王安石の「新法」 

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以前読んで、「宋」文明のすごさと王安石の業績を熱っぽく書き込んでいたのが印象的だった、羽仁進「世界歴史物語」をもう一度借りてきて読んでみた。

 10世紀後半から13世紀までの宋の時代を、彼は「市民たちの享受していた豊かな生活、文化の質は、世界に比べるものがなかった」と書いている。その特徴は「中国文明がそれまでに発見したもの、創造してきたものに、みごとな表現をあたえた」ということであった。茶の飲み方が洗練され、料理のメニューがこの時代にそろい、名陶磁器が生まれ、絵画は中国美術史の最高峰をきわめ、書と画の境界に生まれた山水画の美しさは日本にも強い影響を与えた。
農業中心だった中国が、飛躍的な商業の発展をみせたのも宋時代だった。流通システムが伸び、印刷術が文化を広く伝え、首都だけでなく地方に商工業都市ができる。酒楼、茶房、演芸場が人を集め、演劇、読み物、音楽がたくさん作られる。地方に都市生活が広まったのである。そこで使われた「宋銭」が日本に輸入され、一文銭などになって江戸時代初期まで使われることになる。

 そうした経済の拡大は、人々を豊かにしたが、貧富の差も生じさせ、人々がそれを意識するようにもなった。
 それは、「自由と平等」という永遠ともいえる問題である。
(この両立し得ない「自由」と「平等」を結びつけるために「友愛」なんてものを出したのがフランス革命の精神だった、という説明がある。だから、革命のスローガンは絶対に「自由」「平等」「友愛」の順序でなければならないという。私は納得している。)
11世紀の宋時代は、何とそれを解決しようとする政策が実行されていたのである。
王安石という政治家が考案した「新法」であった。

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 当時の北宋王朝は、膨大な官僚群と軍隊に支えられて専制独裁体制を完成していたが、内部には多くの問題、矛盾を抱えていた。
大地主、大商人が官僚機構とつながって台頭し、自作農、小商人が没落して彼らに隷属するような構造がふくれあがってきたのである。しかも対外的に北の遼、西の西夏の脅威があり、この二国を懐柔するために多額の銀や絹を贈らざるをえない状況があった。
そのような状況下で官僚群と軍隊は増加の一途をたどる。そのための巨大な財政支出によって、宋の財政は危機状態になっていた。
この危機にあたって、貧しい家の生まれながら21才で科挙の試験に合格し、「万言の書」という革新政策案を皇帝仁宗に提出してその能力を高く評価されていた王安石が抜擢される。20才で即位した気鋭の皇帝神宗の時である。
神宗の権力をバックに、王安石は行政改革、税政の再検討、景気刺激のための財政投融資政策などを断行する。いわゆる「新法」の制定である。
そのいくつかは、驚くほど現在の日本が行わなければならない政策に類似している。
代表的なものを列挙する。

1、均輸法。
これは政府の必要とする物資調達を合理的にするものである。
当時、中央政府が必要とする物資は多く東南地方から運ばれたが、物資の種類と数量が長い間に固定して、変動する政府の需要と食い違いが生じてきた。
必要品が不足して商人から高値で買い入れ、不要品は安値で商人に払い下げることが多く、大商人が利益を独り占めして政府はみすみす損をしていた。
そこで均輸法では、政府が必要とする物資の種類と数量とを定めて、なるべく都に近い産地において調達させ、運輸にむだな費用のかからぬようにしたのである。
この法の実施によって、従来官吏と結託して利益をむさぼっていた大商人たちは、利源を断ち切られることになるので反対した。
(時代の変化によって生じる政府の無駄な出費をやめようとすると、官吏とつながった一部の組織が反対する・・・この構図は、なんだか現代日本の、無駄な道路整備を見直そうとすると、あくまでも作り続けることを要求して利権を維持しようとする一部族議員と団体という構図を連想させるではないか。)
王安石には神宗の絶大な権力があったので改革は実行されたのである。

2、青苗法。
農民は端境期になると、欠乏した食糧や種籾、銭などを地主から高利で借りなければならなかった。
収穫物は借財の返済にあてられ、農民の地主への隷属が進み、自作農の没落が促進されていた。
そういう不平等な状況を少しでも改めるために、王安石は政府が農民に低利で資金を与え、収穫後穀物をもって返済することができるようにした。これが青苗法である。
当時の官僚たちは地主階級出身で、地主を兼ねていたから、それらの官僚は地主層とともに一致してこの法律に反対した。
新法中、反対が最も激しかったといわれている。

3、市易法。
商人の世界でも、不平等は広がっていた。
小商人は、資金を豪商から高利で借りなければならず、収奪の構造が深刻になっていた。
王安石は、主要都市に市易務と呼ぶ官庁を設け、商人手持ちの物資が売れないときはこれを買い上げ、またはそれを抵当にして低利資金を貸し付けた。
これは小商人をたすけると同時に、彼らの商業活動を活発にし、商品流通を盛んにしようとしたものであった。
この法律の実施によって、豪商は高利搾取の利益を失った。

 この他、農民を同時に兵に仕立てる「保甲法」、労役を所得に応じた銭納に代える「募役法」、学校、科挙に関する改革である「三舎法」など実に多くの新法が定められた。
この新法について、羽仁進は「新法は、今日多くの国で行われている社会経済政策の先駆をなした観があります。いまから千年近く前に、これほどの政策が精密に考えられていたのは驚異であると、後代に高く評価されたのも当然です」と書き、森本哲郎は「それは改革というより、革命に近かった」と書いている。

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 官僚と豪商の利権の構造を改革する王安石の新法には、猛烈な反対があった。皇后が皇帝に向かって泣きながら新法の中止を求めたエピソードも残っているという。森本哲郎氏は王安石を紹介した本の中で「王安石はたちまち姦臣とされてしまった。もし、皇帝神宗の支持がなかったら、失脚どころか生命まで失ったことだろう」と書いている。
では、それだけの反対にもかかわらず、新法が実施されたのはなぜか。
権力を持っていた神宗という若き皇帝や、王安石が偉かったためだろうか。

 財政危機が限界まできていたのではないか、と思う。
王安石という人物の、貧しい人々への思いやりというのもあったとは思うが、かなり合理主義的で、ずば抜けた能力を持つ超エリートであった彼の、プラグマチックな判断を受け容れざるをえないほど財政が緊迫していたのではなかろうか。
神宗という皇帝は、財政建て直しのためには、批判されても王安石の法案を支持するしかなかったのだ。
それほど事態は危機状態だったということではなかったのか。
実際、約20年間の新法実施により、赤字財政の克服と治安の回復に効果が上がった、とのことだ。
だからこそ、いろいろ言われても王安石は、いい晩年を迎えることができたのであろう。

 確かに、王安石の人柄は、なかなか素晴らしかったようだ。
森本哲郎氏の記述では「第一に彼は身なりにまったく構わなかった。第二に彼は一滴も酒を飲まず、およそ食事について無関心だった。第三に彼は妻以外の女性に何の注意も払わなかった。そして、金銭についても恬淡としていた。どんな評伝からも、彼が権力にしがみつき、宰相の椅子にこだわったという様子は見えない。それどころか、彼は天が彼に与えた義務として、やむなく、民衆のために新法の実現につくしたように思われる」と書いている。
 だが私は、ここに書かれている「天が彼に与えた義務として、やむなく」という表現に注目したい。
 「天」とは、具体的には神宗である。「義務」とは、財政再建である。
 彼は、神宗の命令により、財政再建のために、やむなく、行政の改革、税政の再検討を行ったのであろう。そして、それは、やり方として民衆を救う方法に「ならざるを得ない」ものだったのである。

(余談・・・政治の改革というものは、いつの時代、どこの国でもそうだと思うが、どうしてもそれをしなければならない状況がなければ達成できない。ゴルバチョフの改革も、冷戦構造をそれ以上続けることは無理な状況がソ連にあった。
現在の日本に起こっている、小泉旋風ともいうべき構造改革賛成の風潮も、それをしなければどうにもならないような経済状況があるという認識が広まっているから起こっていることなのだ。
そして、日本で構造改革が出来るかどうかは、小泉内閣がどれだけ「権力」を持てるかどうか、にかかっているように思う。
王安石が新法を実施できたのも、神宗という絶大な「権力」を背景にしていたからだ。
ゴルバチョフがソ連をつぶせたのも、彼に「権力」が集中していたからだ。
戦前の日本が、あんな無謀な戦争に突入したのは、軍部を抑える「権力」が天皇になかったからではないだろうか。
天皇にもっと「権力」があり、その内閣がしっかりと軍部を抑える力を持っていたならば、満州からの撤退だってできただろう。そういう意見はちゃんとあったわけだから)

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 「自由と平等」を考えた素晴らしい人物という書き出しで王安石をとりあげたのに、前回で、彼が実利的にことを行っただけのプラグマチストの政治家というイメージになってしまった。
 それは私に、実利的なものと結びついて「よきこと」は行われるはずだ、という発想が基本的にあるからである。
私は、単純に人間性の偉大さだけで歴史的業績を取り上げたくはないのである。
だから、あまりにも聖人君子のような偉人伝には、興味が持てない。
同じようにユダヤ人を救った偉人であっても、純粋に人道的だった杉原千畝さんよりも、ユダヤ人を使って儲けようとしていたナチ党員のオスカー・シンドラーの方に共感してしまう。
 坂本龍馬も、経済的な利益をめざして動いた結果、歴史的な偉業をなした、ととらえている。
だから、たとえ第一の目的が財政再建というものであったにしろ、王安石が行ったことは、「自由」と「平等」という本来両立し得ない二種類の<ありかた>を統合しようとする一つの「試み」だったことで、間違いなく偉大なことだったと思うのである。

王安石が「やむをえず」新法を実施したことは、「平等」というものの本質を考えると自然なことだったともいえる。
なぜなら、私は本来、「自由」と「平等」について次のように考えているからである。
「自由」とは、あらゆる動物(生物)が生まれながら持っている根元的な<ありかた>である。
それに対して「平等」とは、人間(および一部の動物)が、共存するために、試行錯誤によって作り出した<ありかた>である。
つまり、「平等」な状態とは、本来、<不自然な>状態なのだ。
しかし、自然界においては、根元的<あり方>である「自由」をある程度制限してでも「平等」な状態を作り続けなければ、「種」全体の生存が維持できないということもある。そこで、そういう自然環境のなかで「やむをえず」生まれたのが、「平等」という人工的な<ありかた>だったのである。
王安石が起用された時代とは、そういう「やむをえぬ」<ありかた>が、神宗によって求められた時代だった。

 王安石の政策は、いはば「大きな政府」である。貧しい人々の所得を増やすために政府が介入するという、後の社会主義政策の先駆ともいえる革新的なものであった。
それに対し、新法に終始反対した代表的な人物である司馬光の考え方は、羽仁進の説明によると次のようになる。
「貧富の差があるのは、それぞれの人々にそなわった違いによる。能力や意欲に乏しい者が報われないのは当然である。怠け者や能力の乏しい者に金を貸したって代えしっこない。国家がそんなことに深入りしてしまえば国中が貧乏になる」
司馬光は、決して利権を守ろうとするためだけの反対派ではなかった。彼にはしっかりした思想があった。
それは「小さな政府」、アメリカの共和党系の自由競争主義、といったようなものであった。
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 王安石は、頑固一徹な男だったようだ。
一度決めたことは、断固として実行し、どんなに批判されても動じなかった。
彼の「新法」に対しては、利権がらみの守旧派だけでなく、「小さな政府」論者の反対もあって、意図的に王安石の評判は落とされたようである。通俗本では徹底的に揶揄され、「オウショウコウ」(漢字が出ない!突っ張り大臣という意味)とあだ名をつけられ、世間では豚を呼ぶのに「オウショウコウ」と言っていると小説中に書かれるしまつであった。
正史の記述が、旧法派(反王安石派)が政権をにぎるようになって書かれたためもあって、王安石の悪評は清朝まで続いたという。

 しかし、王安石に対しての本当の評価がどのへんにあったかについては、明時代に編纂された「唐宋八大家文抄」に彼の文章が八大家のひとりとして収められていることでも明らかである。収められている文を読んでみると、彼の激しく、鋭い論法がはっきり分かる。
例えば、「孟嘗君伝を読む」では、有名な鶏鳴狗盗の話を、
「嗚呼、孟嘗君はただに鶏鳴狗盗の雄のみ。あに以て士を得ると言うに足らんや。・・・それ鶏鳴狗盗のその門に出ずるは、此れ士の至らざる所以なり。(孟嘗君は鶏鳴狗盗の親分にすぎない。鶏鳴や狗盗の連中が門下からでるということは、立派な人物がやってこないことの原因なのだ)」と切り捨てる。
「司馬諫議に答うる書(司馬光への返書)」では、
「利を興し弊を除くを以て、事を生ずと為さず。天下の為に財を理むるを、利をもとむと為さず。邪説をしりぞけ、壬人を難んずるを、諫を拒むと為さず。(富国につとめて弊害を除くことを、紛糾を起こすことと考えない。財政再建を民と利益を争うことと考えない。でたらめな説を排し、おもねる人を拒むのを、諫めを拒絶するとは考えない)」と断じ、
「怨誹の多きに至っては、則ち固より前にその此の如くなるを知るなり。(恨み言や非難が多くなることなど、改革に着手する前からもちろん承知していました)」
と言い切るのである。

 さらに彼の詩は、高名な詩人蘇軾を、のちに隠棲していた王安石をわざわざ南京に訪ねさせるほど優れたものであった。
そんな王安石の詩に魅せられ、彼の人柄を慕って何度も南京を訪れたと語る森本哲郎氏は、
「もし安石が、さきの小説に描かれたほど呪詛、怨念の的であったなら、政権が新法党から旧法党にかわった時点で、当然彼は、誅殺あるいは処刑されていたことだろう。たとえ、それを免れたとしても流たくの憂き目にあったはずである。だが、彼はいささかもそのような目にあわず、晩年の十年を心しずかに南京ですごすのだ。そして、安石はその晩年の歳月のなかで、文人として、詩人として、禅の境に身を置く悟達の人間として、自分の人生を完成させるのである」と書いている。

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 「中国詩人選集」で王安石の詩を読んでみると、本当に民の惨状を憂い、官僚や大地主、知識人らを批判する詩が多い。

俗吏 方を知らず (俗吏は正しい政治の方法を知らず)
ぼう克 乃ち材と為す (搾取すればそれこそ有能だと思っている)
俗儒 変を知らず (俗儒は世の移り変わりに対処する方法を知らず)
兼ぺい くだく無かるべし (兼ぺい<大地主が中小地主の土地を併呑すること>がつぶせない)
利孔 百出するに至り (利益の抜け道が百方にできるようになり)
小人 私にこう開す (それを小人どもが私利のために自由にする)
有司 之れと争うも (官吏は彼らと利益を争いあう)
民はいよいよ憐れむべきかな (そして、ますます哀れなのは人民ばかりだ!)

「選集」の解説によると、このような人民を思う詩を若い頃に作った詩人は案外多いという(例えば、白居易など)。しかし、それらの多くは権力の座に就くと保守派の仲間に投じて、かつては攻撃していた因襲をそのまま受け継いでいっている。王安石だけは、宰相となった時、抱き続けていた理想を実現にうつそうとした。しかも、政界から離れ、隠遁した後も、人民の労働の苦しみへの思いやりを忘れることはなかった、という。
旧法派が政権を握り、徹底的に王安石批判を展開したにもかかわらず、その名を抹殺できなかった背景には、おそらく名もない人民の支持があったに違いない。

 しかし、王安石が抜群の能力を持ちながら中央政界に入ろうとせず、一貫して地元で地味な仕事に就くことを望み、神宗の命で宰相となってからも権力に執着しなかったことから考えて、彼の「新法」が、人民の惨状を救うことを<第一の目的>にして行われたものではなかったと、やはり、私は考える。
それが、政府の財政再建を第一に考えた政策であったことはまちがいないと思う。
だからこそ、神宗も全面的に支援して、彼に権力を与えたのである。
もし人民のためのみの発想で行動したなら、、彼が権力を得ることはできなかっただろう。
そういう「現実」の中で、彼は自分の姿勢を貫くことが出来たととらえるべきである。
その姿勢とは、人民への思いやり、というより、不正に蓄財している官僚、大地主たちへの怒り、という面が強かったように思う。
しかし、その怒りが、純粋な「正義感」からでたものであったことだけは間違いない。

神宗がなくなり、司馬光が政権を握ると、新法はすべて廃止される。
新法派は迫害され、王安石の著書すべてが禁書となる。
しかし、司馬光が死に皇帝が変わると、またもや新法が復活するのである。
ただし、それは全く財政再建のみが目的であった。
徽宋という皇帝はただ自分が贅沢したいがために新法を復活させたのである。

「新法」は、ただ財政再建の「技法」としてのみ継承されていったわけであるが、その歴史的事実が、この法の<実利的な有効性>を証明している。
しかし、王安石の純粋な「正義感」を受け継ぐものはなかった。
その頃の「新法」は、人民のためを<第二目的>とすることもなくなっていたようである。
1127年、国力の衰えた宋は、金によって滅ぼされた。