エッセイ風紹介文
塩野七生「ローマ人の物語」を読む。
(これを読むと「ローマ人の物語」の要点が分かります)
     
        <エッセイ風紹介文>
    塩野七生「ローマ人の物語」を読む

             プロローグ  

五木寛之と塩野七生のローマでの対談「おとな二人の午後」を読んだ。
古代ローマについての話が面白かった。

「ローマ人がすばらしいと思うのは、自分たちですべてをやろうとしなかったことですね。自分たちができることは軍事と国際関係、そして組織づくりね。しかし、建築家はギリシャ人がよければギリシャ人を使った。」
「ぼくがいつも驚くのは、その被征服民のローマに対する意識なんです。ふつうは征服者っていうのは、支配を受けた側に恨まれるものなんですよ」
「ほんとに。すごいのは大学ですよ。このローマに建てる費用もすべてありながら、大学はそのままギリシャのアテネに残したの。ローマ人はそこに留学すればいいという考え方。」
「つまり、世界の被征服民たちがローマ文化の洗礼を受けてきたことを文明の資格であるかのごとく誇っているでしょう。支配者ローマを決して拒絶していない。」
「そこが、私にローマ史を15年かけて書かせる所以でもあるんです。つまり、サミュエル・ハンチントンが言ったみたいに、人類の歴史上で、すべての民族を融合した帝国をつくったのは、初めにローマがあって、終わりにはどこもない。つまりローマ帝国のみです。」
「そうなんだなあ。ヨーロッパに行きますと、必ずローマ軍がここへ来てたとか、ここは古代ローマの町だったとかって自慢する。」
「それはもう見事に、ヨーロッパはどこもローマ時代の遺跡を残しています。」
「古代ローマの影響と、アラブ・イスラム圏の影響が、ぼくはヨーロッパにとてつもなく大きなものを残してると思うんですよ。」

文化と文明のあり方を考えていく上で、古代ローマというのはしっかり勉強していかなくてはならないな、と思った。
塩野七生の「ローマ人の物語」を読んでみようと思いはじめている。

               *

塩野七生の「ローマ人の物語」を読み始めた。
政界、経済界で最も読まれている本だということで、かつての「徳川家康」みたいな読まれ方をしているのだろうと思いながら、楽しみにしている。
冒頭に、読者を惹きつける文言が置かれている。なかなか巧みだ。

知力では、ギリシャ人に劣り、
体力では、ケルト(ガリア)やゲルマンの人々に劣り、
技術力では、エトルリア人に劣り、
経済力では、カルタゴ人に劣るのが、
自分たちローマ人であると、少なくない史料が示すように、ローマ人自らが認めていた。
それなのに、なぜローマ人だけが、あれほどの大を成すことが出来たのか。一大文明圏を築きあげ、それを長期にわたって維持することができたのか。
・・・よく言われるように、軍事力によってのみであったのか。
そして、彼らさえも例外にはなりえなかった衰亡も、これまたよく言われるように、覇者の陥りがちな驕りによったのであろうか。

塩野七生はローマ帝国盛衰の歴史を「軍事力」と「驕り」のみで解する従来の見方を疑っている。
そこには他に何があるのか。
じっくりと、彼女の仕事を見つめてみたいと思う。

              ギリシャ文化、恐るべし!

ローマ人の物語」と平行して、「ローマ人への20の質問」も読み始めた。
塩野七生によれば、古代のローマ人を理解しようとする「目的」に至るための、「ローマ人の物語」は表玄関からの、そして「ローマ人への20の質問」は庭からの「手段」だというのだ。
そこでこれからしばらく(不定期に)、塩野七生の語るローマ人についての「物語」を、二つの書物から要約し、感想を述べて行こうと思っている。

質問1は、「ローマは軍事的にはギリシャを征服したが、文化的には征服されたとは真実か?」というものだった。
答え。「本当ですね。表面にあらわれた現象を見るかぎりでは、まったく真実です。・・・紀元前3世紀から紀元前1世紀にかけてのほぼ300年間、元老院階級と呼ばれるローマの指導者層が子弟の教育を託していた家庭教師は、ギリシャ人の独占態勢にあると言ってもよかった。この現象は、ローマがギリシャを完全に支配下に置いた、つまり属州化した紀元前2世紀以降もまったく変わりませんでした。ローマの指導者予備軍は、ギリシャ人の教師から、当時の国際語であったギリシャ語、観察力と認識力を養う哲学と論理学、話すにせよ書くにせよ、より効果的に伝達するのに必要な修辞学、先人の知恵の集積をわかものにするには欠かせない歴史、そして調和の感覚を養うに有効な数学と音楽までも学んでいた、ということになります。・・・・私ならば、ローマ人のギリシャ文化尊重の傾向は、彼らの劣等感ではなく、ローマ人の特質でもあった人種的偏見などは見られない開放性と、多人種多民族多宗教多文化によってなる普遍帝国の統治には欠かせない、優れた支配感覚の証しとさえ考えますね。」
ギリシャ文化、恐るべし!
ギリシャのように教育の分野で軍事的支配者を逆支配するなんて夢のような話だ。
実は、私はアメリカによって世界が連邦化(合衆国化)される未来を予想しているのだ。
まだまだ先は長いだろうが、インターネットによる世界網をアメリカが掌握する以上、どう考えても世界はそういう方向に進むとしか思えない。
そうだとすれば、古代ローマ帝国のような「優れた支配感覚」をアメリカに期待するしかないのではないか。
そしてその際、東洋の文化力がアメリカ的発想の暴走を修正していくことにかすかな希望も抱いている。
しかしその時に、はたして日本がその修正に参加出来るような文化力を維持できているだろうか。
とても不可能な気がする。
このまま行けば、軍事的にも経済的にも文化的にも、日本は単なるアメリカの「奴隷」あるいは「家畜」になるに違いないと思えるのだ。

           2、 映画に描かれたローマ人のイメージ

「私は、ローマ時代がすべて良くて後代がすべて悪いと言っているのではありません。後代がすべて良くてローマ時代はすべて悪い、とする考え方には同調できないだけなのです。」
塩野七生はそう書いているけれども、私には、どうしてもローマというと暴君ネロのイメージ、暴力と退廃、贅を尽くした酒池肉林のイメージが強い。
ローマ時代にあまりいい印象がない。
ところが、彼女はこんな指摘をするのだ。
「まず頭に置いて欲しいのは、ハリウッドの映画界を牛耳ってきたのはユダヤ系かキリスト教徒であることです。この2教徒にとって、ローマ帝国は敵でした。第二次大戦の敗者ドイツと日本が相も変わらず悪玉にされているのに似て、ローマ帝国は、キリスト教が勝利してからの1700年間、西欧史上の悪玉であり続けたのです。」
なるほど、私のローマのイメージを作っていたものは、考えてみれば「クオバディス」「ベン・ハー」「クレオパトラ」「スパルタカス」「ローマ帝国の滅亡」といったハリウッド映画だった。
そこにはキリスト教徒をライオンに食わせる場面や、残酷な剣闘士の世界、奴隷たちの上に君臨し酒池肉林の退廃を極める暴君の有様が描かれていた。
ローマをよく描いた映画というのは、考えてみればほとんどなかったのである。

           3、 2大勢力の谷間に入り込んだローマ

ローマは、紀元前753年に建設された。
伝説上の人物で建設者とされるロムルスの名をとってローマと名付けられた。
建設場所はイタリア半島の中央で、後世には立地条件として大変優れた場所と評価されるのだが、不思議なことに、ロムルス以前にはその地に都市を建設する者がいなかった。
当時のイタリア半島には、経済力と技術力を持った勢力が少なくとも2つ存在していたのに、である。
塩野七生の想像では、その2つの勢力つまりエトルリア人とギリシャ人にとっては、ローマは魅力の薄い土地だったのではないか、という。
ギリシャ人は通商の民であり海洋民族であったので、海に面した港を持つことを必須条件に南イタリアの植民都市(シラクサ、ターラント、ナポリなど)を建設した。
エトルリア人は同じ通商と産業の民であったが、ギリシャ人と違って小高い丘の上に都市を建設することを好んだ。彼らが作ったフィレンチェを見れば明らかだそうだが、丘の上に城壁をめぐらせた堅固なつくりの都市を建て、そこにこもって平地には住もうとしない民族だったのである。
紀元前8世紀から前6世紀にかけてのエトルリアの勢力は強大だった。この時代、ポー河から南のイタリア半島は、大きく分けて北はエトルリア、南はギリシャと2分されていた。
ローマは、この2大勢力圏の谷間に生まれた。
後世には絶賛されるような立地条件の場所が、ちょうど2大勢力の隙間に放置されていたというのは、偶然のいたずらみたいなことだったようだ。

塩野七生は、ローマ成立の事情を次のように語る。

「生まれたばかりのローマが、エトルリアとギリシャの2大勢力の谷間に温存されたのは、当時のエトルリア人とギリシャ人が、ローマの独立を尊重してくれたからではない。当時のローマには、自分たちの勢力圏に加えたいと思わせるだけの魅力がまったくなかったからである。・・・農業と牧畜しか知らないローマ人は、アテネの職人の手になる美しい壺を購入する資金もなく、エトルリア産の精巧な金属器に支払う貨幣すら持っていなかった。要するに、商人たちからは問題にされなかったのだ。そのうえ、海に近くもなければ防御にも適していないローマは、ギリシャ人にとってもエトルリア人にとっても、根をおろす魅力もなかった。」
やがてあの大帝国となるローマが、最初はゴミみたいな存在として無視されていたわけである。

           4、 大統領みたいに選ばれるローマの「王」

ローマの建国者ロムルスという人物は、ラテン語を話すラテン人であるが、どうもラテン民族のはみだし者ではなかったか、と塩野七生は言う。
ロムルス率いる者たちの多くが、独り身の男たちで、家族をつれた移住者ではなかったらしい、ということからの推測である。
だから、王と元老院と市民集会という3機関によって国政を行うという政体確立後のロムルスの第2の事業は、近隣のサビーニ族の女たちを強奪することだった。
当然ローマ人とサビーニ族との間で戦闘が起こる。
しかし、強奪されたとはいえ妻として待遇されていたサビーニ族の女たちの仲介で和平が成立した。
2部族は対等な形で合同することとなった。サビーニ族は部族あげてローマに移住し、サビーニ族の自由民全員に完全なローマ人同様の市民権が与えられた。
欧米には今でも、花婿が花嫁を抱き上げて新居の敷居をまたぐ風習があるが、それはこの「サビーニ族の女たちの強奪」によって成し遂げられた2部族の合同という事件以来ローマ人の習慣になっていたのが広まって、今日まで続いている一例だとのことである。
ローマは、ラテン民族の一部とサビーニ族との合体した国家として、それ以後交互に王を選んで行ったようだ。
2代目の王はヌマというが、この人物はローマに移住せず先祖の土地に残っていたサビーニ族の一人であった。
徳の高さと教養の深さでローマでも有名だったという。
2代目の王を決めるためにラテン派とサビーニ派の対立で硬直状態にあったローマの元老院は、満場一致でヌマを王に推した。
長老たちがサビーニの地まで行って、ヌマに王に即位してくれるよう頼む。初めは拒絶したが再三の依頼でヌマは承諾したという。
何だか「三顧の礼」みたいな話だ。
でもヌマという人物はそうとうな人物だったようだ。
「王位についたヌマは、それまでは暴力と戦争によって基礎を築いてきたローマに、法と習慣の改善による確かさを与えようとした」と後世の歴史家が述べている。
王政というと、私のイメージでは当然世襲されるものと思っていたが、どうもローマでは違うらしい。
その点について、塩野七生はこんな風に書いている。
「ローマの王は、神の意をあらわす存在ではない。共同体の意を体現し、その共同体を率いていく存在なのである。それゆえに、終身だが世襲ではない。また、選挙によって選ばれる。ロムルスにも子がいたのに、その子が2代目を継ぐなど、当時のローマでは誰一人考えなかった。王様というよりも、終身の大統領と考えたほうが適切かもしれない。」
政治体制のあり方について、ローマ人というのは、そうとう進んだ考え方をする民族だったようである。

           5、 宗教戦争はしなかったローマ人

2代目の王ヌマは、秩序の確立のため、ローマ市民たちを各種の職能別にわけ、それぞれが独自の守り神を持つ団体に所属させた。
これは、ラテン人対サビーニ人という部族対立を防止するためであった。
ローマは建国当初から、いろいろな人間が流れ込んでいた他民族国家であったから、部族対立の防止がまず第一に必要だったのである。
防衛以外の戦闘をやめ、略奪防止のため農業と牧畜の振興に力をそそぐ。暦の改革、祭日と休日の設定なども行う。
しかし、最大の業績としては、宗教に関する改革だったという。
ローマ人がすでに持っていた多くの神に、ヌマはヒエラルキーを与え、整理し、敬うことを勧めた。しかし、神を一つにはしなかった。
歴史家ディオニソスに「ローマを強大にした要因は、宗教についての彼らの考え方にあった」と言わしめたように、ローマ人は他民族の神も認め、つまり他者を認め、それらと共生する道を選んだ。多神教である。
ちなみに、ギリシャ人とローマ人が多神教。
ユダヤ人はモーゼの導きで一神教の民となり、後にキリスト教、イスラム教という強大な一神教を生み出す。
一神教の神は、人間の行いや倫理道徳を正す役割を担う、完全無欠な唯一の存在である。
多神教の神は、そういう役割を持たず、ただ人間を支え、守るだけである。
だから、ギリシャ神話に描かれているような多くの神が存在し、それらは人間並みに欠点も持つ。
そして、人間の行いや倫理道徳を正す役割を神に求めなかった多神教の国ギリシャとローマは、それを宗教以外のものに求めた。
ギリシャは、哲学に。
ローマは、法律に。
ローマ人は、戦争はしたが、宗教戦争はしなかったのである。

           6、 元老院活性化の知恵

古代ローマの王政は7代続き、その後共和政に移行する。
最後の王タルクィニウスは、王政というものにつきものの専横さで、市民によって追放された。
王政について、塩野七生は次のように表現している。
「王政時代のローマを、一人の王が統治するシステムであったという理由だけで否定的に評価するのでは、歴史を正確に把握することにはならないと思う。共同体も初期のうちは、中央集権的であるほうが効率が良い。組織がまだ幼い時期の活力の無駄遣いは致命傷になりかねないのだ。」
理屈ではなく「現実」を感じさせるシビアーな指摘である。
共和政ローマの創始者ルキウス・ユニウス・ブルータスは、王に代わる国の最高位者として、2人の執政官の制度を創設する。
執行官は1年ごとに市民集会で選出された。任期は1年。
そして、この制度を有効に機能させるため、元老院を強化したのである。
この改革によって、元老院には多くの新参者が席を得るようになった。

ここで塩野七生は、言葉についてのちょっと面白い意見を述べている。
まず、「ローマの元老院は、<元老院>という日本語の訳語によって連想しがちな頑固な老人たちの集まりではまったくなかった。」という。
そして、ブルータスの改革以後、議員たちは例外なく「パートレス・コンスクリプティ」(父たちよ、新たに加わった者たちよ)という言葉で演説をはじめることが慣例となったが、これについて、
「古参と新参の議員を分けて呼びかけることは、一見救いようのない旧弊に見えるが、実はなかなか巧妙なやり方ではなかったかと思う。・・・こう呼びかけて演説しているうちに、新参者に元老院への抵抗感が薄れるということはありはしなかったか。もちろんこれは、史料の裏付けさえない想像である。だが、言葉の力というものも、そうそう馬鹿にしたものではない。」
というのである。
ずっと「言葉の力」を信じ続けてきた私は、この塩野七生のとらえ方に共鳴した。
同じ言葉を言い続けることによって、人間の心は変えられていく。
古代のローマ人はそれを知っていて、自然な形で、「言葉の力」による元老院の活性化をめざしたに違いないのである。

           7、 平民階級と貴族階級の対立。

ローマの共和政は、実質は貴族政といってもいいものであった。
支配階級は元老院である。
二人の執政官と元老院と市民集会という三極構造になって、市民集会を構成する平民は元老院を構成する貴族と激しく対立するようになった。
法の成文化を要求し出したのだ。

ローマの法は、共和政になって定められたものも、いわば不文律の集成で、それらに通じているのは支配階級である元老院に限られていた。
法を文章にして誰でも読めるようにするということ、民衆の権利獲得のスタートはそこから始まることが多いという。
はじめのうち、元老院側は法の成文化に抵抗した。
すると、平民はストライキに訴えた。
何とそれは、兵役拒否だという。
外敵が攻めてきて執政官が招集しても、平民たちは二つの丘にこもったきり一人として出てこなかったという。
貴族側も対立派と協調派に分かれて打開策を練る。。
対立派主導で独裁官の擁立という「非常事態宣言」がなされるが、その独裁官に任命されたのは協調派の人物だった。
平民側はそのことで満足し、ストライキを解除する。
その後(前494年)、平民階級の利益と権利を守ることを目的にした専任の官職「護民官」の設立がされる。
「護民官」は執行官の決定に拒否権を行使する権利まであるものだったという。
(ただし戦時には使えないという条件があり、毎年どこかと戦争しているローマでは行使できる機会はめったにないという面があった、と塩野七生は指摘しているが)。
平民側のパワーを無視できなくなった貴族側は、ついに成文法をつくる方向へ動き出す。
そこで、成文法では先進国であるギリシャに視察団が派遣されることになったのである。

当時のローマの平民階級のパワーが何と強いものかと感心する。
しかし、彼らを現在の我々と同質の市民ととらえることは出来ないと思う。
彼らは、農民であると同時に軍人でもあったということを忘れてはいけない。
名誉心が強く、常時行われている周辺部族との戦闘で活躍し、常に勝ち続けていたことが彼らのパワーのもとだったはずだ。
戦争が日常的であった時代には、軍人の力は大きい。
兵役拒否というストライキが有効であるほどに、彼らは軍事力の主体だったのである。

           8、 閉鎖的な国、ギリシャ   

塩野七生によると、ギリシャとローマは、市民ないし市民権に対する考え方が正反対と言ってもよいくらいに違っていたという。
アテネを例にとると、アテネ人の考えた「市民」とは、アテネの領内で両親ともがアテネ人の間に生まれた人間だけを意味していた。
つまり、血のつながりを重視したのだ。
大政治家ペリクレスでも、二度目の妻がアテネ人でなかったのでその子は市民ではなくなってしまった。やむを得ず彼の功績による特例としてやっと認められたという。
両親がアテネ生まれだったソクラテスはアテネ市民であったが、マケドニア生まれのアリストテレスはアテネ文化の向上に寄与したにもかかわらず市民権を与えられなかった。
ソクラテスがアテネの法に殉じて死んでいくのに、アリストテレスがさっさと逃げてしまうのはそのためである。
それに対してローマ人は、市民を「志を共にする者」と考えた。
ローマ人は建国初期から、征服した部族は皆殺しにせず、有力者には元老院の議席を提供したりして同化する傾向が強かった。
ユリウス・カエサルをはじめとするローマの支配階級の多くは、その当時の敗者の子孫であるという。
カエサルは、自ら征服したガリアの部族長たちを元老院に入れた。
このやり方にキケロやブルータスは反対した。
後の皇帝クラウディウスは、ガリア人の有力者たちに議席を与えることに反対する元老院議員たちを前に、次のような演説をしたという。
「スパルタ人もアテネ人も、戦場ではあれほども強かったのに、短期の繁栄しか享受できなかった。その主因は、かつての敵を自国の市民と同化させようとせず、いつまでも異邦人として閉め出すやり方を続けたからである。しかし、われらがローマの建国者ロムルスは、賢明にもギリシャ人とは反対のやり方を選択した。年来の敵も、敗れた後は市民に加えたのだ。
 元老院議員諸君、われわれが古来からの伝統と思いこんでいる事柄とて、それが成された当初はすべてが新しかったのだ。国家の要職も、長く貴族が独占していたのがローマ在住の平民に開放され、次いでローマの外に住むラティーナ人に、さらにイタリア半島に住む人々にと、門戸開放の波は広がっていったのである。
 議員諸君、今われわれが態度表明を迫られているガリア人への門戸開放も、いずれはローマの伝統の一つになるのだ。」

           9、 流動性のある階級社会、ローマ。

ギリシャの閉鎖性について、アテネを例に、塩野七生は次のように解説する。
「アテネの社会がなぜこうも閉鎖的であったかというと、それはアテネが民主政体を採用していたからです。民主政とは、有権者の全員が平等でなければ成り立ちません。ところが、受け入れた他国の人にもただちに平等な権利を与えたのでは、既存の人々の反発を買ってしまい、いずれは社会不安の源になることは眼に見えている。とはいっても民主政をしく限り、市民は平等でなければならない。アテネでは鎖国路線を選ぶしかなかったのです。」

双方の社会を比べてみると、次のようになるという。
  アテネ=市民、他国人、奴隷
  ローマ=元老院階級、騎士階級、市民、属州民、解放奴隷、奴隷
ローマは、アテネより多くの階級が存在するという意味の階級社会だったのである。
ローマでは階級が分かれていただけでなく、階級間の流動性も高かった。
つまり、平等を大前提としなかったがゆえに、かえって階級間の流動性が高まったのである。
元老院議員の少なくない部分が、解放奴隷を先祖に持つといわれたくらいであった。

彼女は「帝国」に2種類あるという。
  民族帝国=ある民族が他の民族を支配する。大英帝国がインドやエジプトを、帝国が台湾や朝鮮を支配したような例。
  普遍帝国=支配者と被支配者が渾然一体となってしまう。ローマ帝国のみ。
そして、ローマが歴史上唯一の「普遍帝国」たり得たのは、多神教の民であったからだと説明した後で、日本人も多神教の民だったことにふれ、
「大日本帝国時代の日本人が、自分たちが多神教の民であることを忘れ、一神教の民の帝国主義的やり方をまねてしまったのが、日本の植民地統治の失敗の原因であったのではないでしょうか」
と述べるのである。

ここまで読んで、塩野七生が、ローマから学ぼうとしていることが何となくわかるような気がする。
彼女は、
完全な平等社会というのは閉鎖社会にしか実現できないものではないか。
普遍性を持つ安定社会を実現するためには、「平等を大前提としない」「階級間の流動性がある」「階級社会」がむしろいいのではないか。
そんな風に考えているのではないだろうか。

            10、 「システム」重視の発想
       
ローマから派遣された3人の視察団は、世に「ペリクレス時代」と言われている全盛期のアテネを見ている
ペリクレスとは、アテネの最高執行機関「国家戦略担当官」10人の議長に、30年間ほとんど毎年選出されつづけた卓越した政治家だった。
毎年市民集会の選挙で選ばれるのであるから、独裁者ではない。
選挙で選ばれていた政府役員などの多くを抽選で選ぶようにし、公務期間の日給を支払うという改革を行ない、無産階級にまで名実ともに参政権を与えて、アテネに歴史上最初の完璧な直接民主政を実現した人物であった。
彼の政策は、圧倒的な市民の支持を受け続けていたのである。

ペリクレスによって築き上げられた民主政体による見事な繁栄状態が、3人の視察団の前にあった。
ところが、ローマは、このアテネを模倣しなかったのである。
3人の視察団のアテネを見た感想を知るための史料は全くないという。
塩野七生の想像力は、そこで輝き出す。
「衰退期に入った国を訪れ、そこに示される欠陥を反面教師とするのは、誰にでもできることである。だが、絶頂期にある国を視察して、その国のまねをしないのは、常人の技ではない。・・・このアテネに1年も滞在した3人のローマ人には、ペリクレスの言動に接し、それを観察する機会が多かったにちがいない。そして、ペリクレスの卓越した才能に接すれば接するほど、彼ほども非凡な人間には、人類はまれにしか恵まれないことも痛感したのではないか。そしてさらに、これを痛感すればするほど、ペリクレスほどの人物をもってしてはじめて十分に機能しうる民主政体に、システムとしての弱点を見たのではないかと想像する。」

実現された繁栄が、卓越した個人の力によるものか、「システム」の働きによるものか、を見極めることが重要である。
個人の力による繁栄は、永続しない。
真の、永続的な繁栄は、システムの完備によって実現される。
塩野七生の発想は、どうもその辺にありそうである。

           11、 ケルト族の来襲

ギリシャの視察からもどった3人を迎えたローマ人は、成文法「12表法」を作るが、これは不評で、結局新しい秩序は作れず、貴族対平民の抗争は続いた。
それは、アテネやスパルタではない国作りの模索であった。
やがて、ローマ人の転機となる大事件が起こる。
紀元前390年7月、ケルト族がローマに来襲し、ローマを占領したのである。
ローマ軍は敗退し、少数がカピトリーノの丘に籠城した。
抵抗する者がいなくなったローマで、ケルト人は残虐の限りをつくした。
建国以来初めての悲惨な体験だった。
しかし、ケルト人が都市人でなかったことがローマ人に幸いした。
彼らはローマを占領したものの、都市ローマの使い方を知らなかったのである。
水道の水は、死体を投げ込んだために飲めなくなった。小麦は、倉庫の焼き討ちを楽しみすぎてまもなく底をつく。死体を放置してあったためか疫病が流行りだし、ケルト兵までが毎日のように死んだ。
何よりも、彼らは都市での生活に飽き始めた。
7ヶ月後、ローマが身代金を支払うことで、ケルト人はローマの占領を解いて出ていくことになった。

「ローマ人に鉄槌をくだしたケルト族の来襲から後のローマを物語るのは、ようやくにして迷いがふっきれた人の行動を追うのと同じ想いにさせられる」
と塩野七生は書く。
破壊されたローマの再建、国境の安全の確保という応急処置だけでも20年ほどかかったが、やがて最大の問題である、貴族対平民の抗争の解決、つまりは国論の統一という政治改革に動き出す。
「ケルト・ショック」によってローマ人が学んだ最大のことは、敗戦の原因が国内の不統一にあるということだったからだ。
それに、ちょうどそのころ、あの繁栄を誇ったギリシャで、アテネがスパルタとの戦いに敗れ、そのスパルタもテーベに座をゆずり、やがて主導権がマケドニアの手に落ちるという、情勢の変化を知る。
そのことが、ポリス的であっては短命に終わることを、ローマ人にはっきり教えた。
平民とは対決しかないと考えていたかたくなな保守派も、スパルタ的な閉鎖社会の害を悟らざるをえなかった。
しかし同時に、自分たちの権利のみを要求する急進的な平民層も、アテネ的な行き過ぎの害を自覚したのである。

            12、  画期的な法律「リキニウス法」

「ケルト・ショック」から学んだローマ人は、紀元前367年、ローマ史上画期的な法律とされる「リキニウス法」を成立させた。
この法律の制定を、塩野七生は、「まったく、スゴイの一語につきる。」と絶賛している。
それ以後のローマ興隆の基礎ともなるこの法律の意味を正確に把握し、それを評価する塩野七生の発想をしっかり理解するために、ここは特に、慎重に彼女の表現をたどって紹介してみよう。

まず、この法ではっきり制定されたことは、二人の執政官制度のもと、ローマは寡頭政体(少数指導体制)で行く、ということであった。
そして、共和国政府のすべての要職を、平民出身者にも開放することを決めたのである。
それは、どういうことを意味しているのか。
二人の執政官の選出も全面開放(完全な自由競争)とし、国家のあらゆる要職を貴族と平民とで配分するというやり方をせず、すべて自由競争で選ばせることにしたということである。
ここは重要なので塩野七生の説明を引用しよう。
「(要職を階級別に配分すれば)互いに二派に分かれた利益代表が、常時にらみ合いをつづけるようなものである。これでは、ローマは国内に二つの政府を持つことになり、国全体の力の有効な活用を実現しなければならない政治改革の名には値しない。また、それは、抗争の火種を永久に体内にかかえこむことでもあった。」
「全面開放ならば、完全な自由競争になる。選挙の結果、執政官は二人とも貴族になることもあろうし、反対に二人とも平民で占められる場合もあるだろう。結果がどう出ようが、自由な競争の結果なのだから、両派とも文句のつけようがない。・・・最大の利点は、利益代表制度を解消してしまったことにあった。」

「リキニウス法」の採択から数年後に、この体制を完成する新たな法が制定された。
ここも要約でなく、塩野七生の説明を引用する。
「(新たな法によって)重要な公職を経験した者は、貴族・平民の別なく、元老院の議席を取得する権利をもつと決められたのである。平民階級の権利の保護が仕事である護民官ですらも、退任後は元老院議員になれるのだ。労働組合の委員長が、退任後に取締役になるようなものである。」

この「元老院開放」の決議は、画期的と言えるものであるが、歴史学者の評価は分かれているようだ。
フランス革命の洗礼を受けた少なくない現代の歴史学者によると、「元老院開放」の決議は平民の権利を守る護民官まで骨抜きにされて体制側に組み込まれたとし、民主政を実現したアテネ人に対して、それをできなかったローマ人の政治意識の低さの例証である、と解釈され、批判的に書かれることが普通になっているという。
しかし、塩野七生の評価は違っていた。

            13、  「抱き込み方式」の成立

塩野七生は「元老院開放」を次のように評価する。
「(ローマ人の政治意識が低かった例証であるという批判をさして)私はそうは思えない。経験と能力に優れ、それでいて選挙の洗礼を受けないですむ人々で構成される機関は、共和体では不可欠な機関と思うからである。1年ごとに選挙によって代わる執行機関をささえていくには、選挙から自由でいられるがために、長期的な視野に立って一貫した政策を考えることのできる人々が不可欠だ。
共和政ローマの元老院は、紀元前4世紀の半ばを期して、これまでのような貴族階級の牙城であることをやめたのである。元老院議員になるには、生まれも育ちも問われなくなった。経験と能力が問われるだけだった。もともと世襲ではなかったから、より純粋に、経験と能力に優れた人々の集まりに変われたのである。
これ以後のローマは、貴族政ではなく、文字どおりの寡頭政体の国になる。」

こうなると、塩野七生によって「共和政ローマ・イコール元老院と言ってもいいすぎでない」「寡頭政体ローマの心臓」と表現されている元老院とは、そもそもどういうものか、ここできちんと整理しておかなくてはならないだろう。
塩野七生の説明を集めてみよう。( )内は私のツブヤキである。
「元老院には、政策を決定する法的な権限は与えられていなかった。彼らには、助言、忠告、勧告の権限しか与えられていなかった。・・・しかし、勧告は、事実上の決議以外の何物でもない。」(リキニウス法によって全面開放された政府の要職ではない組織ということだ。しかし実質上の権力を握っているわけだ。)
「選挙では選ばれない。しかし、世襲ではない。」
「30才から議席をもてる」(なるほど彼女が言うように、元老院という日本語訳は頑固な老人集団を連想させて不適切だ)。
「名門貴族の出身であれば多少は有利ではあったろう」(多少かなあ・・・)「だが、新参者にも開かれた機関」
「なかなかに厳しい選別が行われて識見、責任感、能力、経験ともにふさわしいと認められた者」だけが入れられる。(選別方法については、塩野七生の説明はこれだけで、詳しいことはわからない)
「選挙の洗礼を受けないのだから、いったん元老院議員になれば任期は終身である。これでは老害や動脈硬化の弊害を避けられないのではないかという心配がおきそうだが、その危険はまずなかった。当時では、病気になれば体力のない限りは死んだし、戦闘は日常茶飯事であったから、適度に構成員も入れ代わったのである。」
(終身任期制でほんとに老害はなかったのかなあ・・・これだけの説明では、私は納得できない)

私には、この塩野七生の説明だけでは、まだ実態がつかめない。
何だか、元老院体制に対する彼女の身びいきが強すぎるような気がしてならない。
でも、一応彼女の説明を信じて先へ進もう。
彼女によれば、この「元老院開放」によって、
「貴族と平民の対立関係を、貴族が平民を内包する関係に変えたのである。結果は、すぐにあらわれた。ローマは、ローマ人の持つエネルギーのすべてを投入できる、つまり国力を最大限に活用できる体制を確立できたことになった。」という。
塩野七生の肯定する「抱き込み方式」の成立である。

            14、 「抱き込み方式」の成立<その2>

「現代のわれわれが疑いもせずに最善策と信じている二大政党主義は、信じているほど最善の策であろうか」
塩野七生はそう書いている。
「リキニウス」法の制定以後、ローマの常套手段となった「抱き込み方式」は、少なくとも紀元前1世紀までの300年間、有効に機能しつづけた、と彼女は評価する。

説明を引用してみよう。
「『抱き込み方式』だと、政権交代時の『出血』を避けることができる。そのうえ、常に新しい『血』が導入されるという利点もある。つまり、人材という資源の有効な活用には、より適したシステムということになる。
ただし、欠点もあった。何ごとであれ改革とは、効果が見えてくるまでには長い期間を要するものだから、その間の人々の同意を維持しつづけていくための対策を忘れるわけにはいかないのだ。護民官制度を廃止しなかったローマは、この点でも賢明だった。護民官の存続は、平民たちの眼には自分たちの意思反映の存続と映る。とはいうものの、退任後には終身の元老院の議席が待っている者が、いたずらに先鋭化するはずもなかった。
 欠点の第二は、新興勢力の体制内組み入れに成功しても、新たに台頭してくる別の新興勢力の組み入れもまた、忘れるわけにはいかないという点である。つまり、永遠に抱き込みをつづけていく宿命をもつということになる。」
そして、典型的な「抱き込み方式」を踏襲してきた組織として、彼女は、カトリック教会をあげている。
ローマ法王を首長とするカトリック教会の「新しい波」は、ほとんど常に法主側に<抱き込まれ>てきた、という。

「抱き込み方式」がその後のローマを興隆への道に進ませたことは、歴史上の事実であったようだ。
以前にもまして新鮮な血を体内に送り、健康な機能を発揮し始めたローマ元老院は、前44年のユリウス・カエサルの改革まで生き続けることになる。

            15、 「ローマ連合」「ローマ街道」

ローマが「ケルト・ショック」から学び、改革したもう一つのことは、それまで「ラテン同盟」と名付けていた近隣諸部族との関係を、「ローマ連合」といえるものに変えたことであった。
早い話、主導国のローマが危機にさらされたケルト人の来襲時に離反していくような関係を、もっとローマに直属するような関係に変えたということである。
「ローマ連合」での同盟協定は、ローマとの間でだけ結ばれ、(それまで行われていたような)加盟国間で結ぶことは許されなくなった。
加盟国間で問題が生じた場合でも、当事者同士では解決を許されず、ローマの仲介によって解決するとも決められた。
さらに、戦略上重要と考えられた地域に、ローマ市民団が入植し、恒常的な要塞兼ニュータウンを建設していく。
それが、同盟国間の共同行動を分断する役目を果たすのである。
後に有名となるローマの<分割し、支配せよ>という考え方の誕生であった。

ローマは、、この「ローマ連合」を有機的に機能させるために、街道の整備を始めた。
前312年のアッピア街道をはじめとして、フラムニア街道、カッシア街道、アウレリア街道と、ローマの勢力圏が拡大されていくにつれ、街道網も広がっていく。
「すべての道はローマに通ず」と言われるまでになるローマ街道敷設の始まりであった。

街道は両刃の剣である。
味方の連絡や移動に便利になったということは、敵の情報収集や移動にも便利になったということである。
実際、ローマは後に、ピュロスやハンニバルに自分たちが敷設した街道を攻め上ってこられる体験を持つことになる。
それでも、ローマ人は、道を可能なかぎり直線にし、道幅も広げ、橋を架け、トンネルを掘り、水はけを良くし、平坦になるように舗装した。
つまりは「高速道路」を建設したのだ。
そんな街道の代表であるアッピア街道を前にして、塩野七生は、
「地平線まで一直線につづくアッピア街道をたどっていると、古代のローマ人の外向性の標本を目の前のしている想いになる。・・・ローマ人は、宗教から政治システムから外交関係から道路にいたるまで、ほんとうの意味で開放的な民族ではなかったか。」
と書くのである。

            16、 カルタゴとの海戦

イタリア半島を統一したローマは、紀元前264年、シチリア島の領有をめぐって海軍大国カルタゴと戦うことになった。
第1次ポエニ戦役の始まりである。
当時のローマとカルタゴの地中海における力関係は、「カルタゴの許可なくしては、ローマは海で手も洗えない」という一句に象徴されている。
ローマは地上戦しか経験していない。しかし、カルタゴの脅威に対し、海戦の準備をしなければならないことになった。
そこでローマが行ったことは、まことに興味深い。
カルタゴの軍船は、強力なパワーを持つ五段層軍船である。ローマには「ローマ連合」に加盟している海港都市が所有している三段層軍船しかなかった。
そこで、捕獲したカルタゴの五段層軍船を解体し、逐一真似ることで軍船の建造を始めた。
同時に、ナポリなどの海港都市から招いた市民の指導で、乗員の養成を行う。
現代のボート部でも使っているような初心者訓練用の模型を砂浜に並べ、漕ぎ方の訓練をしたのである。
そして、1年後には100隻の五層軍船と200隻の三層軍船による、ローマ最初の海軍が誕生した。
しかし、ローマがすごいのはこの後である。
船の操縦に長じているカルタゴ艦隊に勝つには、どうしても何か新手の戦法が必要と考えたローマ人は、「カラス」と名付けた新兵器を発明したのだ。
「カラス」とは、航行中は船首に最も近い帆柱にロープで固定されている、一種の桟橋である。
船首を先に敵船に接近するや、帆柱から解かれた「カラス」は敵船の甲板に落下し、先端につけられた鋭い鉄製の鈎が甲板に突き刺さって固定される。
これを通ったローマ兵が、敵船になだれこむわけである。
つまり、船の操縦で勝てないローマ人は、この「カラス」によって、海上の戦闘を自信のある陸上の戦闘に変えることを考えたのであった。

            17、 第1回海戦の描写

ローマとカルタゴの間で闘われた第1回の海戦を描くに当たって、塩野七生は、「ローマ人への20の質問」の中で、面白い裏話を書いている。
描き方を考えていた彼女に、何と、何年か前に聴いた本田宗一郎の言葉が浮かんできたというのである。
「日本には二輪車の伝統はない。だから、オートバイには何と何をつけるべきだという定説もない。それでボクは、二輪の伝統のある国の技術者ならば絶対に乗せないメカでも乗せてしまったのだ。」
彼女は、これだ、と思ったという。
ローマ人が「カラス」のようなものを考えたのは、ローマ人に海運の伝統がなかったからだと気づいたわけである。
このあたりの彼女の説明には、力が満ちている。
「海運国の船乗りは、船の操縦に自信があるだけでなく、船の美観も大切にする。すべての帆が張られたときの帆船の美しさは、海に命を賭けてきた男たちの誇りをかき立てるものだ。『カラス』のような奇妙な物体を帆柱につけるなど、彼らにすれば、海と船への冒涜以外の何ものでもなかった。ただ、海の男であったことなど一度もないローマ人は、そのようなことに気を使わなかっただけである。」
そして、いよいよ開始された第1回海戦の描写では、かなり「物語的」な筆遣いとなる。
「船を一線に並べることさえ思うようにいかないローマ海軍を見て、いち早く陣形を整えていたカルタゴ艦隊から嘲笑がまき起こった。嘲笑は、両軍が接近するにつれて高まる一方だった。ローマ船の帆柱にまるで蝉のようにとまっている奇妙な物体が、カルタゴ兵を笑わせずにはおかなかったのである。
 だが、ようやく陣形を整えたローマ艦隊が、一線になって、と言いたいところだが実際はでこぼこだらけの一群になってカルタゴ艦隊に向かって突撃をはじめるや、カルタゴ兵の顔からは笑いが消えた。
 舳先が折れるのもかまわずに激突してきたローマ船から、音をたてて『カラス』が落下する。カルタゴ船の甲板にくいこんだ『カラス』を伝わって、ローマ兵がなだれ込んできた。ローマ軍団の背骨と言われたローマの重装歩兵たちである。彼らとの白兵戦になっては、カルタゴの傭兵たちは敵ではなかった。海上の戦闘を陸上の戦闘に変えてしまったローマ海軍によって、カルタゴ自慢の操船能力も発揮できなくなってしまったのである。」

第1次ポエニ戦役におけるローマ軍の戦い方は、艦隊の布陣からしても海戦の方程式に反することばかりだったという。
ローマ人の柔軟で大胆な発想が勝利を導いたわけであるが、その発想を生んだ背景には、彼らが海軍の伝統的美意識などから自由だったことが大きかったようである

            18、 第1次ポエニ戦役後の「ギリシャ熱」

第1次ポエニ戦役の勝利によって、ローマはシチリアでの権益のすべてを手に入れた。
特に、シチリアにあるシラクサは、アテネが健在であった時代から群を抜くギリシャ文化の根拠地であったが、その文化都市シラクサがローマの友邦となったことは大きかったようだ。
23年にわたる第1次ポエニ戦役後にローマに起こった最大の現象は「ギリシャ熱」であったという。
ローマの良家の子弟たちはこぞって、ギリシャ語習得のためにシラクサを目指した。
ローマではギリシャ喜劇の模倣があきらかなラテン喜劇が上演されはじめる。
ホメロスの叙事詩のラテン語訳まで刊行される。
この時期からラテン文学史がはじまるとされるほどであった。

シチリア統治にも、この「ギリシャ熱」は好都合な面があったようだ。
元老院は、率先して被征服民を家庭教師に招じ、秘書に雇い、被征服地に子弟を留学させた。
塩野七生は、ここでローマ人と比較して現代の日本に言及している。
「ローマ人の面白いところは、何でも自分たちでやろうとしなかったところであり、どの分野でも自分たちがナンバー・ワンでなければならないとは考えないところであった。シチリアが傘下に加わって本格的にギリシャ文化が導入されるようになって以降は、芸術も哲学も数学もギリシャ人にまかせます、という感じになってくる。このローマ人の開放性は時代を経るに従ってますます拡大していくが、どこかの国のように滞在許可証を与えるのに『oo人で代替が不可能な技能の持ち主にかぎる』などとは言わなかったのであろう。」

ローマ人の開放性だって無条件なものではなく、あくまでも自分たちが学べる知識、技能を身につけたギリシャ文化人に対してだけだったはずだ。
だから、この書き方は少々ローマへの肩入れが過ぎるように思えるが、おそらく彼女の頭には日本の大学の外国籍学者受け入れの閉鎖性などがあったに違いない。

             19、 シラクサのアルキメデス

シラクサは、ローマ人が憧れたギリシャ文化の都市だったが、やがて始まった第2次ポエニ戦役前半の闘いで、カルタゴの名将ハンニバルによって奪われてしまう。
ハンニバルの送った工作員が、クーデターを成功させ、シラクサにローマとの同盟を破棄させたのだ。
ローマは、シラクサをそのまま放置しておけばシチリア全部を失う危険を感じ、総司令官にマルケルスを任じて、シラクサ奪還をめざす。
マルケルスは、2万の兵士によるシラクサの包囲を完了する。
ところが、攻城戦をはじめたマルケルス は、一人の人間の頭脳に悩まされることになったのだ。
その人間とは、アルキメデスであった。
陸からの攻撃を始めたローマ兵の前に、城壁の上に首を出しては石弾を打ち込んでくる新兵器が現れた。兵士の姿は見えない。
その兵器は、射程距離の伸縮も移動も自在で、ローマ兵が位置を変えても正確なねらいをつけては打ち込んでくる。
海側から攻城用はしごを使って攻撃しようとすると、ここにも奇妙な形の器械が現れ、はしごをひっかけて海の上に放り投げてしまう。
このアルキメデスの造った新兵器によって、その年のシラクサ攻略は成らなかった。

しかし翌年、シラクサの捕虜から聞き出したアルテミス女神の祭日を利用して、シラクサ攻略は成功する。
ギリシャ民族シラクサ人にとって、アルテミス女神の祭日は重要な日で、酔いつぶれるのが習慣だったのである。
夜半に、酔いつぶれた見張りを殺して侵入したローマ兵によって城門は開けられ、巨大な都市国家シラクサは、2万の兵によって陥落したのだった。

            20、 ハンニバルの敗北

第2次ポエニ戦役は、別名「ハンニバル戦争」とも呼ばれるほど、カルタゴの名将ハンニバルが中心になる。
彼は、象をつれたアルプス越えが象徴する大胆不敵な戦い方で有名である。
16年間もイタリアに駐屯し、4度にわたってローマ軍を破り、ローマを包囲するまでに接近しながらローマを陥落できず、最後の戦闘で敗北する。
最後の「ザマの会戦」前の会談で、ローマ軍を指揮する若き武将スキピオから「あなたは、平和の中で生きることが何より不得手のようだ」と言われたように、戦うことしか知らなかった人物であった。

ハンニバルはどうして敗北したのか。
それは、「ローマ連合」を切り崩すことに成功しなかったことが大きな要因だったようだ。
なぜ、切り崩しに成功しなかったか。
表面的には、ハンニバルの食糧調達つまりは略奪がローマ周辺都市の人々の反感をかっていたからだと思うが、その背景には、領土的関心を持たなかったというカルタゴ人特有の性質が関係していた。
ローマの場合は常に、今は敵でも征服後は味方にしなければならない相手なので、可能な限り食糧の現地調達は避け、やむを得ない場合でも強奪ではなく対価を払っての調達であるように努めた。
しかし、もともと海の民であるカルタゴ人にとっては、都市はあくまでも経済活動の拠点にすぎず、それを征服し、占領し、統治するなどというのは無駄なことだったのである。
特に、父親から打倒ローマをたたき込まれて育ったハンニバルにとっては、ローマ人の住むイタリア半島は征服して後に領有する地ではなく、打倒し破壊する地にすぎなかった。
彼にとっては、イタリア半島の住民から強奪し、それによって反感を買おうと、基本的にはかまわないことだったのである。

             21、 カルタゴの滅亡

第2次戦役で敗北したカルタゴは、ローマから突き付けられた過酷な条件をすべて受け入れて、降伏した。
完全武装解除、領土の放棄、莫大な賠償金の支払いなどが科せられ、自衛のための交戦権も事実上取り上げられる。
しかし、めざましい経済力によって、カルタゴは復活する。
50年の分割が認められていた賠償金の支払いを、10数年後には一括で済ませたいと申し出るほどに復興する。
国粋的な会計検査官カトーは、カルタゴの脅威を感じ、スキピオと対立してカルタゴ壊滅を主張し続ける。
カルタゴが隣国ヌミディアと交戦したことをきっかけに、ローマはカルタゴ壊滅の方向で動き出す。
ローマとの戦争回避のためにはいかなる要求ものむとの態度でやってきたカルタゴの代表30人に対して、ローマ元老院は最後通告として、首都カルタゴの破壊と住民全員の海岸から10ローマ・マイル(15キロ弱)離れた内陸部への移住を言い渡す。
この要求は、カルタゴが絶対にのめない要求だった。
カルタゴは狂気のごとく戦闘の準備にとりかかる。

私は以前、森本哲朗の「ある通商国家の興亡」を読んで、この通告はカルタゴ壊滅を策するカトーに動かされた元老院の苛酷極まりない無理難題であると理解していた。
しかし、塩野七生は、はたしてこれはカルタゴが絶対のめないものだったのだろうか、と書く。
この最後通告を苛酷な要求と断じたのは後代の歴史家のみである、という。
通告内容が、新都市建設の場所までは指定せず、海岸から15キロ離れていさえすればいいという条件であることに注目すると、当時の北アフリカは緑豊かで、川も多かったことなどから考えても、発想さえ変えられれば受け入れることも不可能ではない、というのである。
当時の地中海世界での有名な都市、シリアの首都アンティオキアやアテネ、そしてローマ自体も海岸に面した都市ではなかった。
しかし、カルタゴは滅亡覚悟で戦闘に突入する。
石弓器のロープ用に、女たちは髪を切って供出し、囚人も奴隷も戦闘要員として開放され、壮絶な戦いが始まる。
そして、子供まで入れて5万人が奴隷にされるという結末を迎える。
陥落後のカルタゴは、徹底的に破壊つくされ、一面に塩がまかれたという。

             22、 勝者ローマの新たな問題  

「ローマ人の物語」第3巻は、「勝者の混迷」と題されている。
カルタゴを滅亡させた勝者ローマが立ち向かわなければならない次なる問題は、自国の内部に生まれてきたのである。
問題とは、ハンニバル戦役という非常事態によってやむを得ず行われていた元老院への権力集中が、戦後もそのまま受け継がれてしまい、強大化したことであった。
形としては平民の権利が保障されるシステムは残っていたが、外交権、人事権、財政権、司法権、軍事権まで、実質は元老院に集中してしまったのである。
第3巻には、土地をめぐって表面化した失業者問題をきっかけに、そんな元老院と戦い、つぶされていった兄弟が登場する。
グラックス兄弟という。

ポエニ戦役の勝者であるローマには、没収し国有地となった土地と、安い労働力である大量の奴隷が入ってきた。
没収し国有となった土地は、上限を決められてローマ市民に貸し与えられることになっていた。
しかし、元老院議員たちは家族や親族名義でその土地を借りまくり、そこを大規模農園として、兵役の義務がない大量の奴隷を使って経営しはじめたのである。
必然的に中産階級の農場の経営は脅かされる。
小規模農園で得た収穫物が大規模農園の収穫物に価格競争で敗れ、生活のため借金する者が増大し、やがて、その借金のかたに土地を取られて失業する者が続出してきた。
失業者は、冨の集中する首都ローマに流れ込んだ。
推計ではローマの人口の7パーセントにも及んだという。

ここで、失業者についての塩野七生の含蓄ある説明があったので、引用しておこう。
「失業者とはただ単に、職を失ったがゆえに生活の手段を失った人々ではない。社会での自らの存在理由を失った人々なのだ。終日、樽の中に寝ていても人間の尊厳を保てた哲学者ディオゲネスのような人物はあくまでも少数派である。多くの普通人は、自らの尊厳を、仕事をすることで維持していく。ゆえに、人間が人間らしく生きていくために必要な自分自身に対しての誇りは、福祉では絶対に回復できない。・・・彼ら(ローマの失業者たち)は、自分たちはもはや一人前の市民ではなくなったという想いを、捨てることができなくなったのである。」
ローマは、失業者問題と直面することになったのである。

             23、 ティベリウス・グラックスの改革

ローマにあふれた失業者対策としては、農地の法律を改革しなければならなかった。
ティベリウス・グラックスは、護民官に選出されるや、農地改革を期した法律「農地法」を提出する。
国有地借用の上限をはっきり定め、一家全体の借地量を制限する、借地権の相続は認めるが他者への譲渡権は認めない、などが内容であった。
それは、元老院議員たちの、親族や解放奴隷名義による借りまくり状態という現状を正す意図がはっきりしている法律であった。
この段階では、元老院議員たちも表だった反対はしなかった。
しかし次に、借用制限に基づいて返還された土地を農民に再配分すると同時に、彼らを援助するために助成金を国庫から出すという条項を追加した時、元老院議員たちははっきりと反対しはじめた。
グラックスは、助成金の財源を、新たにローマの属州となった領土からの租税にしようと考えたのであるが、当時、新たな属州に関する権限は元老院に集中されていた。
グラックスの「農地法」は、その元老院の権威への挑戦だとされたのである。

反対派は、グラックス同様護民官であったが保守的な性格で知られていたオクタビウスの懐柔に成功する。
4人いる護民官のうち1人でも反対すれば法案は提出できない。
反対派に操られたオクタビウスは拒否権を行使した。
グラックスは論戦で説得を試みるが、オクタビウスは態度をかえなかった。
ついに、最後の手段として、オクタビウスの護民官解任という処置(これも投票で出来るようだ)がとられた。
ローマ史上先例のない処置であった。
市民集会は、「農地法」を圧倒的多数で可決した。

グラックスは、成立した「農地法」による改革を成功させるため護民官に再選されることをめざした。
その時、反対派の行動は開始された。

             24、  ティベリウス・グラックスの惨殺

選挙会場であるユピテル神殿前の広場で、再選賛成派と反対派がにらみ合うことになった。
この場面で、グラックスの一つのしぐさが運命を決めることになる。
塩野七生の文章を引用しよう。
「ただならぬその様子には、神殿前の階段からは遠いところにいた人々も気がついた。彼らは大声で、いったい何が起こったのか、とグラックスにたずねた。ティベリウスは説明しようとしたにだが、声がそこまでは届かないのを知り、危険が迫っていることを身ぶりで知らせるのに、頭を手で示すしぐさをした。
 それを眼にした反ラグックス派の市民は、元老院会議が開かれているフィデス神殿へ駆けつけ、ティベリウス・グラックスは市民たちに、王冠を与えるよう求めている、とつげたのである。」
これを聞いた元老院議員はざわめく。
農地改革反対派は、ついに実力行使に出た。
椅子を壊して得た鉄製の脚部をもって、ティベリウスたちの集団に襲いかかった。
ティベリウスはじめ、その時殺された彼の支持者たちは300人に上った。
刃物による死体は一つもなかった。全員が殴り殺されたのである。
反グラックス派の憎悪がいかに激しかったかは、ティベリウスと300人の支持者の遺体を、遺族からの火葬の願いを聞かずにテビレ河になげこんだことに現れている。

それは、共和制になって400年間一度もなかったローマ人同士の流血の惨事だった。
元老院は、起こりうる平民たちの怒りの噴出を鎮めるために、首謀者を追放したり、「農地法」の存続を決めたりした。
しかし、この悲惨な事件は、その後100年つづく「ローマの内乱」の端緒となるのである。
ティベリウス・グラックスが30才で無念のうちに死んだ紀元前133年から約10年後に、30才となった弟のガイウス・グラックスが護民官に当選し、政界に登場する。

             25、 ガイウス・グラックスの改革

ガイウス・グラックスは、護民官になるや続けざまに、失業者対策、貧富の差の是正、権利の平等化をめざすような法案を提出した。
兄ティベリウスと違って、ガイウス・グラックスの演説は火を噴くように激しく、演壇の端から端を歩き回って説き続けたという。
(演説のトーンが激しすぎて逆効果になることを避けるため、トーンが上がりすぎた時それを知らせる役目の解放奴隷がいつも置かれていた)
そして、実際の働きぶりも、彼を憎む者でも感心するほどであったという。
そんな彼を、市民たちは全面的に支持するようになった。
彼の法案は、次々に可決された。
しかし、「市民権改革法」を出すにいたって、またもや元老院の彼への攻撃が開始されるのである。

「市民権改革法」とは何か。
ポエニ戦役終了を境に、それまでと違って、ローマ市民権を持つことは格段に有利なこととなったため、同盟国からローマ領内への移住者が増加していた。
そこで、建国以来自分たちの市民権を他の人々に与えることに鷹揚だったローマ人だが、旧市民からの苦情を受けて、ローマ領内への移住に伴うローマ市民権の取得は認めないとする法を成立させていた。
ガイウス・グラックスは、その市民権取得を制限する法の改革にも着手したのだ。
つまり、ローマ市民権所有者の拡大をめざしたのだ。
それが、「市民権改革法」である。
これは、既得権者である一般市民にも不評だったが、何よりもローマの体制をゆるがすものとして危機感を持った元老院が、良識派も強硬派もなく反グラックスで団結することになった。

その後展開されていくガイウス・グラックス潰しのやり方は、実に巧妙であった。
一つはいつの時代でも使われる「中傷」というやり方である。
護民官ガイウス・グラックスの政策は、票集め、人気取り政策、権力の集中、権力の私物化であるという声を広める。
ここで、塩野七生は現代イギリスの研究者の、なかなか意味深長な言葉を引用している。
「無知な大衆とは、政治上の目的でなされることでも、私利私欲に駆られてのことであると思いこむのが好きな人種である」
しかし、そんなことだけでは市民の強い支持を崩せないと見た知的集団の元老院は、同時に驚くべき巧妙な方法を展開するのである。

             26、 ローマ人の「法」感覚

ガイウス・グラックス潰しのために元老院が考えた方法は、同じ護民官であったリビウス・ドルーススという人物を操って、次々に新しい法律をつくることであった。
それは、ガイウスが旧カルタゴの地に新しい植民都市を建設するため視察に出かけたわずか70日ほどの間に行われた。
まず、ガイウス「農地法」の規定から借地料の支払いを免除する法案を提案する。
当然、この法案は、「農地法」によって新たに土地を得ようとしていた失業者たちから拍手喝采でむかえられた。
次いで、ガイウス「農地法」では禁止事項だった、借用した国有地の譲渡権を認める法案を提出する。
これは、借りた土地を転売してもうけようと思う人に歓迎された。
第3に、ガイウスの「植民都市法」によって決められた新植民都市の数を大幅に増やし、その土地への入植者は失業者にかぎり、借用料無料のうえ入植に必要な資金のすべてを国庫から出すという法案を提出する。
失業者にとっては夢のような話だ。
しかし、それだけではない。
つぶす目的であるガイウスの「市民権改革法」に反対するどころか、それを支持し、それを上まわる内容の法案まで追加提出したのである。
それは、この法案で新しく市民と認めた者が軍団内で軍律を乱した場合も、棒打ちの刑(事実上の死刑)は行わない、という内容だった。
しかも、ドルースス自身は、これらの法を実行する権限を持つメンバーには入らない(つまり実行の段階で中止したりできないようにする)と言明したのである。
このドルーススの言明を、塩野七生は「無知な大衆であろうが教養高い知識人であろうが、言い出した者は権力にはノー・タッチとすることくらい好評を博すことはない。」と評する。
この、考えられないような失業者よりの法案の提出と、潔い態度によって、護民官ドルーススは、弱者の保護者であり、しかも清廉潔白な人物であるとの評判を獲得したのである。

元老院に操られた護民官ドルーススの、過激きわまりない弱者よりの法案提出は、弱者の本当の味方である護民官ガイウス・グラックスを失脚させるための詐術であった。
護民官ドルーススを操る元老院には、もちろん、成立させた法案を実行させる気など全くなかった。
しかし、われわれは、法案がとおれば、それは実行されるものだと考えるので、そんなやり方が通用するとは考えにくい。
塩野七生の説明を聞こう。
「人類史上はじめて法治国家の理念をうち立てたローマ人は、法というものは永劫不変なものではなく、不都合になれば変えるべきものであると考えていた。その変え方も、法の改正というやり方ではしない。従来ある法を改めるとなると、どうしたって及び腰になるからだ。及び腰になっては、法を改めるときを逸する。
 それでローマ人は、従来ある法の改正ではなく、現状に適合した新しい法を成立させ、旧法の中でそれにふれる部分は自然消滅する、というやり方をとっていた。おかげで、全部集めれば六法全書の山ができるほど多くの法を持つ、非成文法国家ができてしまったのである。」
護民官ドルーススを操る元老院の目標は、ガイウス・グラックスの失脚にある。
グラックスの失脚さえ実現できれば、法律などはその後で、別の新法を成立させることによって消してしまうことができたのである。

そんなことありか!と思わざるをえないようなやり方だ。
でも、考えてみれば今の日本でも、票がとれる公約を連発して当選した候補者が、当選後に「状況が変化したから」とか言って公約を実行しないことなんてざらにある。
それと同じようなものなのか。
ともかく、当時のローマでは、そんなことが可能だったということなのだ。

             27、 グラックス兄弟、挫折の原因

ガイウス・グラックスが、旧カルタゴの地での仕事を終えて帰国すると、市民集会の空気が一変していた。
彼が次の選挙では護民官に選ばれない雰囲気は確実に出来ていたのである。
しかし、残る5ヶ月間での彼の仕事ぶりによっては、一年、間をおいての三選を狙う可能性は十分あると見た元老院は、さらに巧妙な次の手をつかった。
それは、ローマ市民たちの迷信深い心情をついたやり方であった。
まもなく、旧カルタゴの地で行われた作業中に、次々と事故が起こる。
測量の柱が折れる、神々に捧げた犠牲の動物を焼いた残りが風で散逸する、境界線を示すロープが奪い取られてしまう。
すると、これらの事故は不吉な徴候であり、呪われたカルタゴの地に都市を建設したりすれば、ローマ人自身が呪われることになるとの噂が流れた。
もちろん、元老院が陰で仕組んだのである。
そして、市民たちが動揺したところを見計らって、旧カルタゴの新植民地都市の建設は撤回するとした法案を提出した。
投票の日に、追いつめられて過激化したガイウスの支持者が、反対派の下役人を殺すという事件が起こる。
それを、元老院が見逃すはずはなかった。
ローマ史上はじめての「元老院最終勧告」が発せられた。
共和国ローマを暴徒から守るため、執政官に、反国家行為をした者を裁判なしで殺す権利を与える、という「非常事態宣言」である。
(本来、元老院にはそんな勧告を発する権利はないはずだが、ポエニ戦役中に元老院が持つようになった実効力が、ここでパワーアップした形で発現されたと考えればいいのではないか、と思う。)
とにかく、この勧告によってガイウスは殺されたのである。
そして、ガイウスの死によって、「農地法」も「市民権改革法」も葬り去られた。

グラックス兄弟の改革の挫折要因を、後代の研究者の多くは、時期尚早論に帰している。
しかし、塩野七生は、もう一つの重要な観点を提出する。
「私には、どうしてももう一つの想いを捨てることが出来ない。それは、もしもグラックス兄弟が、彼らの改革を護民官としてでなく、執政官や財務官として実行していたとしたらどうであったろう、という想いである。
 祖父や父のキャリアから見ても、二人には、共和政ローマの最高官職である執政官にもほぼ100パーセントの確立で就けたはずである。だから、10年待って執政官に選出された時に改革を実行することもできたのだ。そして、執政官が政策立案者になった場合は、そうとうに革新的な政策でも元老院の支持を得ることがむずかしくなく、それを背景に市民集会でも、問題なく可決されている例が少なくないのである。
 グラックス兄弟の破滅は、ローマ市民の支持を失ったからだけではなく、元老院に象徴されていた、当時のローマの有識者たちを離してしまったことにもあった。」

元老院は、良識派であろうと、平民階級の代表である護民官の勢力が強くなることは恐れていた。
だから、グラックス兄弟の改革の内容には賛成したとしても、兄弟が護民官という立場で改革を進めるというやり方には賛成できなかったのである。

            28、 マリウスとサトルニヌス、改革と挫折

グラックス兄弟の改革が元老院によって潰された後、ローマに新たな問題が起こった。
アフリカのヌミディア王国の内乱へローマが介入したことから、「ユグルタ戦役」といわれる戦役が始まったのだ。
戦役での敗戦続きに絶望したローマ市民は、グラックス兄弟のような高貴な生まれではない、たたき上げの軍人である一人の男を執政官に選んだ。
ガイウス・マリウスという人物である。
彼は、軍政の思い切った改革を行った。
執政官の権利である正規軍団の編成を、従来のような徴兵制ではなく、志願兵システムに変えたのである。
(志願制はローマ市民だけを対象にしたものであったが、軍団内の、ローマ市民と「ローマ連合」加盟諸都市民との区別はなくされた。つまり、軍団内では、ローマ市民権の有無さえも消滅したことになったのである。)
はたして、マリウスの呼びかけに応じて志願してきたローマ市民の大半は、農地を失ったりして失業者になっていた人々であった。
グラックス兄弟が、失業者対策を、農地を与えることや新植民地の建設、また公共事業の振興によって解決しようとしたのに対して、執政官マリウスは、失業者を軍隊に吸収して解決しようとしたのであった。

やがて、「ユグルタ戦役」が終わる。
ところが、戦役が終わったとたんに、マリウスの軍政改革が内包していた問題が噴出した。
簡単な話である。共和政時代のローマには常備軍の制度はなかったので、戦争が終わったら、志願兵たちは再び失業することになったということなのだ。
ローマ政府は、元兵士たちに「退職金」「失業手当」を支給しなければならなくなった。
そこに、新たに、ルキウス・アブレイウス・サトルニヌスという人物が護民官となって登場する。
この人物は、グラックス兄弟の崇拝者で、彼らより過激な性質を持っていた。
サトルニヌスは、まず、小麦の配給法を改め、ほとんど無料給付に近い価格で平民階級への小麦の配給を行った。
これは、マリウスの部下への「失業手当」を意味する処置である。
次に、イタリア半島の外に建設する新植民都市にはマリウスの古参兵を入植させることとした。
事実上の「退職金」であった。
ここに至って、元老院は断固反対の態度となった。
すると、サトルニヌスは、元老院は市民集会で可決された法案のすべてを認める態度を5日以内に示さなければならない、とする過激な法案を可決させたのである。
しかも、それを拒否した者は、元老院の議席を失うとまでしたのだ。
元老院を屈服させたつもりになって調子づいた護民官サトルニヌスは、ついに護民官の続選をめざし、対立候補を殺させるということを行ってしまう。
元老院はもう黙ってはいなかった。
元老院は、無秩序状態への対策として「元老院最終勧告」を可決した。
勧告によって、執政官マリウスは、役目として、やむを得ずサトルニヌスを拘禁しなければならなかった。
拘禁されたサトルニヌスを、元老院側の一派が殺した。
それを、マリウスは黙認してしまう。
そのため、マリウスは平民たちに見放され、事実上失脚することになった。

            29、 「同盟者戦役」、「ユリウス市民権法」

執政官マリウスが失脚した後、マルクス・リビウス・ドルーススという人物が護民官となり、新たな改革をめざす。
この人物は、かつて、グラックス兄弟の改革に反対する元老院の意を汲み、グラックスより民衆受けする法案を提出することでガイウス・グラックスを失脚させることに成功した元護民官の息子であった。
しかし彼は、父親とは違う道を歩んだ。
何と、ガイウス・グラックスが提案しながら可決にもっていけなかった「ローマ連合」加盟の諸都市の市民への、ローマ市民権授与の法案を再興したのである。
しかも、ガイウス以上に過激に、ただちに全員にローマ市民権を与えるとした法案を提出したのだ。
当然のように、攻撃は開始される。
強硬な反対派が、自宅に帰るマルクス・リビウス・ドルーススを暗殺した。
この事件をきっかけに、「ローマ連合」の解体となる「同盟者戦役」が勃発するのである。

「同盟者戦役」とは、「ローマ連合」加盟国の中の比較的貧しい地方の住民が、ローマ市民権を求めて、反ローマで結束した蜂起であった。
蜂起した8部族は、合同して国家をつくった。
国名は、イタリアである。
イタリア人対ローマ人の戦いが始まったのである。
膠着状態の2年目に、画期的な動きが起こる。
執政官ルキウス・ユリウス・カエサル(有名なシーザーではありません)が、「ユリウス市民権法」を提出したのである。
これは、「同盟者戦役」が起こるきっかけとなった、同盟者側のローマ市民権取得の要求を全面的に受け入れたものであった。
これによって戦役は実質的に終結した。

200年以上もの間鉄の結束を誇り、ハンニバルのローマ攻略を防いでくれた「ローマ連合」が、この時、解体したのである。
ナポリに住むギリシャ系住民も、トスカナ地方に多かったエトルリア人も、山の民も、全員がローマ市民に変わった。
イタリア人は、いなくなった。
(近代国家イタリアが誕生するのは、これから1950年後である。)
「ユリウス市民権法」は、紀元前367年に成立した「リキニウス法」(貴族、平民間に公職への機会均等を実現した法)に匹敵する、画期的な法律であった。
これによって、「ローマ連合」は解体したのだが、それは発展的解消と呼んだ方がいいようなもので、ローマは、都市国家という国家形態を超越することになったのである。
塩野七生は、後世の歴史家の次の言葉を引用して、そのことを説明している。
「ローマ人が人類に教えたことの一つは、各地方の独自性は保持しながらも、全体を統一する普遍性の確立は可能であると示した点であった。」

このローマのやり方が最も意識的に実現されている現代の国といえば、やはりアメリカということになるのではないだろうか。

             30、 保守反動、スッラの改革。

「同盟者戦役」後の執政官となったのは、戦役の中で頭角を現してきたルキウス・コルネリウス・スッラという人物であった。
反グラックス派、元老院派と言える人物の登場である。
彼は、反対派の護民官を血祭りにあげ、武力を背景に「ホルテンシウス法」を改革し、市民集会や平民集会で議決されたことでも、元老院の承諾を得ないかぎり実施には移されないという法案を可決させた。
元老院の権限を強化し、ローマの体制を維持することを目指したのである。
彼は、いったんキンナという人物(スッラの腹心だったが、突然「民衆派」になった)にローマをおさえられ、失脚していたマリウスの復活をまねいてしまうが、やがてとりもどす。
そして、ローマ史上初めて、任期無期限の独裁官となるのである。

スッラは、キンナとマリウスにつながるいわゆる「民衆派」の粛清を始めた。
名簿を作成し、懸賞金つきの密告制度を採用して4700人を探したという。
その中に、マリウスの甥であり、キンナの娘の夫であった若きカエサル(いよいよ登場するあのシーザーです)も入っていた。
しかし、スッラの周辺の人々が、政治的な行動をしていないカエサルの助命を嘆願した。
しぶしぶ承知した時のスッラの言葉は、印象的である。
「きみたちにはわからないのかね、あの若者の中には100人ものマリウスがいることを。」

スッラは、私財を貯めこむことを求めない、純粋な保守派といえる人物であった。
彼は、元老院の権限を強化するため、元老院議員の数を2倍の600人とした。
貧民階級救済の「小麦法」を全廃し、新植民都市へスッラの古参兵を入れ、司法改革として陪審員を元老院議員で独占させるなど、さまざまな反動的制度改革を行ない、それらを成し遂げると、自発的に独裁官を辞任したのである。
彼の成したこれらの改革を保守反動であったとして批判する研究者でさえ、この独裁官からの自発的辞任については、「権力に執着しない潔い行為」として賞賛する人が多いという。
しかし、塩野七生は、違う視点で彼の行為を解説する。。
「スッラの国政改革の目的は、少数指導制に立脚したローマ固有の共和政体の再建であった。元老院に象徴される少数指導制は、独裁官のような存在を認めていては機能しない。スッラが独裁官になったのは、秩序の失われたローマ社会に、秩序を再建するためであった。・・・それゆえ、自分の成した国政改革を完全にしたいと思えば、スッラには、辞任するしかなかったのである。」
58才で独裁官を辞任したスッラは、政界からも引退したのであった。

             31、 ポンペイウスとクラッススの政界入り

元老院に強大な権力を集中させた「スッラ体制」を確立して、スッラは辞任した。
まもなく、この「スッラ体制」を実質的に崩していったのが、親スッラ派であるポンペイウスであり、クラッススであったということは、歴史の動きというものが一筋縄ではいかないことを感じさせてくれる。

長年兵役についていた平民の発言力が増し、彼らの利益を代表する護民官が出現しなくなった(スッラの改革で有力な護民官が出にくくなった)ことへの不満が起こり始めた。
そういう動きを察知した穏健派の学者執政官コッタは、護民官経験者にも他の官職への道を開く(これは、護民官になれば、次に執政官にも成れるということになるわけだから、護民官のなり手に実力者が集まることを意味する)法案を提出する。
次いで、スッラが廃案にした、貧民への福祉対策である「小麦法」を復活させる。
さらに、スッラの粛清の犠牲者たちの怨念をはらすため、スッラによってローマ国家の敵とされていた人々の名誉回復を決めた法案を出した。
この法の成立によって、当時25才であったユリウス・カエサルの名誉も回復された。
コッタは、これだけやって任期を終える。
「スッラ体制」は、すでに崩壊しはじめたのだ。
スッラの幕僚であるポンペイウスとクラッススがそれを引き継ぐ形になった。

スペインでの戦役を終えたポンペイウスは、軍団を解散せず、武力を背にし、元老院に向かって、自分の部下である兵士たちに土地を与えること、凱旋式挙行の許可を与えること、自分の執政官への立候補を認めることを要求した。
それは、「スッラ体制」で確立された(年齢、経験の)規定では認められないことを、実力があるからということで、特例として認めろという要求であった。
それに呼応するように、「スパルタカスの反乱」といわれる奴隷の蜂起を鎮圧した実績を背景に、同じ幕僚のクラッススも、執政官になることを求めたのである。
クラッススというのは、経済通で、ローマ1の大金持ちであった。
つまり、ポンペイウスとクラッススは、互いの支持層の利益代表として登場してきたのである。
ポンペイウスは、兵士に代表される一般市民の。
クラッススは、台頭いちじるしい経済界の。
ここに、まもなく登場するカエサルが樹立する、有名な「三頭政治」の相手役2人がそろったことになる。

             32、 ポンペイウスの偉業

「スッラ体制」を崩壊させて、実力主義で執政官になったポンペイウスには、やがてさらなる強大な権力があたえられることになる。
覇権を地中海まで延ばしてきたローマがどうしても解決しなければならなかった海賊一掃作戦の総司令官になったのである。
当時の国家予算の半分以上を使え、12万5千という軍団を指揮する「絶対指揮権」を、3年間にもわたってポンペイウスという一人の人間に与えることが決められてしまった。
ポンペイウスは、その仕事を見事にやり遂げる。
ポンペイウスの海賊一掃作戦は、後世の軍略家が一致して賞賛する、戦略の見本ともいうべき傑作だったという。
海賊が一掃されたら、ポンペイウスは「絶対指揮権」を返上するべきだったが、引き続いて中近東一帯の紛争鎮圧ということで、彼はその権力を持ち続ける。
その結果、ポンペイウスによって、地中海の波が洗う地方すべてを、ローマの属州か同盟国で埋めることを成し遂げたのである。
実質的に、地中海はローマの「内海」に変わった。
独裁制を排する「元老院体制」に背き、権力を集中させることによって成し遂げられたこの偉業によって、ポンペイウスは「マーニュス」(偉大なる人)という尊称でよばれることになった。
   
さて、いよいよカエサルが登場する。
第3巻ラストの塩野七生の書き方は、読者をわくわくさせる。
カエサル登場の序曲として、次のようなヤコブ・ブルクハルトの言葉を引用するのだ。
「歴史はときに、突如一人の人物の中に自らを凝縮し、世界はその後、この人の指し示した方向に向かうといったことを好むものである。これらの偉大な個人においては、普遍と特殊、留まるものと動くものとが、一人の人格に集約されている。彼らは、国家や宗教や社会危機を体現する存在なのである。(中略)
 危機にあっては、既成のものと新しいものとが交ざり合って一つになり、偉大な個人の内において頂点に達する。これら偉人たちの存在は、世界史の謎である。」
そして、ポンペイウスの偉業を見る時、ここに描かれている「偉大な個人」は、まだ47歳という壮年の体力を持ち、政治力も軍事力も大衆の支持も持っていたポンペイウスが当然想定されるだろう、という内容を書いた後で、
しかし、と彼女は書き、
「ローマ史上の<偉大な個人>には、ポンペイウスではなく、別の人物がなることになる。」
という言葉で、締めくくるのである。

             33、 ユリウス・カエサルの登場

第4巻と第5巻は、ともに「ユリウス・カエサル」と題し、ルビコン以前と以後とに分けて、それぞれ450ページの分厚さで描かれている。
塩野七生の意気込みが感じられる編集である。
第4巻の冒頭に並んでいるカエサルに関する言葉の中で、私は、イタリアの普通高校で使われている歴史教科書の記述というのが印象に残った。
「指導者に求められる資格は、次の5つである。
知性、説得力、肉体上の耐久力、自己制御の能力、持続する意志。
カエサルだけが、このすべてを持っていた。」

カエサルの仕事は、40才から始まる。
紀元前60年に内密に結ばれた「三頭政治」の樹立からである。
近現代の歴史研究者たちの筆になるローマ史では、それ以前のカエサルにはほとんどふれられていないという。
しかし、この本では、40才以前の記述にも150ページほどが費やされている。
その記述の中から、のちの彼の偉業が可能になった要因とも思われる彼の性格の解説を、3つ引用しておこう。
1、「カエサルという男は、あらゆることを一つの目的のためだけにはやらない男だった。彼においては、私益と公益でさえも、ごく自然に合一するのである。」
2、カエサルの生涯持ち続けた特徴は、「絶望的な状態になっても、機嫌の良さを失わなかった点であった。楽天的でいられたのも、ゆるぎない自信があったからだ。」
3、カエサルは「女にもてただけでなく、その女たちから一度も恨みを持たれなかったという希有な才能の持ち主」である。

私は、この中で、特に3番目が注目すべき特質で、彼の政治的な働きにも大きく関係していると思う。
女にもてる男ならいくらでもいるが、その女たちから一度も恨みを持たれなかった男などは、めったにいるものではないからだ。
ローマの社交界でそんなことが出来たということは、よっぽど女の心理をつかんでいて、うまく交際したにちがいない。
そして、塩野七生が言うように「女の心理をよく知っていたということは、大衆の心理もよくつかみ得た」ということなのだ。
カエサルの偉業は、彼のそういう能力に負うところが多かったと思うのである。

             34、 「民衆派」カエサルの始動

カエサルは18才の時、台頭した保守反動のスッラによって殺されかけるが、逃亡し、かろうじて生き延びる。
その後、「スッラの改革」は、学者執政官コッタによってくずされていき、スッラの幕僚であったポンペイウスによって崩壊していったことはすでに書いた(第32回)が、その過程でカエサルの名誉も回復した。
カエサルは、会計検査官をつとめ、その結果自動的に元老院議員となり、やがて按察官という官職について、少しずつ「民衆派」としての動きを始める。
ローマの庶民がカエサルを注目し始めるのは、スッラが破壊させたままであったマリウス(当時、民衆派の英雄とされていた)の戦勝記念碑を、按察官の権限で再びもとの位置に再建した時であった。
37才で最高神祇官となるころには、彼は元老院議員でありながら反「元老院派」の中心人物と思われていた。
40才で、いよいよ、彼は執政官をめざすのである。

政界入りするまでのカエサルの生活で、塩野七生は、天文学的な額にふくれあがっていたという彼の借金のことをしきりに書いている。
カエサルは、借金と女たらしで有名な人物だった。
その莫大な借金は、いったいどうして発生したのか。
ここにもカエサルの人間像がうかがえるので、書いておこう。
塩野七生は、諸々の史料から、彼の借金の原因を3つに大別している。
第1は、自分自身の読書、服装のため。カエサルの読書量は当時の知識人の中でも傑出していたらしい。当時の本というのは、高価なパピルス紙に書写した巻物で、高くついた。そして、非常にお洒落でもあったので、服装に凝っていた。
第2は、友人づきあいの大らかさのため。交際費としての出費が多かったようだ。
第3は、愛人たちへのプレゼントのため。カエサルは多くの女たちと付き合い、プレゼントを贈ったようだ。しかし、ここで塩野七生は、注意深く次のように書き加えるのである。
「カエサルは、もてるために贈り物をしたのでなく、喜んでもらいたいがために贈ったのではないか。女とは、もてたいがために贈り物をする男と、喜んでもらいたい一念で贈り物をする男のちがいを、敏感に察するものである。」
(さすが塩野さんは女性なので、するどい指摘ですな。私もこれから気をつけよう。)
要するに、カエサルの借金は、贅沢三昧のためではなく、大きくとらえれば、すべて「人との交流」のために費やされていたと考えられるのである。

             35、 「三頭政治」の成立

南部スペインでの属州統治という仕事をおえて帰国したカエサルは、いよいよ執政官への立候補を目指した。
しかし、すでに彼をはっきりと「民衆派」の中心人物として危険視していた元老院は、立候補を妨害し始める。
立候補届け出の期日の後に、帰国の凱旋式を行うとしたのである。
凱旋式が済まなければ、名誉ある凱旋将軍として市内に入ることができない。
ところが、立候補の届け出は本人自身が行わなければならないと法で定められていたので、凱旋式まで待っていると、執政官立候補の届け出期日が過ぎてしまうことになった。
つまり、名誉ある凱旋式を取るか、執政官立候補という権力への道を取るか、どちらかを選ばなければならなくなったのである。
元老院は、立候補をあきらめるだろうと考えたわけだ。
しかし、カエサルは凱旋式のほうをあきらめ、凱旋将軍ではないただの市民として城門をくぐり、国家公文書館での執政官立候補の届け出をしたのである。
40才のカエサルは、栄誉よりも権力を選んだのだ。

さて、立候補は出来たが、当選することは簡単ではない。
元老院は強力な対抗馬を二人用意して、執政官を独占しようとしていた。
そこで、カエサルは反元老院派の実力者の支持票を取り込むことを考えた。
まず、ポンペイウスに接近し、密かな協約が結ばれた。
このあたりのカエサルの交際力とでもいう能力は大したものだと思う。
なぜなら、カエサルはポンペイウスの遠征中に、彼の妻を寝取っていたのであるから。
(もっとも、ポンペイウスはそのころ妻に未練がなかったらしいが)
とにかく、ポンペイウスの集めた票でカエサルの当選を助ける代わりに、執政官となったカエサルは、ポンペイウスの旧部下たちへの農地給付と、ポンペイウスが組織したオリエント諸属州諸同盟国の編成案の承認を実現させる、という協約が実現したのだ。
しかし、二者連合では力関係が釣り合わない。ポンペイウスのほうがはるかに強いのである。
そこで、カエサルはクラックスを加える。
クラックスは、カエサルが莫大な借金をしている相手であった。
どうしてクラッススが協力したのか。
塩野七生の解説では、最大債権者であることで、カエサルという「不良債権」を見捨てることができなかったクラックスが、取り込まれたのだろうという。
つまり、返済を求めるためにもカエサルを当選させざるをえなかったのではないか、ということだ。
仲が悪かったポンペイウスとクラックスも、それぞれの力を出し合うことで互いに利益はあったので、三者の協約は実現した。
こうして、紀元前60年に、史上有名な「三頭政治」は成立したのであった。





6月17日(日)   「ローマ人の物語」(140)<最終回>

     理想的な父親像、アントニヌス・ピウス

「父から私は、次の諸事を学んだ。
決断を下す際の、慎重、穏健、それでいて確固とした持続性。社会的名声への軽蔑。仕事への愛と忍耐。公益に利するならば、いかなる提言にも耳を傾ける態度。各人の業績に報いる際に示した、公正な評価。経験を踏まえての人間性への洞察力。・・・
公共心の強さ。夕食の相伴をしたり別荘行きに同行することを有形無形に強いたことはまったくなく、友人たちの自由にまかせたこと。そして、公務や私事が理由で夕食に欠席したり別荘への招待を断った人に対しても、不快感をもちもせず示しもせず、以前と同じ親しい態度で接しつづけたこと。・・・
神々に対しては、信仰は充分にもっていたが、それにすがることはなく、ゆえに狂信とは無縁だった。
人間に対しては、民衆の人気を得ようとして彼らをほめあげたり、彼らに過分のサービスをすることはなかった。万事につけて、節制の人であり、良い意味で四角四面の人であった。・・・
このように人生を送れた彼に対しては、誰一人、ソフィスト(詭弁家)であるとも、恥知らずとも、形式主義者であったとも非難できないであろう。それどころか彼は、成熟した人そのものであり、完璧であり、虚栄心がなく、自らと他者ともをコントロールすることができたのである。
また、真の哲学者に対しては尊重を欠かず、そうでない人は、いかに世間的な名声があろうと軽蔑していたし、彼らの学説に惑わされることもなかった。
優しさと穏やかさは、過度に陥らずに彼の振る舞いを支配していた二大資質である。・・・そして、彼の最大の徳であったのは、才能があると認めた者には、羨望などは感じずに、その才能を充分に開花させる機会や地位を与えたことである。・・・・」

後世「哲人皇帝」と呼ばれるマルクス・アウレリウスが「自省録」の中で書き残したアントニヌス・ピウス像の一部である。
記録が残らないほどに、本当に穏やかな、平和な統治を行ったらしい彼のことは、塩野七生も書くことがないらしく、「自省録」の記述がかなり多く引用されている。
「それは、まさに理想的な父親像と言えるものであった。」
というのが、第9巻最後の、塩野七生の言葉であった。

5ヶ月ほどかけて、塩野七生「ローマ人の物語」9巻を読み終えた。
記憶力の悪い自分のために、少しずつ内容をまとめておこうと思って始めたシリーズであった。
それまでは暴政、残虐、退廃のイメージが強かったローマ帝国だったが、「ローマ人の物語」を読んで、見方が変化した。
ローマの歴史は、「統治論」を考える上で大いに参考になるものだと思う。
塩野七生は、今、第10巻を執筆中である。五賢帝の最後を飾るマルクス・アウレリウスに一巻を費やすつもりではないかと想像している。
ともかく、第10巻が出るまでは、お休みとするしかない。
最高の読者としていつも友情あるコメントを送ってくれた橋本裕さんに、心から感謝します。
長い間読んでいただいて、ありがとうございました。


6月16日(土)   「ローマ人の物語」(139)

      アントニヌス・ピウスの平穏な治世

アントニヌス・ピウスの治世23年間は、帝国全域を平穏な秩序が支配していた時代であった。
彼の治世には、特筆に値する新しいことは何も行われなかった。
従って、後世の伝記作家にとって歯が立たない皇帝で、彼の伝記は「皇帝伝」以外は皆無といっていいほどだという。
それほど、平和で穏やかな時代だったのである。

先帝の業績はほとんどすべて継承したアントニヌス・ピウスだったが、登位直後に2つだけ先帝の意に反することをした。
1、ハドリアヌスが末期に乱発した元老院議員に対する告発を、恩赦という形で白紙にもどしたこと。
2、養子にしたアンニウス(後のマルクス・アウレリウス)とルキウス(ハドリアヌスの最初の養子アエリウスの遺児)の二人の許嫁を入れ替えたこと。
ハドリアヌスが決めていたのは、
アンニウスの許嫁・・・アエリウスの遺児の姉のほう。
ルキウスの許嫁・・・アントニヌスの娘。
である。これを入れ替えたのである。
アントニウス・ピウスは、自分の次はアンニウスと決めていたらしい。自分の娘をアンニウスの許嫁にすり替えることができれば、血を分けた娘が次の皇帝の妃になるわけだ。
皇帝世襲の弊害がなかったがゆえに5人もの「賢帝」が続いたとされるが、実体はたまたま実の息子がいなかったということだった。
アントニウス・ピウスのこの行為は、本音では世襲への執着があったことを物語るのではないだろうか。

次の皇帝になるマルクス・アウレリウスには「自省録」という著作がある。
それは、自分が誰から何を学んだがということを、人名別に列記することから書き始められている。
ハドリアヌスには一言もふれていないが、アントニウス・ピウスにはとくに多くの言葉が費やされている。
明日、その言葉を引用して、この「ローマ人の物語を読む」の一応の終了としたい。


6月15日(金)   「ローマ人の物語」(138)

     ハドリアヌスの死、皇帝アントニヌス・ピウスの誕生

ハドリアヌスには皇后サビーナとの間に子供がなかった。養子に誰を迎えるかが、そのまま後継者の人選になる。
彼は、当時30才前後であったといわれる美男で元老院の支持はあまりないアエリウスを養子に迎える。
しかし、アウリウスはすぐに病死してしまう。
そこでハドリアヌスは、もう一人の信頼のおける部下であったアントニウスを養子にしようとするが、その際、条件を出した。
それは、アントニウスが、一人の少年を、アウリウスの遺児とともに養子にすることであった。
その一人の少年とは、後に皇帝マルクス・アウレリウスとなる16才の哲学少年である。
ハドリアヌスは、以前からその少年に注目していたのだ。
アントニヌスは、条件を一ヶ月考え、慎んで受けると答える。
後継者は、アントニヌスに決まった。

ハドリアヌスは死を願っていた。
塩野七生は「ローマの男たちは、特にその中でも自他ともにエリートと思っている人々は、人間としての機能が十分に果たせなくなった後も、つまりぼけた後も、なおも生き続けることを恥と考えている。自ら食を断って自死を選ぶことを奇異に思わす、また周囲も納得していた」と書いている。
ハドリアヌスは、若い奴隷に短剣を渡し、自分の胸をさせと命じる。
自分で自分の胸さえ突けないほど、体力がなくなっていたのである。
奴隷は涙を流して許しを請い、その「自殺」は実現しなかった。
ある時は、忠実な侍医に、誰にも内密にせよとの厳命のもとに、毒薬の調合を命じた。
皇帝の命令に背くことができない侍医は、自分が調合した毒薬で自殺した。
ハドリアヌスは、このことで自制心を取り戻しはしたが、自死できないいらだちを元老院に向けはじめる。
元老院議員に対して、皇帝から多くの告発がなされた。
アントニヌスは、まず、その告発を正式な裁判に持っていくようにし、その裁判をわざと延期した。
そして「父」に海に行って、静養するようすすめた。
誰からも忌み嫌われるようになった「父」を元老院から遠ざけたのである。

紀元138年、62才でハドリアヌスは死んだ。
元老院の議員たちは喜んだ。
少なくない数の議員たちから、先帝の神格化を拒否する動議が提出された。
アントニヌスは、涙を流さんばかりにして、議員たちに先帝の神格化を求めた。
結局、現皇帝の熱意に負けた形で、元老院はハドリアヌスの神格化を認める。
このことがあって以来、アントニヌスは「慈悲深い人」を意味する「ピウス」というあだ名つきで呼ばれるようになったのである。


6月14日(木)   「ローマ人の物語」(137)

    ハドリアヌスの晩年

ユダヤ人に対してのハドリアヌスの強行な姿勢を、塩野七生は次のように解説する。
「ハドリアヌスは、真実は自分たちだけが所有しており、それは唯一無二の自分たちの神のみであるとする彼らの生き方を、人間性もわきまえない傲慢であるとして嫌ったのだ。そして、それ以外の神々を信仰する他者を軽蔑し憎悪するこの人々に、神を愛するあまりに人間を憎むことになる性癖を見出して、同意できなかったのであった。ギリシャ・ローマ文明の子ならば、当然な考え方である。ドグマに安住するのではなく、常に疑いをもつことが、ギリシャ哲学の基本であったのだから。もしもこの時期のキリスト教徒が、ユダヤ教徒同様にローマに抗して反乱を起こしていたとしたら、迷うことなくハドリアヌスは、弾圧を強行していたと思う。」
確かに、ユダヤ人の選民思想は、国の秩序を考える者にとってはたまらないものだと思う。
ユダヤ人は、全世界に散らばって生き始めるが、国法よりも自分たちの戒律を優先し、エリート意識をもって、自分たちだけのコミュニティを重視する生き方を貫いたのではないか。
ナチスのホロコーストを生み出す土壌として、ドイツ人の中にユダヤ人に対する憎悪があったわけだ。

さて、ハドリアヌスの晩年は、悲惨なものであったようだ。
彼は、厳格で気難しく、私的な喜びのために出費を惜しまないのに一方ではケチで、不誠実で冷酷、というふうに、悪い方で「一貫して」しまう。
年齢が原因とか、病気のせいとか、いろいろ言われているようだが、塩野七生は、「やらねばならなかったことはすべて終えた、と思った人を襲う、精神の張りのゆるみ」ではないか「それが、もともとからして自己中心的である性格をコントロールしていた緊張感を、彼から失わせたのではなかったか」と書いている。
とにかく、最晩年のハドリアヌスを「皇帝伝」の著者が「もはや誰からも忌み嫌われ」と書くほどに、彼の情緒は乱れてしまうのである。

そんな彼が行った実に「まとも」な仕事は、実に素晴らしい後継者を決めたことであった。


6月13日(水)   「ローマ人の物語」(136)

       ローマ人とユダヤ人の戦い

強制的「ディアスポラ(離散)」に至るまでの、ユダヤ人に対するローマ人の対処の仕方をまとめてみよう。

まず、ポンペイウスがローマ人としては最初にユダヤと接触する。
ポンペイウスは、ユダヤに政教一致の統治システムの見直しを要求し、拒否したユダヤ人を武力で制圧。ユダヤは、シリア属州総督の管轄下に入る。
ポンペイウスを倒したカエサルは、ユダヤ人の願いを容れ、ユダヤ教の最高司祭をユダヤ政府の長にもどす。そして、ユダヤ人の経済上の権利をギリシャ人と同じ線に引き上げ、対立していた両者の調停役をはたす。政教分離でなくてもいいとするカエサルの寛容政策に、ユダヤ人は喜び、カエサルが暗殺された時には涙を流して悲しんだという。
アウグストスは、専制君主であるヘロデ王を使って、再び政教分離をさせる。
ヘロデ王の死後も、アウグストスはユダヤの神聖統治復活の願いを拒否し、ローマから派遣する長官による直接統治のほうを選ぶ。しかし、その代わり、ユダヤ人には広範な自由を与えた。殺人以外にかかわる司法権も認める。70人の長老による議会までつくってそれを後援した。
この、ユダヤを特別配慮する政策が、ティベリウスにも受け継げられる。
タキトスは「ティベリウスの治世はユダヤは平和だった」と書いたが、皇帝の配慮が臣下の長官にも影響し、ユダヤの司祭階級の願いを受けて、救世主を名乗って新しい信仰を広めつつあったユダヤの若者を殺すことまでしてしまう。
イエス・キリストは、ユダヤ教徒の願いによって殺されたという面もあるのだ。

ユダヤ人に対する寛容路線は続行されたが、次第にユダヤの態度が硬化し、ローマの方も他者の神を一切認めず自分たちを選民とする頑ななユダヤ人に憎悪を抱くようになる。
ネロ帝末期には、大規模な反乱が起こり、ビスパシアヌスとその息子ティトスによって、鎮圧される。
その際、エルサレムは落城、70人会議は解散、ローマの一個軍団の駐留、そして、ユダヤ教徒の信仰にもとづく献金先は、それまでのエルサレムの大神殿からローマのユピテル神殿に変えさせられたのである。
この最後の処置は、ユダヤ教徒にとっては耐え難い屈辱であった。
トライアヌス帝の治世に、彼が大国パルティアとの戦いに専念している背後を突いて反乱し、次のハドリアヌスによって一時鎮圧される。
しかし、ハドリアヌスは、このユダヤの行為を絶対に許さなかった。
アエリア・カピトリーナの建設と割礼禁止は、ユダヤ人を挑発するものであった。
ユダヤ人は、再び反乱する。
そして、エルサレムの地から追われたのである。


6月12日(火)   「ローマ人の物語」(135)

     エルサレムの消失、パレスチナの成立

ハドリアヌスという皇帝は、塩野七生の記述を読んで、その事跡やエピソードを知ると、そうとうずる賢く、えげつない人物だったように思えてならない。
最初に紹介した、パルティア戦役の終結にまつわる「嘘」からしても、4人の元老院議員殺害をアティアヌスの責任にしてしまうやり方にしてもそうだったが、特にユダヤ人に対するやり方はえげつないものだ。

まず、聖地エルサレムの目と鼻の先に、「アエリア・カピトリーナ」というローマ人の聖域の名をつけた都市を建設する。
次いで、ユダヤ教徒に対して、割礼をほどこすことを禁じたのである。
それも、禁じただけでなく、犯罪者には割礼を強制することで、それに対する侮辱の態度を明らかにしたのである。
これは、カエサル以来、敗者にも信教の自由を認めてきたローマの方針に反することであった。割礼を禁じた皇帝は、これまで一人もいなかった。
塩野七生は、「割礼の禁止と、アエリア・カピトリーナの建設は、ハドリアヌスが意識して行ったユダヤ教徒への挑発ではなかったか、と思えてならない」と言う。
確かに、これだけのことをされたら、ユダヤ人は蜂起せざるを得ないだろう。
反乱は勃発した。

2年の戦役で、ユダヤ側のこもっていた50の要塞は破壊され、985の村落は焼き払われ、50万のユダヤ人が殺された。
捕虜は、家畜と同じかそれ以下の安値で売り払われた。
今回のユダヤの反乱に対するハドリアヌスの処置は、徹底していた。
エルサレムからのユダヤ教徒の全面追放を命じたのである。
ユダヤ人の「ディアスポラ(離散)」がはじまる。
ユダヤは、もはやユダヤと呼ばれず、パレスチナが公式の名称になった。
エルサレムもその名が消され、アエリア・カピトリーナに変わる。
紀元134年に終結したユダヤ民族の反乱によって、ユダヤ人は祖国を失い、元老院の採決を経て公式に発効した「ディアスポラ」は、20世紀の第2次世界大戦後のイスラエル建国までつづくのである。


6月11日(月)   「ローマ人の物語」(134)

     複雑な性格の、リストラ皇帝

「ハドリアヌスは、真の意味のローマ帝国の<リストラ>をした人であると思っている」と塩野七生は書く。
ローマの皇帝たちは多く旅をしているが、その目的は軍事目的であって、皇帝の出馬が必要になったときにその場へ出向くという感じであった。
帝国全域を計画的に視察して回るというものではなかった。
ハドリアヌスだけは、純粋に視察と、それを基にしたインフラ整備だけを目的にした大旅行を敢行するのである。
それによって、軍事境界線の整備をする。
中でも、ブリタニアにおいてローマ化した地域とそうでない地域の境界として定着した「ハドリアヌスの防壁」は、後のイングランドとスコットランドを分けることにつながった。
ハドリアヌスは、皇帝の第一の責務である安全保障体制を再構築するため、軍事境界線の整備とともに、法令の集大成も行っている。
法令の整備は、ローマ社会のルールであるローマ法を再構築する作業であった。
紀元131年、ハドリアヌス治世の14年目に、「ローマ法大全」が完成した。
彼が成し遂げた「ローマ法大全」は、400年後に皇帝ユスチニアヌスによって再構築される有名な「ローマ法大全」のもとになるのである。

ハドリアヌスは、なかなか複雑な性格の人物だったようだ。
「皇帝伝」の著者スベトニウスによると、彼は次のように評されている。

皇帝は、詩と文学に関してはなかなかの素養の持ち主であった。数学や幾何学や絵画にも、かなりの水準の理解力を持っていた。そのうえ、楽器の演奏も歌唱も、技能の向上には熱心で、その練習も人に隠れてこっそりやるようなことはしなかった。
快楽をしりぞける能力だけは、全く欠いていた。彼が愛した人々のことを歌った、いくつかの愛の詩までつくっている。
武術の面では、第一級の達人だった。剣闘士の使う、複雑で危険な武器さえも使いこなした。
性格は複雑だった。厳格であるかと思えば愛想が良く、親切であるかと思うと気難しく、快楽に溺れるかと思えば禁欲に徹し、ケチかと思うと金離れが良く、不誠実であるかと思えばこのうえもない誠実さを示し、残酷に見えるほどに容赦しないときがあるかと思うと、一変して穏やかさに満ちた寛容性を発揮する、という具合なのだ。要するに、一貫していないということでは一貫していたのが、ハドリアヌスの人に対する態度であった。

何だか、これを読むと無茶苦茶な、情緒不安定な人物のように思えてしまう。


6月10日(日)   「ローマ人の物語」(133)

     賢帝ハドリアヌスの「物語」

ハドリアヌスは元老院議員たちを前にして力説した。
4人の執政官経験者の殺害は、自分の意図したことではなかった、皇帝暗殺の陰謀があるとの報告を受けて緊急な対処は命じたが、事実か否かの調査を命じたのであって、裁判にもかけないで処刑を命じたのではなかった・・・と。
次いで、自分の命令を誤解し、独断で殺害を強行してしまった近衛軍団長官のアティアヌスを解任した、と語った。
そして、以後絶対に元老院議員を、正式な裁判もなしに殺害するような不祥事は起こさないと固く誓ったのである。

ハドリアヌスは、その後、市民への「まじめな税務関係者ならば卒倒しかねない規模の」大盤振る舞いをする。
通常の2倍のボーナスの他に、剣闘士試合や戦車競争のような見世物の提供を積極的にする。
減税にあたることも行ったが、その中で、税の滞納分を全額帳消しという前代未聞のことも実施したのだ。滞納分帳消しの処置は、本人だけでなく家族子孫にまで適用された。
これはずるい者を許すということよりは、むしろ不動産の価値の変動によって納められなくなった者を救うことを配慮してのことのようだ。
同時に、不動産価値の変動を正確に調査するため「国勢調査」を15年ごと(それまでは30年から40年ごとだった)に実施するときめたのである。
その他にも、ハドリアヌスは社会福祉にも積極的に取り組む。
貧困家庭の子女への養育資金。中小規模の農場や手工業への低利子の貸付資金。
そして母親の身持ちの悪さ以外の原因で困窮している母子家庭への援助。・・・

これらを行いながら、ハドリアヌスはパルティアからの軍の撤退を行った。
それに対する元老院での説明で、撤退は先帝トライアヌスからの指示であったと嘘を述べた、
様々なサービスを受けて喜んでいた元老院をはじめとするローマ市には、パルティア征服への関心が薄らいでいた。
彼らは、このハドリアヌスの嘘によって、撤退をやむを得ないこととして受け入れたのである。

以上が、塩野七生の記述をもとに、私の想像も加えた「物語」である。
歴史の真実は、結局わからない。
私たちは、断片的な「事実」をもとに、「真実」にせまる「物語」を創るしかない。
紹介文と称するこのエッセイも、塩野七生を資料とした、私の「物語」にすぎないのだ。


6月9日(土)   「ローマ人の物語」(132)

    ハドリアヌスの内心・・・一つの想像

小説「ハドリアヌスの回想」の一節を引用する。ハドリアヌスが、4人を殺害した近衛軍団老長官アティアヌスと会談する場面である。

 二人だけになったとたんに、私の口からは非難と叱責の言葉がほとばしり出た。
 穏和で理想的な治世にするつもりでいたのに、それが、深くも考えずに実施された4人の処刑ではじまるとは!このたびの権力の乱用は、以後のわたしがいかに寛大で公正に振る舞おうとも、常につきまとう批判の口実にされるだろう。それどころか、私の徳でさえも仮面と見なされ、暴君の伝説を産む理由になり、歴史の上でさえもつきまとって離れなくなるだろう。・・・
 私が話し終えるや彼は、穏やかな声で、あなたのやり方に反対する者にはどう対処するつもりでしたか、と聞いた。そしてつづけた。もしも必要であったなら、あの4人があなたの死を謀っていたという証拠を集めることなど簡単だった、とはいえ、それがどれだけ役に立ったかは別だが、と言い、さらにつづけた。
 排除を伴わずにすむ政権交代はありえない。あなたの手を清らかにしておきながらそれをする役が、私に託されたのだ。もしも世論が犠牲を要求するならば、私を近衛軍団の長から解任すればよいのだから、これほど簡単なことはないのだ、と。
 彼はすでに、この解決法を考えており、私にそれを採用するようすすめているのだった。そして、元老院との関係の改善にこれ以上のことをやる必要があれば、左遷されようが追放されようが自分は満足であると言ったのである。

4人の有力元老院議員の処刑はアティアヌスの独断であったとするこのユルスナルの小説に、塩野七生は異を唱える。
4人の処刑は、ハドリアヌスが具体的に命じたことだとするのだ。
では、なぜそんな命令を出したのか。(以下は、塩野七生の記述をもとに、さらに私が想像をふくらませた内容である)

それは反逆への処罰という理由以外にも何かあったのではないか。
そのもう一つの理由とは、パルティア戦役終結にかかわるものだったのではないか。
どうしてもパルティア戦役を終結させなければならなかったハドリアヌスは、その目的を達成し、それを正当化するために、嘘をつくことを考えていた。
その嘘とは、トライアヌスから遠征軍の総司令官に任命された当時、病重かった先帝は自分にパルティア地方からの軍の撤退を指示した、ということであった。
その嘘を使うためには、それが嘘であることを知っている重臣は邪魔だった。
そこに飛び込んできたのがアティアヌスからの報告だった。
ハドリアヌスは、嘘を知っている4人の重臣の殺害を命ずる。


6月8日(金)   「ローマ人の物語」(131)

     元老院有力者4人の殺害

ハドリアヌスには、後継者指名にまつわるような謎めいたことが、他にもあった。
元老院有力者4人を、国家反逆罪で処罰したことである。
事件は、ハドリアヌスが皇位に就いた直後、ドナウ前線に滞在中の彼のもとに、近衛軍団長官アティアヌスから密書がとどいたことから始まる。
それには、先帝の重臣4人による、反ハドリアヌスの陰謀の動きが記されていたのである。
4人は「執政官経験者」というキャリアを持つ元老院議員であった。
ハドリアヌスは返書を送り、「直ちに対処するよう」命じた。
アティアヌスは「直ちに対処」した。
4人を殺してしまったのだ。

この事件は、元老院を震え上がらせた。
先帝トライアヌスは、国家反逆罪の名の下で元老院を殺したことは一度もなかった。
それなのに、ハドリアヌスは4人もの元老院有力者を裁判にもかけず処罰したのである。
ドミティアヌス帝の末期のような、恐怖政治の再開を思わせるこの事件の真相には、実はパルティア戦役終結を謀るハドリアヌスの策略があったように塩野七生は考えているのだが、それを語る前に、この事件を題材にした有名な小説のことが紹介されているので、そのことを書こう。

それは、フランスの女流作家マルグリット・ユルスナルの「ハドリアヌスの回想」という歴史小説である。
この小説によって、現代のフランス人はハドリアヌスを、ローマ時代の他のどの皇帝よりも好むようになったらしい。
塩野七生によると、この小説は、死も間近に迫った老いたハドリアヌスが、若いマルクス・アウレリウス(五賢帝最後の、最も有名な哲人皇帝)にあてて書いた書簡の形式をとった、実に見事な文学作品だという。
そして、作者ユルスナルの解釈では、4人の有力者殺害は全くアティアヌスのやったことであって、ハドリアヌスが命じた「対処」は殺害を指示したものではない、ということになっているのである。


6月7日(木)   「ローマ人の物語」(130)

     五賢帝3人目、ハドリアヌス

トライアヌス時代に、もう一つの遠征が行われる。
現在のイラン地方である、パルティア遠征である。
ローマとパルティアの関係は、所詮はギリシャ・ローマ文明とペルシャ文明の関係ということができ、もしかするとトライアヌスはアレクサンダー大王のように文明の交流を夢見ていたのかもしれないが、この戦役は成功しなかった。
一時はパルティアの首都を陥落させたものの、パルティアに軍を進めていたスキをつくように、ユダヤが反乱したのだ。
次いで、ブリタニアでも原住民が反乱した。
そして、この戦役中にトライアヌスは病死する。
紀元117年、64才のトライアヌスは、その死の直前に、パルティア戦役の総司令官に任命していたハドリアヌスを養子に迎えることで後継者に指名していた(らしい)。
後継者指名は本当かという疑念は、当時からあった。
しかし、当時のローマ人は、後世の研究者よりもこの謎の解明に執着しなかった。冷静に見て、帝位を継ぐのにハドリアヌス以上の適材は、当時の指導者層の中にいなかったからである。
第一に、41才という年齢。
第二に、ハドリアヌスのこれまでのキャリア。
第三に、元老院でも周知の、彼の頭脳明晰さ。
第四に、軍団の将兵ともに人望の厚いこと。
かくして、五賢帝の3人目、ハドリアヌス帝が即位した。

皇位に就いたハドリアヌスには、最大の課題としてパルティア問題の解決が迫られていた。要するに、パルティアに軍団を維持し続けることは出来ない状態なので、早期に戦役を終決させねばならなかったのだ。
しかし、将軍たちは戦役続行を熱望しているし、首都陥落に狂喜した元老院も、ローマ軍の撤退に納得するはずはない。
ローマ帝国皇帝にとって、征服が完了しないまま戦役を終決させることほど難しいことはなかったのである。
そこで、ハドリアヌスは一つの策を用いることになった。


6月6日(水)   「ローマ人の物語」(129)

    属州統治政策としての総督告発制度

トライアヌスは、元老院を配慮して、あくまで元老院が皇帝より上位にある「かのように」ふるまったようだ。
ローマは、属州統治の効率化をめざして帝政に移行することになったが、初代皇帝アウグストスは「皇帝属州」と「元老院属州」の区別をし、システムとして元老院の管轄下に置く属州を維持していた。
両者の違いは、軍隊が常駐しているか否かである。
防衛線に位置するが故に軍団常駐の必要がある属州は「皇帝属州」、内側に位置し安定していることで軍事力をおかないのが「元老院属州」であった。

属州の統治がうまくいくか否かは、帝国の命運を左右する重大な問題であった。
属州民が反乱を起こさないために、ローマは、次のような政策を持っていた。
1、税率を上げない。
2、インフラ整備によって属州の経済を活性化し、生活水準を向上させる。
3、地方分権の徹底。

この内の地方分権については、中央集権との巧妙な組み合わせが必要なので、「地方」の内政は各地方自治体にまかせるが、それらが属す州の統治は「中央」が行うという形にし、属州総督を派遣した。
元老院が管轄する属州には、一年任期で総督がおかれる。それには元老院議員がなった。
総督によって属州民は義務を課せられるが、属州民の権利もみとめ、総督の統治に不満があれば中央に告訴できる形になっていた。(ただし、任期満了後)
いわば属州総督の勤務評定をしたのである。
任期満了後といっても、総督の任期は一年なので、属州民も長く耐える必要はなかった。
告発された総督は、裁判にかけられることになるのである。

このシステムが機能するようになったのは、帝政時代に入ってからである。
帝政に批判的なタキトスでも、共和政時代よりは帝政に入って以後の方が、属州総督のクリーン度は格段に上がったと言っている。
その理由の一つは、皇帝たちがこの種の裁判を重視し、自ら臨席することで裁判の行方に眼を光らせたからであった。
法廷に精勤した皇帝は、ティベリウス、クラウディウス、ドミティアヌス、そしてトライアヌスであった。


6月5日(火)   「ローマ人の物語」(128)

     ローマ遺跡の現状

トライアヌスの公共事業で、もっとも有名なものは「トライアヌスのフォールム」である。
フォールムとは、「古代ローマの都市の中央にあった大広間で、政治・経済・司法の中心であり、商取引や裁判や市民集会の場としても用いられた」ものである。
(日本語でも話し合いの場を「フォーラム」と呼ぶ)
トライアヌスの造ったフォールムは、歴代皇帝の造った「皇帝たちのフォールム」の最後を飾る大建造物であった。

ここで、塩野七生は、近代の話をはじめる。
壮大で壮麗であった「皇帝たちのフォールム」の全貌は、ムッソリーニによって、現代は想像することが難しいことになっているという。
ムッソリーニは、ヒトラーにドイツ人が逆立ちしたって不可能な舞台で軍隊のパレードを見せたい一心で広い道路を敷設した。
それが「皇帝たちのフォールム」を分断したのである。
ムッソリーニはローマ時代の遺跡の保存には努めた人物であったが、この道路建設だけは彼の汚点となったようだ。
(関連して、彼女は現代のローマの遺跡を見学する際の心得をいくつか述べている。その中で、遺跡は帝国滅亡後は建設資材の格好の採取場となったので、例えばローマ時代の円柱を見たいと思えば、遺跡の場所よりもキリスト教の教会に行くほうが早道で多く見られる、というのは興味深い話だった)

トライアヌスは、アメリカ人からさえ、プラグマティックなローマ皇帝たちの中でもひときわプラグマティックであった、と評されているという。
彼は多くの公共工事を行っていいるが、すべて実用に役立つもので占められている。
ローマの歴史と共に歩んできた「伝統」とも言えるものにも効率性の観点から手を加えることもあった。
例えば、ローマ人が「街道の女王」と呼んでいたアッピア街道の複線化なども、トライアヌスによって行われたものである。


6月4日(月)   「ローマ人の物語」(127)

       カエサルとトライアヌスの相違

トライアヌスのダキア征服のやり方は、かつてカエサルが行ったガリア征服でのやり方と全く違う。
カエサルは、敗者ガリア人の存続を認め、居住地に住み続けることを認め、部族の有力者にはローマ市民権を与え、部族長には元老院の議席を提供し、ユリウスの家門名を与えた。自分に刃向かった者まで許したのである。
なぜこれほど、カエサルとトライアヌスのやり方が違ったのだろうか。

まず、カエサルが相手にしていたのは、百近くもの部族が乱立していたガリア民族であったこと、そして、この事情を活用してはライン河の東からの侵入をくり返す、ゲルマン民族の存在があったことが、大きな違いである。
カエサルは、統一性のない集合体であるガリア民族に対して、
「このままの生き方をつづけてゲルマンの奴隷になるか。それとも、ローマの同化政策のもとで自由に生きていくほうを選ぶか」と脅すことができた。
ガリア民族は、カエサルに征服されることを選び、それまでの狩猟民族から、安心して落ちついて働ける農耕民族に変わったのである。

トライアヌスには、カエサルが使えたカードがなかった。
ダキア民族を背後から脅かす強大な民族は存在せず、またダキアは一人の有能な指導者に率いられた統一国家であった。
カエサルによる敗者同化政策と、トライアヌスの敗者非同化政策は、手法では完全に反対のやり方になるが、成果となれば、二つは同じく成功したのである。
ダキアは、一個軍団しか常駐させなかったにかかわらず、ローマの中央政府を心配させることの少ない属州になる。
(そりょそうだろう、トライアヌスは統治しやすいように民族入れ替えをして、彼らが統一してローマに反抗できないようにしたんだから・・・)

ダキア戦役は第一次と第二次に分かれるが、その間につくられたのが、ローマ技術の結晶の一つとされている「トライアヌス橋」である。
この橋は、大河ドナウの中流にかけられた、ローマ領とダキア領を結ぶ石造りの大橋である。ギリシャ人アポロドロスによって、一年余で完成された。
この橋を中心に、属州化されたダキアにも、ローマのインフラの網が張り巡らされていく。ダキア属州化は、250年後の蛮族の大侵入時代になってもローマ帝国の防波堤としての役割をはたすことになり、ドナウ河を通じて、ヨーロッパとアジアがつながることにもなったのである。


6月3日(日)   「ローマ人の物語」(126)

      ルーマニアの原型が成立

トライアヌスは「ダキア戦役」勝利後、ドナウ河を越えた地域であるダキアをローマ帝国の属州とすると公表した。
この時、ローマ帝国の領土は、史上最大となった。
そして、コロッセウムを会場にした祝勝の闘技会は123日間続き、その間首都ローマを戦勝気分で満たし続けた。
ダキア王の財宝は何台もの荷車に分乗させて、運び込まれた。
ダキア人の捕虜は、プロの剣闘士と対決させられたり、野獣と闘わされたりした。
捕虜同士で闘うという苦悩を味わいながら死んだものもいた。
捕虜の総数は五万人。死ななかった者は奴隷とされた。

トライアヌス帝は、ダキア王国をローマの単なる属州にしただけではなかった。ドナウの北岸一帯に勢威をふるっていたローマにとっての危険な敵を、地上から抹殺しようと考えていたのである。
彼は、戦役の初期に早々に降伏し、恭順を誓ったダキア人のダキア居留は認めたが、闘って敗れたダキア人は、老人でも女子供でもカルパチア山脈の北に追放し、故国での居住を許さなかった。
しかも、五万人のダキア人を捕虜ないし奴隷として故国から引き離したのである。
つまり、ダキアの地をほぼ全域にわたって空っぽにしてしまったのだ。
空っぽになったダキアには、周辺の諸地方から住民を移住させた。それも一地方からではなく、多くの地方から行われた。
こうして、ダキアの住民の総入れ替えは実現したのである。
(私はこのトライアヌスのやり方を読んで、ポルポトが行ったカンボジアの大虐殺を連想した。ポルポトが追放された後に多くの報道が行われたが、その中でなぜあれだけの大量虐殺をしたかについて、現地人が、カンボジアの人間を入れ替えたかったのだろう、中国人を移住させたかったのではないか、と語っていたのが忘れられない。塩野七生は殺戮のことは書いていないが、ダキアでトライアヌスもそうとうの虐殺を行ったはずである。住民の総入れ替えというのは、何だかポルポトの行為に似ているような不気味さを感じるのである)

風俗も言語も異なる人々の混合体となったダキアには、共通語としてローマ人の言語であるラテン語が浸透していく。
このダキアが、現代のルーマニアになるのである。


6月2日(土)   「ローマ人の物語」(125)

     空洞化防止政策

ローマ帝国の主要産業は何といっても農業であった。
本国イタリアの農業は、自作農振興を策したカエサルの「農地法」以降、中小の自作農が多数を占める構造になっていた。
だが、「農地法」の及ばない属州となると、大農園形式が支配的な構造になっていたのである。
いわば、本国は中小企業社会で、属州は大企業社会という感じ。
この格差が明確になるにつれて、資産家である元老院階級の投資先が属州に流れるのも当然の勢いであった。
パクス・ロマーナによって本国と属州の安全度の格差も縮まっている。
この資産の流れを放置していれば、本国イタリアが空洞化することが目に見えていた。
トライアヌスは、これに歯止めをかけるために、元老院議員は、少なくとも資産の三分の一を本国であるイタリアに投資すると決めた法案を提出した。
三分の一ならば、と元老院も思ったらしく、この法は簡単に可決される。
トライアヌスは、次いで、もう一つの空洞化防止政策として、次世代育成のための基金を整備する。
いわば「育英資金制度」を確立したのである。
財源は、本国イタリアの農業を振興する目的で設立されていた「中小企業金融公庫」とでもいうようなものの利子収入があてられた。
これら、本国イタリアを重視し、その活性化を目指した政策は、属州出身の元老院議員が増え、皇帝自身も属州出身となって、ひょっとすると帝国の中心がローマを離れていくのではないかと不安になっていた本国出身の元老院議員を安堵させることになったのである。

さて、2回にわたって行われた「ダキア戦役」は、トライアヌスがドナウ河を渡って、アウグストスが遺言で禁じていた覇権拡大を破ったことになる事件であった。
もちろん勝利はトライアヌス側であったが、問題はその戦後処理の方法である。
塩野七生は、そこで、かつてのカエサルのガリア征服における戦後処理と、トライアヌスを比較する。


6月1日(金)   「ローマ人の物語」(124)


      トライアヌスへの頌詞

「トライアヌスへの頌詞」と名付けられた演説の中で、小プリニウスは、トライアヌスの皇帝就任を「血縁によったのでは全くなく、先帝ネルバが彼を養子にした理由もトライアヌスの力量を買ったがゆえであり、トライアヌスの個人的な野心の結果ではない」と強調している。
ここには、暗に世襲制に対する否定の暗示がある。
そして「われわれすべての統治を託された皇帝は、われわれすべての中から選ばれた人でなければならない」と語る。
さらに法治国家における皇帝の権力について、小プリニウスは眼前のトライアヌスに向かって次のように言うのである。
「あなたが、われわれ元老院議員を超える権力を欲していないことはわかるが、その権力をあなたがもつよう欲したのはわれわれなのである。・・・皇帝とは、法の上にある存在ではなく、法のほうが皇帝の上に立つ」
そんな皇帝の振る舞いについては、「主人としてでなく父親として、専制君主ではなく市民の一人として・・・快活であると同時にまじめであり、素朴であるとともに威厳があり、気さくでありながらも堂々としていなければならない」と要求している。

小プリニウスが次に語った、軍団でのトライアヌスの態度はすごいものである。
皇帝におもねるオーバーな面は当然あっただろうが、兵士たちに敬愛されていたらしいから、ある程度これに近い態度だったに違いない。(完全な虚言ならみんな馬鹿馬鹿しくて聞いていられず、この言葉が残ることもなかっただろう)
「兵士たちはあなたとともに、餓えにも渇きにも耐えた。演習でも(ローマ軍の演習の真剣度は実戦以上といわれていた)、あなたは兵士たちに混じって参加し、あなたの後につづく騎兵の誰とも同じに、汗を流し土煙を浴びるのだった。もしもその兵士たちの間であなたが目立っていたとしたら、それはあなたの兵士としての卓抜さと勇敢さのゆえ出会った。投げ槍を使う訓練では誰よりも正確に投げ、投げられれば誰よりも素早く身をかわした。あなたの鎧や盾に強烈な突きを入れてきた兵士には、あなたの怒りよりもほめ言葉が与えられた。それでいてあなたは、冷徹な観察者であり司令官でもあった。兵士たちの武器を点検し、不適当なものは替えさせ、もしも兵士の一人の背負う荷が重すぎると見れば、あなたが代わって背負ってやった。あなたが、病人や傷病兵に対してどれほど親身にふるまったか。しかもあなたは、配下の兵士たち全員の最終点検が終わるまでは絶対に天幕に入らず、兵士たちのすべてに休息が与えられた後でなければ、自らに休息を許さなかったのである」


5月31日(木)   「ローマ人の物語」(123)

     続、元老院を配慮するトライアヌス

ローマ入城の際の徒歩スタイルは、その時だけのものではなかった。
彼は輿で行くのを嫌った。市内ならば、どこに行くのでも徒歩だった。
元老院会議は定例のものが月2回開かれていたが、トライアヌスは必ずそれに出席した。議長である執政官の入場は議員全員が起立して迎えるのが慣例だったが、トライアヌスも他の議員たちとともに起立した。
討議でも、高圧的な態度はまったくなく、延々と続く演説にも忍耐強く耳を傾けた。
弁論にたけていたわけではないが、彼が話すときは「用いる言葉にこめられた真実味、強く毅然とした声音、威厳に満ちた顔、率直で誠実な眼の光」によって、誰もが聴き入ったという。

トライアヌスは、元老院議員たちに、国家反逆罪の名で議員を死罪にすることは絶対にしないと確約した。この約束は完璧に守られ、彼の治世に20年間に殺されたり流罪になったりした元老院議員は一人もいない。
彼の元老院への配慮は、元老院議員に「名誉あるキャリア」の頂点である執政官になる機会を多く与えることになった。それは、トライアヌス自身が20年間に3度しか執政官に就任しなかったこと、正規の執政官が任期途中で辞任したとき「補欠執政官制度」を活用したことである。
執政官を経験した元老院議員は「執政官クラス」と呼ばれる階層に入り、皇帝を補佐して国務に従事する有力な「人材」となるのである。
そういう「執政官クラス」が大量生産されることは、帝国統治の諸制度の整備が進むにつれて必要な「人」を生産することになり、時代の要請に合致していたのである。
トライアヌスが「賢帝」とされる所以は、こういう所にあったようである。

執政官になった小プリニウスという人物が、元老院で行ったという演説が残っているという。「トライアヌスへの頌詞」と題されているものである。
塩野七生によると、これはトライアヌスへ向けられたものであるが、古代ローマの「君主論」になっているという。
すこし紹介していこう。


5月30日(水)   「ローマ人の物語」(122)

     元老院を配慮するトライアヌス

トライアヌスは紀元99年、はじめて首都ローマ入りをする。
ローマ市民たちは、彼を一目見ようと出迎える。
理由を、塩野七生は三項目でまとめている。(この人は、箇条書きがかなり好きだな。読者への配慮だろうか)
1、トライアヌスは、はじめての属州出身の皇帝だったこと。
2、それまでのほとんどを属州勤務で過ごしたトライアヌスは、首都ローマでは未知の「顔」であったこと。
3、皇帝に即位しながら一年半もの間、首都に姿をあらわさなかったこと。
そこで、トライアヌスは意外な行動をとる。
堂々たる服装で、紅色の大マントをなびかせていたが、城門の前で馬から降り、徒歩でローマに入ったのである。
元老院議員たちは好感をもった。
2年前までは自分もその内のひとりに過ぎなかったトライアヌス皇帝は、600人の元老院たちを見下ろす馬上姿でなく、彼らと同じ徒歩姿で入城する配慮を見せたのだ。

元老院に対する配慮は、行き届いていた。
華麗な皇宮などはつくらなかった(ドミティアヌスが造ったものがあったのでその必要もなかった)。
皇宮で催される夜会も、招かれた元老院議員がその質素なのに驚いたくらいだった。
妻のプロティナも初の属州出身の皇后となった。皇后ともなれば元老院議員の夫人たちの上位になったわけだが、教養が高く賢明な女とはいえ、美人でも派手でもなかったので、羨望、嫉妬の対象にならなかった。
ここでの塩野七生の「女とは、同姓の美貌や冨には羨望や嫉妬を感じても、教養や頭の良さには、羨望もしなければ嫉妬も感じないものなのだ」というコメントには、思わず笑ってしまった。女性が書いているのだから、ものすごく説得力がある。


5月29日(火)   「ローマ人の物語」(121)

     トライアヌス皇帝の仕事始め

第一資料となるタキトスが、トライアヌス帝のことを書き残していないことで、塩野七生は、自分の姿勢を決めることになる。
「これまで(タキトスをたたき台にして)、あなたは(彼らを)悪帝と断罪するがほんとうにそうであったのか、という疑問を中心軸にしていたのに反し、この9巻では、賢帝であるのはどうやら衆目一致のようだが、では賢帝とは何であったのか、どのような理由でローマ人は賢帝と賞賛したのか、が、私の考え方の中心軸となるだろう」とのこと。
本当に分かりやすい書き方をしてくれる人である。

トライアヌス帝は、ローマ初の属州出身の皇帝であった。
父親はビスパシアヌス帝の下で軍団長を務め、元老院議員でもあり、貴族にも列せられていて、本人は高地ゲルマニアの防衛担当の軍司令官。年齢44才。
軍事経歴、人物ともに、頑迷な共和政主義者でも文句のつけようのない人選だった。

ネルバが高地ゲルマニア担当の軍司令官を後継者に選んだのは、子供がなかったからではなくて、暗殺されたドミティアヌスに心酔していた近衛軍団の不穏な動きを封じることが最大の目的だったようだ。
近衛軍団は、皇帝ネルバを一室に監禁し、ドミティアヌス暗殺の首謀者追及を迫った。そこで、ネルバは近衛軍団の不満が辺境勤務の軍団に波及することを怖れ、元老院にまかさず自分の判断で後継者にトライアヌスを指名し、「護民官特権」「ローマ全軍の総指揮権」を与えて、執政官に立候補させる。
属州出身であろうと、近衛軍団をおさえることができる実力者としては、トライアヌス以外にはなかったようだ。

ネルバが自然死という形で死去した後、前線ケルンにいたトライアヌスは、近衛軍団の長官とその同調者の数人だけを呼び寄せる。彼らは、皇帝の命令なので応じないわけにはいかなかった。ケルンにつくやいなや、全員が殺された。
近衛軍団内の不穏分子問題は解決した。


5月28日(月)   「ローマ人の物語」(120)

     文献資料のない皇帝、トライアヌス

第9巻は、「賢帝の世紀」。いよいよ有名な五賢帝のうちの主要4人が取り上げられる。
この巻には、トライアヌス、ハドリアヌス、アントニオ・ピウスの3人。
残る一人のマルクス・アウレリウスは、もしかしたら1巻全部使って書こうとしているのかもしれない(現在刊行されているのは、この九巻までである)と思われる。もうそろそろ刊行されてもいいんじゃないかと思うが・・・待ち遠しい。

さて、この巻の最初には「読者に」という前文があって、塩野七生は、これまで最も依拠しそれゆえに批判もしてきた同時代の歴史家タキトスが、その晩年を共に生きて直に業績をみたはずなのにどういうわけかトライアヌス皇帝のことを書き残していないことを嘆いている。
その理由を、彼女はタキトスの「書く意欲の減退」ではないかという。
彼女によると、歴史叙述の動機は大別すれば三つに分かれる。
1、好奇心が豊かで、それによって知り得た事柄について物語ることが本来的に好きなこと。(「歴史」を書いたギリシャ人ヘロドトス)
2、過去を叙述することで、現代、そして将来への教訓になることを願って。(「ローマ帝国衰亡史」を書いたイギリス人ギボン)
3、惨めな状態から脱却できない同胞たちへの強烈ないきどおり。(「戦史」を書いたアテネのツキディデス)
塩野七生の想像では、タキトスは、2が四分の一、3が四分の三の混合であるという。
つまりは、同時代のローマ人までもが「最高の第一人者」と褒め讃えたトライアヌスの治世は、本来怒り心頭に発することが創作意欲を刺激する性質の物書きであるタキトスの書く意欲を減退させたのではないか、というわけだ。

もう一人の同時代の歴史家で、週刊誌のような記事を得意とした「皇帝伝」のスベトニウスもトライアヌス帝のことは取り上げていない。
そうなると現代の研究者の「存命中の権力者を取り上げるのは何かと不都合が予想されるから二人とも過去の皇帝たちを書く方を選んだのではないか」という指摘も正しいのかもしれない。しかし、塩野七生は、タキトスの、命が残っていたらネルバとトライアヌス両帝についても書くつもりだと書き残していることを重視し、その理由を、
「史料も豊富であるうえ、どう判断をくだそうとそれをどのように表現しようと身の安全を心配しないですむ、まれなる幸福な時代であるから」と書いていることを紹介するのである。
とにかく、トライアヌスについては、信頼できる文献資料は絶無らしい。


5月27日(日)   「ローマ人の物語」(119)

      ショート・リリーフ皇帝

ドミティアヌスが暗殺されて即座に元老院が選んだ(誰が推挙したのかは不明だという)のは、元元老院貴族で 、親ドミティアヌスでも反ドミティアヌスでもない「バランス感覚が豊かなジェントルマン」であるネルバであった。
ネルバから始まる五人の皇帝を、後代は五賢帝と呼ぶらしい。
私は、ネルバが有名な「五賢帝」と呼ばれる皇帝の一人なのに、この第八巻373ページの中で彼に費やされている最後の章が、わずか7ページであることに驚かされた。
治世は1年4ヶ月。帝位に就いた時は70才。
ネルバというのは、ショート・リリーフとして選ばれた皇帝だったのだ。

皇帝ネルバが、最初の元老院会議で行ったことは、ドミティアヌスが悪用した「告発者」の力をそぐ法律を成立させたことである。
この法の成立によって、解放奴隷や奴隷が主人に不利な証言をすることが禁止された。
されに、ドミティアヌスが「記録抹殺刑」となったことにより、彼の時代に追放になったり資産没収された人物たちの名誉が回復された。
こういう所が、「賢帝」の所以だろうか。
だが、ネルバは、これら以外はドミティアヌスの政策を改めるどころか、継承しているという。

どうも彼は幸運な人物だったらしい。
ドミティアヌスの健全財政を引き継ぎ、着工はドミティアヌスでも完成はネルバが皇位に就いた直後であったために、二つの建造物が彼の名で歴史に残ることになったのだ。
一つは「ネルバのフォルム」(神殿を一辺とし三辺を列柱回廊で囲む建造物)
一つは「ネルバの倉庫」(港の近くに建てられた建造物)
ネルバは、養子に迎えるという形をとってマルクス・ウルピウス・トライアヌスを後継者に指名する。
皮肉好きな歴史家の一人は、ネルバが五賢帝の一人に加えられた理由は、トライアヌスを後継者に選んだ一事のみ、とさえ書いている。


5月26日(土)   「ローマ人の物語」(118)

     ドミティアヌスの「暴君性」を書かない塩野七生

塩野七生は、自分の考えた「計器」を用いると、ローマ史上最高の統治者は、何といってもカエサルとアウグストスである、ローマ帝国とは結局この二人が創ったのだ、と書く。
この二人については、ローマ人も二人だけを「神君」と呼び続けたことで同感だったにちがいない、という。
つづくティベリウスとクラウディウスも、タキトスやスベトニウスからは悪帝とされたが、この「計器」では名誉回復される。
ネロも、外交政策においては功績は大きい。しかし、黄金宮殿などはすぐにコロッセウムや公衆浴場が建てられて跡形もなくなり、明らかな失政。
ドミティアヌスについては、最大の功績は、二千年後の軍事評論家からさえ防衛システムの傑作と評価される「リメス・ゲルマニクス」である、という。
それ以外は、皇后ドミティアによって暗殺された後、元老院によって「記録抹殺刑」に処せられ、あらゆる記録を消去させられるという不名誉な処置を受けているから、合格点は出ないということだろう。その原因は、密告者を使っての、反皇帝派の壊滅をめざした恐怖政治によっていると思えるのだが、塩野七生の書き方は、他の本と比べてドミティアヌスの恐怖政治については強調していない。タキトスが描いた首都ローマの荒廃ぶりも、修正するような書き方がされている。

私には、どうもこのドミティアヌスについての塩野七生の書き方は、「リメス・ゲルマニクス」重視によって偏っているように感じられる。教養文庫本「世界の歴史」によると、彼は暴君であり、自分を神として拝ませ、キリスト者を迫害し、元老院議員を殺し、哲学者を追放した、という。
塩野七生は、ドミティアヌスが自分を神として拝ませたという、他の本では強調されていることを無視している。それと連動する、キリスト者の迫害についても書いていない。
塩野七生という人間は、キリスト教徒側にたって記述されていると思われる歴史書を、かなり極端に嫌う傾向があるのではないだろうか。


5月25日(金)   「ローマ人の物語」(117)


       歴代皇帝の分類、人物評価の「計器」

歴史家ギボンは、ローマがなぜ滅亡したかと問うよりも、ローマがなぜあれほども長く存続できたのかを問うべきである、と言った。
答えは簡単だ。ローマが多民族を支配するのではなく、他民族までローマ人にしてしまったからである。
そして、国家としてのローマの長命を思えば、アウグストスの創作した「デリケートなフィクション」は有効であった。ただし、このデリケートなシステムを運用する当事者には違いがある、と書いて、塩野七生は、皇帝不適格者のネロとカリグラを除いた歴代皇帝を次のように分類している。
1、ローマ皇帝とは、ローマ市民の第一人者にすぎないと信じていた。
  統治前半のティベリウス。クラウディウス。ティトス。
2、信じてはいないが、信じているふりをした。
  アウグストス。ビスパシアヌス。
3、信じてもいず、信ずるふりもしなかった。
  統治後半のティベリウス。ドミティアヌス。

ドミティアヌスの最大の功績は、「リメス・ゲルマニクス(ゲルマニア防壁)」の建設であった。
ローマ帝国が常に意識していなければならない敵は、ゲルマン人である。
ゲルマンとの境界は、ライン河とドナウ河が引き受けてくれていたが、逆方向に流れる二つの河の上流はもちろんつながっているわけはなく、水源地に近い地帯は「黒い森」と呼ばれる広大な森林地帯であった。
「リメス・ゲルマニクス 」とは、ローマ帝国の北の防衛戦であるライン河とドナウ河の上流「黒い森」に造られた、二つの河を結ぶような形の防壁である。

塩野七生はここで、歴史学者ではない自分が、依拠しなければならない歴史資料をもとに、人物の評価をどのような基準からしているかについて書いている。
「最高統治者である皇帝がなしたことが、共同体つまり国家にとって良いことであったか否かを判定するにあたって、タキトスをはじめとする歴史家の評価よりも、その皇帝の後に続いた皇帝たちが、彼が行った政策ないし事業を継承したか、それとも継承しなかったか、のほうを判断の基準にすえ」るというのだ。
彼女は、これを判断基準の「計器」と呼び、これを用いてドミティアヌスの評価もしてゆくのである。


5月24日(木)   「ローマ人の物語」(116)


        ローマ皇帝についての再確認

ドミティアヌスを描くにあたって、塩野七生は、ローマ皇帝についての読者への「確認」作業をしている。くどいようにも感じるが、彼女としては、アウグストスの創出した「デリケートなフィクション」としての帝政を、なんとしても理解してもらいたいのである。
彼女は、まず「インペラール(皇帝)」と「プリンチェプス(第一人者)」の違いを再確認している。
「インペラール」とは、共和政時代からあった軍の司令官に対する呼び名である。部下である兵士たちには絶対服従の義務がある。
「プリンチェプス」とは、ローマ市民権所有者中のナンバーワンということ。ローマ市民が絶対服従の義務をまったく負っていない。

アウグストスは、あえて「プリンチェプス(第一人者)」を事実上の君主の呼称にした。
それは、カエサルが自らの地位と権力を「独裁官」を名乗ることで明確にしたのが、暗殺された要因の一つと信じていたからである。
アウグストスは、共和政の続行を匂わせる「第一人者」を名乗ることで、元老院の懐柔に成功した。しかし、それによってローマの皇帝は、絶対服従の対象である「インペラール」と、そうではない「プリンチェプス」というパラドックスを内包する立場になってしまった。塩野七生の名付けた「デリケートなフィクション」とはそういうことである。
(私は、これは「かのように」の一種ととらえていいのではないかと思う。森鴎外が体制内での自己の立場を理論化するために用いようとした「かのように哲学」は、幻想性によって集団の秩序維持をめざす支配者にとって都合のいい哲学だが、集団を束ねるために有効であることは確かである。共和政である「かのように」したアウグストスは、天才と言ってもいいだろう。)

なぜ帝政が必要だったか。
他民族を統合する広大な国家の維持には、合議が特色の共和政よりも、トップダウン式の君主政の方が、効率が高かったからである。
この点を再度説明して、塩野七生は次のように書いている。
「ローマが被征服民である属州出身者にまで門戸を開いていくのは、皇帝主導の帝政を選択したからである。もしも、国家ローマは本国イタリア出身の元老員議員が統治しづづけるべきだと主張した人々、キケロやブルータス等の「共和政派」が勝っていたならば、ローマ帝国は後代の大英帝国その他のように、本国が植民地を支配下におく形の帝国になっていただろう。しかし、ローマはカエサルの考えた道をたどって、本国も属州も含めた一大運命共同体という形の帝国を創りだした。・・・大英帝国の衰退は各植民地の独立によるが、ローマ帝国では、各属州の独立ないし離反は、最後の最後まで起こっていない。」


5月23日(水)   「ローマ人の物語」(115)


     ティトスの2年間の治世

ビシパシアヌスが行った財政再建策は、もう一つあった。
「小便税」を新設したことである。
衛生意識の高かったローマ人は、下水道の整備に熱心だったが、町の要所に公衆便所を設置することにも熱心だった。ただし、ビスパシアヌス考案の「小便税」は、公衆便所を有料にしたわけではなく、そこに溜まる小便を集めてきて、羊毛にふくまれている油分を抜くのに使っている繊維業者に課されたのである。
(現代でもヨーロッパでは、ビスパシアヌスの各国語読みが、その国の公衆便所の通称になっているとのことだ。)

70才で、ビスパシアヌスは死ぬ。
39才の長男、ティトスが皇位に就いた。

わずか2年の皇位の間、よき皇帝でありたいと努めたティトスを襲ったのは、たび重なる大災害であった。彼の仕事は、3つの大きな災害の対策に終始することになった。
第一、紀元79年、帝位に就いた2ヶ月後に起こった、ベスビオ火山の大噴火。ポンペイをはじめとするナポリ湾東部の海沿い一帯の諸都市が埋没。死者五千人。
第二、翌80年。首都ローマの都心部を大火が襲う。
第三、翌81年。首都をはじめとする本国イタリア全域に疫病発生。多数の死者。
そして、その年に、ティトス自身が疫病によって死去。

ティトスはローマ市民に本当に愛されていたようである。
災害地で陣頭指揮をとり、「ティトス浴場」と呼ばれる公衆浴場を造って、市民と共に自らも入浴した(彼の希望で、皇帝が来る日には他の人は禁止などとしなかった)皇帝の死を、こぞって嘆き悲しんだという。
ヨセフスとの友情も、12年前に戦場ではじめて出会った時以来、死ぬまで続いた。
ただ、塩野七生は、ティトスの記述の最後に、同時代のローマ人が残している皮肉な一句「治世が短ければ、誰だって善き皇帝でいられる」を紹介している。
確かにそういう一面もあったようだ。
続いて皇位に就いた弟のドミティアヌスの統治は、15年におよぶことになり、どうも「善き皇帝」とはいえなかったようである。


5月22日(火)   「ローマ人の物語」(114)

        コロッセウム

「皇帝法」によって帝政の専制化に大きく踏み出したビスパシアヌスは、しかし、こんな法律は不要なくらいの善政を行った。「健全な常識人」「庶民皇帝」といった言葉で、塩野七生は彼をほめている。

彼の作ったものとして、現代でも都市ローマの象徴ともいうべき「コロッセウム」がある。ローマ人は、都市とは人々が集まる場所、と考えていた。
従って、ギリシャ風の理想郷をイメージしてネロが作ろうとした自然公園は、郊外にセカンドハウスを持っているローマ市民には不評だったが、皇帝と庶民が顔を合わせるのに適した広さのコロッセウム建設には、双手をあげて歓迎したのである。
塩野七生は「コロッセウムは、美的にも技術的にも最高の傑作である。あの大きさにして、重ぐるしさも単調さも感じさせない」と述べて、機能面について、次のような説明を続けている。
「機能の面でも、開けられた出入り口の巧妙な配置によって、事故でも起これば十五分で観客全員を外に出すことができたという。闘技に使う猛獣も、地下につくられたエレベーターを活用することで、担当者が危険にさらされる怖れもなく地上に導ける設備が整っていた。その上、観客をローマの強い陽差しから守るために、観客席の上部を幌に使う布で広くおおうやり方も行われていたのである。」

ビスパシアヌスは、財政再建の面で最も有名であるという。
ある研究者に言わせれば、最適の国税庁長官であった、という。
彼は、税率を上げず、またむやみに新税を創設しないでいて、どうやれば税収を増やせるかを考え、成功させた人であったという。
どんなことをやったのか。
興味津々で読んでいったが、別にびっくりするようなことではなかった。
1、国勢調査を行った。
前回の調査は26年も前であった。26年間で経済力は向上しているはずである。現状の正確な把握は、増収に結びつく。
2、国有地の借地料収入を見直した。
国有の耕地の区分けの仕方は決まっていたが、その分割法に適さないで残った「切れっ端」が各所に散在していた。それと境を接する土地を借りていた人間が、耕作の手をのばして事実上の無断借用をしていた。ビシパシアヌスは、この「端切れ農地」も厳密に計量し、それにも借地料の支払いを課したのである。これだけでも、そうとうな増収につながった。(ここで、ふと、秀吉の「検地」を連想してしまった。「庶民皇帝」なんてところも似ているようだと思ったが、秀吉のような反動的な贅沢三昧や貪欲さなどは全くなかったわけだから、ビシパシアヌスの持っていた「コンプレックスの質」は、秀吉とはだいぶ違うようである。)


5月21日(月)   「ローマ人の物語」(113)

        ビシパシアヌスとアウグストス

「ビシパシアヌス皇帝法」が定めた最大のことは、この法を採択し署名した以上、元老院と市民集会には皇帝を弾劾する権利はない、ということである。
ビシパシアヌスは、アウグストスの血をひくネロのような貴種ではなく、支配階級への「新参者」といえる騎士階級出身者であった。そんな出自であったがために、貴種のネロですら元老院から不信任を表明されれば権力を失うシステムを変えようとしたのである。
ビシパシアヌスは右腕であったムキアスを通して、この法を「元老院勧告」として採決することを求め(つまり元老院の自主的な要望という形をとり)、成立させる。
帝政の創始者アウグストスも認めた皇帝のチェック機能が、ここでなくなったわけである。

ここで、塩野七生は、アウグストスならこんなことをしただろうか、と想いをめぐらしている。
結論は「考えもしなかっただろう」ということ。理由として、「不信任(弾劾裁判)の権利を奪われた元老院にとって、もしも皇帝位にある者が皇帝に不適格となった場合に残された手段は、暗殺しかなくなるからである」という。
事実、この法律によって決行がうながされたと思われることが26年後に起こった。
ビスパシアヌスの次男ドミティアヌスが暗殺されたのである。
塩野七生はビスパシアヌスを「法制化しようと所詮は完全な解決などあり得ないことの法制化を決行した」という点で批判し、ドミティアヌス暗殺を「リスクを排除しようと努めれば努めるほどリスクに足をとられる危険も増大するという好例」としている。
まあ、簡単にいえば「窮鼠猫をかむ」状態になるということだ。
私の感想では、カエサルやアウグストスと、ビスパシアヌスとの「自信の強さ」の違いが関係しているように思う。圧倒的な自信があった前2者は、それだけ許容範囲を広く持つことができたが、生育歴によってそれだけの自信がなかったビスパシアヌスは、安全を求めるあまり、何でも決めておこうとしたのだと思う。

この例は、私が常々思っている指導者の第一条件を傍証することとなった。
私の考える指導者の第一条件とは、圧倒的な総合的優越性とそれによる偏狭でない確固たる自信を身につけていること、である。
カエサルは最もよくそれを実現していた人物であったようだ。
そして私には、現在の日本でこの条件を比較的よく満たしているのが、田中康夫と石原慎太郎だと思えてならないのだが・・・。


5月20日(日)   「ローマ人の物語」(112)


       ビシパシアヌス皇帝法

騎士階級(第二支配階級)出身のビスパシアヌスの風貌は庶民的であった。
自分に似合わないことは何一つしなかった。華麗な宮殿を建てることもなかったし、ネロ建設の黄金宮殿には足も向けなかった。妻はユダヤ戦役中に死んでいたので独身だったが、妃を迎えようともしなかった。
愛人はいたが、それはローマ上流の女ではなく、幼なじみの元奴隷だった。
日常生活は質素なまま。彼の誇りは、皇帝になっても兵士であり続けることであった。皇帝に会う人は事前に武器を隠し持っているか否かを調べられるのが普通だったが、彼はそれを廃止させたという。
会見を申し込む者には誰にでも会った。皇帝の前で公然と共和政復帰を説く者にも会った。ある時、そういう者の言葉に耳を傾けていたが、ついにこんなことを言ったという。
「お前は、私によって死刑になるためには何でも言うつもりのようだが、私は、キャンキャン吠えるからといってその犬を殺しはしないのだよ」
これ以後、この派の哲学者たちは「犬儒派」と呼ばれるようになったという。

庶民的な人の良さ、愛嬌ももっていたビスパシアヌスだったが、反面、皇統の世襲制と皇帝権力の明文化という、強固な権力体制づくりもしっかり行った。
まず、皇帝に名乗りをあげた時から言明していた、皇統を二人の息子ティトスとドミティアヌスに継承することを元老院に認めさせる。
「皇位継承者問題とは、それに私の息子たちを認めるか、でなければ無政府状態に逆戻りか、の二者択一でしかない」と彼は述べたという。
三人の皇帝による政局の不安定を体験した元老院は、安定を求めて、賛成の票を投じた。ついで提出された「ビスパシアヌス皇帝法」は、初代皇帝アウグストスが集めた諸権利を明文化したものだったが、すでに既成事実となっている諸権利を列挙しただけのものではなく、真の目的は、総括とでもいう形で最後につけ加えられていた項目であった。
それは、塩野七生の意訳では「罪則免除の承認」。
要するに、次のような権利が加えられたのである。
1、皇帝は、市民集会や元老院の議決に反したことを行おうと、それによる責任は問われない。
2、罰金を支払わされることもない。
3、市民集会や元老院の議決に反した政策を実施したという理由で、皇帝を告訴したり、弾劾裁判にかけたりする権利は、何人にも認められない。
何と恐るべき権利であろうか!


5月19日(土)   「ローマ人の物語」(111)


      「ユダヤ戦役」の終決

1年後、ガルバ、オトーの次の皇帝に、ビスパシアヌスが擁立された。
その時、ビスパシアヌスは、2年前のヨセフスの予言を信じた。
ヨセフスは釈放され、自由の身となった。
しかし、彼はビスパニアヌスのもとを離れなかった。
以後、エルサレムにこもる同胞たちに向かって、ヨセフスは降伏を説く努力を繰り返す。紀元70年、エルサレムが陥落した後も、ヨセフスはティトスと行動を共にする。
ビスパシアヌスは、ヨセフスに自らの家門名を与えた。
そうして、ヨセフスの後半生は、帝国の首都ローマで著作活動をしつつまっとうされるのである。
「このヨセフスを、正統と信ずるユダヤ教徒は絶対に許さない。彼の著作なしには反ローマに起ったユダヤの反乱は全く分からないから著作は読むが、それを書いた人間は許さないのだ。『裏切り者』が、今日に至るまでのユダヤ側からのヨセフスに対する評価である」と塩野七生は書いている。

エルサレムは、5ヶ月におよんだ激戦の末に陥落した。
大神殿は炎上。犠牲者は、タキトスによると死者と捕虜あわせて60万人。
ヨセフスによると、110万人にのぼったという。
その犠牲者はエルサレム在住の人は少なく、ユダヤ全土から過越しの祭りを祝うためにエルサレムを訪れていて戦闘に巻き込まれた人々が大半だったという。
エルサレム大神殿の炎上は、ユダヤ教の総本山を持つことを許さないローマの方針だった。
ユダヤ人の奉納金は、以後、ローマのユピテル神殿に納めると変えられた。
エルサレム自治機関は廃止され、ローマは一万の兵力を常駐させることになった。

「ガリア帝国」問題が片づき、エルサレム落城で「ユダヤ問題」も終了した段階で、ビスパシアヌスは首都入りする。
首都ローマでは、実に有能な右腕のムキアヌスが、見事な統治の基礎作りをしていた。
まるで皇帝でもあるかのように振る舞っていたムキアヌスだが、ビスパシアヌスが首都入りすると、公職に就くことはせず、私的顧問のような形で協力者として残る。
塩野七生が「健全な常識人」と評するビスパシアヌスの時代が始まったのである。


5月18日(金)   「ローマ人の物語」(110)


      ヨセフス生涯最大の賭け

洞窟にいた40人の長老に、ヨセフスはローマ軍への投降を説いた。
だが、ローマ人は降伏した者を殺さないという彼の言葉にも、40人は説得されなかった。やがて洞窟が発見され、ビスパニアヌスから投降を勧める使者が送られてきたが、それでも長老たちは従わなかった。
結局、くじ引きによる集団自決と決まる。最初にくじを引き当てた者が、次に引き当てた者によって殺されるというやり方である。最後の者は自殺するのだ。
ところが、40人が次々に殺されて2人だけが残った中にヨセフスがいたのだ。
ヨセフスはくじを引かず、もう一人を、ともに生き延びようと説得した。
説得が受け容れられ、二人は降伏した。
ローマ軍の司令官次席であったビスパニアヌスの長男ティトスは、自分たちを47日間も釘付けにしたヨセフスの若さに驚く。
彼の命令で、ヨセフスは丁重に扱われることになる。
しかし、父親のビスパニアヌスは、ヨセフスを皇帝ネロのもとに護送すると言い渡す。護送されれば死罪になる可能性は高い。

その時、ヨセフスは生涯最大の賭けに出た。ビスパニアヌスとの会見を申し出たのだ。
それを受けたビスパニアヌスに向かって、彼は、「私は神によってあることを伝えるために遣わされた。ネロの後を継ぐのはあなたとあなたの子孫である。この予言の真偽を確かめるためにも、私をあなたの身近に留めておくべきである」と言った。
ビスパニアヌスは信じなかったが、ヨセフスをネロのもとに送ることはやめた。
そして、ティトスは公然と、自分と同年輩のこのユダヤ人を友人扱いしてはばからなくなった。

1年後にガルバが皇帝になる。(まだビスパニアヌスにまでは回ってこない時期だった。)
しかし、ヨセフスの予言が当たらなかったことが判明しても、ビスパニアヌスの態度はかわらなかった。彼をもとの鎖つきの捕虜の身にもどすことはしなかった。
「ビスパニアヌスの胸中には、若いユダヤ人の予言が残っていたのか。それとも、ヨセフスの出身階級と知力を、ユダヤ反乱の鎮圧に活用できると思っていたのであろうか。ビスパニアヌスのバランスのとれた精神からして、私には、後者のほうではなかったかと思える」と塩野七生は書いている。


5月17日(木)   「ローマ人の物語」(109)


    ユダヤ人ヨセフスの登場

塩野七生は、「ここで説明しておかないと話が先に進まない」として、「ユダヤ戦記」の著者であり、ビスパニアヌスが闘う敵反乱軍の指揮者である、ユダヤ人ヨセフス・フラビウスについて書いている。
ヨセフスは、若く明晰な頭脳のユダヤのエリートである。
紀元64年、27才の時、反ローマ暴動の指導をしたとしてローマに連行されていたユダヤ人たちの釈放を、皇帝ネロに陳情する使節団の最年少者として、ローマに行く。
ローマを視察しながら、ユダヤ人の俳優の紹介で皇帝の妃ポッペアに近づき、皇妃を通して陳情を成功させる。
帰国して、ローマ軍を迎え撃つ最前線の指揮官に任命されたのが29才の時。
ローマをしっかり見ている聡明な青年が、ビスパニアヌスと実際に闘うことになったのだ。
そして、その中から、熱い想いと冷徹な観察眼の統合した同胞の破滅の物語である「ユダヤ戦記」は書かれることになる。
塩野七生は、「ユダヤ戦記」を、「史書の傑作」と評している。
(ここで、彼女は「ユダヤ戦記」の見事な翻訳書を出版した山本書店の山本七平について紹介している。山本七平は、後の反ユダヤ的な行動によって現代のイスラエル人からは嫌われ抜いている人物であるヨセフスによほど関心が強かったらしく、見事な目配りを感じさせる編集の「ユダヤ戦記」ばかりでなく、「自伝」などの彼の著作を、全集の形で刊行しているという)

紀元67年。ビスパシアヌス58才。ヨセフス30才。
ビスパシアヌス率いる6万のローマ軍は、ヨセフスが指揮するユダヤ勢の待ち受けるユダヤの地に進軍した。
ヨセフスの奇策によって、ローマの本隊は、エルサレムに向かう前のヨタパタで47日間も釘付けになる。
しかし、圧倒的な軍事力のローマ軍が制圧するのは時間の問題であった。ヨセフスの記述によると、死者4万、捕虜千二百で、ヨタパタの町は陥落した。
その時、ヨセフスは逃げたのである。
それが、現在その著作だけは尊重されるが、それを書いた人物は「裏切り者」として絶対に許されなくなるようなヨセフスの行動のはじまりであった。
彼は逃げて、近くにあった洞窟の一つに隠れた。ところが、そこにはすでに先客として町の長老40人がいた。


5月16日(水)   「ローマ人の物語」(108)

       ビスパシアヌス登用の経緯

ローマ人のユダヤ人に対する特殊性容認の対処は、ユダヤがローマの直接支配下に入った紀元6年から60年間踏襲されてきた。
ローマ人には、もともとはギリシャ人のような反ユダヤ感情はなかった。しかし、ユダヤ人との直接接触の60年間、彼らから自分たちは帝国の他の住民とは違うという執拗な主張をつきつけられ続けて、ローマ人に反ユダヤ感情が起こったとしても無理からぬことであると思う。
タキトスは、ユダヤ人の生活文化を、次のように書いているという。
割礼は他の民族と区別するため、一神教は他の多くの神々への軽蔑から生まれた信仰、軍務や公職の拒否は帝国への愛国心の欠如、人口増に熱心なのは他民族を追い抜く考えから、人間に形をとった神像の崇拝を偶像崇拝として拒否するのは人間への軽蔑以外のなにものでもない、舞踏もなく体育競技もないユダヤ教の祭式は陰気でうっとうしくて人生を絶望させる・・・。
ローマ人は、このような感情を持ちだしたに違いない。

ユダヤ駐在長官が、属州税の滞納分の代わりとして、エルサレムの大神殿の宝物庫から17タレント(庶民560人分の年収)の金貨を没収したのを発端として、反乱が勃発した。
神殿を汚されたユダヤ人の暴動をローマの守備隊が弾圧する。
ユダヤ人の怒りはエルサレムからローマ勢を一掃することに向かって走り出した。
王宮内に逃げ込んだローマの守備隊は、命を助けると言われて降伏したにかかわらず全員が虐殺された。

シリア総督のケスティウスがローマの正規軍をひきいてエルサレムに進軍したが、反撃にあい、撤退を余儀なくされる。ユダヤ問題は、シリア総督が兼任で解決できるものではないことを悟った当時の皇帝ネロは、ユダヤ問題のみを担当する責任者として、ビスパシアヌスの登用を決めたのである。
この時のネロの態度について、塩野七生は、こんな風に書いている。
「詩歌の自作自演でギリシャ全土を巡業中だったネロだが、このようなことはきちんとやっていたのである。それも、ネロの自作自演中に居眠りしていたのが露見し、これはもう出世の望なしと自他ともに思いこんでいたビスパシアヌスを登用したのだから、ネロはあっさりした性格でもあったのだ。」
やがて皇帝となるビスパシアヌスの活躍が始まるのである。


5月15日(火)   「ローマ人の物語」(107)

     ユダヤ人の「特殊性」とローマ人の対処

次の皇帝となるビスパシアヌスが司令官として関わり、7年間を要した「ユダヤ戦役」は、ユダヤ人とローマ人の考え方の違いからして、起こるべくして起こった反乱であった。
ここで、ローマ人とユダヤ人のこれまでの関係をまとめてみる。

まず、ユダヤ民族の特殊性であるが、塩野七生は次の5つを挙げている。
1、居住地域であるパレスチナ一帯が、伝統的に強大国が治めるシリアとエジプトを結ぶ線上に位置すること。通り道に位置しているため、両側から常に狙われることになる。
2、すこぶる優秀な民族である。
3、離散傾向。あらゆる都市にユダヤ人のコミュニティが存在し、その海外居住のユダヤ人と本国との関係が実に強い。(ユダヤ教徒ならどこに住まおうと1年に2ドラクマの奉納金をエルサレムの大神殿に納める義務がある)
4、自分たち以外の民族を支配下においた経験がなく、長く支配された歴史を持つがゆえに、自衛本能が発達せざるを得ず、精神の柔軟性が失われてかたくなになっている。過敏に反応しやすく、過酷な現実を生き抜くために夢(救世主)に頼る。
5、一神教の民族で、神が治める「神権政体」を国家観としている。
そして、ユダヤ人の内部で、対立がある。
宗教優先を叫ぶファリサイ派と、政治重視を説くサドカイ派。
ローマに対して強硬派である貧困ユダヤ人と、穏健派である富裕ユダヤ人。

そのようなユダヤ人に対して、ローマ人は、次のような対処をしてきた。
まず、300年の間支配者であったギリシャ人(ヘレニズム時代と呼ばれる)に代わったローマ人は、それまでは被支配者であったユダヤ人の社会的地位の向上を実現し、オリエントを二分するギリシャ人とユダヤ人の経済上の環境を対等に変えた。
そして、いずれも優秀であるが故に敵対関係となる二民族を経済的に競合させ、また、両者の調停役に徹した。
そのために、ユダヤ人の主張する彼らの「特殊性」を可能な限り認めた。
すなわち、社会不安にならない限りの信教の自由。海外ユダヤ人のエルサレムへの奉納金送金の継続。死刑以外の法執行の自治。軍務その他の国家の公職の免除。毎土曜日の安息日の継続。


5月14日(月)   「ローマ人の物語」(106)

    「ガリア帝国問題」、 ローマの寛大な処置

キビリスは追いつめられた。
そこで、ローマ軍の司令官、ケリアリスに会談をもとめたのである。
両者の会談は実現している。(その背景には、どうも二人が旧知の間柄であったのではないかと塩野七生は推測している )
しかし、会談で何が話し合われたかについては、全く分かっていないという。
タキトスの「同時代史」は、キビリスが話し始めたところで、その後が紛失してしまっているかららしい。しかし、キビリスが処刑されなかったことは分かっているようだ。

「ガリア帝国」は崩壊した。
そして、ローマの司令官ケリアリスは、ムキアヌスの指示を受けていたらしく、反乱軍の兵士たちを実に寛大に処置した。
「何もなかったことにする」で一貫したのである。

ケリアリスとムキアヌスは、なぜこんなに寛大な処置をしたのだろうか。
「それは、ローマ人自体が、バタビ族の反乱からガリア帝国創設に至るこの事件の真の責任は、自分たちローマ側にあると思ったからではないか」と塩野七生は推測する。
タキトスも「ローマ人同士の争いの余波」と書いているように、1年の間に3人もの皇帝が入れ代わり、それぞれの側についた軍団兵同士が激突するという混乱が起こらなければ、属州兵の反乱も起きないで済んだはずなのである。ローマ人が無能をしめしたことが、属州兵の反乱の原因だと、2人とも自覚していたのである。

「ガリア帝国」問題は、あっけなくケリがついた。
しかし、ローマの無能と関係なく、いつかはどうしても起こらなければならなかった問題が東方に起こった。ユダヤ人の独立運動である。
ローマは、ユダヤに対してはガリアとは全く逆の態度をとった。


5月13日(日)   「ローマ人の物語」(105)

        「ガリア帝国」の瓦解(その2)

ローマ軍の侵攻が始まった。
迎え撃つユリウス・キビリスの風貌は、すでに、長く伸ばした頭髪を風になびかせ、ヒゲも顔半分をおおうゲルマン風に変わっていた。
旗印は「ガリア帝国」だが、これはもう明らかに、ローマとゲルマンの対決であった。

キビリスは、外観だけでなく振る舞いもゲルマン風になっていた。
女の占い師を重視するゲルマン民族の風習にそって、捕らえたローマ軍団長を、占い師の犠牲式に使おうとする。
幼少の息子の遊び道具に、捕虜のローマ軍団兵を与える。縛り付けた兵を、剣で突いて遊ぶのである。

「ガリア帝国」との戦闘は、ローマ軍の勝利がつづく。
勝利したビスパシアヌス配下のローマ軍司令官は、愚皇帝ビテリウスの時のように敗北した人々を扱わなかった。「ガリア帝国」側についた元ローマ兵の裏切り者に対しても、裏切りをなかったものとした。
そして、裏切った兵士たちを笑い者にしたり、侮辱したり、冷たく扱うことを禁じたのである。
この時に行われた、司令官ケリアリスの演説が、タキトスによって再現されているが、なかなか見事なものである。要するに、ガリアの自治を尊重してきたカエサル以来のローマの姿勢を思い出させ、最小限の属州税を払うだけでゲルマンの脅威からガリアを守ってきたローマ帝国の一員になることがどれほど有利かを説いたものである。その演説によって、2部族の有力者たちがローマ帝国側に寝返った。

「ガリア帝国」瓦解の危機を感じたキビリスは、姑息な手をうつ。
ケリアリスに「ガリア帝国」の皇帝になる気があるなら、協力するという手紙を送り、返事がないとわかると、その手紙の写しを、首都ローマの司令官ドミティアヌスに送ったのである。
ドミティアヌスの訴えで、前線の司令官の裏切りを心配したムキアヌスが、ケリアヌスを解任し本国に召還することを期待したのであった。
しかし、ドミティアヌスから回送されてきたその手紙を、ムキアヌスは、屑籠に放り込んで終わりにする。
ケリアリス指揮下のローマ軍の猛攻が始まろうとしていた。


5月12日(土)   「ローマ人の物語」(104)

      「ガリア帝国」の瓦解(その1)

首都ローマに到着して、たちまちすべてをコントロール下に収めたムキアヌスは、「ガリア帝国」軍団に対する反撃軍を組織した。
その軍団には、通常なら加わる補助兵が除かれていた。
「ガリア帝国」側の主力がローマ軍の補助兵なのだから、それと関わりを持つ危険性のある補助兵は、たとえそれがスペイン人であろうとブリタニア人であろうと排除したのであった。
ムキアヌスの迅速な反攻は、「ガリア帝国」側の誤算の一つであった。
しかし、彼らの「夢」をうち砕いたのは、内部の動きだったのである。

前回紹介した関係者の第3に分類されたガリア人たち(現在のベルギー、フランス人)は、第1分類されたゲルマン系の人たち(オランダ、ドイツ人)から寄せられた共闘の誘いに、当初は賛成も反対もしなかった。だが、反乱が「ガリア帝国」創設にまで進んだ段階に至ってはじめて、彼らは動いたのである。ガリア系有力者が一堂に集まって、会議が開かれた。そして、結論は、「ガリア帝国」には不参加、であった。
なぜか?
この人々は、名は「ガリア帝国」でも、実質は「ゲルマン帝国」になるであろうことを察知していたのである。彼らは、ユリウス・カエサルから始まったローマのガリア支配がガリア人に恵んだのは、ガリア民族をゲルマン民族の攻勢から守ることであったのを思い出したのであった。
カエサルによる支配以前のガリアの状態は、ガリアの部族間の争いを利用して侵入してくるゲルマン人に好きなようにされた歳月であった。ローマ人がライン河でがんばってくれたために起きていなかったゲルマン問題に、ガリア人は120年後に再び直面していることに気づいたのだ。

ガリア系の人々はゲルマン系の人々に、ノーと答えた。
それだけでなく、ローマ軍の補助役として参戦する意志も明らかにする。
しかし、その申し出は、ムキアヌスによって拒否された。
ガリア人は、「ガリア帝国」軍と闘うローマ軍の、後方支援にまわることとなった。


5月11日(金)   「ローマ人の物語」(103)

      「ガリア帝国」創設の動き

「ガリア帝国」建設の試み、すなわちローマの支配からの独立運動は、反乱を開始したバタビィ族のリーダー、ユリウス・キビリスの設けた、現ケルンの地における部族の代表者会談から始まった。
この会談で、それまではライン河沿岸の属州兵対ローマ兵の闘いであったものが、属州民対ローマ兵の闘いに変質したからである。
もしこの試みが実現すれば、アルプス以北はカエサル以前の状態にもどることになるのだった。

紀元69年から70年にかけての1年間に、ローマ帝国の安全保障をゆるがせた事件は二つであった。一つはこの「ガリア帝国」創設事件。もう一つは、エルサレムのユダヤ人の暴動を発端に、マサダの要塞の玉砕で終わる「ユダヤ戦役」である。
期間は、前者が一年間、後者が七年間。
この二事件に寄せる後世の研究者たちの注目度を比較すると、断じて後者のほうが高い。
(それは、ローマ帝国とユダヤ民族の対立という視点に重きが置かれるためか、と塩野七生は書いている)
しかし、この時期から30年後に書かれたと思われるタキトスの「同時代史」では、前者を叙述するのに80ページ、後者には10ページと逆転する、というのである。
タキトスが「ガリア帝国」事件を重視したのは、「ユダヤ戦役」が帝国の安全保障に与える影響は間接的であったのに対して、それが直接的な影響を与えるものであったからである。

この「ガリア帝国」問題の関係者が、三分されて整理されている。
第1、ライン西岸に住むゲルマン系のガリア人、ローマと同盟関係にあったゲルマン系の部族、ローマ東岸の常にローマと敵対関係にあったゲルマン諸部族。
第2、ローマ人。
第3、ガリア民族。
そして、塩野七生は、われわれが思い浮かべるのが容易なようにと、この三者を現代の国別で示してくれている。
第1に該当するのは、オランダとドイツ。
第2は、イタリア。
第3は、ベルギーとフランス。


5月10日(木)   「ローマ人の物語」(102)

      属州兵による反ローマ蜂起

ビテリウス殺害の数日後、ビスパニアヌスの右腕であるムキアヌスがローマに到着した。
そして、ビテリウスの弟の軍を粉砕する。
その間、元老院を召集して、翌年の執政官2人に、ビスパニアヌスとその息子ティトスを当選させる。
そうしておいて、ムキアヌスはエジプト滞在中であるビスパシアヌス不在の間、事実上の皇帝を務めることになる。
ムキアヌスの直面する最大の課題は、ライン河周辺に勃発していた属州兵たちの反乱への対策であった。

ここで、塩野七生は、同じ内戦であるカエサルとポンペイウスの三年半と、この三皇帝による内戦一年ほどの間の、属州の動きを比較している。
彼女の言いたいことは、「カエサルとポンペイウスの内戦三年半の間に、反ローマで起った属州は一つもなかった」ということである。
それに対して、「三皇帝内戦時代」の属州では、大々的な反乱が続々と起こっている。
そして、やがてローマの属州民であるライン河防衛線のゲルマン系補助兵が、ガリア人に呼びかけ、「ガリア帝国」なるものを建国してローマの支配から独立しようという動きまで起こる。
この違いは次のような理由によると、彼女は書く。

1、ポンペイウスもカエサルも、反ローマ蜂起を指導できるほどの立場と力をもった属州の有力者ならば知らぬ者のない、ローマ世界では1、2を争う有名人であったが、ガルバもオトーもビテリウスも知名度は極めて低かった。
2、ポンペイウスは地中海の海賊一掃で、カエサルはガリア征服で、圧倒的な勝者という戦績を誇る人物であったが、ガルバもオトーもビテリウスも勝戦の経験はない。属州民にとっては、自分たちが全力をふるって闘ったにかかわらず敗れた相手ではなかった。
3、ポンペイウスとカエサルの闘いは、ローマ世界全域におよぶ巨象同士の激戦というスケールの大きいものであったが、三皇帝の闘いはライオンの雄同士が雌の所有をめぐって争うような小さなスケールであった。

そのような「三皇帝」の内戦であったので、ゲルマン系補助兵たちはいわばローマを馬鹿にし出したわけである。
新皇帝ビスパシアヌスと右腕ムキアヌスは、「ガリア帝国」の動きにまで発展していたガリア属州の反乱を平定しなければならなくなった。


5月9日(水)   「ローマ人の物語」(101)

      タキトスによる民衆の描写

皇帝ビテリウスと、反乱したビスパシアヌスの闘いは、ローマ市内でも行われることになった。
最も激しい戦闘は、近衛軍団の兵舎をめぐってのものであった。
ビテリウスが自下の軍団で再編した新近衛軍と、解雇された旧近衛軍が激突したのである。旧近衛軍にとって、半年前まではその兵舎が自分たちの居住の場であったのだ。そのため、この戦いは激烈なものとなった。

しかし、その地以外での市街戦は、歴史家タキトスによって、次のように描写されているという。
「首都の民衆は、この日の市内での戦闘を、競技場で闘われる剣闘士試合でも見物しているかのように観戦した。敢闘する者には拍手と歓声を浴びせ、苦戦する者にはもっと気をいれて闘えとヤジをとばしながら。劣勢に陥った側が店や家の中に逃げ込もうものなら、引き出して殺せと要求するのは民衆のほうだった。それでいて民衆は、兵士たちが闘いに熱中しているのをよいことに、彼らの権利である戦利品はちゃっかりと横取りしていたのである。
 首都の全域で、忌まわしくも嘆かわしい光景がくり広げられていた。兵士たちが激突し、死者が横たわり、負傷者が苦痛のうめき声をあげている一方で、公衆浴場や居酒屋は人でいっぱいだった。死体が折り重なり流れた血が川を成しているそばでは、娼婦たちが客と交渉していた。一方では、平和を満喫しながらの快楽。そのすぐそばでは、無惨にも引き立てられていく敗残兵。要するにローマ全体が、狂気と堕落の街とかしたかのようであったのだ。・・・首都の民衆は、内乱の行方になどは関心がなかった。・・・この人々にとって、ビテリウス側がかつかビスパシアヌス側が勝つかなどは、どうでもよいことであった。」

近衛軍兵舎の激闘をよそに、すでに勝負はついていた。
敗北したビテリウス側では、召使いの端にいたるまでが逃げ去った。
皇宮の守衛たちのところに逃げこんだビテリウスは、そこでつかまり、後ろ手に縛られ、豚のように追い立てられ、簡単に殺されたのである。
8ヶ月間の皇帝の遺体は、目の前のテビレ河に放り込まれた。


5月8日(火)   「ローマ人の物語」(100)

      ビテリウスの愚かさ(その2)

「愚者の戦闘は、戦況の展開が明快でないだけにとどまらず、犠牲者の数もあきらかでない。勝ったビテリウス軍の犠牲者の数も不明だが、敗れたオトー軍のそれもわからない。・・・両軍ともがやみくもに兵を投入したということである。」と塩野七生はこの内戦をあきれるような調子で書いている。
しかし、とにかくビテリウスは勝ち、オトーは潔く自死した。
まったくその器でないのに、ビテリウスは皇帝になった。その結果、内戦はさらに続くことになる。

歴史上「三皇帝時代」といわれるこの内戦の1年ほどを描くにあたって、塩野七生は一世紀ほど前のカエサルとポンペイウスの内戦時を引き合いに出す。敗れた兵士に対するカエサルの姿勢は次のようであったという。
「戦闘に勝つたびにカエサルは、ひざまずいて勝者の情けにすがろうとするポンペイウス側の兵士たちに対し、ひざまずくのはやめて立つよう命じた後で次のように言っている。『お前たちは皆、自身に課された義務を果たしただけなのだ』そしてカエサルは、自下の、つまり勝った兵士たちに向かい、敗れた兵たちの身にふれてはならず、彼らの持ち物に手をつけてはならず、彼らを侮辱するような言動はいっさいしてはならない、と厳命をくだしたのだった。」

ビテリウスが、敗者である同じローマ兵に対して行ったことは、まず各軍団に属する百人隊長たちを死刑にすることであった。
そして敗軍の兵士たちをクレモナの町の円形競技場建設に駆り出した。
しかも、勝者の兵士たちは、同じローマ市民に向かってなすものとはとても思えないほどひどい侮蔑的な言動を投げかけたのである。屈辱の想いと憎悪が、怨念となって彼らの中に残った。
さらに、ビテリウスは近衛軍団兵全員を解雇する。オトー側に立って敵対したからという理由で、退職金も払わなかった(アウグストスがアントニウス下で闘った兵士たちを解雇した時は、退職金を用意し次の仕事も整えてやっている)。近衛軍団兵たちの想いも、反ビテリウスとなった。

皇帝ビテリウスへの敗軍兵士たちの反感が、ユダヤ方面の司令官であったビスパシアヌスを新たな皇帝に擁立していく動きとなった。


5月7日(月)   「ローマ人の物語」(99)


          ビテリウスの愚かさ(その1)

ガルバを殺害したのはオトーの支持者たちであった。
しかし、反ガルバの意思表示をしていたゲルマニア軍の兵士たちは、彼らの司令官ビテリウスを擁立すると決めていたのである。
オトーは、ビテリウスに対して共同皇帝の位を提案するが、最強の「ゲルマニア軍団」の支持を得て、その力で皇帝に就くことしか頭にないビテリウスは一蹴する。
両者による内戦が勃発することになった。

戦闘の勝利者は、ビテリウス側となった。
しかし、ビテリウスは内戦において絶対にしなければならないことをしなかった。臨戦しなかったのである。
つまり、戦闘は先発の部下にまかせ、自分は結果だけを手にするという愚かなやり方をしたのである。
トップが臨戦していることが重要であるのは、次の3つの理由からだと、塩野七生は書く。
1、同胞に剣を向ける兵士たちのわだかまりを断つために、彼らに、自分たちが闘うのは敵が憎いからではなく、自分たちのトップのためである、と思わせねばならないから。
2、勝ったときの部下の兵士たちの暴走を制御する必要から。同胞との闘いの方が、兵士たちを獣性にかりたてやすい。最高司令官の断固とした命令のみが、彼らの暴走を阻止できる。
3、敗れた同胞の処遇をしっかりする必要から。内乱終結後の社会の建設に、敗れた側の怨念ほど害毒をもたらすものはない。可能な限り怨念を残さないやり方で勝つために、トップの臨戦は絶対必要。

さらに、ビテリウスの愚かさは、属州を通過する際に、兵糧の現地調達を許したことであった。つまりは、力ずくでの略奪を認めたということだ。味方である属州の住民たちは敵の軍に通過されたと同じ結果になった。
すでにローマ帝国では、征服後は国家ローマに組み入れるつもりの地域の制覇行において、兵糧の現地調達は可能な限り避け、やむを得ない場合でも金を払って購入するというカエサルのやり方が伝統になっていた。ビテリウスの行為は「属州ガリアの人々の帝国への忠誠心のゆらぎ」の一因になったと、タキトスは書いている。


5月6日(日)   「ローマ人の物語」(98)   <今日から再開します。引き続きお読み下さい。>

      皇帝ガルバの失政

統治の条件として、普通は「権力」と「権威」を想定する。
しかし、「権力」は持っていても「力量」がない場合がある。その場合もカリグラのように一時的な統治はできるが、真の意味の統治は出来ない。だから、統治に真に必要な条件は「権力」ではなく「力量」であろう。この点で、塩野七生の用語の選び方は適切だった。「権力」は「力量」があれば持てるはずだからである。
統治の条件は「力量」と「権威」だと思う。
(と書いた所で、友人のH氏から、統治の条件は「権威」と「権力」と「人気(支持)」ではないか、とアドバイスがあった。なるほど、塩野さんのいう「正当性」は「人気」と考えてもよさそうである。ただ、私が重視したい「力量」という用語には「人気(支持)」が当然含まれている。つまり、「権力」と「人気」を持つことが「力量」なのである。従って、統治の条件は、外側から与えられる力である「権威」と、自分自身の力である「力量」の二種類の概念でまとまるのではないかと考える。)

さて、ネロ以後の皇帝、ガルバ、オトー、ビテリウスには「力量」も「権威」も欠けていた。だから統治できるわけがない。彼らは内乱状態を引き起こす。
最初に皇帝に名乗りをあげたガルバは、自分を誰よりも早く支持してくれたオトーを協力者のトップに選ばないという愚かなことをしてしまう。
オトーは属州総督として十年の善政をおこなっており、統治される側からみて申し分のない人物だった。彼を選ばなかったことによって、オトーは裏切られたと思い、オトーの善政によって彼を信頼していた将兵たちは失望する。
次に、70才を越えていたガルバの消極的、老人臭いやり方として、帝国の財政再建策としてネロが贈った金銭や物品の返却を命令した。贈り物をするのが大好きだったネロは、ローマ社会では下層に属する歌手、俳優、騎手、剣闘士に多くのものを贈っていた。それを返せといわれて、彼らは反発する。
さらに、先帝ネロへの失望とその反動としてガルバに期待していた「前線」兵士たちが怒るような人事をしてしまう。
人望のあったルフスというライン河「前線」司令官の解任である。
そこから、反ガルバの気運が爆発した。
彼らは、ガルバへの忠誠宣誓を拒否し、ゲルマニア軍の司令官ビテリウスを擁立することを決めた。

一方、屈辱感からオトーもガルバ打倒に立ち上がる。
実行したのは、オトーの方であった。
紀元69年、ローマの中心フォロ・ロマーノで、皇帝ガルバは乗っていた輿から引きずり降ろされて殺された。オトーは「皇帝!」の歓呼をあび、元老院も承認した。


5月2日(水)   「ローマ人の物語」(97)

          統治の条件について

第8巻は「危機と克服」と題されている。
アウグストスの「血」という付加価値なしの実力主義となったことによって、共和政末期のように、実力が正面からぶつかり合う時代が再来した。
1年半におよぶ内乱が起こり、ガルバ、オトー、ビテリウスという3人の皇帝を経て、ビスパシアヌス帝で落ち着くまで、混迷が続くことになるのである。

混迷の時代を描くにあたって、塩野七生は、人類史の視点から、「統治」について次のように書いている。
「人類はこれまでにあらゆる形の政体、王政、貴族政、民主政から果ては共産主義政体まで考え出し実行もしてきたが、統治する者と統治される者の二分離の解消にはついに成功しなかった。解消を夢見た人は多かったが、それはユートピアであって、現実の人間社会の運営には適していなかったからである。
となれば、政体が何であるかには関係なく、統治者と被統治者の二分離は存続するということである。存続せざるをえないのが現実である以上、被統治者は統治者に、次の三条件を求めたのだ。
統治する上での、正当性と権威と力量である。
アウグストスが創設したローマ帝政では、『正当性』とは元老院と市民の承認であり、『権威』とはアウグストスの血を引くということであり、『力量』とは、ローマ帝国皇帝にとっての二大責務である安全と食の保証をはじめとする、帝国運営上の諸事を遂行していくに適した能力を意味した。
『権威』は持っていたにかかわらず、『力量』を欠くと判断されたがゆえに『正当性』を失ったことが、ネロの運命を決定したのである。」

私は、この書き方について、どうも納得できない。
例えば、民族性ということからか民主政のような市民参加意識が成立しなかった日本には、元老院も市民会議もなく、天皇家の血統という「権威」の力が強大で、それがイコール「正当性」ということであったはずだ。
「力量」によって「正当性」を得た武士階級も、天皇の「権威」を常に利用してきたと考えると、「正当性」という概念を「権威」「力量」と同列に並べることは一般的ではないように思う。
「正当性」とは、「権威」と「力量」によって成立する概念ではないのだろうか。

           (また旅行に行きますので、しばらくお休みします。)


5月1日(火)   「ローマ人の物語」(96)

     歴史記述家、タキトスとスベトニウスの特徴
<その2>

<付記>の紹介をもう少し続ける。
では、ローマ人でない歴史記述家はどのような書き方をしているか。
ギリシャ人のストラボンやユダヤ人のフィロ、ヨセフス・フラビウス等の著作を見ると、彼らの関心は、ローマが共和政でないとかいうことではなく、ローマ帝国がよく機能しているか否かであり、それによって自分たち非ローマ人の生活が支障なく送れるか否か、であるという。その結果、彼らの著作は「記述するまでもない事柄は記述せず、記述すべき事柄は記述する」(これはタキトスとスベトニウスの逆)ことになった。
しかし、・・・と塩野七生は続ける。
これら非ローマ人の著作には、タキトスやスベトニウスの著作に見られる迫真力と説得性には劣っていた。それは、帝国の中枢からあまりにも離れていたためである。だから、皇帝を悪く書いてあるがためにキリスト教徒に歓迎されたという事情もあって、タキトスとスベトニウスの著作に軍配があがったのだ、という。

<付記>は最後に、タキトスによって「無知な彼らは、それを文明化と呼んで嬉しがったが、彼ら自身の奴隷化の証明にすぎなかった」と批判されているブリタニア人の「ローマ化」を、現代のイギリス人の意識を紹介する形で、批判し、次のように書くのである。
「イギリスのエリートはドイツ人を、ローマによって文明化されなかった野蛮な民と言って軽蔑した。チャーチルに至っては、大英帝国の歴史はカエサルがドーバー海峡を渡ったときからはじまる、とさえ書いている。イギリス人は、古代ローマの研究ではいまだに世界最高の業績を誇り、英国人による研究著作なしには、ローマ史を語れないほどなのだ。
・・・(この後、イギリスの生活がローマ化によっていかに改善されたかを述べるくだりが続き)これを奴隷化と断ずるタキトスは、私には、先進国の左派知識人を思い出させる。自分ではすべてを持っていながら、開発途上国の人々には、冷蔵庫や電気洗濯機や自動車を欲しがるから四六時中働くことになるのだと言い、本来の彼らの生活様式にもどるよう説く、恵まれた人の言葉でも聴くような想いにさせるのである。冷蔵庫や電気洗濯機がどれほど女たちの労働を軽減したかを、この人たちは考えてみたことはあるのだろうか。
 歴史叙述者としてのタキトスには、私は心からの敬意を払う。だが、それでもしばしば『そんなこと言ったって、 タキトス』とでも抗議の声をあげたくなってしまうのである。」


4月28日(土)   「ローマ人の物語」(95)

      歴史記述家、タキトスとスベトニウスの特徴
<その1>

ネロを倒した後に、もし元老院がその気になれば「帝政」自体も崩壊させて「共和政」にもどすことだって出来たかもしれなかったようだ。
塩野七生はその点にも触れるように、次のように書いている。
「アウグストスの『血』とは訣別したローマ人も、アウグストスの創設した帝政とは訣別しなかった。カエサルが青写真を描き、アウグストスが構築し、ティベリウスが盤石にし、クラウディウスが手直しをほどこした帝政は、心情的には共和政主義者であったタキトスですら帝国の現状に適応した政体とせざるをえなかったほどに機能していたからである。ローマ人はイデオロギーの民ではなかった。現実と闘う意味においての、リアリストの集団であった。」

第7巻ラストに、<付記>として「なぜ、自らもローマ人であるタキトスやスベトニウスは、ローマ皇帝たちを悪く書いたのか」という文章が載っている。
そこで、塩野七生は、歴史記述者と記述内容の関係を述べて、暗に「先進国の左派知識人」を批判しているので、少し紹介しよう。

「年代記」その他の著作でローマ史を学ぶ上で最も主要な史家であるタキトスは、紀元69年から138年の、5賢帝の内3人までを含む秩序ある平和と繁栄を謳歌していた時代に生きたローマ上層部の市民である。
心情的には共和政主義者であるから、反体制の知識人といえる。反体制の立場だが、ローマは平和で繁栄しているから、現体制にとって代わりうる新体制を提示できない。そこで向かったのが「批判のための批判」であった。研究者たちは「タキトスのペシミズム」と言っているらしいが、それは自身の考えの実現を望めないゆえの憂愁に起因している、と彼女は指摘している。そして、こう付け加える。「繁栄する資本主義国に生きる、裕福なマルクス主義者にも似て」と。(自民党の大喜びしそうな表現!)

もう一人の「皇帝伝」の著者スベトニウスも、タキトスと同じ時代に生きた中流のローマ市民。やはり心情的な共和政主義者。反体制の歴史記述家としてはタキトスと同じだが、こちらはどうも「スキャンダル志向」に進んだ人物のようで、タキトスが大新聞の社説とすると、いわば週刊誌の記事のような面白い内容を書いているようである。

二人に関する、塩野七生の巧みな文章を引用してみよう。
「現代の日本人が、大新聞の社説とスキャンダルでいっぱいの週刊誌の記事のみで自分たちが後世に伝えられるとしたら、どう思うであろうか。しかも、ローマ皇帝たちにとっては不幸なことに、タキトスの文章力は社説を書く記者の比ではなく、つまり読ませ、スベトニウスの文章も、週刊誌の記事よりはよほど愉快で、ゴシップ好きを満足させるものであったのだ。おかげで、二千年間も読み続けられる結果になってしまったのである。」
 
      (旅行のため、しばらくお休みします。いつも読んで下さってありがとうございます。)


4月27日(金)   「ローマ人の物語」(94)

        アウグストスの血をひく帝政の崩壊

クーデターが成功するか否かは、軍がどちら側につくかによって決まる。
つまり、軍の指導者を自己の陣営に引き込めるかどうかが、成否を決定するのである。
軍の指導者に支持されない皇帝が統治できるわけがない。
まもなく、ガリアで反乱が起こり、それを契機に、親代々の元老院議員という名門貴族のガルバが、その地の軍隊によって元首にかつぎ上げられた。
彼は、「属州総督が忠誠を誓うのは、元老院とローマ市民に対してである」と宣言したのである。反ネロの宣言であった。
このガルバに、属州ルジタニアの総督となっていた例の、ポッペアを寝取られたオトーが支持を表明する。
近衛軍はネロを見限り、最初はガルバを反逆者と決議した元老院も、まもなく情勢の変化を見て、ネロを「国家の敵」と宣言した。
誰からも見捨てられたネロに、最後まで付き添ったのは、わずか4人の召使いだった。
「皇帝ガルバ、万歳!」の歓呼の中で逮捕の手を伸びた時、「これで一人の芸術家が死ぬ」と最後の言葉を発したという「伝説」があるが、30才の皇帝ネロは自決した。
このネロを最後に、アウグストスがはじめた「ユリウス・クラウディウス朝」は崩壊した。
アウグストスの「血」とは無関係なガルバが、次の皇帝となるのに、元老院は何の抵抗感も示さなかった。

では、ローマにおいては、アウグストスが執着した世襲制とは何だったのか?
塩野七生は、アウグストスが世襲制に執着したのは都会人であるカエサルと違って地方人であったために家族への執着心が強かったということがあるが、企業の創業者が息子に継がせたいというような私的な野心ではなく、「皇位をめぐる争いで起こりがちな内乱を回避するのが、最重要目的であったと確信する」と言う。
そして、彼はそのために、伝統的に世襲を嫌うローマ人が認めるよう、「デリケートなフィクション」としてのチェック機能(元老院と市民の承認、軍の忠誠宣誓が必要であるとしたこと)を配備して、「帝政」に「血」の権威を加えることをを実現したのである。
しかし、あくまでも実力主義のローマ人にとっては、血統とは現代で言う「付加価値」にすぎなかったようだ。
ネロの後にアウグストスの血をひく誰かを据えなかったのは、あの時代のローマ人が、もはやアウグストスの血の価値を認めなくなったということだった。


4月26日(木)   「ローマ人の物語」(93)

        ネロの愚挙

迫害されるキリスト教徒たちに同情を寄せる市民たちを見て、ネロはあわてた。
翌年行われたローマン・オリンピックの2回目「5年祭」には、人気挽回の目的で、催し物の一つである自作詩の競演に、自分も出場したりする。
歌うのが大好きな皇帝ネロの、タレント化が始まった。彼は、民衆の親近感を得ようとはしたが、敬意を持たれるようには務めなかったのである。
そんな時、「ピソの陰謀」と呼ばれるネロ暗殺の陰謀が発覚した。

それは、共和制の復活をめざしたものでもなく、陰謀の主謀者さえもいない、変な陰謀だったようだ。帝国の行方を憂慮して話している内に、自然に陰謀が形を成し、ネロを殺した後に誰を皇帝に据えるかも決まったという。
陰謀参加者の一人が、実行後のために財産整理をし、それを解放奴隷に密告されて、陰謀は発覚した。
仰天したネロは、恐怖にかられ、近衛軍団の長官であるティゲリヌスという悪賢い男に捜査の全権を与えた。
逮捕者の自白の中で、共犯者として名門貴族であるピソやセネカの名前が出た。ピソはこういうときにかつがれる典型のような人物で、主謀者ということになった。
覚悟したピソは、逮捕される前に血管を切り開いて死んだ。
セネカも血管を切ったが、70才を越えていて血の出が悪く、死ねなかった。熱い湯に身を横たえたが、それでも死ねない。発汗室の湯気の中で、ようやく死ぬことができたという。セネカは、政治に積極的にかかわったローマ史上唯一の知識人であった。

ネロはそれまで開放的であったが、「ピソの陰謀」によって心を固くし、警戒心の塊になった。
そこに、最愛の妻ポッペアが死ぬ。
孤独と猜疑心で、近衛軍団長ティゲリヌスの言いなりになる。恐怖時代の再現であった。そんな体制の改革を実現する方法は、選挙という方法がとられなくなっている以上、殺すしかない。続いて発覚した暗殺計画は、軍団の若手将校たちによるものだった。
ネロは、そんな中でもあこがれのギリシャへ旅行するが、猜疑心にかられ愚挙としか言いようのないことをしてしまう。
軍団の暗殺計画に加担していたという疑いを抱き、ライン河とユーフラテス河という帝国ローマの最重要前線を長年にわたって守ってきたベテラン中のベテラン武将3人をギリシャに呼びつけ、真相を確かめず、会うことすらせず、殺してしまったのである。
この愚挙によって、ネロはローマ全軍を敵にまわすことになった。


4月25日(水)   「ローマ人の物語」(92)


       キリスト教徒への迫害

なぜネロは、放火犯として、キリスト教徒だけに的をしぼったのか。なぜ、ユダヤ教徒はそれをまぬがれることができたのか。
キリスト教が他教徒への布教に熱心だったからである。
自分たちだけが神に選ばれているとする「選民思想」のきついユダヤ教徒は(布教すると選民が増えるわけだからか?)布教しなかった。
だから、迫害はキリスト教徒にだけ向けられたのである。

この時の殉教者の数は、200から300人の間であったというのが定説らしい。
競技場で行われた処刑は、見せ物的で、残虐だった。
一部の人々は、野獣の毛皮をかぶせられ、野犬の群に喰い殺された。
十字架にかけられ、生きたまま火をつけられた人々もいた。
ネロは、競技場内に引かせた戦車の上から、それを鑑賞したのであった。

しかし、人々から嫌われていたキリスト教徒を放火犯に仕立てることで、自分に向けられていた市民の疑いを晴らそうとしたネロの意図は、完全な失敗だった。放火はネロがさせたのだ、という噂はしぶとく残ったのである。
紀元前64年のこの迫害事件が、ネロを、ローマ史上第一の有名人にした、として塩野七生は次のように書いている。
「(ローマ皇帝がネロに代表されるのは)ローマが滅亡し、世界の主人公がキリスト教徒に代わってから定着した評価である。キリスト教徒はネロを、『反キリスト』と呼んで弾劾するようになる。この傾向は2000年後の現代でも健在で、ノーベル文学賞を受賞し映画にもなった『クオ・バディス』も、まったくこの視点から描かれている。しかし、ネロによって行われたキリスト教徒迫害は、放火説の転嫁という目的のためか、首都ローマに限られていた。しかも、これ以後は二度と繰り返していない。」


4月24日(火)   「ローマ人の物語」(91)


       ローマの大火、いわれなき噂

ネロの極端に走る性癖は、彼の趣味にも発揮された。
彼は心底ギリシャ文化を愛していたので、ローマを文化国家に変貌させるためにはギリシャ文化を導入し根付かせる必要があると考えたのである。
「ローマン・オリンピック」の開催は、そういうネロの考えによるものであった。
ギリシャにならって、5年ごとにオリンピア競技会を開く、しかもその競技場には詩文や音楽の才も競う場を併設する。入場はすべて無料。
それは、首都ローマの公共施設のすべてを使った、大々的なお祭りとなった。
また、ギリシャ人が「アルカディア」と呼んでいた緑豊かな理想郷を、ローマの都心部に再現しようと試みた。
広大な人工湖を造り、丘全体に動物たちを放し飼いにする自然公園がネロの考えるものであった。それは、「ドムス・アウレア」(黄金宮殿)と名付けられた。
この、大自然公園の建設計画が、有名なローマの大火にまつわるネロの悪い噂(火をつけたのはネロではないかというもの)のもととなるのである。

塩野七生は、噂を生む原因として、ネロの2つの誤りを指摘している。
1つは、「ドムス」という私邸を意味する言葉を使ったこと。
もう1つは、大火で全焼した「ドムス」の工事再開の時期を誤ったことである。
9日間にわたった大火の時、ネロは被災者たちに精一杯の支援をしたようだ。
被災を免れた地区の公共建造物は、すべて被災者たちの収容場所として解放された。
被災者への食の供給のため、海外から、ある限りの小麦をローマに運べと命令した。
それなのに、2つの誤りによって、ネロが火をつけたという噂が広まった。
丘の上の別宅からネロは、炎上するローマを見ながら、竪琴を手にトロイ落城の場面を吟じていた、というような噂が流れたのである。
本当は別宅などにおらず、被災者対策の陣頭指揮をとっていたのに・・・。

ネロは噂を恐れた。
自分が破滅させられるのではないかという強迫観念にとらわれたようだ。
ネロは誰かに教えられて、放火犯としてキリスト教徒に的をしぼった。
映画「クオ・バディス」でリアルに描かれた、キリスト教徒に対する残虐な迫害が始まったのである。


4月23日(月)   「ローマ人の物語」(90)

      ネロの「極端な解決法」

ネロには、問題の解決を迫られた場合、極端な解決法しか思いつかないという性癖があった、と塩野七生は書く。
20才を迎える頃から恋していたポッペアという女を愛人にするために、その夫であるオトー(それはネロの親友であった!)を属州の総督に任命して赴任させた。
しかし、ポッペアは愛人の立場を嫌った。
そこで、オクタビアとの離婚を考えたが、これにはアグリッピーナが断固反対した。
困ったネロは、極端な解決法に走った、それが、母親の殺害であった、というのが塩野七生の書き方である。

ところが、ちょくちょく参考にしている「世界の歴史」教養文庫版12巻本のネロを描いた所では、正妻の座を望んだポッペアのたきつけという面が指摘されていて、さらに信じられないようなことも書かれていたので、すこし引用しておこう。
「・・・ポッペアにとっても、アグリッピーナが目を光らせている間は、オクタビアをおしのけてネロの正妻になれないと思って、ネロにいろいろとたきつけた。アグリッピーナも負けていず、ネロを誘惑して母から愛人になりかわり、わが子と不倫の関係を結んだといわれる。こうしてネロは、自己嫌悪とポッペアのそそのかしによって、恐ろしい決意を固めた。・・・」
母親が自分の息子の愛人になって張り合うなんて何ともすごい話だが、猛女アグリッピーナの「伝説」の一つなのだろう。でも、塩野七生も、馬鹿にせずに紹介ぐらいはしてくれてもよさそうなものだと思うのだが・・・。

とにかく、ネロは母親を殺したのである。
最初、船に細工をしておぼれさせようとするが、アグリッピーナが泳ぎをマスターしていて失敗すると、刺客を送る。
寝室に侵入した刺客に、アグリッピーナは腹部を指して、ネロが宿ったここを刺せ、と言ったという話は、塩野七生も書いている。
アグリッピーナ殺しは、セネカが苦労して、国家反逆罪による死という形にして公表された。


4月22日(日)   「ローマ人の物語」(89)


     ネロとアグリッピーナの対決

母親アグリッピーナの発した言葉の中に、
「皇帝にしてやった恩も忘れて母親をないがしろにするお前よりは、ブリタニクス(先帝の実子)のほうがましだ。あの子も14才。もう子供ではない」
というたぐいの表現が含まれていたと、史家の記述にはあるようだ。
それによって、ネロの心には恐怖の念が起こり、哀れなブリタニクスの運命は決まった、と塩野七生は書いている。
そして、次のように続けている。
「セネカとブルスをよく書きたい史家たちは、ブリタニクス殺しにはこの二人は関与していなかったにちがいないとするが、私は、助力するという形にしても関与していたと思う。もしもアグリッピーナがブリタニクスを擁立して反ネロで立ったとしたら、悪くすれば内乱になったろう。・・・ブリタニクスの死は、持病の喘息の発作と公表された。」

アグリッピーナは、息子との対決を決意したようだ。
ライン河防衛戦を守る軍団兵を味方につけるべく、そこに、集めた資金を投入した。
夫ネロにないがしろにされ、弟ブリタニクスにも死なれて沈み込んでいるオクタビアに接近した。地味で出しゃばることの全くないこの女人を、ローマの庶民は同情し敬愛していたから、彼女を味方に引き入れることは大きな意味があったのである。

息子の反撃も開始された。
まず、皇帝の母ということで許されていた身辺の警護役を務める兵士たちを、任務からはずしてしまった。「皇后にして皇帝の母」から、一般の女並に落としたのである。
次いで、皇宮からも追い出した。
さらに、母親が嫌っていたことをするという形で、夜な夜なローマの街にくり出して勝手放題を楽しみだしたのである。

それでも、アグリッピーナは、ライン河駐屯の兵士たちへの接触をやめなかった。
オクタビアの保護者ナンバーワンにもなる。
そして、回想録まで書き始めた。ローマの女で著作までしたのは、後にも先にもアグリッピーナだけであった。
ネロにとってこの母親は、どうしても何とかしなくてはならない存在になってきたのである。


4月21日(土)   「ローマ人の物語」(88)


      アグリッピーナ最大の誤算

セネカによる理論づけによって、皇帝ネロのスローガンは「クレメンティア(寛容)」と決まった。
以後、ネロ時代の通貨に最も多く刻まれる言葉が「クレメンティア」となった。
しかし、考えてみれば「寛容」なんて為政者が実行するべきことを表した言葉なんだから、庶民に政治目標として示すようなスローガンにするというのもおかしなものだと思うのだが・・・それはともかく、ネロの治世初期は、この優秀な指南役の文人セネカと、もうひとり母親アグリッピーナがつけた近衛軍団長のブルスという責任感の強い武人の補佐によって、「ネロの5年間の善政」と評価されることになるのである。

しかし、その間も、母親アグリッピーナの支配欲は発揮され続けた。
公式の場では、常にネロのかたわらの席についた。
元老院会議場を皇帝宮殿の一部に移し、常に議事を聴くことが出来るようにした。
さらに、プロパガンダの役割をもつローマ帝国の通貨に、皇帝と向き合うような構図で自分を登場させたのである。このような通貨は前代未聞であった。

だが、アグリッピーナには大きな誤算があった。
息子のネロが、自分の血をひいているのだから自分と同じような考えをする可能性が大である、とまでは計算に入れなかったことである。
愚鈍なまたは弱い子供であれば違っていただろうが、ネロは、決して愚鈍でも弱くもなかった。
ネロの母親への反抗が始まったのである。
反抗の第一弾は、母の目を欺いて、惚れ込んだ奴隷女との関係を続けたこと。
第二弾は、先帝クラウディスの妻としてアグリッピーナを推薦した元秘書官で現在財務長官のような地位を占めていたパラスを解任したこと。
パラスはアグリッピーナによるネロ擁立の陰謀も、積極的に助けてきた人であった。
右腕をもがれた形になったアグリッピーナは、怒りを爆発させた。
塩野七生による、彼女の怒りの言葉の創作は、次のようになっている。
「誰のおかげで皇帝になれたと思っているのか。お前を皇位に就けるために、私がどれほどの犠牲を払ったのかがわかっているのか。それなのにこの仕打ち。母知らずの恩知らず。片輪(ブルスをさす。彼は戦闘で片腕をなくしていた)と追放帰り(セネカをさす。彼はかつてコルシカ島に追放されていた)の補佐だけで、大帝国の統治ができると思っているのか!」


4月20日(金)   「ローマ人の物語」(87)


    セネカの「デ・クレメンティア」(寛容について)

ネロが元老院の議場で読み上げた施政方針演説は、セネカによって書かれた。
それは、4つの項目でなりたっていた。
1、アウグストスの政治にもどす。
2、元老院のもつ権利を尊重する。
3、司法の施行には、皇帝は関与しない。
4、私邸と官邸を分離する。(これは何のことかというと、クラウディウスが行った秘書官政治の廃止ということらしい。)
16才の皇帝は、この4項を銅板に彫らせて保存し、毎年初頭の新執政官就任時に読みあげることも約束した。

ここで、セネカという人物について書いてみたい。
私は、昔から名言といわれるような「言葉」を収集しているのだが、その中で、セネカの「いつも同じ人間であるということは、一つの偉大な仕事だと考えよ」という言葉がとても気に入っている。この言葉は、ささいなことのようで実は非常に大きな生きる要素である「感情のコントロール」の大切さを指摘した、最も素晴らしい言葉だと、私は常々思っているのである。
だから、こんないい言葉を残しているセネカが、あの有名な暴君ネロの教育係だということを知った時は、正直驚いた。そしてそれからは、私にとってネロの章を読むことの最大の楽しみが、ネロに対するセネカの関わりを知ることができること、ということになった。
はたして、ネロ就任の際、60才のセネカが16才の愛弟子のために出版したという書物「デ・クレメンティア」(寛容について)のことが、ここで書かれていたのである。

塩野七生によると、この本は、皇帝にはなぜ寛容の精神が必要かを説いた、善政実現への熱意が伝わってくる名著だという。
ネロに捧げられ、ネロに向かって説く形式をとっていて、帝政ローマを代表する文章家にふさわしい、品格が高く簡潔で優雅なラテン語でかかれているということだ。
彼女は、この本の内容について「総じて、皇帝の責務としての寛容の重要さを説いたもので、私の考えでは寛容でありつづけるには絶対の必要条件である冷徹については、一言も触れていない」と一部批判を加えながら、すごい教師であることを示す箇所として、「同情」と「寛容」の違いを説いた所を引用している。
「同情とは、現に目の前にある結果に対しての精神的対応であって、その結果を産んだ要因にまでは心が向かない。これに反して寛容は、それを産んだ要因にまで心を向けての精神的対応であるところから、知性とも完璧に共存できるのである。」
そして、塩野七生は、こう続けるのである。
「何ともすごい教師に恵まれていたと言うしかないネロだが、教育の成果とは、教える側の資質よりも教わる側の資質に左右されるものである。」


4月19日(木)   「ローマ人の物語」(86)


      哀れな皇帝、クラウディウス

クラウディウスという人物は、本当にかわいそうな晩年を送ったと思う。
肉体的なハンディがあって、歴史研究に没頭していたのに、カリグラ憎しで皇帝に祭り上げられたのである。自分が皇位を望んだわけではない。
それでも、皇帝になったからにはということで、目立たないところで誠実に政務はやっていた。それなのに、妻にいいように利用され、たぶん殺され、死後もセネカによって嘲笑され、人々のもの笑いの種になった。
帝政ローマ最高の哲学者であり悲劇作家であったセネカなどは、クラウディウスを笑い物にする「アポコロキュントシス」という(現代では題名の意味不明)の小文を書いて、ネロ臨席の宴で朗読させ、人々を爆笑のうずに巻き込んだりしている。
涙もろい私は、こういう仕打ちを受ける人には同情してしまう。

しかし、クラウディウスを介して人間性をシビアに見つめようとする塩野七生は、このセネカの残酷な扱いを描いた後で、次のように書くのである。
「 だが、クラウディウス自身にも罪はあったのだ。敬意を払われることなく育った人には、敬意を払われることによって得られる実用面でのプラス・アルファ、つまり波及効果の重要性が理解できないのである。ゆえに、誠心誠意でやっていれば分かってもらえる、と思いこんでしまう。
 残念ながら、人間性は、このようには簡単には出来ていない。私などはときに、人間とは心底では、心地よくだまされたいと望んでいる存在ではないかとさえ思う。皇帝クラウディウスは、心地よく他者をだますたぐいのパフォーマンスならば、まったく不得手な人であった。この種のパフォーマンスの達人であったカエサルとアウグストスが、ローマ人にとってはまごうかたなき「神君」で定着し、世界史上でも第一級のスターである事実が、人間性のこの真実を証明していはしないであろうか。」

皇帝に就任したネロは、16才と10ヶ月。
責任ある公職に就くのは30才からとされていたローマでは、異例に若い皇帝の出現であった。
しかし、ネロは、同じく若い皇帝であったカリグラと同じく、民衆に歓迎されたのである。ローマ史において、ホラー的興味で最も有名であるこの二人は、いずれも前皇帝の不人気に乗じて登場した。
カリグラの前皇帝ティベリウスは、楽しみを勧めない緊縮政策とリモート・コントロールの恐怖政治で、国家財政は豊かにしたが、市民には憎まれた。
ネロの前皇帝クラウディウスは、妻に操られる、見た目の悪い、学者臭い年寄りで、軽蔑されていた。
新皇帝ネロは、何よりも16才という若さで、溌剌としていて、新鮮そのものだったのである。


4月18日(水)   「ローマ人の物語」(85)


       16才の皇帝ネロの誕生

アグリッピーナの専横ぶりは、メッサリーナのような気まぐれや男遊びという形を全くとらなかった。野望の実現のための冷徹な計画に沿ったものであった。
家庭を大切にし、何よりも息子の教育には熱心であった。
彼女は、息子の教育係として、ローマ哲学界の第一人者であるセネカに目をつける。
メッサリーナによって反対勢力の一員とされ、コルシカ島に追放されていた彼を帰国させて教師役としたのである。
クラウディウスの養子にしてネロと名前を変えさせると同時に、クラウディウスの実の娘であるオクタビアと婚約させる。
14才で成人式をあげさせ、16才でオクタビアとの結婚式を挙行する。
そして、まだ16才であるにもかかわらず元老院議場での初演説までさせる。
着々と計画は実行されていった。

63才で、哀れな皇帝は13年の統治を終える。
史家によれば、アグリッピーナがクラウディウスに毒きのこ料理を食べさせたからだとされている。計画にそって着実にことを成し遂げてきたアグリッピーナなら、自分が皇帝の摂政になって国政をとりしきるためには、ネロが大人になりすぎていては都合が悪いと考えたとしても不思議ではない、と私も思う。あまりにも都合よく、クラウディウスは突然死したのである。
ネロは、近衛軍団から「インペラトール」の呼びかけを受け、元老院もネロへの全権授与を決議する。一般庶民も16才の新皇帝を歓迎したのだ。
元老院議員たちは、これで解放奴隷ふぜいに鼻先であしらわれることもなくなると喜び、一般庶民は、妻たちにいいようにされる一方であったクラウディウスを軽蔑していたからである。

元老院で、ネロは亡きクラウディウスの神格化を提案する。
それをさせたアグリッピーナの真意は、神にすることで殺害の疑いから人々の眼をそらすことにあった、と言われている。
そして、クラウディウスの遺言状は公表されず、完全に無視される。
ネロを後継者に指名していなかったからだ、とこれも史家たちの説である。
神君に祭り上げられたのに、クラウディウスの神殿建造工事はしばらくして中断した。
皇帝ネロに熱意がなかったからである。
まあ、これについては、塩野七生も「クラウディウスを、カエサルやアウグストスと同格とするのは無理がある」と書いているように、ローマ市民も冷淡だったようだ。
ローマ史上に「神君」とされるのは、カエサルとアウグストスの二人となるのである。


4月17日(火)   「ローマ人の物語」(84)

       アグリッピーナの野望

クラウディウスという男は、正式の妻という配偶者がいないと落ち着かないタイプであったらしい。メッサリーナを失った後、再婚相手を求めだした。
ところが、本当に変な男で、再婚相手を自分で選ぶことができなかったのである。
肉体的、精神的にどうであろうと皇帝なんだから、女はより取りみ取りのはずだが、「女にもてた経験のない男というのは、選べるようになっても怖じ気づく」(塩野七生)らしく、妻選びさえも、秘書官グループの推薦を求めて行うということになった。
秘書官グループは3人の女人を候補者として推薦してきた。
その中に、これからの話の中心になる、悪女、猛女の代表とも言うべきユリア・アグリッピーナがいたのである。

3人にしぼられても自分で決めることが出来ないクラウディウスに対して、アグリッピーナは、猛烈なアタックを開始した。
彼女は、カリグラの妹で、クラウディウスとは叔父と姪の関係であったが、アウグストスの血をひく身であることを意識して、当面は皇帝の妻になり、いずれは皇帝の母となってローマ帝国の統治を行うと、心に決めたのである。
ただし、皇帝の母となると言っても、クラウディウスとの間に子を産むことなど考えてはいなかった。すでに12才になっている連れ子を皇帝にしようと思っていたのである。
そんなアグリッピーナの猛烈なアタックに、クラウディウスは屈した。

皇帝の妻となった アグリッピーナは、クラウディウスの癖を120%活用した。
彼は、わいわい言われるとうるさくなり、よく読みもしないで署名する癖があったのだ。
皇妃選びの際に自分と張り合った女二人のうち、特に美貌で評判だった方を、クラウディウスが読みもせず署名した告訴状を使って追放し、自死にまで至らせる。
自分に「アウグスタ」という皇帝を意味する女性形の称号を贈らせたり、古代では前例のない、女の身で都市に自分の名をかぶせたりする。
そして、自分の息子ドミティウスを、皇帝クラウディウスの養子にすることに成功する。

アグリッピーナの息子の名は、これ以後、ネロ・クラウディスと変わった。ネロとはクラウディス一門の男たちの典型的な名の一つで、「勇敢な男」という意味であった。
アグリッピーナの野望の第一段階は達成したのである。


4月16日(月)   「ローマ人の物語」(83)

      メッサリーナの破滅

クラウディウスは、妻の乱行に目を向けず、ひたすら皇帝としての責務を誠実に果たしていた。ところが、目をつぶっているわけにいかないほどにメッサリーナの行為はエスカレートしたのである。
23才になったメッサリーナは、美男で評判の元老院議員で、次の執政官に選出されたシリウスに惚れ込み、こともあろうに結婚を考え、実行したのであった。
何と、夫の留守中に、正真正銘の結婚式をあげてしまう。ローマで禁止されている二重結婚を行ったわけである。
書記官のナルキッソスやパラスたちのグループは、放置できないと考えて、オスティアで港の建設の指示をしているクラウディウスに報告した。

やがて、メッサリーナはことの重大さに気付く。
夫がその気になれば死罪にもなる行為だったわけだが、メッサリーナはクラウディウスに会って話せば許してもらえる自信があったようだ。今までも、そうして夫を懐柔できていたからである。彼女はオスティアへ行こうとする。
しかし、馬車を用意するように命じても、従う召使いは一人もいなかった。使用人の奴隷まで、メッサリーナを見捨てたのである。
メッサリーナは恐怖にかられたようである。
彼女は、娘のオクタビアとブリタニクスに、父親が帰宅した時は母の命乞いをするように言う。また、ローマでは唯一の専門司祭職である女祭司長にも、皇帝に対して皇妃の助命を願ってくれるように頼んだ。
そして、別荘に引きこもったのである。

ローマに戻ってきたクラウディウスは、まず、すでに逮捕されていたシリウスを尋問した。シリウスは一言も弁解せず、自死という形の死罪と決まり、すぐ実施された。
メッサリーナに対しては、子供たちの助命の嘆願や女司祭長の言葉を聞き、迷ったすえに弁明だけは聴こうということになった。
皇帝は、控えていた主席書記官ナルキッソスに、明日の朝尋ねてくるように伝えよ、と命じた。しかし、ナルキッソスは、わざと皇帝の言葉を伝えなかった。
クラウディウスを知り尽くしていたこの解放奴隷は、会いさえすればクラウディウスは怒りも恥も忘れ、何ごともなかったかのようにしてしまうことを恐れたのである。
そうなれば、またメッサリーナのやりたい放題が続くことになる。
ナルキッソスは、皇帝の命令ということで皇妃に自死させるよう、兵士に命じた。
23才のメッサリーナは、自分では死ねず、兵士によって殺された。


4月15日(日)   「ローマ人の物語」(82)

         皇妃、メッサリーナの乱行

肉体的にも精神的にも女が好むとは思えないクラウディウスの3番目の妻は、アウグストスと血のつながる名門貴族メッサラ家の娘、メッサリーナであった。
50才でクラウディウスが皇帝となった時、彼女は何と16才。
思いがけないことに、若いメッサリーナは舞い上がってしまう。
皇妃となったことに加えて、そのすぐ後に男子を出産したことが、彼女の増長に拍車をかけることになった。アウグストスの定めた皇位の世襲制は、必然的に皇位継承者を産んだ女の立場を強化していたからである。
夫クラウディウスを軽く見ていたメッサリーナは、「畏敬」というブレーキなしの状態で、ひたすら、虚栄欲と物欲と性欲を満足させることに向かうことになった。

虚栄心の方は、夫の凱旋式の行列に参加することで発揮された。ローマで、それまで凱旋式の場に皇帝の妻であろうと女が登場した例は全くなかったが、メッサリーナは無視した。分からなかったので、無視したのだが、無知な妻の要求を制御できなかったクラウディウスが批判を浴びることになった。

物欲を満足させるために、メッサリーナは「姦通罪」を使った。それで断罪された者の資産は国庫に入ることになるが、それを自分のものにすればいいからである。これで有名な哲学者のセネカ(次の皇帝ネロの教育係となる)が、コルシカ島に流された。
「姦通罪」が使えなければ「国家反逆罪」を使えばよかった。メッサリーナは彼女の果てしない物欲を満足させるために、根拠なく二法を使い分けた。

性欲の方は、例によって「伝説」化している。
皇帝の妻は、夜な夜な皇宮から出て、近接して建つ大競技場の観客席の下に軒を並べる娼家を訪れ、そこで客をとっていたと史家たちの筆にあるという。
「だが、事実ではなかったと、言い切ることもできない。皇妃ともあろう身分で、下賤の者に身をまかせることによって得られる快楽もあっったろう」と塩野七生は書く。
そして、イタリア旅行をする女性たちに向かっての、次のような親切なアドバイスも付け加えるのである。
「メッサリーナにこの種の趣向があったかどうかはわからない。巷間に流布しただけでなく後代にまで生き続けたこの風説が、事実であったのか・・・いずれにしても、現代イタリア語で「メッサリーナ」と言えば、性欲をコントロールできなくて誰とでも寝る女、の代名詞である。だから、イタリア男に、君はメッサリーナのようだ、などと言われたら、皇妃のようだと言われたのではないということは知っておいたほうがよい。」


4月14日(土)   「ローマ人の物語」(81)

    クラウディウスの「秘書官システム」

「秘書官システム」のマイナス面とは何か。
主席秘書官として非常に有能であったナルキッソスという人物が、皇帝クラウディウスへの取り次ぎを一手に握ることになった。
数年もの間、前線で闘ってきた将軍が帰任しても、ナルキッソスを通さないかぎり、皇帝と会えなくなった。
また、パラスという人物が「財務担当秘書官」となっていて、各属州に派遣されている税務担当官の報告をすべて受けることになった。
彼らの態度は、しだいに尊大となったようだ。
しかも、この有能な秘書官たちは、元奴隷のギリシャ人なのである。
つまり、元老院階級に属するローマ社会の上層部の人々が、いかに皇帝の信頼が厚かろうが元は奴隷であるギリシャ人の秘書官たちに頭をさげる必要が出てきたわけだ。
彼らが次第に秘書官たちを憎悪し出したのも無理はなかった、と思う。

さらに、秘書官たちはその地位を利用しての蓄財も可能であった。
これまでの皇帝たちにも、もちろん補佐する人物はいて、彼らが地位を利用しての蓄財をすることは可能だったし、実際あっただろう。
しかし、カエサルやアウグストスやティベリウスと、このクラウディウスの違いは、三者には無言のブレーキでもある畏敬の念を起こさせる才能があったけれども、クラウディウスにはなかったことであった。
簡単に言うと、軽く見られがちであったということである。
結果として、元奴隷の秘書官たちは、何をやってもかまわないと思ってしまったのである。秘書官たちの勝手な行動はエスカレートし始め、それが女たちにも影響し始める。
皇后になったメッサリーナの凄まじい行状が始まったのである。

4代皇帝クラウディウスの章を読んで、私が特に印象的だったのは、皇后二人の「欲望噴出」の顛末であった。
クラウディウスがとことん「つけあがらせた」という感じであるが、年齢や肉体上のハンディ、学者タイプにありがちな家庭への無関心などによって、二人の女は、よくまあそこまでやったもんだ、という形になった。
歴史家タキトスは、4代皇帝を次のように書き始めているという。
「 クラウディウスとは、一人では生きていけず、妻に支配されるのに慣れた男であった。」


4月13日(金)   「ローマ人の物語」(80)

     歴史家皇帝、クラウディウスの誕生

アウグストスと血のつながりがあるということで皇帝にかつぎ上げられたクラウディウスは、右足を引きずるのが常だった。
身体つきも、左右の調和を欠いていた。
全体に弱々しい体格で、ひざがガクガクするのか、歩調もガクガクしていた。
頭を動かす癖が抜けず、緊張すると、どもった。
背も低く、姿勢も悪い。
それでいて身なりをかまうこともなかったので、見た目が不格好だった、という。

そのようなクラウディウスは、軍務にも国家の政治職にも就かず、少年時代から情熱を傾けて歴史の研究と著作に専念していた。
50才で皇帝に引っ張り出されるまで、彼は「エトルリア史」20巻、「カルタゴ史」8巻、同時代史である「平和記」41巻、それにキケロの伝記も書いたと言われているが、それらはすべて消滅して断片すら残っていないという。
その原因を、学者たちは、クラウディウスはよく調べ知識も豊富だが歴史叙述を文学作品に昇華させるに不可欠なひらめきとすご味に欠けていたからではないか、と指摘している。塩野七生はそれを信用できそうだ、と書いている。
だが、以前カエサルのところで一度引用したことがある、彼の、ガリア人の有力者たちに元老院議員の議席を与えるための演説などは、後代の歴史家たちが「ローマ文明が人類に残した教訓の一つ」とまで賞賛されるような素晴らしいものであるから、特別表現力が劣っていたとは考えられない。

とにかく、毛色の変わった歴史家皇帝の誕生なのであるが、カリグラの悪政によって地に落ちていた帝政への信頼回復への努力は真面目にしている。
まず、「国家反逆罪法」を理由にしての処罰の廃止とか、各種の娯楽スポーツの奨励とか、公共事業としての地味(目立たないからカリグラは関心がなかった)な「インフラ整備」への取り組みとか、税制の公正化とか、ユダヤ問題の解決、などを実施する。
そして、「秘書官システム」を設立し、有能な人材の補佐を求めるようなことも発想したのである。
それによって、植民都市整備、同盟諸国網の再編成、「クラウディウス湾」の建設などが、
進んだ。
それらは、彼が設立した「秘書官システム」による有能な人材の補佐によるところが大きく、実際、このシステムはよく機能した。

しかし、すべてのシステムにはプラス面とマイナス面があるように、この「秘書官システム」にも、マイナス面はあったのである。


4月12日(木)   「ローマ人の物語」(79)

     近衛軍大隊長による、カリグラ暗殺

カリグラを暗殺したのは、元老院議員ではなく、近衛軍団の大隊長2人であった。
それは、皇帝の交代に近衛軍団が介入した最初の例となった。
なぜ、カリグラの失政に元老院が動こうとしなかったのか。
理由として、塩野七生は次の3つを挙げている。
1、国家反逆罪法を使ってのカリグラの攻撃は、もっぱら元老院階級に的をしぼっていたので、明日は自分かとい恐怖が彼らを金縛りにしていたこと。
2、元老院に、カリグラを倒した後の帝国統治をどうするかに明確な考えがなかったこと。
3、実際上、警護が厳重で、カリグラを倒すことがむずかしかったこと。

カリグラの身辺警護は、カエサル暗殺以来ゲルマン兵士たちによって行われ、カリグラはそれに近衛軍団の兵士まで加えていた。えり抜きの兵士たちの集団、近衛軍団は最も信頼できる大隊長によって統括されていた。
ところが、その大隊長カシウス・ケレアとコリネリウス・サビヌスによって、カリグラ暗殺は行われたのであった。

カリグラ殺害の真因は、分からない。
研究者たちの多くは金につられたとするが、塩野七生は納得できない、という。
彼女の想像が縷々述べられているが、史実として明らかなことは、次の項目だけだと断っている。
紀元41年1月、カリグラは殺された。妻も娘もともに殺された。
下手人は近衛軍団の大隊長ケレアとサビヌス。元老院議員が参画していた事実はない。
皇帝殺害後、皇帝の叔父のクラウディウスが見つけだされて近衛軍団の兵営地に連れて行かれ、「皇帝!」の歓呼を浴びる。元老院もやむなく、追認。
ケレアもサビヌスも抵抗もせず死に服す。殺害に参加した兵士で罪を問われた者は、他になし。
カリグラの死に対する市民の反応は、冷淡そのもの。
カリグラ自身が帝国各地に作らせた彼の像は、眼に付く限り破壊された。

そして、市民は、さしたる期待もなく、50才の、やや身体障害のようであった新皇帝を迎えたのであった。


4月11日(水)   「ローマ人の物語」(78)

      カリグラの狂的な行状

あらゆるものを手に入れ、ぶっ倒れるまで「幸福」に酔った7ヶ月を過ごした後、カリグラは「神」になることを求めだした。
自分と最高神ユピテル(ゼウス)の一体化をめざし、上半身裸体、裸足、髪もヒゲも金色に染めた姿で元老院に現れたのである。
大病で頭まで狂ったのか、と議員たちは思った。
しかし、これが意外にも「面白いじゃないか」と若年層や庶民に受けたらしいのである。

カリグラの狂的な行為はエスカレートしていく。
それは、常に人々の話題の的でありたいとする愚かな若者の馬鹿げた行状であった。
解禁した剣闘士試合を、プロの剣闘士同士の試合から、プロに対する重罪人の試合という、プロによる残虐な処刑の見せ物みたいな形に変えた。
四頭立ての戦車でも走らせることのできる、私用の巨大な競技場を建てさせた。
ポッツオーリという商港と、湾をはさんで相対するバイアという高級別荘地の間5、4キロの海上を、徴用した多量の船を横に並べてつなぎ、帆柱を中に、その左右に板を張り渡し、その上を土で舗装して、平坦な道路に変えさせた。
その上を、華やかな衣装を身にまとったカリグラが、復路には2頭立ての戦車まで使って往復して喝采をあびた。
そういう目立つことには熱心だが、地味で目立たない「インフラ整備」には、すぐに関心をなくして中止してしまう。
そして、放漫財政による財政破綻が近づくと、皇帝一家の家具調度、宝石、使用人の奴隷を属州ガリアまで運んで競売に付したり、売春業者や娼婦に税金をかけたり、ローマの金持ちが遺産を相続する際、相続人の一人に彼の名前を加えることを強制したりして、金集めに熱心になった。

カリグラへの熱狂的支持は、しだいに冷却化してゆき、やがては、憎悪に変わった。
そのような庶民たちの想いが、カリグラの狂的なイメージをますます誇張して作り上げたのではないだろうかと思う。
塩野七生は、「セックスとバイオレンスのモンスター的なカリグラは、100年も後に巷間の噂を集めて書かれたスベトニウスの『皇帝伝』中のカリグラ から材をとったにちがいない。しかしカリグラは、幸か不幸かモンスターではなかった。頭も悪くなかった。」と書いて、彼の残虐、変態的な行状については、全くふれていないのである。
(ただ、河出書房の文庫「世界の歴史5」を見てみると、「カリグラは妹たちを犯したり、他人の結婚式場から花嫁を奪って自分の妻とし、数日後にはその女を離婚し、その女がもとの夫のもとにもどったといって追放してしまうような、おそるべき男」と紹介されているので、性的に異様な行動があったことは確かなようである)


4月10日(火)   「ローマ人の物語」(77)

     カリグラの「人気取り政策」

つまり、元老院は、ティベリウス憎しの反動で、神君アウグストスと血のつながりがあるということだけのカリグラを大歓迎したのである。
25才の誕生日には、「第一人者」「インペラトール(皇帝)」「護民官特権」という権威も権力も、すべてを与えた。
カリグラは、それを当然のように受け、ティベリウスと正反対の政治をする、と宣言したのである。

公約は、次のような内容であった。
1、政治上の理由で本国の外に追放されている者は、全員に帰国を許す。
2、情報提供要員(密告者)制度を全廃し、以後それを行う者は厳罰に処す。
3、ローマ中央政府の要職を選ぶ毎年の選挙は、ティベリウスが元老院に移していたのを、市民集会での選出にもどす。
4、不評な税金は廃止する。
5、ティベリウスによって追放されていた作家を帰国させ、その作品の刊行を許す。
6、同じく、追放されていた俳優たちの帰国を許す。
7、「第一人者」は首都ローマに在住し、元老院の会議には必ず出席する。

みごとなまでに、反ティベリウスの「人気取り政策」が徹底されている。
これなら、私だって拍手喝采するだろう。
そして、ティベリウスが不人気覚悟で蓄積した「帝政ローマ」の豊かさが、7ヶ月もの間、この何も分かっていない愚かな若者の乱痴気騒ぎを可能にしたのである。
7ヶ月間、ローマ市民は、夢のような快楽にふけったようだ。
連日どこかで剣闘士試合か戦車競争か、体育競技か演劇が行われていた。
花の冠を頭上に戴いた華やかな衣装で練り歩き、ひいきの選手に声援を送る日々。
毎日が祝祭のようであった。
ティベリウスによる長く厳しき冬の後の、春の訪れ・・・。
しかし、その「春」は、莫大な国庫の支出を伴わずにはすまなかった。

(日本も、バブル崩壊の前は、この世の「春」を謳歌していたことを、ふと、思い出した。当時、日本のトップクラスの大企業で役員をつとめていた叔父が「アメリカなんかには日本が買えるようなものは何にもないなー」としみじみ呟いていた。「ティファニー」など、日本企業が買いまくっていた頃だ。あれも、つかの間の夢のような祭りのひとときだった。)

7ヶ月間の「祝祭」によって、一時 カリグラ は病気になる。
遊びすぎて、ぶっ倒れたのだ。
その病気が快復してから、カリグラの行動に狂的ものが加わってくるのである。


4月9日(月)   「ローマ人の物語」(76)

        変態皇帝?ガイウス(通称カリグラ)の就任

カリグラと言えば、映画で残虐さと変態性のイメージがついてしまっている有名な皇帝である。
心理学用語で「カリギュラ効果」というのがあるそうだ。
昔、アメリカの東海岸にあるボストンという街で、映画『カリギュラ』が上映禁止になった時、ボストン市民の中には、わざわざ隣りの街に行ってまでこの映画を見る人が現れた。後日、ボストンも公開に踏み切った時の映画館には、普段ならそんな映画など観ないだろうと思われる市民までもが押しかけ、大盛況となったそうだ。
この現象から、禁止することによる効果を『カリギュラ効果』と呼ぶようになったという。
それだけ、この皇帝の名前は(塩野七生はカリグラと表記している。カリギュラという表記には残虐、変態のイメージが連想される面があるようで、映画はこちらの表記になっている)有名なのだが、真相はどうか。

彼は、24才で皇帝となり、わずか3年と10ヶ月で暗殺された。
24才の美しい青年が、完璧なまでの「幸福状態」を与えられ、やりたいことがすべて出来た、ということで、いろいろと尾ひれがついた面はありそうだ。
まず、就任の様子の記述から紹介しよう。

その学識の深さで「ユダヤのプラトン」と呼ばれたフィロという人物の著作では、カリグラの皇帝就任について次のように記している。
「皇帝ティベリウスの死の後にガイウス(通称カリグラ)が受けついだ帝国とは、世界のすべての陸とすべての海と言ってよい、広大なローマ帝国であった。・・・蓄積された冨の中でも、黄金や銀は通貨であろうと工芸品であろうと満ちあふれ、帝国全域をめぐる通商網は、冨と物産の交流を盛んにする。軍事力も、歩兵、騎兵、海軍と整備され、帝国内ならばどこに住もうと安全に暮らせる。・・・これほどの状態で帝国を受け継ぐ幸運に恵まれた皇帝は、ガイウス(カリグラ)がはじめてであった。個人規模であろうと帝国規模であろうと、冨でも権力でも繁栄の基盤でも、何一つ新たに求める必要はない。すでにして、存在するのだ。幸福は、扉の外に待っている。やらねばならないことは、扉を開けて中に入れることだけであった。」

カリグラとは、「小さな軍靴」の意味である。
軍団基地で過ごしたよちよち歩きの時期に、兵士たちが作ってくれた幼児用のカリガ(ローマの軍靴)をはいて遊んでいたので、つけられた愛称であった。
紀元37年のカリグラくらい、すべての人々に歓迎されて皇位に就いた人はいなかったのである。


4月8日(日)   「ローマ人の物語」(75)

      ティベリウス晩年の「恐怖政治」

タキトス以下の歴史家たちにティベリウスの「暴君による恐怖政治」と断じられた時期の元老院議員の動きは、「まるで自分が告発される前に他を告発するという感じだった」という。
「(国家反逆罪法)を振りかざしての告発は、司法の執行よりも、早い者勝ちの競争に変わっていったのである。雪だるまが、ころがりながら大きくなっていくように。そして、この現象に対するティベリウスの態度は、以前とはまったく違った。以前ならば、法の執行は穏当になされねばならぬと言って、精力的に介入したものであったが。また、刑の実施にも関心を払わなくなった。おかげで、牢に入れられたままで忘れられてしまった人まで出る始末」だったという。

ティベリウスに対する庶民の評価は、地に落ちた。
公共事業は修理修復のみで、新規の建造はいっさいなし。
皇帝からのボーナスもなし。緊縮財政で不景気感が支配する。
庶民の大好きな剣闘士試合はじめ各種の催し物も開催されない。
本人は、絶景と温暖な気候と緑に囲まれたカプリ島に引っ込んで、一人だけで快適な生活を愉しんでいる。
その上、国家反逆罪の名のもとに、元老院を粉砕し、恐怖におとしいれている。
これで、憎まれないはずはない。

秘密のベールに包まれたティベリウスには、淫猥な「伝説」が生まれた。
各地から集めた少年少女たちに、ティベリウスの前で体位の違う性行為をさせて自分の衰えた性欲を刺激したとか、ローマ式の浴槽に身を沈め、幼い少年少女たちに股の間を泳がせて舌や歯で性器に触れさせて愉しんだとか、そして、それらの行為をさせられた子供たちは一人の例外もなく崖から落とされて殺されたとか、・・・。
これらは近現代の研究者によって一笑に付されているが、庶民の気持ちが生み出した「伝説」だろうと思う。

紀元37年。ティベリウスは77才で死亡する。
首都ローマの市民たちは、それを歓呼で迎え、「ティベリウスをティベレ河に投げ込め!」と叫んで街中を踊りまわったという。


4月7日(土)   「ローマ人の物語」(74)

        リモート・コントロール政治

ティベリウスの<演技できない>性格の劇的な現れが、突然の「カプリ隠遁」であった。
ほんとにびっくりするような事実であるが、ティベリウスは、晩年、10年間にわたって首都ローマから「家出」(と塩野は名付けている)して、二度と帰らず、一切姿を見せず、元老院に指示を与えるだけで、ローマ帝国を動かし続けたのである。
10年間にも渡る「リモート・コントロール政治」であった。

「家出」の原因は、彼の周囲にいた4人の後家さんのうち、3人までもが権勢欲が強く、相互に陰謀をたくらみ、宮廷内もそれぞれの派に分かれて陰惨な空気がみなぎっていたからである。ティベリウスはそれに嫌気をさして、「家出」したのだ。
ティベリウスはカプリに引きこもる際、それを家族の誰にも告げず、また元老院で宣告もせず、ノーラに建立した神殿の奉納式に出席するとだけ告げて、ローマを後にしたのであった。誰も、彼がこのまま10年間も首都を留守にし、2度と帰ってこないと予測した者はいなかった。

ティベリウスは、「家出」しても、国政の指示は見事にとり続ける。
そのやり方は、見事なものだったようだ。
もっとも、そうでなければ、10年間も顔を見せずに、離れたところから国政を続けられるわけがない。
しかし、首都ローマに住む庶民は、しだいにティベリウスに見捨てられたと思うようになり、書簡を送ってきてはその議決を求められるだけの元老院は、不満以上に屈辱感まで味わうようになった。人間誰しも、リモート・コントロールされるよりも陣頭指揮される方を好むものだから当然のことである。。

さらに、ティベリウスの悪政が始まるきっかけとなる大事件が起こった。
「手足」として使おうと政務を委託した、親衛隊長であるセイアヌスという人物が、「国家反逆罪法」と「姦通罪法」を使い、権力を私物化する動きに出はじめたのだ。
セイアヌスは後継者の地位を狙いだしていたのである。
それに気付いたティベリウスは、即座にセイアヌスを処刑する。
一家を皆殺しにしただけでなく、セウアヌス一派と目された元老院議員全員を血祭りにあげだしたのである。


4月6日(金)   「ローマ人の物語」(73)


      人気取りをしなかった、ティベリウス

ティベリウスは、ローマ市民に人気があったとは思えない。
塩野七生は「自分が不人気な皇帝で終わるであろうことを予測し・・・まるであきらめでもしたかのように、人気取り政策には関心を示さなかった」と書いている。

公共事業は、一種の人気取り政策であったが、ティベリウスはどうしても必要にせまられなければ、行わなかった。
また、「パンとサーカス」という言葉で有名なように、ローマ人は見せ物(サーカス)を提供するのも指導者クラスに連なる人の義務と考えていたが、ティベリウスは、ほとんど提供しなかった。
カエサルもアウグストスも、市民が熱狂する剣闘士試合を熱心に提供したが、ティベリウスは冷淡だった。法律で禁じたわけではない。皇帝がスポンサーになることをやめてしまったのである。
それまで無料で見ることが出来た市民に、このことは不評であった。

ユーモアのセンスがなかったことも、ティベリウスが不人気だった要因として大きかったのではないか、と思う。
彼は税金の値上げだけはしないことで一貫していたし、人材の活用と抜擢にかんする「目」は優れていた。元老院での討議の効率化を考えて「委員会方式」を考えたりして、誠心誠意、国家のためにつくしていた。
しかし、それは塩野七生に言わせると「誠心誠意でありすぎた」という欠点であったようだ。ユーモアのセンスがなく、常に真剣で、真面目であることしかできない人物を庶民は好まないものである。
彼女はこんな風にも言っている。
「ティベリウスの欠点は・・・偽善的な行為そのものができない性格にあった。偽善とは、演ずることである。平俗に言えば、ふりをすることだ。ティベリウスくらい、公私にわたって<演ずる>ことの下手な人はいなかった。」

この「偽善」ということについての塩野七生の解説は、なかなか面白いので、もうすこし引用してみることにする。
「ギリシャ人は偽善を上等と下等に二分した。・・・ギリシャ人の考えた上等な偽善とは、たとえうわべを装おうとも見せかけであろうとも、それをする目的が公共の利益にあった場合である。ギリシャの哲学者たちは、この種の偽善を、政治家には必要な手段である
とさえ認めたのだ。・・・古代ギリシャでこれを実践したのは政治家はペリクレス一人でしかなかったのが面白いが、民主政であると見せかけながら30年間にわたって事実上の独裁をしたペリクレスがこの面でのギリシャの代表ならば、共和政であると思わせながら40年間にわたって事実上の帝政を行ったアウグストスはローマの代表であろう。そしてもっと面白いのは、この二人が他の誰よりも2500年の昔から現代に至るまでの古代の政治家の中では、最も高い評価を得ていることである。人間とは、主権をもっていると思わせてくれさえすればよいので、その主権の行使には、ほんとうのところはさしたる関心を持っていない存在であるのかもしれない。結果が悪と出たときにだけ、苦情の声をあげるというだけで。」
シビアである。
塩野七生のこんな所が永田町で人気のある所以かもしれない。


4月5日(木)   「ローマ人の物語」(72)


      2代目皇帝、ティベリウス

第7巻の題名は「悪名高き皇帝たち」である。
500ページの厚さで、ティベリウス、カリグラ、クラウディウス、ネロという4人が登場する。
小説ではピカレスク(悪漢小説)が一番面白いわけだから、この悪名高いとされる皇帝たちの物語は面白そうな予感がしている。
楽しみながら、読んでいこうと思う。

・・・と期待して、まずティベリウスを読んでみたが、この2代目とされる人物は、別に悪い皇帝とは思えなかった。
それどころか、歴史家のタキトスによれば、彼の最後の6年は悪政だが初めの10年などは文句ない善政だ、と評価されているという。
塩野七生は、ローマを「カエサルが企画し、アウグストスが構築し、ティベリウスが盤石にした」と書いて、それを次のように説明している。
「ティベリウスは何一つ新しい政治をやらなかったとして批判する研究者はいるが、新しい政治をやらなかったことが重要なのである。アウグストスが見事なまでに構築した帝政も、後を継いだ者のやり方しだいでは、一時期の改革で終わったに違いないからだ。アウグストスの後を継いだティベリウスが、それを堅固にすることのみに専念したからこそ、帝政ローマは、次に誰が継ごうと盤石たりえたのである。」
これが、ティベリウスの特徴であった。
確かに盤石になったようだ。
だからこの後、とんでもない皇帝が続いても、帝国は存続するのである。

アウグストス葬儀の数日後、元老院会議の場で、次の動議が提出された。
1、亡きアウグストスの前例に従って、ティベリウスにも「元老院の第一人者」の称号が与えられること。
2、ティベリウスには、すでに与えられている「ローマ全軍最高指揮権」が今後とも継続されること。
3、ティベリウスには「護民官特権」が継続して認められ、期限なしの終身権限とすること。
4、ティベリウスには生前のアウグストス同様の、ローマ国家を守るために必要なすべての権力が与えられること。

形としては、あくまでも人々の承認を受けてはじめて「第一人者」となるのが、ローマであった。ティベリウスは、この権力の委託を受諾する。
2代目の「第一人者」つまり、実質上の皇帝、の誕生であった。


4月4日(水)   「ローマ人の物語」(71)


       アウグストスの晩年

アウグストスの晩年は、後継者にまつわるスキャンダルで彩られる。
彼の実子は、二度目の妻が生んだ娘であるユリアだけだった。
三度目の妻で、彼が深く愛したリビアとの間には子供がなかった。そこで彼はユリアを甥のマルケルスと結婚させ、マルケルスを後継者に指名した。
しかし、マルケルスは早死にしてしまう。
そこで、年は離れていたが最も信頼できる「右腕 」アグリッパにユリアを再婚させ、彼を後継者にしたのである。

しかし、不幸は続いた。
アグリッパとの間に3男2女が生まれたが、アグリッパが急死してしまったのだ。
やがてはこの孫が後継者となることになったが、アウグストスは中継ぎがほしかった。
そこで、ティベリウス(後に2代目皇帝となる)が登場してくる。
ティベリウスはリビアの先の夫との間にできた子であった。
なぜ彼が選ばれたのか。
実の息子を夫の後継者にしたいリビアの強い要望の結果であったとするローマ時代の史家は多いようだが、塩野七生は、アウグストスが中継ぎとしてのティベリウスの能力を冷静に判断した結果だと思う、と書いている。
ティベリウスは結婚していたが、そんなことは問題ではない。
アウグストスによって、ティベリウスは離婚させられ、ユリアとの結婚を強いられたのである。

ここから、スキャンダルが噴出する。
わがままに育って派手なユリアと陰気な貴族であるティベリウスの結婚はうまくいかず、寝所を別にするようになった。それがローマ中のうわさとなったという。
やがて、ティベリウスは離婚もせず、別居というかたちでロードス島に去ってしまう。
もともと身持ちのよくない派手なユリアは、幾人かの男と遊びだした。
とりわけ深い仲になったのは、敵であったアントニウスの次男、ユールス・アントニウスであった。
政治的陰謀もからんでいたらしいこの姦通事件を、アウグストスは仮借なく、自分が制定した「ユリウス姦通法」どおり処理することに決める。
娘ユリアは、個人資産の三分の一を没収され、父アウグストスからの遺産相続権が剥奪され、パンダテリア島に流された。
性欲の塊のようなユリアに一切男を近づけないために、流刑地での生活には、奴隷でさえも男手が加わることが厳禁された。
一方のユールスには死刑を宣告したが、彼は逮捕を待たずに自殺したのであった。

その後、ティベリウスは呼び戻され、養子昇格し、後継者となった。
アウグストスは76才でなくなり、神として祀られたのである。


4月3日(火)   「ローマ人の物語」(70)

         「メセナ運動」の始祖、マエケナス

アグリッパがアウグストスの「右腕」なら、マエケナスは「左腕」であった。
マエケナスを見出したのはカエサルではない。
すでに人を見る目を持っていた21才ごろのオクタビアヌスが、自分で見出したのである。

アウグストスに欠けていた「説得力」の面を、マエケナスは担当したと言えるかもしれない。彼は、外交交渉を一手に引き受けている。
オクタビアヌスがローマの支配者となるまでの10年間、まずアントニウスとの間の改善につくし、一方ではポンペイウスの遺子との妥協を演出するといった秘密交渉役を務めたマエケナスの功績は大きかった。
平和な時代になると、アウグストスはマエケナスに文化・広報担当を一任した。
これが、後代を通して、文化を助成することを「マエケナスする」、フランス風ならば「メセナする」という言葉で表現するようになる理由となった。

大金持ちであったマエケナスは、私財を惜しみなく投じて文化の助成をした。。
彼の周囲には多くの詩人が集まったが、中でもラテン詩文の巨人といわれるベルギリウスとホラティウスが有名である。
彼らを筆頭格にしたマエケナスのサロンの詩人や文人が、アウグストスによって遂行中の「パクス・ロマーナ」の<広報担当>を務めた。
彼らは、新生ローマを、喜びと誇りをこめて唱い上げた。

ふと、日本における「メセナ運動」は、どれだけの規模で行われているのだろうか、と思った。詳しく実態は知らないが、企業や金持ちが後援する文化活動は、もっと目立つ形で盛んになっていいと思う。私は、恥ずかしいがマエケナスに由来する「メセナ運動」という言葉を最近まで知らなかった。しかしこの言葉は、報道で聞いたこともほとんどない。もっとこの言葉が使われて、もっとこの運動が盛んになってほしいと思う。
日本は、「文化国家」として生きるしかないのだから、「文化を売る」ことだって模索すべきだと思うが、海外に輸出できる日本の文化は「アニメ」と「コミック」だけと聞いたことがある。
それでは、あまりにも淋しいではないか。


4月2日(月)   「ローマ人の物語」(69)

        アウグストスの右腕、アグリッパ。

カエサルは完璧なまでに指導者の条件を満たしていた天才であったが、その後継者であるアウグストスにはいくつか欠けるものがあった。
欠点の第一は、軍事的能力のなさである。
生まれつき消化器系が弱く虚弱体質で、軍事的な指揮は苦手だというその欠点は、カエサルが知り抜いていたことであった。
カエサルがその欠点を補うために仕えさせたのが、アグリッパである。
アウグストスの軍事的な行動は、すべてアグリッパによって成し遂げられている。
そして彼の行ったもう一つの重要な仕事は、公共建造物の建設であった。

アグリッパの建てさせた公共建造物は、首都ローマや本国イタリアにとどまらず、帝国全域におよんでいるという。
塩野七生は、列記すれば数ページにもなるというそれらの中で、2つほど例をあげている。
一つは、パンテオンの南に建設した最初の公共ローマ浴場「アグリッパ浴場」である。
この浴場には、浴室やマッサージ施設だけでなく体育場や読書室やチェス室までそなわっていた。浴場内は、ギリシャ人の芸術家を動員しての美しい壁画や彫像で飾られ、水の供給のため、わざわざ「ビルゴ水道」が引かれた。
もう一つは、南フランスのニームにある「ポン・デュ・ガール(ガール橋)」。
長さ370メートル、高さ48メートルの歩道つき水道橋で、ニームの住民に水を供給する目的で建てられたものである。
通称「悪魔橋」といわれるのは、中世の人々が、これほどの建造物を人間がつくれるわけがない、悪魔がつくったのだと信じたからだと言われている。

カエサルが見込んででオクタビアヌスの補佐役としたアグリッパは、、見込みどおり生涯をアウグストスの友であり忠誠をつくした協力者として終える。51才であった。
だが、アウグストスはその後26年間も生きるのである。
アグリッパ の突然の死は、後継者問題でアウグストスを苦しめる大きな要因となった。


4月1日(日)   「ローマ人の物語」(68)

        信仰の奨励、「平和の祭壇」

平和な時代にこそ、心の問題が重要になる。
アウグストスは、ローマ古来の宗教を重視する政策をすすめた。
まず、昔からあった「世紀祝祭」と訳すべき祭事が、当時、非定期的にしか行われず、その意味も不確かになっていたことを改革する。
定期化し、意味を持たせ、進行のマニュアルをつくり大理石版に掘らせて提示したのである。
次に、民間信仰の再編成として、街路の四つ辻ごとにその規模に応じた大きさの祠や祭壇が建てられた。それは「その一帯の守護神」や「アウグストスの霊」を祭る場所とされた。この「アウグストスの霊」信仰こそが、後の皇帝崇拝に引き継がれていくのである。

アウグストスはまた、ローマが平和を求めていることをアピールするために「平和の祭壇」を建立する。
場所は、フォロ・ロマーノまで歩いても15分足らずのフラミニア街道わきである。
それは、多くの人が通りすがりに目に出来る所であった。
元老院によってその建立が決められ、毎年の儀式も行われるようになった「アウグストスによる平和の祭壇」は、「パクス・ロマーナ(ローマによる平和)」のシンボル建築として建てられ、実際にもその目的のためにつかわれたのである。

アウグストス は「煉瓦の市街であった首都ローマを受けついで、大理石の市街を残した」と自ら書き残している。
確かに、彼の時代は戦役が少なく、首都は整備され、美化され、その繁栄は世の終わりまでつづくものと考えられた。
「永遠の都ローマ」という言葉ができたのも、このころからであった。