペリクレスのアテネに視察に行くんです。ところが視察から帰ってきてもアテネ式の二大政党制は採用しなかった。どうしたかというと、平民側の代表である護民官を務めたら自動的に元老院に入る、というやり方にしたのです。ちょうど、会社の経営側と労働組合の関係のようなもので、労働組合の委員長を務めてから取締役会議に入って、もしかしたら社長になるというのと似ている。これだと、対立関係にならないんですよ。これでローマ社会は安定してくるんですね。大体、普通の国家は二大政党制になっていますから、現代でローマと同じやり方をしている組織はどこかといえば、ローマの法王庁ですね。バチカンの長命の秘密はここにあるんです。これは現代の政治で二大政党制がいい、と思い込んでいる人にとっては衝撃的じゃないでしょうか。」

いろいろ疑問が出てくる書き方だ。
ローマのシステムを最も忠実に受け継いで作られた国家だと思うアメリカ合衆国が、二大政党制をとっていて、それが必ずしも不安定要因になっているとも思えないが、それはどうしてか?
また・・・ふと、日本の教職員組合のことを考えてしまった。
教職員組合の中には御用組合があって、かつてはその中で活躍した人が教頭になり、校長になっていった。昔、日教組の全国教育研究大会にレポーターで参加したことがあるが、その時、御用組合であった中学の先生たちの凄まじい熱意にびっくりした。彼らはそこで一言でも多く発言しレポートを評価されないと管理職に抜擢されないのだ。
そうやって管理職になっていった教員が、日本の教育体制をよくしていったとは、とても思えない。
護民官を元老院に取り込むというのは・・・そういうことではなかったのだろうか。