佐高信は当代きっての辛口評論家で、私の信頼する人物の一人
である。
彼に、「佐高信の斬人斬書」というなかなかすごい本がある。現在
徳間文庫から出ているが、そうとう激しい内容で、容赦なく「人」と
「書」を斬りまくる。
冒頭いきなり、竹村健一、渡部昇一、堺屋太一は「三バカトリオ」で
自分はそれに山本七平を加える旨を述べ、「サラリーマンはこうした
<博識芸者>たちに惑わされてはならない」と書く。
哲学者久野収に私淑している反骨の評論家らしく、舌鋒は鋭く、
御用学者たちを徹底的にやっつけている。
その彼が、田原総一郎について書いていたくだりがとても印象に
残っていて、私は、世の中のことを考える時、いつも思い出す。
佐高が「ギクッとした」と書く、田原総一郎語録のひとつとは、
次の言葉であったという。
「腐敗は糾弾されなければならないけれども、腐敗する自由がない
ような社会はイヤでしょう」
佐高は「なるほどそうか」と「大きく頷いた」、と書いている。
これを読んだ時、私は、なるほど、だから田原総一郎は共産党が
きらいなんだな、と思った。
私も、腐敗が全く出ないような、あまりにもキチントした社会はイヤ
である。いじめも非行もない、いい生徒ばかりのキチンとした学校は
(教師には楽でいいが)なんだか気持ち悪いし、本当はいい学校では
ないのかもしれない。
「腐敗する自由」というのは、強烈な言葉だった。
文学的テーマとしても考えるに値する言葉だと思う。
佐高信が「ギクッとし」て、「忘れられない」と書く田原総一郎のこの
言葉は、私にも忘れられない言葉になっている。
「イシュマエル」
昨日、久しぶりに学校へ行って、仕事をした。
これから、ほぼ毎日補習があるので、「学生の思索」ばかりしているわけには
いかない。現実の「雑用」が襲い掛かってくる。
自分はつくづく形而上的な人間だと思う。
私は本を買わないで、徹底的に図書館を利用する主義(つまりはケチ)だが、たまには
買うこともある。あまり図書館に入らない文庫本や保存しておきたいほど惚れ込んだ本は
幾冊か買った。
その中に、「イシュマエル」という本がある。米国作家ダニエル・クインの「知的冒険小説」
と呼ばれている本である。
本当に、こんな面白い本があるのかと思えるほど楽しめた。
言葉を話すゴリラ「イシュマエル」との対話という形で、人類の歴史を検証していく。
聖書に描かれている内容を、斬新な視点で読み替えていく。
そこで使われる言葉が「物語り」である。
「物語り」とは、「人と世界と神々とを関係づける台本」と定義される。
「ひとつの文化」とは、「ひとつの物語りを演じている人間の集まり」。
そこから、イシュマエルは、人類に進化をもたらす「新しい物語り」を探していく。
「物語りは「幻想」と言ってもいい。
人間は、物語りを作って生きるしかない特殊な動物だと私は思っている。
「イシュマエル」は、まさにその観点から、冒険小説という形で、文明論を展開
してくれた素晴らしい本だった。
教育というのも、「物語り作り」である。
どれだけ豊かで、美しい「物語り」を作ることができるか、ということである。
「チェック議員の会」
参議院議員で元俳優の中村敦夫は、なかなかしっかりしている。
彼は、8月8日に「チェック議員の会」会長に就任し、公共事業を徹底的に
チェックし始めている。
先日テレビに出て説得力ある批判を展開していた。
彼のHPには、「全国悪行地図」という、無駄な公共事業と目されるものが網羅
されている地図が載っている。
ここにコピーしようとしたが、地図は出来ないみたいなので、興味のある人は
自分で検索して見てください。
彼の会長就任の挨拶をコピーします。
「チェック議員の会」 8月17日発
8月8日、「チェック議員の会」の会長に就任しました。現在の公共事業の多く
は目的の正当性がなく、財政赤字の増大、環境破壊、地場産業の衰退、伝統
文化や景観消失を招いています。
しかし、多くの議員たちは、地元の建設関連業者からの圧力や、選挙時の不
利を考え、はっきりとした発言ができません。建設関連労働者の人口を、他の新
しい産業にシフトする政策が必要ですが、現在のあり方が間違っていることを具体
的に検証する努力も不可欠です。私が会長になったことで、今後は「チェックの会」
の活動がより積極的になります。
中村 敦夫
木枯らし紋次郎が「あっしにはかかわりねえことでござんす」なんて言って
られなくて、立ち上がってくれた。がんばれ!
生育歴と権力適性
先日、横山ノック元大阪府知事の判決がでた。
漫画トリオ時代から彼のファンだった私には、いろいろ考えさせられることが
多い事件だった。
今日は、かなり過激な、偏っていると言われかねないことを書いてみよう。
人間一般について論ずれば、必ずはみ出る部分があるから、「いや、違う人だって
いる」という反論はいくらでもできるのを承知の上で、以下は、最大公約数的に私が捉えた、
「生育歴と権力適性」論。
「たたき上げで来た苦労人は、権力を持ってはいけない」
のではないか、と私は思う。
これは、一般に言われている
「幼少時、不幸だった人は、権力を持たないほうがいい」
という言葉を拡大したものだ。
たたき上げの人は、一般に苦労人で、幼少時幸せだった人は少ないから、中身はほとんど
重なると考えて頂きたい。
逆に言うと、
「裕福で幸せな幼少時を送り、本当の教養を身につけたエリートが権力を握った方がいい」
と思っているということである。
歴史上の「たたき上げの苦労人」大権力者は、まず豊臣秀吉。
権力を握ったとたん、彼は「豊臣」などという貴族の権威を求め、農民の狡さを熟知しているから
「検地」などを行い、天下の美女を求め、朝鮮半島にまで領土欲を広げる。晩年の残虐行為は、
見方によれば信長以上であった。
毛沢東。この人もたたき上げの革命家。長征の頃の彼の行為は素晴らしい。超エリートだった
周恩来が惚れ込み、彼を権力の座に据えた。しかし、狂気としか言えない文化大革命という若者
を利用した権力闘争の後半生はあまりにもひどかった。
田中角栄。東大法学部出身が占めていた総理大臣に、高等小学校しか出ていない彼が
なった時は、素晴らしいリーダーの出現だと思った。だが、学閥政治の代わりに金権政治を行う
しかなかった彼は、やはり「本当の教養」を身につけていた人物ではなかった。
ヒトラー。彼も不幸な人間であった。まあ、彼の場合、あまりにも精神が歪んでいたので普通人
とは同列にできないが。
で、横山ノック。彼も小学校しか出ていない苦労人で、たたき上げの芸人だった。権力の座について、
彼は「東大出のやつがペコペコするのは気持ちいい」と感じる。悲しい人間の心理である。東大出がぺこ
ペコするほどの権力者である自分だ、アルバイトの女子大生を触るぐらい何だ、と思ったのだろう、軽い
気持ちでやったところ、訴えられた。激怒したノックは、逆告訴し、女性をうそつき呼ばわりする。秀吉
は、博多でキリシタンの女に夜伽を命じて拒否され、激怒してキリシタン禁令を打ち出し(岩波新書、
「日本の歴史」で井上清がそう書いている!)反抗する者を抹殺したが、民主主義の現代ではそこま
での権力行使はできず、ついに敗北する。
裕福な幼少時に豊かな精神世界をもてなかった者、コンプレックスをばねにのし上がった者は、悲しい
けれども、権力を手に入れた時、歪んだ行動に出てしまうことが多いのである。
じゃあ、裕福で幸せだった本当の教養を身につけたエリート権力者の例は、というと、
周恩来がまず浮かぶ。彼の素晴らしさは「ワイルド・スワン」にしっかり描かれているし、大体批判する
人があまりいないから、了解されるだろう。彼の教養は「本物」だった。
もう一人、私の好きな人物で、江戸時代の殿様、上杉鷹山。権力を行使し、米沢藩の藩政改革を、
藩民のために、重臣たちの抵抗に屈せず行った。裕福な上流階層での「本当の教養」(愛民精神)を身
につけた珍しい人。
徳川慶喜もあてはまると思う。世界の動きを見据える彼の教養も「本物」だったと思う。勝海舟を登場
させ、戦禍の拡大を止めた権力の行使は立派だと思う。
探せば、もっとたくさん見つかるだろうが、疲れた。
もちろん、バカ殿様の方が圧倒的に多いし、東大出の裕福で幸せなエリート腐敗官僚が続々出てい
るので、説得力に欠けるが、「本当の教養」という点を絶対条件とした上での、「生育歴と権力適性」の一つの
意見として読んでおいて下さい。
付き合ってくれて、ありがとう。
8月18日(金)
映画の中の台詞には素晴らしいものがある。
「ロベレ将軍」という映画のラスト近くで、抵抗運動をしたとして投獄され
た男たちに、運動のリーダーである男が語る言葉は、忘れがたい。
「俺は、何もしていない!」
「落ち着きなさい」
「本当に、何もしていないんだ!」
「そうだろう。だが、それがいけないのだ。」
「・・・・・・?」
「なぜ、何もしなかった。5年も戦争して、何百人もの人が死んだ。
それを、ただ見ていた。・・・・何かすべきだった。誰かと共に、何か
をすべきだったのだ。この状況を認めようともせずに、自分のことだけ
を考えていた・・・・」
「ジンジャーとフレッド」という映画には、タップダンサーであるマルチェロ・
マストロヤンニが語るこんな台詞があった。
「タップは、・・・初めはダンスではなかった。」
「何だったの?」
「黒人奴隷の信号だった。電線のいらない電報だ。綿畑で、黒人奴隷どうし
は話せなかった。働かないで話していると、番人にムチで打たれる。そこで、
奴隷たちは考えた。まさかの時に、仲間たちと連絡するための方法だ。
・・・・それが、タップ・ダンスになった。」
8月17日(木)
夏休みも半分以上過ぎた。こうやってHP作りに時間を取れるのも
あとしばらくの間になった。
PCによって本当にたくさんのことを学ぶことができている。
今日の橋本さんの書き込みにあったように、色々な人の、色々な考え
方、ものの見方を知る機会になっている。
それは、本を読むことで今までも可能ではあったが、PCは
実際の「対話」に近い形で、やり取りができるという面が素晴らしい。
書きたいことは色々あるが、今日は一日、今考えをまとめたいと思って
いる「心と魂」の問題に集中しようと思う。
生徒の調査書作りという仕事もあって、今ぐらいしか時間が取れないの
ではないかと、不安になっているからだ。
「心と魂」というテーマは、もうかなり前から掲げていて、どうしてもまとまら
ないのである。途中で、「伝統と因習」というテーマが浮かんで、そちらは先
にまとまってしまった。
「心と魂」は、とても大きな、本質的なテーマなのでまとまらないのだろうと
思う。今、またまた「夢と理想」というテーマが浮かんでしまって、そちらも
書きたくなっている。困ったことだ。
ということで、今日は、生徒向けに選んだ「言葉」から、私の好きな言葉を
3つほどあげて、お茶を濁したい。(生徒向けといって、実は、いつも自分
に向けて、じぶんを励ますために選んでいるのだが・・・・)
他人に頼りたがる人は、自分を助けた人にろくに感謝しない。
感謝を知らないから、たやすく他人に頼れる。
(むのたけじ「たいまつ」)
来る日、来る日を良く始める何より良い手段は、
目が覚めるとすぐ、
この日、少なくとも一人の人に、一つ
何か喜ぶことをしてあげることができないものかと、
考えることだ。
(ニーチェ)
大事なのは、
感動すること
愛すること
希望すること
身震いすること
(オーギュスト・ロダン)
8月16日(水)
再開します。また、読んでください。
NHKテレビが放映した「四大文明」の第一回「エジプト」には、本当に
びっくりさせられた。
いままで自分が持っていたピラミッドに関するイメージが根底から覆され
るような、新説の紹介だったからだ。
ピラミッドは、王の墓として作られたものではないという。
ピラミッドを作ったのは、奴隷たちではないという。
この説は、新しく発掘された、ピラミッド建設に従事した人々の墓や、彼らの
様子を書き残した新資料によって完全に裏づけられた。
墓からは、頭蓋骨に外科手術を施したものや、骨折を治療したもの、女性の骨
まで発掘されたのである。奴隷であれば、そんな骨がでてくるはずはない。
さらに、建設に従事した神官の墓が出てきて、そこには、労働者とファラオの
雇用契約に関する記述が刻まれていた。
つまり、ピラミッドを作ったのは奴隷ではなく、全国の失業した農民労働者
たちだったのだ。
彼らは王と雇用契約をむすんでいて、自由に休暇なども取りながら、労働して
いた。
その事実は、1974年に、クルト・メンデルスゾーンによって出されていたピラミッド
建設の目的に関する説を有力なものにした。
その説とは、ナイル川が毎年氾濫して、周辺の農民が生活できなくなった時、
彼らに仕事を与えるために作った公共事業がピラミッド建設だったのではないか
というものだった。
ピラミッドは、作ること自体が目的だった、というのだ!
失業農民の衣食住を保証するために、作り続けられたものだった!
だからこそ、氾濫した時のナイル川に沿うように、一人の王のもと、幾つ
ものピラミッドが建設されたのだ。
カイロの大ピラミッドは、クフ王の時代に作られたことだけは分かっていた。
ギリシャの歴史家、ヘロドトスによって、ピラミッドは、ファラオの墓として
10万人の奴隷を20年間働かせて、建設したもの、という説が定着していた。
新しい資料の発見は、ヘロドトスの説を信じて映画などで何度となく描か
れた、エジプト王の非道な奴隷を使ってのピラミッド建設というイメージを、
180度訂正してしまうわけだ。
8月15日(火)
お休み。
8月14日(月)
お休み。
8月13日(日)
お休み。
8月12日(土)
今日から3泊4日で大阪の実家に帰省。父親の初盆である。
お盆というのは、本来は仏教行事ではないと、私は思っている。
「魂」を信じる日本人の信仰(神道)が仏教と結びついて出来た行事で
あると思う。
もともとの仏教は、「霊・魂」なんてものを論じてはいない。
お釈迦さんは、そんなこと考えていなかった。
だから、先祖の「霊・魂」が戻ってくるなんてことは、ありえない。
お盆という行事は、日本仏教の中心となった浄土教が、「浄土」なんていう
(これももともとの仏教にはなかった)幻想を、神道の「あの世」と結びつけた
ところから生まれたものに違いないと思う。
梅原猛によると、明治以降の国家神道(平田篤胤神道)はもちろんだが、
7,8世紀に成立した古事記に基づく神道も、いわば「中臣神道」とでも言える
ような国家神道であって、支配層によって歪められており、それ以前から
日本人が素朴に信じていた古神道は、大和朝廷の影響から離れていた
アイヌ人と沖縄の人々の伝承行事の中に残っているという。
アイヌ人と沖縄の人々にとって、最も大切な行事は、死者の葬儀である。
アイヌ人は、「熊送り」(イヨマンテ)を大切な行事としている。これは、熊を神の
使者として神聖視する祭りだが、熊の肉は最も美味しい食べ物で、熊の霊
を送ることで、再び美味しい肉が授かると信じていたのだ。
沖縄には、「洗骨葬」という行事がある。遺骸を一度埋葬した後、一定の期間
を経て、洗い清め、再び埋葬もしくは納骨するのである。
これは、骨に付着している肉を洗い、魂をあの世に送る行事である。
このような行事から、梅原氏は、古神道の特徴の中心を、
第一、植物崇拝を中心とする、自然への畏敬。(アニミズム)
第二、魂の永劫回帰(生と死の繰り返し)の信仰。
であるとする。
日本人は、森(植物、自然)を崇拝することから、森にお社を作った。
(神殿は仏教が伝来してから作られたものであって最初はなかった)
太陽の運行を、生と死の循環を象徴するものとして崇めた。
(伊勢の二見ガ浦は太陽が出入りする門として崇められた)
蛇への崇拝は、皮を脱いで、何度も生き返る生命力への畏敬だった。
鳥辺山へ死者を葬る(はふる=放る)のは、魂をあの世へ送る
最も手厚い埋葬、だったのである。
私は、政治の道具とされる以前の、そのような純朴な日本人の
信仰は、実に自然なものだと思って共感する。
人為が施される以前の日本は、「自然」と「魂」を信じ、畏敬する
「神の国」だったと思う。
あらゆる生き物と共生し、自然を畏敬し、生と死を循環ととらえ、
肉体より魂を大切にして生きる生き方。
それは、天皇なんかと結び付けられるものではなかった。
私は、国家神道は大嫌いだが、古神道の中に伺えるこのような
生き方は、日本人の生き方の原点として、これから見直されねば
ならないと思っている。
(3日ほど、お休みします。ご機嫌よう)
8月11日(金)
友人の橋本さんが8月に入って、日記に終戦秘話を連載し始めている。
(と勝手に決めさせてもらいます、ごめん)
私は歴史が大好きなので、橋本裕という人間の歴史観について認識できる
いい機会だと思って、毎日読むのを楽しみにしている。
今描かれているのは終戦直前の国際関係だが、やがて8月15日を迎え、その後
は現在直面している様々な問題に直接つながる事項が連続してやって来る。
平和憲法制定とサンフランシスコ平和条約、そして安保条約の制定。
橋本さんはそこまで書くつもりはないかもしれないが、中でも、数年後には改正
が現実のものとなるに違いない憲法の問題だけは、はっきりと史実を踏まえ、
自分の立場を明確にしておく必要があると思う。
(石原慎太郎は、憲法改正ではなく憲法廃棄と言っている。廃棄なら、手続き上は
国会議員の過半数が賛成すればでできるという。まさか、とは思うが、そんなことありか)
私は、憲法制定過程については愛読書である家永三郎編「日本の歴史」(ほるぷ
出版、全10巻)を熟読したので、認識しているつもりであるが、正直、本格的に
憲法論議が出てきた時、自分がどういう立場で参加してよいか、分からない状態
なのである。
橋本さんはどういう認識で、どういう立場に立つのだろうか。
と、挑発的なことを書いておいて、今日は、家永日本史の面白さを紹介してみよう。
というのも、ほるぷ出版はつぶれたらしいのだ。とすると、もう、こんな面白い日本史
の本は出ないかもしれないと思うのだ。
以下の文章は、家永教科書裁判が終わった時、書いたものである。
ほしい家永式記述の教科書
家永三郎編「日本の歴史」全十巻(ほるぷ出版)は、私の愛読書である。
江戸期までが三巻、明治以後七巻。近現代史を重視し、庶民の視点から具体
的事象を通して記述された内容の面白さは、類を見ないものだからだ。
例えば、戦後十数年間よく見かけた傷痍軍人が実は朝鮮人で、平和条約
発行後に外国人ということで保障を打ち切られた人々だったということを、大島渚
監督のドキュメンタリ−「忘れられた皇軍」を紹介して説明した個所。
あるいは、日本と韓国の間に時差がない(これは、ソウルオリンピックの年に
よく宣伝された)ことの背後に、軍事計画「三矢作戦」のもと、日本、韓国、台湾
をレーダーで結ぶ必要から、それまで存在していた時差三十分を、韓国
中の時計をずらすことによってなくしたことを紹介した個所など。
事象の背後に動いていた「おおきなもの」の存在を教えられた驚きは、
本当に大きかった。
その家永さんが三十二年間闘ってきた教科書裁判が全面勝訴でなかったことは、
実に残念だ。この裁判が教科書の正常化に大きく貢献したことは間違いないが、家
永編「日本の歴史」のような姿勢が貫かれた歴史教科書が書かれる時代は、まだ
まだ遠いようである。
8月10日(木)
4年前から、「図書館探訪」という読書案内を出している。
全校生徒に本の紹介文を書かせ、その中からいくつか選んで毎週1回
プリントに掲載し、全校生徒に配布するというものである。
私が考えて、図書部に入って、やり始めた。
生徒の文章は表に掲載するが、裏は私がえらんだ文章の抜粋や詩などを
載せることにしている。
生徒向けの気の利いた「言葉」を、文章の合間に挟み込むようにもしている。
今日は、4年前に載せた「言葉」で、私の好きなものを、紹介しよう。
人は賢くなればなるほど、友達が増える。
賢い人は、進んで誰からでも学ぶからである。
孤独の賢者なんて、ありえない。
(むのたけじ「たいまつ」)
近くにいないとできないのは 恋。
遠くにいて変わらないのが 愛。
ふられて相手を憎むのは 恋。
ふられて相手を許せるのは、愛。
(井上ひさし「日本語日記2」高校生の名言)
私は、人間を理解することがとても下手で、
すぐ、人間を判断してしまう。
(ボーボワール)
もっと困って、困って、
困り抜けばいいのだと思う。
困り抜くことが、必ず
新たな喜びをもたらしてくれる。
本気で困り抜いた時、
途方に暮れた時、
初めて知恵が湧く。
どんなに困っても、
無事でさえあれば、
それでよしです。
(横井庄一)
8月9日(水)
精神領域における苦痛とは、人間が幻想に頼ってしか生きられないおかしな
動物であるところからおこっている。
人間を苦痛から救おうとして、全く逆方向に発想した偉大な思想家が二人
出た。お釈迦さんとイエスさん。
人間の幻想性を徹底的に解き明かし(仏法)、幻想に振り回されることから
解放されることで苦痛を除こうと発想したのがお釈迦さん。
逆に、個々の小さな幻想を全部包み込む超弩級の巨大幻想(神)を設定して、
それを信じさせることで苦痛を除こうと発想したのがイエスさん。
お釈迦さんの教えは日本に伝わり、人々は幻想を除くことをめざした。
しかし、幻想の塊である人間が、自分の力でその幻想をぶち壊すなんて
ことは大変なことで、そんなこと出来ないと悟って、イエスさん流の巨大幻想
に頼ろうと方向転換した人が出た。
それが親鸞さん。
彼は、阿弥陀如来なる神様を信じることで、一神教的な変な仏教を作り上げた。
いくら修行しても幻想から自由になれない私は、親鸞さんの教えに助け
られた。
「歎異抄」を読んで、これしかないと思ったものだ。
ところが、そんな幻想との格闘など最初から蹴飛ばしてヒョコヒョコ生きている
日本人は、実はいくらでもいたんだということを、深沢七郎は教えてくれた。
「楢山節考」は、「死ぬことはあたりまえ」という発想で、「生」の幻想などない
動物的次元から人間を捉えなおした、稀有な作品である。
あんな小説を書ける人間は、めったにいない。
深沢七郎ほど、幻想性から解放されていて、それを文学で表現できた人間
を、他に知らない。
8月8日(火)
学校斡旋就職選考会議があった。
希望者が少ないのは、専門学校といわゆるフリーター志願者が多くなった
せいだろう。
フリーターについての考え方が、大人と若者とで乖離しているようにみえ
る。新聞に、フリーターをなくす指導を展開している学校の紹介があり、続いて
フリーターの若者からの反論投書が載った。
なんでもそうだが、大雑把に論じると、必ずはみ出る部分があるから、その
部分での反論はいくらでもできる。
フリーターについての賛否も、フリーターに2種類あると捉えれば、別に対立
するようなことではない。つまり、自分の適性を見つめ、自分に本当に適する
仕事を探す過程としてフリーターになっている建設的な人間と、ただ縛られる
のが嫌で、楽をしたいという怠け者の人間がいるということである。
両者ともフリーターだが、実質はまったこ別種類の生き方をしている人間
なのだ。
同じことは、ホームレスにもいえる。
社会の犠牲となっている気の毒な人と、単なる怠け者の2種類がいる。
大雑把な捉え方は、楽だが、本質が見えなくなることが多い。
めんどくさいが、物事はできる限り分けて、細かく、個々に捉えることが
必要だろう。
「今時の若い者は・・・」と「大人ってみんな・・・」という言葉を使う者は
大雑把な思考しかしない怠け者と言っていいと思う。
8月7日(月)
今年は、弓道部の副顧問。昨年は正顧問だったが、どうしても荷が重過ぎて
かわってもらった。
「似合わぬことは、無理をせず」(河島英五、時代遅れの歌詞より)である。
久しぶりに、昨日は試合の付き添いをした。
今年の1年生は、とても態度がいい。
昨年はひどくて、こんなひどい連中とは付き合っていられない、という思いで1年間
苦労したのだが、そのひどい連中は全部やめてしまっていた。
従って、2年生は3人の女子だけ。あとは1年生ばかり。男子は3名。
試合の成績は悪かったが、とても態度が良かったので、気持ちよくすごせた。
久しぶりに旧知の人とも会えて、色々な話もできた。
今日は、広島に原爆がおとされた「その翌日」なので、それにちなんで思い
出したことを書く。
米ソ冷戦のさなかにアメリカで「ザ・デイ・アフター」というテレビ映画が作られた。
日本では映画館で上映されて、話題になった。
ICBMによって、ソ連からアメリカのある町に原爆が打ち込まれる。
アメリカに広島と同じ状態が出現し、「その後」の物語が展開していく。
その中で、広島では起こらなかったことが、描かれていた。
映画では、「その後」、被爆者の間で略奪、暴行、殺人がおこるのである。
私はその場面が一番印象に残っている。
戦争ではないが、災害時に、実際、アメリカではそういうことがおこっている。
日本では、阪神大震災の時にも秩序は守られていた。
8月6日(日)
昨日は息子が帰ってきて、家族4人がそろった。
夜、ハイビジョンでねぶた祭りの実況をと映画「小熊物語」を観た。
両者ともまさに映像を楽しむ内容の番組で、さすがによく選ん
で放映しているなと思う。
今日は、広島に原爆が落ちた日。
今6時少し前なので、まだ涼しいが、1945年の8月6日は、どの
程度の暑さだっただろう。
原民喜「夏の花」には、冒頭に原爆の落ちた8時15分前後の描写がある。
主人公はしばらく空襲警報が鳴らなかったので、パンツ一つになって寝ていた、
とあるので、今とおなじくやはり寝苦しい暑さだったのだろう。
今6時過ぎで、もうかなり明るい。8時なら日差しが強いだろう。小説では、
8時15分に、突然
「暗闇が滑り落ちた」
とあり、トイレに入っていたので一命を取り留めた「私」の、広島脱出過程が克明
に描かれていく。
ラストの方で、練兵場の光景がチラッと出てくる。兵隊の死体の山。ちょうど朝の
集合時だったのだ。
授業でそこを読んだ時、朝礼のため運動場に本校の生徒が集まっている光景
を連想させた。想像するだけで、身震いする。
8時15分が、地獄の始まりだった。
8月5日(土)
息子からハイ・ビジョンテレビを半額(25万円)で譲り受けた。
昨日、衛星アンテナからの接続工事が終了し、本格的にハイビジョン映像
を楽しんでいる。時
想像以上に綺麗である。見とれてしまうほどだ。
工事に来てくれた電気屋さんも、このテレビなら安い買い物ですよ、
と言ってくれた。
映像に凝っていた息子の選んだテレビだけある、と思う。(親バカ)
これで、オリンピックはハイビジョンで楽しめる。
毎日1本映画を放映しているが、あまりぱっとした映画はない。
12月にはデジタル放送も始まるというので、またまた食指が動く。
昨日に続いて、死と苦痛について、徒然なるままに書いてみる。
ホスピスの医師が話していたが、末期癌患者が求めるものは、モルヒネ
とペットだとのこと。
モルヒネは肉体の苦痛を除くため、第一に必要。
心の苦痛を除くためには、ペットが一番求められるという。
親しい人間はダメらしい。
親しい人間は、思いやりがあって、励ましたり、慰めたり、気づかってくれること
で、逆に負担になるという。
実によくわかる。
癌にかかっていた父親は、入院してから誰にも会いたくないといいはっていた。
本当に嫌だったとおもう。
父は宗教も信じず、ペットも嫌いだったから、救いがなかったが、ペットの動物
がいると穏やかに過ごせる人が多いという。
動物は自然そのものだから、愛情幻想をやりとりする必要はないので、死に直面した
人間にはつきあいやすいのだろう。
死に直面した時の事を想像してみると、奈落の底に落ちていくような虚脱感、が浮かぶ。
どんなに愛する人がいても、死は、すべてを無にする。
その確実な現実を、やさしさで包まれるのはたまらない気がする。
そんな時、おそらくペットは、「死ぬことなんて、あたりまえのことだろ」と言ってくれ
るのではないだろうか。
8月4日(金)
考えてみると、人類が文明を発展させたのは、何とかして「苦痛」から
逃れようとしたからだったと言えるような気がする。
まず釈迦やキリストが、精神の領域において、「苦痛」から人々を救った。
現在に至っても、精神領域では釈迦やキリストの説いたこと以上のものは
説かれていない。彼らの境地を永遠に求めつづけるだけだ。
肉体の領域においては、科学が、人類を肉体労働という「苦痛」から解放
することを目指して発展を続けた。
同時に、肉体の直接的な「苦痛」をなくすために、医学が発展する。
アヘンを使った麻酔薬の発明は最大の貢献だった。
死の恐怖というが、正しくは、死の「苦痛」の恐怖なのだ。
末期がんの患者が求めるものは、「苦痛」を取り除いて欲しいということだ。
私も、「苦痛」さえなければ、死ぬことはそんなに怖くはない。
死に伴う、肉体的な「苦痛」が怖い。
映画「プライベート・ライアン」で、撃たれてもう手の施し様のない戦友に
死ぬまで何本もモルヒネを打ってやる、悲しい場面があった。
とても印象に残っている。
8月3日(木)
人類にとって最大の発明を一つあげるとすれば、私は「紙」をあげる。
自分にとって最大のありがたい発明を一つ選ぶとすれば、何と言っても
麻酔である。
全身麻酔を実用化してくれた江戸時代の医師、華岡青洲さんほど
人々を救った人はいないと思う。
麻酔のない時代は、治療にどれだけの苦痛が伴っていたかを
考えると、ぞっとする。
心臓発作を起こして、カウンターショックという高電圧の治療を受けたとき、
注射での全身麻酔を体験したが、本当に楽だった。
目が覚めたら、胸に丸い火傷の跡が残っていたが、全く知らないうちに
すべて終わっていた。
あのまま死んでいたら、もっと楽だったと思う。
死ぬときは、絶対、全身麻酔に限ると確信している。
8月2日(水)
鬱病と神経症鬱状態とは違うという。
神経症の鬱状態は、いわゆるノイローゼで落ち込んだ状態に当たり、
森田療法や断食療法などの精神強化で治療できるが、鬱病であれば、
脳内物質が不足しているのだから、薬物投与でしか治療できない。
いくら座禅を組んでもダメなのである。
両者の判別は難しい。症状から医師が判断していくしかない、と思っていた。
だが、最近は特殊な機械で脳の状態を撮影して判別が出来るようになっている
とテレビで紹介していた。
脳内物質の不足というと、肉体の異常。
ノイローゼなら、精神の一時的異常。
科学の力によって、今まで精神の病と思っていたものが、一部、分けられたわけだ。
映画「39、刑法第39条」(森田芳光監督)は、加害者が心神喪失者とされて刑
を免れることに対する被害者の怒りを代弁したような内容だった。
殺人を犯した主人公の青年は、精神鑑定で一時、医師から多重人格者だとされる。
しかし、助手の女性(鈴木京香)は、疑問を持つ。芝居ではないかと。
容疑者の青年と助手との凄まじい闘いがはじまる。(結末はお楽しみ)
最近の事件で、本当によく容疑者が精神鑑定を受けると報道される。
異常な言動をすれば、すぐ、精神鑑定。
映画では精神鑑定の様子がかなり詳しく描かれているが、対話やテストで
どこまで人間の「心」が判断できるか、誰でも疑問に思うだろう。
この疑問は、永遠に続く。
鬱病の判別を機械で出来るのなら、多重人格か芝居かを脳の状態観察で判別
出来てもいいような気もするが。
8月1日(火)
郡上で買い物をしたら、2000円札でおつりをくれた。
5年ほど前、PTAの親睦旅行で、彦根にある造幣局印刷所の見
学に参加したことがある。
めったに行けない所なので、面白い体験だった。
一億円の束を持たしてくれたり、印刷されるところや、ミスを検査し
ているところを見学させてくれたりした。
興味があったのは、何と言っても、偽造防止のための技術の粋、
工夫の極致といった面の展示だった。
2000円札はその工場で印刷されたらしい。
新札について調べてみようと思って、PCの検索で2000円札
と入れると、たくさんのHPが出てきた。
その中で、今回の新札に採用されている防止技術についての個所を
コピーしてみる。
偽造対策
千円札、五千円札、一万円札で既に採用されている偽造防止策
(すかし/彩紋模様/マイクロ文字/特殊発光インキなど)に加え
新しい手法が取り入れられました。
・潜像模様
斜めから見ると彩紋模様の上に「2000」が見えるようになる。
・光学的変化インキ
見る角度で「2000」の色(青緑と紫色)が変化する。
・パールインキ
斜めから見るとピンク色の模様が見える。
確かに、斜めからみると数字が浮かんできたり、色が変わったり、精巧極
まりない。
紙幣は美術品としてみると、見事なものだ。
でも、紙幣なんかに振り回されたくないとつくづく思う。
紙幣なんてしょせん印刷された紙なんだ。日本政府への信頼を前提とした
価値にすぎない。人間が振り回されている「幻想」の最たるもの。
金を使わなければ「幸せ」に生きられない者を、バカと名付けたい。
7月31日(月)
昨日、郡上へ行った。
郡上は大好きな町で、今まで何回も行っている。
車で1時間半ほどである。
昨日は、橋の上から仮装して飛び込むお祭りがあるらしい
というので出かけたのだが、あいにくの雨で行われていなかった。
役所の中に食堂があって、具沢山の「ケンチン汁」
というものが食べられる。
おいしくて安いので楽しみにしていたのだが、
これも夏場はやっていなかった。
成果のないドライブになってしまった。
でも、何事も「塞翁が馬」と思うことにする。
「妻と夫」にもう一人、すごい女性の話が出てくる。
その女性とは、歌手の淡谷のり子さん。
軍部や警察とケンカしたエピソードは多いらしい。
戦争中に胸もあらわなドレスで、アイシャドー、付けまつげをつけ、
どんなに批判されても、がんとしてそのスタイルを曲げなかったという。
長崎の軍艦島は炭鉱の島で、日本に連行された人が働かされている。
その守備をしている兵隊の慰問に行った時の話。
初め、兵隊たちの方を向いて歌っていたが、上官がサーベルを持って
威張っていて拍手などしない。
淡谷さんの後ろの方で、連行されて働かされていた人たちが拍手する。
すると、淡谷さんは、くるっと向きを変え、その人たちの方を向いて歌いだした。
日本の兵隊や上官に背を向ける形になった。
歌い終わった後で、
「帝国軍人にケツを向けて歌いやがって」
と上官が怒ったとき、淡谷さんは、一言、
「芸人は拍手する方に向くの」
と言い返して、黙らしたという。
もっと色々、戦争中の武勇伝があるというが、
あまり詳しくは書いてないので、別の本で読みたいと思っている。
7月30日(日)
永六輔の「夫と妻」読了。
中山千夏との対談が載っている。千夏のセンスの良さに感心した。
彼女は、ずっと古代のことを勉強している。古事記を10年ほどかかってやっと「何が書いてあるか
だけはわかった」と言うんだから、相当なものだ。
彼女の言葉を、一箇所だけ抜いてみる。
「古代のことをべんきょうしてきて、すごく感動したことがあるんです。
古代は、女を先に言って、不思議じゃなかった。今も残っていて、すごく分かりやすい例は、
メヲトという言葉です。〔略)メヲトは倭語で、もともと漢字はなくて、音だけあった。メヲトはメヲヒトですか
ら、分解すると、メ=女、ヲヒト=男。つまり、男女のカップルのことを「女・男」と呼んでいた。」
7月29日(土)
昨日、病院へ行った。
最近トイレに行く回数が増え、夜中に2回は目が覚める。前立腺肥大ではないかと言われて、
専門の泌尿器科を訪ねたのだ。
ブスっとした男性医師が、腹部を機械で検査し、その後肛門に指を突っ込んで、
「ここ痛いですか?ここはどうですか?」
と、ぐりぐりやられた。指の微妙な向きで、飛び上がるほど痛い時があった。
「肥大はしてないし、尿の切れもちゃんとしてますよ。でも、痛いのだったら
炎症があるのかもしれない。くすり飲んどきますか」
ということで、炎症と心理的なものらしいということになった。前立腺肥大だと手術しかない
と聞いていたので、ほっとした。
初診なので、最初に問診がある。項目にチェックするのだが、最後の項目が
「あなたは癌の告知を希望しますか」
だった。正直、それを見たときドキッとした。数ヶ月前に父が癌で亡くなっていて、その時の苦しみようを知っていたので
恐怖が全身を走った。
しかし、私は「希望する」にチェックした。
死ぬのは怖い、どうしても怖い。いくら頭で死に対する準備をしているつもりでも、身体は正直に
反応する。告知されて耐えられるか自信はないが、立ち向かうしかない、という思いだけでの選択だ。
橋本さんから借りて読んだ、ソクラテスの最後の数日を描いた小説を思い出した。ソクラテスは魂の存在を確信していたので
肉体の消滅である「死」を本当に恐れなかったらしいが、私にはとても出来ない。
日ごろは忘れている「死」について、気づかされた一日だった。
7月28日(金)
永六輔の「夫と妻」を、今少しずつ読んでいる。
ちょっと面白いと思った言葉を引用してみる。
「10代の夫婦は、セックスで夫婦。
20代の夫婦は、愛で夫婦。
30代の夫婦は、努力で夫婦。
40代の夫婦は、我慢で夫婦。
50代の夫婦は、諦めで夫婦。
60代の夫婦は、感謝で夫婦。」
「容疑者夫婦とは言うが、夫妻とは言わない。
皇太子後夫妻とは言うが、夫婦とは言わない。」
「昔は、男を強くみせなきゃならないから、私たち女が弱くみせていたわけ。」
「妻を失った夫の平均寿命は3年。
夫を失った妻の平均寿命は15年。」
7月27日(木)
橋本さんの日記に書いてあった森首相の話は、私も「志談塾」で聞いて大笑いした。
実によく出来た小噺として、森伝説の一つになるかもしれない。
ふと、これによく似た、長島茂雄の英語に関する伝説的な話を思い出した。
知らない人のために、紹介しておこう。
立教大学時代、野球ばかりやっていた長島が、久しぶりに英語の授業を受けにきた。
長島のメチャクチャな英語力を知っていた教授は、やさしい質問をした。
「長島さん、I live in Toukyo. これを過去形にしてみて下さい。」
すると、長島は答えた。
「I live in Edo.」
今日は学校へ行って、補習授業や就職者への面接指導をしなければならない。
7月26日〔水〕
昨日は、橋本さん、とくさんが来てくれて、パソコンの指導をしてくれた。
機械に弱い私にとって、2人の友達は頼もしい存在である。
2人とも理科系なので、おそらく何でこんなに何回も同じことを教えなきゃならんのか、北村はバカじゃないか、と内心思っているに違いない。
2人とも紳士だから、そんなことはオクビニモ出さないが。
そこで、劣勢挽回のため、夕食時には強引に自分の得意分野に話題を持っていった。
しかし、そこでもなかなか挽回できず、またまた教えられることが多かった。
夕食は喜んでもらえたようで、それはカミサンのおかげである。
アメリカでは、食事を出すとき、妻の料理を自慢することがよくあるようだ。確か「シェーン」でも、そんなせりふがあったと記憶する。
日本では、粗食ですが、というように、考えてみれば相手に失礼になるともいえる言い方をする。
私は、優越感ではなく、独自性を強調するような「自慢」は、おおいにするべきだと考えているので、ちょっとカミサンの料理自慢をしてみよう。
カミサンはよく料理を工夫している、と思う。
絶対自信をもって勧められるのが、ピザである。
カミサンの焼いたピザを食べたら、普通のピザ屋のピザは物足りなくて、お金を損した気分になる。
それから、味噌鍋。
カミサンの手作りの味噌が、実にうまい。
その味噌を使った野菜鍋が、こたえられないのである。
手前味噌とはよく言ったものだ。
私にも、自慢の料理がある。料理というほどの事はないが。
それは「梨サラダ」というものである。
梨を細かく切り、マヨネースとたまねぎを混ぜて冷やす。
朝、それを焼きたての食パンにのせて食べるのである。
これは、胸焼けしているような時でも食欲がでるほど、食べやすい
子供たちが家にいた時、朝食欲がなくても、これだけは喜んで食べていた。
今日は、料理の自慢話になってしまった。
読んでくださって、ありがとう。
7月25日(火)
私は朝5時に起きることにしている。夜10時には就寝する。
そこで、この日記のような文章も、1日前の内容になってしまう。夜書く自信がないので、朝の内に書いてしまうからだ。
今日も、昨日の話になる。
昨日,午前中は、今まとめている「違いの検証」シリーズ(よく使う言葉を対比して概念をはっきりさせることを通し、日本社会のあり方、人間の生き方を考えようと、数年前から始めた自分のシゴト。いままで書いたものは、「雑考」に載せています)の「伝統と因習」を、ほぼ書き上げた。ヒトシゴト終わったという自己満足を味わった。
午後、かみさんと小牧コロナへ映画を観に行った。「グラディエーター」というローマ時代のスペクタクルである。
映画館で見ようと思う映画は、アクション、スペクタクルに絞られてきた。
大画面でなくてもいい映画は、ビデオの性能が向上したので、自宅で見れるようになったからだ。画面は、ほとんど遜色ない。
でも、迫力で見せる映画は、映画館でなくちゃ駄目だ。ということで、迫力を楽しむため、出かけた。
迫力は、ほぼ満点だった。ものすごい費用をかけただけあって、戦闘場面の迫力は、見ごたえ十分。
ローマ時代、賢帝と言われたマルクス・アウレリウスが死んで(映画では息子コモドスに殺される)、帝位を継いだコモドスは、アウレリウスが帝位を譲ろうとさえしたほど信任していたマキシマス将軍(これは架空の人物)を殺そうとするが、失敗する。妻子を焼き殺され、奴隷商人に拾われて剣闘士(クラディエーター)となったマキシマスが、そのずば抜けた強さで勝ち残り、ついにローマのコロシアムで、復讐相手のコモドスと対面する、というお話。
どこまでが史実なのか、パンフレットを買って読んでみると、コモドスが父親と対照的な愚帝であったことは確かで、酒池肉林にふけり(しかしその場面はまったく描かれていない。残念。大体この映画には女があまり登場しない。濡れ場なんて、全くない!)側近の共謀によって殺されてしまうようなバカであったらしい。剣闘が大好きで、自分も剣闘士として戦っていたことも事実らしい。映画では、最後にマキシムと闘い、死んでいくという設定になっている。
コモドスの姉ルッシラはマキシムを愛していて、マキシムを助ける。よくあるパターンだ。ルッシラの複雑な心境を、もうすこし丁寧に描き、マキシムとの関係を納得させるように展開していれば人間ドラマとしての深みも増すのだが、いかんせん、格闘場面に主眼がいっているので、そのあたりは手薄。大体、マキシムの家族との関係も、周囲の剣闘士仲間との関係も人間ドラマとしての描き方はないといっていい。
要するに、剣闘士の格闘ドラマ。
迫力は勝っているかもしれないが、ドラマとしては「ベン・ハー」「スパルタカス」に遠く及ばない出来だ。
女が出てこない、男ばっかりの重量感もやや息苦しいが、それは女性が大好きな私の好みの問題か。
でも、2時間半、非日常の世界で遊べました。
7月24日(月)
昨日の「志談塾」は21名集まって、盛況だった。女性も4人ほど参加していた。もと満州人である水野さんにも久しぶりに会えた。
ほとんどが60代なので、戦前の教育体験や、満州での実体験が聴けた。
報告者の倉橋さんは、愛知県立大の屋上で芥子の栽培をしている、「日本のアヘン政策」「からゆきさん」研究では有名な学者である。
報告は、「満州国」3つの嘘という題で、とても興味深い内容だった。
「満州」というのは本来民族の名称であって、地域の名称として使うのは日本だけ。中国では決して使わない。必ず「ニセ満州国」という。
日本が中国東北地方を軍事占領してそこにカイライ国家をでっち上げたとき、名前を「満州国」とした。
当時、この地方の95%以上の住民は漢民族であって,本来の満州族はごく少数しかいなかったのに、「満州国」の住民を「満州人」と呼び、言葉は
中国語なのに「満州語」と呼んだ。(満州語は、すでに死語)
倉橋さんは、これを、北海道をアイヌ国というのと同じだと述べた。
某国が北海道を軍事支配してカイライ国家をつくろうとし、北海道はもともとアイヌ人の地だったとして、99,9%が日本人であるにもかかわらず
「アイヌ国」と称し、そこで話される言葉を「アイヌ語」というに等しい、と説明された。
見事な喩えだと思う。本当に感心した。
倉橋さんも、この喩えには自信をもっているようだ。
ものごとを最もよく分からせる方法は、巧みな「比喩」を使うことである。
「満州国」の実態が,イメージとして実によく分かった。
とても学ぶことが多い1日であった。
今日の朝日の投書欄に、食品の再利用のことが紹介されていました。
雪印が問題になっているが、業界の一部では「あんちゃん」という言葉でよくやられていることらしい。
刺身のツマ,洋食のパセリ、おちょうしの日本酒の残りなど,何回も使われる。
そして中華料理では,チャーハンが「あんちゃん」のナンバーワンで、残されたチャーハンがいためられて五目チャーハンに変身するということです。
朝日が採用したのだから、本当のことでしょう。
でも、そんなことはうすうす感じていました。
うちの近くに「つぼ八」というバイキング料理を売り物にしている店があります。スーパー「バロー」の横で、系列店です。
何回か食べましたが、たくさん並んでいる食材のほとんどは「バロー」で売っているものです。
お惣菜なんかは、うまく調理してあるけれど、たぶん期限切れまぎわあたりの古いものを再利用しているに違いないと思えます。
これからは、目の前で調理していない中華料理店で、「五目チャーハン」を注文することだけはやめようと思います。
今日は、これから「志談塾」というカターイ会に参加して、満州国についての県立大教授の話を聴いてきます。
私の住んでいる可児市緑ケ丘団地の地下に巨大な洞窟がある。並みの洞窟ではない。大型トラックが走れるくらいの大きさの穴が縦横に数本、かなりの長さで通っている。
この洞窟は、巨大な地下工場にするために掘られたものだそうである。第二次大戦中、愛知県の軍需工場は空襲を避けるため、近郊に疎開を計った。可児市は各務原の飛行場に近く、堅い岩盤の山が多いことで、多くの地下工場建設が計画されたのである。建設にあたっては、たくさんの朝鮮の人々が従事させられたということだ
毎年、七月終わりの週末に、二日間だけ中に入ることができる。緑ケ丘団地「洞窟まつり」というお祭りが催されるからである。
その時は、様々な食べ物やゲームの店が中に並び、近辺から多くの人が集まって涼しい洞窟内の散歩を楽しめるのであるが、私は常々、この洞窟の由来を説明した掲示が一つぐらいあってもいいのではないかと思っている。この洞窟が貴重な戦跡であることは、案外知られていない。
今年も、お祭りの日が近づいて来た。来週の土曜、日曜である。
よかったら、一度おいでください。
石原慎太郎がテレビによく現れて、相当辛らつなことを言っている。
裕次郎軍団と立正佼成会がバックについているし、ハンサムな芥川賞作家という知名度があって、自民党に頼らなくても
支持が集まるので、言いたい放題の感がある。
先日の田原総一郎の番組では、はっきり総理大臣になりたいと言っていた。
そこで、次のような文章を書いて、朝日新聞に送ってみた。
没になりそうな気がするので、ここに再録しておく。
宗教法人課税、石原氏提言を
総理大臣にしたい人物として東京都知事の石原慎太郎氏が圧倒的第1位だという。テレビや著作で伝えられる彼の舌鋒は鋭く、アメリカ追随の自民党政策への批判、官僚への痛罵、東京都の財政再建をめざした大銀行への外形標準課税導入やディーゼル車規制など、その合理的、近代的な提言に、私は敬服している一人だが、一つ不足に思うことがある。
それは、彼の提言の中に宗教活動に関することが聞けないことである。合理的、近代的な観点での財政再建のために、免税領域の多い宗教法人に対しての課税見直しということは考えられないのだろうか。
石原氏は、著書「法華経を生きる」の中で、自分が政治活動を始めた当初に霊友会から組織票をもらったことを、はっきりと書いている。その関係が現在も続いているのかどうか私は知らないが、石原氏自身が法華経への信仰を持っていることは確かだろう。しかし、たとえ個人的信仰や団体との付き合いはあったとしても、それとは別に、政治家としては宗教団体に対してもその合理性と近代性を発揮し、宗教活動に対する徴税システムの見直しを提案してはどうであろうか。
宗教団体からの圧力で既成政党が動かされている感の強い現在、国民レベルでほとんど論議されることがないこの領域への提言を、是非、石原氏にお願いしたい。
初日からトラブル発生。今日から再開を再決意。
夏期休暇に入って、朝から家事をこなしている。部屋の模様替え、網戸の修理、
畑の肥料の買出し、等々。
永六輔著「親と子」の中に、映画評論家淀川長治の面白い言葉が紹介されていた。
誕生日について、彼はこう言ったという。
「私は、誕生日には、母と一緒に過ごします。
誕生日というのは、自分が祝ったり祝われたりする日ではありません。
お母さんに感謝する日です。
母と食事するなり、いなければお墓に行くなり、母を考えて過ごす日です」
私は、今までこんな発想を聞いたことがなかった。目から鱗が落ちた。
確かに、誕生日とは、たんじょうさせてくれた人へ感謝する日であるべきだと思う。
永さんは、以後、淀川さんの言うようにしているという。
私も、来年から、自分の誕生日には母に感謝のプレゼントを贈ろうと思う。
7月18日(火)
今日から、少しでも、毎日書き込むことを決意しました。
続けられるかどうか。
明日から,本格的に書き始めます。