エッセイ、赤瀬川原平の表現
「千利休、無言の前衛」について
赤瀬川源平の感性は刺激的だ。
私は、彼が実名を隠して尾辻克彦の名で文芸誌の文学賞に応募し入選した「肌ざわり」という短い小説を原稿用紙に書き写してみたことがある。
その選評で、ある選者が尾辻克彦が赤瀬川源平であることを知らずに、飛び抜けた感性の文体にこの作者はただ者ではないと思ったが入選後に赤瀬川源平であると知って納得したと書いていた。(こういう選評はカッコイイなあ。いかにも自分に見る目があるかのような書き方だ・・・)それを読んで、文体の特徴を知ろうと、原稿用紙に書き写してみた。不思議な感覚の文体だとは思ったが、私にはとてもその文体の質の高さを評価することはできなかった。
その彼が、映画監督の勅使河原宏から依頼されて、映画「利休」の脚本を手がけた。前衛芸術家同士ということで、一面識もない源平さんに、宏さんは目をつけたのだ。
源平さんは、利休のことなど全く知らない。いや、その脚本をきっかけにして書いた「千利休 無言の前衛」(岩波新書)によると、彼は日本の歴史のこと自体、例えば、安土桃山時代と鎌倉時代と平安時代のどれが先でどれが後かも知らなかったと書いている。(彼のことだから、これは本当だろうと思うが、こういうのもカッコイイんだなあ・・・)野上弥生子の「秀吉と利休」を脚本にするということだが、それを読む前に少しは歴史を勉強しなければと小学館の学習漫画で勉強し始めたという。そして、脚本を書き上げ、勅使河原宏監督で映画化された。
その後、岩波書店からの依頼で、「千利休 無言の前衛」を書くことになった。
幼稚園児みたいな自分が書いた「千利休」なんて、世界に類例がないだろうと彼は書いているのだが、確かに、読んでみると千利休のことがあまり出てこない。内容は彼のやっている路上観察の話から、前衛芸術、縮小の日本文化、印象派の特質、日本とフランスの比較などにポンポン飛びながら、思い出したように時々利休の足跡や茶室の特徴などがはさまれるといった、自由奔放な書き方なのである。
どうしてお茶が「道」になるのか?幼い源平さんは、まずそれが疑問だった。
お茶というのは単なる飲み物である。酒は単なる飲み物でなく、酔うという特異な状態が生まれる。だからその状態を究めようというのなら動機としてわかる。しかし、お茶は散歩みたいなものなのだ。単に歩くことを楽しむ散歩に、それを究めようという「歩道」あるいは「歩行道」(「散歩道」と言ってもいいか)なんてものはない。それなのに、同じような単なる飲み物であるお茶には「茶道」なるものがある。
「絵を描くこと、歌舞音曲、武術、学問などが究められて、一つの思想的固まりに至るのはわかるのである。しかし単なるお茶がそれを成し遂げたというのは、考えて見れば実に不思議な、滑稽な、しかし痛快な、快挙とでもいえることではないのか」
これが源平さんの出発点であった。
源平さんは過激な前衛美術家と言われている。
キャンパスを丸ごと梱包して作品としたり、千円札を印刷して作品として裁判にかけられたり、建造物に付着している機能しない無用な物を「トマソン物件」と名付けて(私は知らないが、ジャイアンツの四番バッターになっていた助っ人大リーガー、ゲーリー・トマソン選手が、四番バッターとして機能しなかったことに目をつけて、彼の名前を<無機能物>という<超芸術>の名称にしたらしい)「路上観察」に没頭したり、そうかと思うと、尾辻克彦の名前で芥川賞を取ったり、「新解さんの謎」、「老人力」なんていう非常にユニークな本を書いたりしている。
その彼が前衛を、こう説明するのだ。
「そもそも前衛芸術とは何かというと、芸術という言葉で代表される美の思想や観念といったものを、ダイレクトに日常感覚につなげようとする営みである。」
「芸術といわれるものの内実は・・・さまざまな形に分散して日常生活の中にあったのである。・・・もとは日常生活に湧き出た物が、日常を離れた特異物件として、一段高いところに祭られるようになったのである。・・・そうやって芸術という概念は人々の頭上にあらわれてきたのだ。・・・いわば遠心分離器にかけられたようなものだろう。」
「芸術という概念があらわれたところで、すでにその概念をユーターンしようとする前衛芸術というものがあらわれていたのではないか。つまり日常生活の原始スープから芸術という概念が分離独立したとき、それはふたたび日常のものへと降下しようとする力を内包していた。」
私は「前衛」というものを、逆のイメージでとらえていた面があった。古い物をぶち壊すイメージ・・・それは、日常性から遠く離れる非日常性で勝負するもののように思っていた。ところが、源平さんは全く逆に、日常感覚につなげるものが前衛だという。
そして、あの印象派の絵画を前衛の典型例として出すのだ。
十九世紀に現れた印象派の絵は、それまで人々の頭上へ頭上へと昇りつめようとしていた絵画というものを、一気に日常へ向け直した。それまでの絵は、いずれも日常から浮き上がることで価値を持った。偉大な人物、偉大なる事件、偉大なる風景、まれに描かれる日常の姿も、偉大なる構図、偉大なるライティング、偉大なる瞬間をもって描かれていた。その「偉大なる」ものを一気に消し去ったのが印象派の絵である、と源平さんは言う。
印象派を語る彼の表現は、躍動している。
「(印象派の画家たちは)日常の何でもない風景の、日常の何でもない瞬間を、日常の何でもない光の中で描き始めたのである。・・・偉大なることを描く光栄よりも、キャンパスに絵の具を塗りつける、その楽しさそのものを知ったのである。単なる楽しみ、単なる時間つぶしの真っ只中に飛び込んだのだ。ほとんど人類の芸術の原始にさかのぼるほどの、壮絶な日常へのユーターンであったと思う。」
ついで、印象派の次にあらわれたシュールレアリズムの前衛性を、「物品類を偉大な精神性において描こうとするのではなくて、放っておけばすぐに上昇をして尊大になるだけの芸術の概念を、もう一度卑俗な日常品のディテールのところで見付けようとするもの」ととらえる。
さらに、ダダの運動では、そのオブジェ作品に、暗喩も物語性も一切洗い落とした「実物展示による芸術の接写」という事態が起こってくる。(市販されている既製品をそのまま持ってきて展示する、ということが起こる。実は源平さんも、それに類似したことをやってきたのだ)それを、源平さんは、
「物そのものの美形もさることながら、その物を持ち出す行為のそのことをもって芸術の概念を射止めようとしている」と表現する。
そして、前衛芸術は消え去った、という。
「芸術の概念を、日常の感覚につなげようとする前衛芸術は、そうやって日常への接着を繰り返すうちに、日常に接近しすぎて、接着というよりもその中にはいり込み、日常のミクロの隙間から消えていった」のである。
しかし、
日常から離れようとする芸術に、その誕生と同時に影のようによりそい、日常性に引き戻す動きを持っていた前衛芸術がなくなるということがあろうか・・・。
と考えて、源平さんは、<方向>を転じたのだ。
「前衛芸術はついに光の微粒子、いや影の微粒子となって、この日常生活の全域に散ったのである。だから、芸術の先端部を探すというより、むしろ芸術を離れてこの日常の町を歩けば、そこに染みこんだ前衛芸術の影の微粒子が見つかるかもしれない。どんな状態かはわからないが、必ず発見できるはずだ」
こうして、「路上観察学」というものが出来た、という。
源平さんが「路上観察学」に転じたのは、彼自身日常性に埋没した作品(千円札のコピーなど)を制作して、ものを作ることの不毛に目覚めたからだと言う。
このあたりの書き方も、なかなかいい。
「それまでの芸術の『前衛』のスピードを追い抜く形で、世の中全域での創作活動の乱舞がはじまる。カメラ、自動車、テレビ、コンピューター、都市開発、その他もろもろの実業世界での物品創造があきれるほどの形で加速度的に増大し、虚業世界での作品創造はその価値が一気に低下した。もはや何物かを作るよりも、世の中を見ていた方がはるかに面白い」
「トマソン物件」の第一号は、東京四谷の旅館の側壁にある階段だった。
七段ほどの左右両側から登れる台形の階段物件が、建物の側壁に造りつけられている。普通、左右から登った踊り場のところに入り口があるはずだが、それがない(かつてそこにあった入り口が建物の事情でなくなったのだろうが)。
この階段は何のためにこの世に存在しているのか、と考えたのが発端だったという。
「四谷階段」と名付けられたこの物件を最初に、ちょっとした(人が気にしないような)変な物を探索する活動がはじまった。
道路建設の調査ボーリングの跡にできた小さな穴に土がたまり、草が生える。それを「壺庭」と呼んで(箱庭のモジリか)観察する。張り紙物件の探索では「燃えないゴミは(金)だけです」というのが発見された。(金)はもちろん曜日のことだが、お金のイメージが付着する。
そんな、知ってもしかたがないような変な物を、仲間と合宿してまで探し回るのだ。
「これを始めたときには、あまりに面白くて知恵熱が出た」と源平さんは書く。
「路上観察は自己観察であった。新しい物件が、新しい感覚の皮をめくる。・・・路上にあってちょっとズレたもの、ちょっとはみ出したもの、ちょっと歪んだもの、欠けたもの、見捨てられたもの、そういったもののありさまが、自分たちの感覚を蘇生させてくれる。固形となった観念を叩き直してくれる。
そんなある日、
「ひょっとして、むかし、歪んだり欠けたりした茶碗を、利休たちが<いい>なんて言い出した気持ちと、同じなんじゃないのかな」
という言葉が出た、という。(ああ、何というドラマチックな展開か・・・まるで「プロジェクトX」みたいだ!)
源平さんは「トマソン物件」というものを、日本という風土の特殊性において価値づけようとしている。
ヨーロッパに行ったときも、源平さんは路上観察を行った。しかし、「(ヨーロッパには)無用となってなお存在する、そういう危うい、あいまいなものを見つめる空気というのが流れていない。ヨーロッパにはそういうあいまいさの余地がないのだ。・・・解釈のつかぬままそのものを楽しむ、その解釈の余地というものを温存するシステムがない。すべてが人々の意志に強くつながれて出来ているような気がする」という。
では、トマソンという概念が自然発生する、日本的美意識とは、どういうものか。
これをまとめようと思うのだが、この本はエッセイみたいなもので、評論のように論理的に展開しない。あちこち話が飛んで、まとめるために何度も行ったり来たりして読み直して苦労したのだが、まあ次のようなことになるようだ。
日本は、森林文化の国である。
木が生えていると人は態度をはっきりさせない。木にごまかされて境界があいまいになる。
(それに対して、木のない砂漠に一人立てば、自己を強く意識し、主張することで生きていくほかない)
そして、ことさら自己主張しなくても棲息できるので、小さなものに見入っていられることになり、自然の細部を愛でる感性、極小の美学が生まれた。
さらに、貧乏性の美学というものが発生する。
「貧乏性とは、合理主義的思考が勤勉に強化されて、その結果非合理を生むという人間の業のようなものである」という。
例えば、台所の輪ゴム。
輪ゴムをムダにせず使おうとする合理主義的考えが強化されて、その結果は輪ゴムがたまってしまうという非合理的なものとなる、というようなこと。
そういう「貧乏性」が、懐石料理を生み、大きな花器に花一輪の美学を生んだ。
懐石料理は、お茶を飲むための事前運動として料理を食べたところから発生した。お茶に至るのが目的の食事だから、分量的には最小限でいい(合理的)。しかし、そうやって生まれた極小の懐石料理が、お茶という最終目標を失ったところでもなお美しい料理(非合理的)として崇められていく。そういう美意識ということだ。
ヨーロッパでは花はたくさんあるほど美しい。それに対して一輪の花で満足しようというのも貧乏性の美学である。
自己主張してこそ生きていける砂漠、草原の文化人は、細部に拘泥しない。その合理主義は、貧乏性に寄り道する余地はない。
自己主張の必要が希薄で、細部に拘泥する日本という国には、細部でのムダをなくそうとする合理主義的考えが強化される一方で、その総計としての合理的結果にはいつも裏切られてしまうような、貧乏性的神経が発達した。
この、極小の美学と貧乏性の美学が重なって、それが究められていった。
その時代とは、外国と接触しその自己主張の基本エネルギーを知ることによって、自ら備わっている美意識を自覚していった、室町から安土桃山時代であった。
そして、その中心に利休がいた。
極小の美学と貧乏性の美学は究められ、面積を一坪にまで縮めた茶室、色彩の無である黒一色にまで究められた黒茶碗などが、その思想的物件として出現したというのである。
やっと利休にたどりついた。
私のこの文章は、ほとんど原平さんの発想、文体、展開、の紹介という内容で、特別私自身のユニークな原平論ではない。にもかかわらず私がこの文章を書いたのは、このような書き方で利休を論じ、しかもそれが見事な前衛芸術論になっているような<表現>は、赤瀬川原平さん以外にはできないと思ったからである。
この原平さんの表現は本当にユニークなのだ。前衛芸術家にして初めて書かれた、いかにも前衛芸術家らしい書き方の、前衛芸術論なのである。
私は原平さんのこの<表現>に惚れ込んだ。ということで、私も原平さんの文体にならったくだけた語り口で、この紹介文を続けようと思う。
さて・・・利休を取り巻く人物で重要なのは、秀吉はもちろんだが、秀吉の異父同母の実弟秀長だったと、原平さんは書く。
ガチガチの形式主義者で、支配体制を潔癖なほどに力で統一完成しようとしている実務官僚である石田三成に対して、秀吉は少し現実に長けていて、柔軟である。攻撃の仕方も案外と力の戦闘を好まず、持久戦による水攻め、兵糧攻め、さらに利休の茶会の力を利用しての相手武将の懐柔策などもとる。
いわば、剛速球ばかり投げずにスローボールも投げる、目に見えない力も大切にする、という面を持っている。
利休はそこで秀吉に影響力を持つようになる。
三成は、そんな<あいまい>なやり方、目に見えぬ力などを信じることはできない。
利休と全く異質な、三成とその実務官僚一派が、剛速球ばかり投げようとするとき、利休の目に見えない力、スローボールの側にバランスをとって、秀吉体制を維持していたのが、実は秀長だった。素晴らしい補佐役だったのだが、肺病やみで、兄より先に病死する。
その2ヶ月後に、利休は切腹となる。
「重要なバランサーが一つ外れて、秀吉の意志が揺れ動き、(実務官僚一派の側に)押し流されてしまった」わけである。
利休は、堺の商人、魚問屋の出身である。
このことにもとづくと思われる、原平さんの面白い比喩のいくつかを紹介しよう。
まず、大徳寺に行って初めて利休の木像を見たとき、
「この木像を見る限りでは、利休という名に連想される茶人の繊細優美なイメージはない。むしろ、何だろう、どんと腰のすわった漁業組合の組合長というか、そんな感じだ」
貿易港であり、武器弾薬の産地であり、ファッションの最先端地でもあった堺という町について、
「いまでいうと、成田空港と住友商事と三菱重工と新日鐵と麻布六本木と、そういうものがどっと一カ所に集中していた」
堺の商人である津田宗及、今井宗久など、信長軍に武器を提供して大儲けする一方で、信長の茶頭を務めていた人物については、
「いまでいうと、西武セゾングループ会長の堤清二が、一方で小説をかいて文学賞をもらったりするのと似ているかも知れない」
「信長と利休、秀吉と利休との結びつきには、この力ある堺という背景が無関係ではなかった。また、利休が茶の湯の上でさまざまな新しい形、凝縮の美を生み出していったのも、堺にいて刺激的な西欧文明にいち早く接したという、そのことと無関係ではなかっただろう」
そこで、原平さん、堺へ行き、さらに朝鮮慶州のヤンパン村へと取材旅行をして、あの極小の茶室の、躙り口という特殊な入り口の原型を見付けることになるのだ。
原平さんの目は、鋭く、温かく、韓国に注がれる。
「韓国は日本列島に住む人々の一方のルーツ」だからである。
そこで、慶州ヤンパン村に行った。
お茶室の躙り口(にじりぐち)は、身をかがめて人一人やっと入れる入り口のこと。武士なら刀を外さなければならないし、頭も下げなければならない。
秀吉だって、まったく平等に刀を外して、頭をさげて入る。
利休がはじめたものだが、あまりにも特殊な入り口なので、ルーツが詮索されている。能の楽屋から舞台への入り口、船の中の入り口、などがあるという。
しかし、原平さんは、ヤンパン村で、ほとんど丸ごとの躙り口を見付けたのだ。
引き戸でなくドア式の戸であり、板戸ではなく障子に近いものだが、その他はそっくりだという。
それは、日本でいう足軽の部屋にあたるという。
原平さん、なるほどと合点がいった。
「もしこれをヒントに日本のお茶室の躙り口が出来たと仮定すると、それは井戸茶碗の価値観と重なるではないか。日本の茶の湯で珍重されている井戸茶碗とは、日常の中で見捨てられた価値の蘇生したものである。そもそも井戸茶碗というのは、韓国ではごく日常の飯茶碗である。だから値段など安いものだが、その中にひょっとした出来具合で美しいものがあり、それが日本に渡って利休の目にとまってしまった」
「そしてこの躙り口だ。・・・それは従って、井戸茶碗と同じように、韓国では有り難くも何ともない入り口であったのだろう。そこにしかし風俗を超えて新しい空間構造を見た人々が、聖域であるお茶室の入り口にそれを持ってきたことは十分に考えられる。さらに侘びの思想をもってすれば、屋敷内の最下層の部屋という、日常の辺境をあえて引き寄せる美意識の勇気がうかがえるのだ。口に出してはいわないが、ここに近代でいう前衛的精神の潜んでいるの
が見える」
話があちこちに飛び、原平さんの利休へ接近する方法は、ついていくのが大変だ。最初の問い・・・なぜお茶が「道」になるのか、にもどる。その答えにあたるような箇所が後半にあった。
「お茶を入れる、その入れ方が次第に儀式化していくというのは、生きていることの不安によるものではないか」
「・・・不安に、人間はじっとしていると吸い込まれかねない。そのために生活の貧しさがあり、人々は貧しさと闘うことで、生きている不安を避けて通ることができる。しかし貧しさと闘ううちには貧しさに勝ってしまうもので、勝って裕福になったことによっていよいよ不安があらわれてくる。その不安と正対することを避けようとして右に左によそ見をする。上を見て下を見る。花を生け、木を彫ったりする。文字を書き、文字を読む。剣を磨き、弓を射る。そうやって趣味と称し、勉強と称し、酔狂と称して、生きている不安からの遠ざかり運動に励むのである。
そんな運動の小さな波が、お茶を入れる時間にあらわれてくるのだ」
利休は「私が死ぬと茶は廃れる」と言い残して死んでいった。これは、利休の前衛精神がなくなって、人々が形式の中に安住することを予言した言葉であった。
「人のあとをなぞらず、繰り返さず、常に新しく、一回性の輝きを求めていく作業を、別の言葉では<一期一会>というのである」
と原平さんは書く。そして、利休のそのような精神を正しく引き継いだのが古田織部であろう、という。
利休は、歪んでしまった茶碗を美として取り入れたが「作為的に歪めること」は戒めていた。しかし、織部は、はっきりと作為的に歪めている。そのことだけを見れば、織部は利休の教えに背いているのだが、原平さんに言わせると、「織部は利休的精神の芯のところを受け継いでいる」となるのである。
利休が死んで、茶は廃れたようだ。
原平さんの、かなり強烈な言葉を最後に引用しておこう。
「形式美の中に身を潜める、その潜めた場所で安心する、これも一つの森林の文化というものだろうか。形式としての茶事、その稽古というのが、それ自体日本列島の現代の人々の身を潜ませる森林としてあるのかもしれない」
最後に一つだけ、私の発見を書いておこう。
利休の映画二本を見て、原平さんの本と、歴史双書の中の利休の記述を読んでみたが、私はふと、こんなことに気付いたのだ。これらには、お茶を入れる時使われる茶碗や茶道具、茶室の様子や生けられている花などのことが色々描かれているが、肝心の「茶」自体のことには全く触れられていないではないか!
考えてみれば、これほど奇妙なことはない。
料理の味は、ほとんど食材の質で決まるのだ。お茶の味を決めるのは、抹茶の質ではないのか。だったら、一流の茶人というのは、いい抹茶を選ぶことを第一にしなければならないのではないのか。一流の茶人である利休を描くなら抹茶の質にこだわる利休の姿がそこがもっと描かれてしかるべきではないのか。
それが、利休を描いた作品に全く出てこない!ということは・・・どうも、利休自体にとって、お茶の味は二次的なことだったのではないか。
お茶を入れるという「型」とか「精神」が、もっとも重要だったのではないか。
私は、利休の時からすでに、茶道というものは形式の中に埋没しはじめていたように思うのである。
だから私は、茶道も利休も好きになれないのだ。 (終わり)