1、保科正之との出会い
みなもと太郎「風雲児たち」(潮出版)。高遠での再認識。会津の旅。
司馬遼太郎「街道をゆく33 奥州白河・会津のみち」。ビデオ版。
中村彰彦「保科正之」(中公新書)。
別冊歴史読本「名君保科正之と会津松平一族」(新人物往来社)
郷土史家編「保科正之」
2、保科正之の出生
大奥の奥女中の一人であった神尾静が二大将軍徳川秀忠のお手つきとなって正之を生む。 秀忠の正室お江与(織田信長の姪、秀忠より6歳上)は嫉妬深く、側室を認めないので、秘 かに育てられる。武田見性院に庇護され、高遠藩主保科正光の養子となる。
3、保科正之の業績 武断政治から文治政治へ
<江戸、将軍補佐(大老?)として>
「末期養子の禁」の緩和。 玉川上水開削。「明暦の大火」時における被災者救済。 江戸城 天守閣の不再建。殉死の禁止。大名証人制度(人質)の廃止。
<会津藩主として>
「検見法」から「定免法」へ。「社倉制」(米を備蓄し凶作の時民衆に貸し出す救済制度)。「定 平法」(米の変動をおさえる)。「間引きの禁」。「旅人煩い候節の取り扱ひお定め」(救急医 療制度)。「九十歳以上貴賤男女を問わず孝養扶持一人分宛を給すべし」(年金制度)
*「八代将軍吉宗が生涯尊敬しつづけ政治の手本として影響を受けた人物こそ吉宗の代より百年も前の保科正之であることを知る人はあまりにも少ない。吉宗の事業のほとんどは保科正之が行っていたことをより大規模にして再現したに過ぎない。消防思想はもちろん粗衣粗食のすすめから目安箱の設置にいたるまで、すでに保科正之が実行していたものである・・・政治形態やしくみその他と別の次元で政治を行っているのはやはり人間の心であるということを思い知らされる。幕府に新風をそそぎこんだ正之ちゃんは巨大な革命児であったのかもしれない」(「風雲児たち」のコメント)
4、保科正之の思想 朱子学
朱子学・・・宋時代の朱子によって大成された<儒教のニューウェイブ>。
「理気二元論」「性即理(人の性質は初めから理に従うように出来ている)」
日本で は藤原セイカ、林羅山によって徳川体制の思想基盤となる。「上下定分の理(人間社会の 上下関係は天地の関係と同じ)」
*、 保科正之は政治哲学としての朱子学を学ぶと同時に、その中から本来の儒家思想「仁」 もしっかり学んでいた節がある。例・・・「社倉制」は朱子学に関連して学んだ中国の救済制 度「社倉法」にヒントを得たもの。殉死の禁止は朱子学の<殉死は異民族の悪い風習>「 殉葬論」から発想。
*、会津家訓は徳川家に対する絶対忠誠の教え。ただ、司馬遼太郎は第六の「家中は風儀 を励むべし」に注目している(文化の振興)。
5、なぜ保科正之は「歴史の闇に埋もれ」たのか。
*、「保科正之の事績が明治以降はほとんど闇に埋もれてしまった理由の第一は、明治政 府が会津藩を賊徒として討伐することによって成立した政権だったからにほかならない」( 中村彰彦「保科正之」)明治以後の「順逆史観」の影響。
*、唯物史観によって「個人」の業績は比較的軽視されてきたか。
家永三郎「日本の歴史10巻」(ホルプ出版)・・・名前すらも記述なし。
井上光貞・児玉幸多「日本の歴史」(中央公論社)・・・事績の記述は文献を併記するかた ちで割と多く記述されている。
6、歴史人物の評価について(問題提起)
*、「最大多数の人々の生命活動を促進するために何らかの働きをした人物は評価で きる」(北さんの評価基準)
*、江戸時代という歴史上の一時期における「風雲児(革新者)」の一人として、保科正之は 高く評価できる。しかし、幕末という時代の変化に対応する学識を持てなかった松平容保 は評価できない。
*、「あの時代においては仕方のない行動だった」というとらえ方が、同情史観(北さんの造 語)を生み、戦争責任の曖昧化を生む土壌になっているのではないか。
<参考> 「風雲児たち」(第1部、30巻)で特に取りあげられている人物
保科正之 高山彦九郎 杉田玄白 林子平 田沼意次 平賀源内 大黒屋光太夫
最上徳内 シーボルト 渡辺崋山 大塩平八郎 オランダおイネ ジョン万次郎
間宮林蔵 高野長英 島津斉彬 勝海舟 佐久間象山 吉田松陰 坂本龍馬
8月29日(日)
この夏の旅行、読書、映画・テレビ鑑賞、その他。
8月14日まで、学校図書館研究会全国大会の出張で郡山に2泊、会津まで足を伸ばして1泊、東京で1泊してきた。
研究会では、メディア・リテラシーに関してかなりたくさん発言した。ありきたりの報告、提案に物足りないものを感じたので、同意されないことは承知で次のような発言をした。
「優良図書を推薦するのはもちろん大切だが、学校図書館として<読ませるべきでない図書>を発信することも必要ではないか。例えば、みうらじゅんが中高生向けに書いた「正しい保健体育」(よりみちパンセシリーズの中の一冊)は、この研究会のパンフにも推薦本で載っているし販売コーナーにも展示されているが、ラストの<研究課題>などとても生徒にあたえられるものではない。ひどいものだ。中身を読まずに推薦本に入れているのではないか。私はこの本は、学校図書館に置くべき本ではないと思います」
(具体的な記述内容は研究会の場でとても紹介できなかった。しかしここにはあえて書いておこう。巻末につけられた生徒への<課題>として「フェラチオを体験した大人の人に、その時右手はどこにおいたかをたずねてみよう」とある。筆者は一体どういう神経の持ち主なのだろうか)
当然のことながら反論があった。ある女子校の司書からは、「正しい保健体育」の内容は知っているがあえて図書館に置いているという。
また、作家の北村薫、阿刀田高の話を聞いた後、両者にミステリーに関することや、小説における<倫理観>の位置づけなどの質問もできた。大変充実した日々を過ごした。
会津では、鶴が城、武家屋敷などを見学した。
保科正之が行く前に蒲生氏郷というキリシタン大名が統治していて南蛮文化を広め、楽市楽座を行って商業を活発化し、利休切腹後に(秀吉の部下なのに)利休の子どもをかくまって千家の基礎を築いたりしているということを知った。実に面白い人物である。彼の築いた土壌に、保科正之が「会津」を構築し、その精神が幕末松平容保の悲劇につながるという流れが少し分かった。(帰宅してから昔作られた「白虎隊」というテレビドラマのビデオを借りて観た。前半の京都における時代背景の描写が秀逸で、会津が朝敵になっていく過程がとてもよく分かった。後半の白虎隊を中心にした会津壊滅の過程は、お涙頂戴の陳腐な描き方で見られたものではなかった。)
東京では、前々から一度見てみたかった明治神宮を訪れた。
全国から十数万本もの献木がされて人工の森が作られたという国家神道の象徴みたいな神社は、すごいものだった。巨大な菊の紋がついた大鳥居と荘厳な神殿をみていると、天皇制の凄さが実感できた。
8月末には、ある事情でで石川県の富来(とぎ)に行った。
富来というところは能登金剛の中にあり、「岸壁の母」で有名だったところである。近くには、砂浜を延々と車で走れる知里が浜、ヤセの断崖(松本清張の小説「ゼロの焦点」で有名)、巌門、北前船の史料館、千枚田などがあり、能登半島を少し走ると時国家、見付け島(軍艦島)、能登大橋など見所がいっぱいあった。
1泊は七尾城趾のすぐ下にある旅館に泊まった。七尾というのは和倉温泉(日本一の高級旅館「加賀屋」で有名)のすぐ南。さすがに海のものは新鮮で美味しかった。
今回は暑くて、金沢市内は兼六園以外歩けなかったが、これからは金沢に行くことが多くなりそうなので、季節がよくなったら市内観光もしようと思っている。
旅行の合間に鑑賞した映画、テレビ、読んだ小説類は、以下のもの。
NHK特集の「硫黄島、玉砕戦」。凄い内容だった。硫黄島の名前だけは知っていたが、こんなに凄惨な戦闘が行われていたとは知らなかった。網の目のように張り巡らした地下壕にこもって島を死守させられている日本兵たちに、アメリカ軍はついに海水とガソリンを流し込んで火をつけるという攻撃をしたということだ。顔の皮膚が焼けて垂れ下がる兵士たちがそれでも壕を出ないで戦い続けるという地獄図を想像して身震いしてしまった。(帰宅して、昔作られたジョン・ウエイン主演のアメリカ映画「硫黄島の砂」を借りてきて見た。あの凄惨な戦いをアメリカ側がどう描いていたのか興味があったからだが、予想通り日本兵は地中からゲリラ的に攻撃する場面や、手榴弾を投げ込まれる場面にごく一部登場するだけで、ラストは何人もでアメリカ海兵隊の星条旗をあげている銅像(海兵隊の栄誉を表す象徴的な有名な銅像)そのままの場面が描かれていた。アカデミー賞の候補にもなった作品と言うが、凡作だった)
映画「ミュンヘン」は、オリンピック村でパレスチナのテロ集団に虐殺されたイスラエル選手11人の復讐のため、モサドが組織した秘密暗殺集団のリーダーの苦悩を描いたサスペンスだった。ユダヤ人であるスピルバーグ監督としては、イスラエルの復讐行為を非難することは出来ないが、実行する生身の人間には<はたしてこれは正しいことなのか>という疑問もわき起こるはずだ、という観点で作られた映画である。ということで延々と苦悩の描写が続くのだが、ラストは妻とセックスしながらオリンピック村での虐殺の光景を想像するという展開で、そこにはやはりイスラエルよりの立場を強調する配慮が考えられているように思った。
小説「一応の推定」は、松本清張賞を全員一致で取っただけあって、地味な内容だが読ませる作品だった。保険の調査員が事故死か自殺かを調査していくという物語で、丁寧な書き方。宮部みゆきの「火車」を読んだときと同じように、先が読みたくてやめられなくなった。
よりみちパンセの一冊「日本という国」(小熊英二・理論社)は、中高生向きだったが、福沢諭吉の姿勢などが実に分かり易く書かれていた。
荻原浩の短編集「押入のちよ」は、ホラーミステリーだが、達者な書き方で、感心した。短いものはどうしても物足りなさを感じることが多いのだが、この短編集は、ほとんどの作品が満足させてくれる出来だった。
ドイツ映画「ヒトラーの12日間」。演じた俳優がとてもよくヒトラーに似ていた。側近たちが見限っていく中で、最後まで狂ったように忠誠をつくしたのがゲッペルス夫妻だったことを知った。なかなか面白かった。
7月23日(日) 近況
数日前から体調を崩しています。
便が堅くなった関係で<例の病>が悪化し、どうも動脈に通じる傷口が開いたらしくて、排便時に大量の出血がつづいています。医者から便を柔らかくする飲み薬と傷口につける薬をもらっていますが、まだ出血が止まりません。出血で毎回便器が真っ赤になります。貧血になるのではないかと心配です。
(いきなりこんな話題で申し訳ありません)
そんなこんなで、雑記帳も更新せずにいましたが、友人の橋本さんがセブ留学するということで、唯一の読者だろうと思われる彼に、近況報告する形で、久しぶりに書きます。
私の夏の旅行計画。
8月上旬に1泊で昇仙峡へ行きます。帰りに近くの友達夫婦のところでも1泊させてもらう予定。その後すぐ、郡山で開催される「全国学校図書館研究会」に行きます。2泊です。ついでに会津を見学しようと思っています。権力を善用した数少ない人物の一人として最近発見した保科正之の史跡を訪ねたい。
8月下旬には、娘が来年結婚するので、婚約者の実家に挨拶にいきます。石川県です。金沢あたりで1泊、輪島か能登半島のもうちょっと先あたりでもう1泊する予定です。娘は金沢で新居を持つ予定で、カミサンは遠いのでちょっと悲しんでいますが、私は日本海の魚介類が食べられるということで別に不満はありません。
ブックオフで「嫌韓流」を買って(もう続編が出ているようですね。恐ろしいことです)読んでみました。西尾幹二なんかの主張だから内容は予想できて、読む気はなかったのですが、一度は実物を読んでおこうという気になったのです。凄い内容でした。知らないことがいっぱい書いてありました。たぶん、日本の右翼が唱えていることで一般の人は知らないようなことがあるように、韓国の右翼が唱えている極端な韓国至上主義(小中華思想)もあるのでしょうが、それらをことさらとりあげて、剣道も柔道も合気道も寿司も韓国が起源だなどという(「ウリナラ起源」というらしい)妄想を一般化して、それで韓国を非難していました。一部の現象を全体化するというのは悪意をもとにした批判の定番ですが、この本にはそういう悪意が満ちていると思いました。
図書館に予約していた「チームバチスタの栄光」が借りられたので、読み始めています。なかなか面白そうで、楽しみです。
もう一冊読みたい本は、岡潔の「日本という水槽の水の入れ替え」というエッセイ集。安藤忠雄が朝日新聞で推薦していた本で、学校の図書館に入ったので読もうと思ったところに「チームバチスタ」が回ってきたので、そちらを優先して、岡潔は校長に回しました。校長も体育教員ですがなかなかの読書家で、前からその本が入荷したら教えてくれと言われていたのです。
藤原正彦の極端な表現に少し辟易していたところなので、彼の源流ともいえる岡潔のホンモノの<愛国心>を、一度じっくり学んでみようと思っています。
夏の補習がはじまって、センター試験の現代文の過去問題を解いていますが、選択肢のなかの実に微妙な紛らわしい表現の差異を見分けて正解の文章をみつける訓練というのは、あんまり本質的な勉強だとは思えません。センター試験解法のテクニックを教える参考書では、冒頭はっきり、これは「お勉強」で勉強ではありませんと断り書きがされています。問題文自体はなかなかおもしろいものが多いので読むのは楽しいのですが、選択肢を見分けるのは(私自身まちがうことが多いこともあって)嫌いです。下らないなあと思いながら、でも受験生のために、テクニックの参考書も一度は読んでおこうと思っています。
やっと好きな本や映画が見られる夏休みにはいりました。
実りある毎日を過ごしたいと思います。
6月5日(月) 朝日新聞投稿文
「経済」の本義、首相は自覚を
靖国神社参拝の再考を求めた経済同友会の提言に小泉首相が「商売と政治は別」と答えたので、同友会の北城代表幹事が「経済も含めて国の政策は決めるべき」と言ったそうだ(天声人語)。このやりとりを読んで、私は改めて「経済」というものを考えた。
「経済」の基本概念は、経済という言葉自体が如実に示している。それは「経世済民」ということで、世を治め民を救うという意味である。為政者が通貨を管理し、市場に介入するのはそのためで、「経済」は本来「政治」と一体であるものだ。
経済同友会の提言は、明らかにそういう「経済」の観点からなされたものだと思う。それに対し小泉首相は「商売」という言葉を使って反論した。中国との関係を「経済」という言葉を使わず「商売」と表現して提言を退けたところを見ると、首相は意識的に「経済」の思想を無視したと考えられる。北城幹事が「商売」という言葉を「経済」と言い換えて再反論したことには、深い意味があった。
小泉首相には「経世済民」の観点にたって、是非、経済同友会の提言を受け入れてほしいと思う。 (引用終わり)
最近朝日新聞は掲載するということを毎回電話で知らせてくるようになった。
今回も4日ほど前の昼間に電話があって、カミサンが留守だと告げると夜9時に再度かけ直して来た。何か訂正でもあるのかと思っていたら「少し短くなるかもしれませんが、載せる方向でおります」とだけだった。
掲載謝礼の図書券3000円は、いつも読み終わった「文芸春秋」を回してくれる義理の父へ贈呈することにしている。
5月15日(月) 「罪と罰」
図書館報に読書案内の文章を載せることになった。
昔、ドストエフスキーを読みなおしていたころにまとめた文章を、少しだけ書き直して載せることにした。前の学校でも使った文章だが、自分では気に入っている文章なので、是非生徒に読んでもらいたいと思っている。
まず「罪と罰」を読んでみませんか。
ー生徒諸君へのドストエフスキー案内ー
もし君たちが神とか愛とか自由とか云った人生の根源的な問題を本気で考えようと思うなら、ドストエフスキーの諸作品、特に『死の家の記録』以後の大作群を読むことをすすめます。私は若い頃その中の幾つかの作品と出会い、その後、成立年代順に読み返したことがあるのですが、読めば読むほど中に秘められている無限な思想の可能性を発見して驚嘆するばかりでした。1850年、29歳のドストエフスキーは、残虐なニコライ一世の謀略(いわゆるペトラシェーフスキイ事件)によって4年間のシベリア流刑を科されます。奇跡的に処刑を免れて生還し、その体験を基にして『死の家の記録』を起稿するのですが、その時から、彼はそれまでのヒューマニズムあふれるロシア文壇の一流作家という位置を離れ、世界的次元における天才作家としての偉大な歩みを始めます。「地下生活者の手記」「罪と罰」「白痴」「賭博者」「永遠の夫」「悪霊」「未成年」「カラマゾフの兄弟」と60歳で死亡するまでに書かれた諸作品の中で、まず最初に一冊読む本をあげるとすれば、やはり「罪と罰」あたりでしょうか。
一般に長編だと言われる『罪と罰』は、しかし主人公ラスコーリニコフのわずか一週間の精神の遍歴を描いた、質的には中編小説的内容の作品です。彼は貧しい、元大学生。人間はすべて凡人と非凡人という二種類に分かれ、後者には既成道徳を踏み越えて新しい法律を創造する力が与えられていると考える彼は、自分が「一介の虫けらか、それとも権利を与えられる者か」を確かめるため「一個の害虫にすぎない」金貸しの老婆を殺害し、同時にその場に偶然居合わせた「つつましいかわいそうな女」リザベータをも殺してしまいます。腕利きの予審判事ポルフィーリイの執拗な追求に対して、彼の壮絶な戦いが始まります。ポルフィーリイはかつてラスコーリニコフが発表した論文を読んで、その超人思想に目をつけており、事件後の彼の行動と心の動きから事件の真犯人だと確信しているのですが、物的証拠がありません。そこで(まさに刑事コロンボのように)彼を心理的に追いつめて行こうとします。ラスコーリニコフもポルフィーリイの策略を見抜き(わざと本当のことを言うというような)その心理の裏をかくような対抗をします。
二人の対決の(刑事コロンボなど比ではない)息もつかせぬ面白さと迫力、追いつめられたラスコーリニコフが神のごとき売笑婦ソーニャにすべてを告白するに至る心理的必然性を踏まえた展開 、加えて物語に深みと広がりを与えている周辺人物、ラズーミヒン、マルメラードフ、ルージン、スビドロガイロフ等の絡み合いなど、読者は小説を読む醍醐味を満喫させられながら、そのうち、ふと人間存在の深く矛盾に満ちた真相に思い至らされていることに気づくはずです(特に「なぜ人を殺しては行けないのか?」と本気で考えている人はこの作品の熟読をすすめます)。その時のために、是非『罪と罰』で描き出された諸問題を、ドストエフスキーはその後の諸作でふくらまし、深めていることを知っておいて下さい。神のごとき人物ムイシュキンを創出しようとした『白痴』から、革命と人間の悪魔性を描いた『悪霊』、ロスチャイルドとなることを理想とする青年を描いた『未成年』、そしてドストエフスキーの思想と芸術の総集編ともいえる『カラマゾフの兄弟』まで、その恐るべき思想実験の歩みを覚えておいて下さい。人類にとって「愛」ははたして可能なのか。もし神がこの世を創ったのであれば、どうして人類はかくも矛盾に満ちた存在であるのか。それがドストエフスキーの生涯をかけて追究したテーマであるように思います。
最後に「矛盾に満ちた」愛についての記述をあげておきましょう。あなたはこれをどう読まれるでしょうか。
「私は人類を愛するけれども、自分で自分に驚くようなことがある。ほかでもない、一般人類を愛することが深ければ深いほど、個々の人間を、一人一人別なものとしてそれぞれに愛することが少のうなる。・・・だれかちょっとでも自分のそばへ寄って来ると、すぐその個性が自分の自尊心や自由を圧迫する。それゆえ、私はわずか一昼夜のうちに、すぐれた人格者すら憎みおおせることができる。ある者は食事が長いからというて、またある者は鼻風邪をひいて、ひっきりなしに鼻をかむからというて憎らしくなる。つまり、私は人がちょっとでも自分に接触すると、たちまちその人の敵となるのだ。その代わり個々の人間に対する憎悪が深くなるにつれて、人類全体に対する愛はいよいよ熱烈になってくる」 (「カラマゾフの兄弟」より)
5月14日(日) 「風雲児たち」の紹介文
みなもと太郎著「風雲児たち」は、幕末を描くために関ヶ原の戦いから描き出された長編歴史コミックです。ギャグが満載されていますが並のマンガではありません。新しい時代を切りひらく先駆けとして生きた人々、例えば田沼意次、平賀源内、杉田玄白、大黒屋光太夫、林子平、シーボルト、大塩平八郎、渡辺崋山、高野長英などのエピソードが、時代を動かす行動かどうかという視点で峻別され、描かれています(有名な八代将軍徳川吉宗など全く登場しません)。すでに20巻が完結し、現在「幕末編」として吉田松陰、村田蔵六、坂本龍馬などが活躍していますが、有識者たちの絶賛に反して売れ行きは不調とのことです。ある書店員は刊行が続くか微妙な状況だと嘆いていました。これからの日本人のあり方を考える上でも十分参考となるこの大傑作を、どうかみなさんも支援して下さい。 (組合の機関誌に投稿)
5月11日(木) 保科正之
連休中、長野で温泉に行くのに高遠を通ったところ、町のあちこちに「保科正之を大河ドラマに」という旗やポスターがひらめいていた。
「風雲児たち」で知っていたあの会津藩創立者の保科正之が高遠出身者であることは知らなかった。
「風雲児たち」を読み返してみた。本当にすごい名君である。徳川時代初期に、力による秩序維持の発想を変え、平和な状態を磐石化するために民を大切にして体制を整える大きな働きをした保科正之は<時代を動かす>風雲児の一人として位置づけられる。
著者のみなもと太郎が、1巻ほとんどを使って保科正之を描き、名君と言われた8代将軍吉宗を全く描かなかった理由もわかった。
5月8日(月) 連休終了
連休は毎年恒例の、長野の友達夫婦宅へ泊まって山菜取りと温泉巡りで過ごした。
コゴミ、タラノメ、コシアブラ、モモラ、フキが採れた。毎日山菜の料理で堪能し、1キロ近く太って帰ってきた。
最終日は娘の婚約者が泊まりに来て、息子夫婦も呼んで、庭でバーベキューをした。
近所に大型のレンタルショップができ、DVDを100円で1週間貸してくれるので、大量に借りて見た。題名は仰々しい「大日本帝国」(笠原和夫脚本)がなかなかしっかりした作品だった。昔、田原総一郎が反戦映画だと評していたのできちんと見てみようと思ったのだが、確かに一般庶民の感覚やシンガポール住民の気持ちがうまく描かれている力作だった。
「蝉しぐれ」は純愛時代劇。殺陣が意外に面白かった。
「キング・アーサー」は、円卓の騎士たちによるプライベートライアンみたいな救出劇。アーサー王のローマ帝国に対する姿勢がよく描かれている。
「パッション」は血まみれのイエスが延々と描かれる拷問映画。
「アビエーター」はハワード・ヒューズの伝記映画。ヒューズがこんな人物だとは知らなかったので、とても面白く見た。
4月24日(月) 映画「スリープ・マーダー」
「スリープ・マーダー」というカナダで作られた法廷映画を見た。
職場の同僚に貸してもらったのだが、こんな映画があったことを全く知らなかった。ネットで検索しても書いていない。テレビの映画専用チャンネルで放映されたものだという。
素晴らしい出来の映画だった。演技者もよかったが、何よりも実話にもとづくとされる脚本が見事だ。
母と兄を惨殺した男を弁護するため、弁護士が辺境の地に向かう。
容疑者(インディアン?)は母も兄も愛していたと語り、自分には全く覚えがないと言う。
しかし状況から犯人は彼しかいない。彼は現地人の部族の一員で、殺したのはモンスターだと口走る。
弁護士、検事、精神鑑定の医師などが絡み合い、法廷闘争が始まる。
やがて犯行は容疑者によるものであることがわかるが、それは病気による行為だった。
辺境の地の習俗のなかで生きていた素朴な男が、文明化による「テレビ漬け」によって睡眠障害に陥り、眠ったままで殺人を犯してしまったのだ。
知能が高く、性格は純朴で優しい容疑者は、テレビで急速に文明社会のことを学ぶが、伝統的習俗の生活から抜けきれず、文明社会に溶け込むこともできないで、脳に障害をおこしてしまったのだ。
その彼に影響を与えた映画が「フランケンシュタイン」。
それはまさに文明化の象徴で、作品に出てくるつぎはぎだらけのモンスターこそ、近代文明によって脳がつぎはぎだらけになってしまっているような現代人を想起させる。
「テレビ漬け」による性格障害に類似する現象は、現在いたるところに見かけられる。
「スリープ・マーダー」は、テレビを主体とする現代文明への鋭い警告がこめられた映画だった。
4月23日(日) 映画「ベニスの商人」
アル・パチーノ主演の映画「ベニスの商人」をやっと見ることができた。
ユダヤ系資本で成立しているハリウッドでは今まで映画化されることがなかった作品だけに、アメリカも変わったのかと少し驚いて、是非見たかった映画なのだ。
冒頭、1500年代のベニスではユダヤ人が迫害されて、ユダヤ人の住居としてゲットーが作られ、ユダヤ人は赤い帽子を被らなければならなかったなどの説明がある。その中で、高利貸しのユダヤ人シャイロックが、おなじく金貸しだが利息はとらないキリスト教徒のアントニーに唾を吐きかけられる場面が描かれている。
ユダヤ人側に立った新しいつくりかたを予想したが、意外にもシャイロックの悪魔的な憎悪の印象が強く残った。シャイロックに肩入れした作り方をめざすなら、性悪女のポーシャとハンサムなだけのバカ貴族バッサーニオの滑稽さがもっと強調されてもよかったのではないか、という印象。
HPで検索してみたら、この映画を批評した投稿文の中に、対比して新釈演劇が紹介されていて、それが実に面白そうであった。こんな演劇があったとは驚きだ。引用させていただきます。
<比較的脚本忠実でありながら,うまく映画にマッピングし直すことができた作品として評価できるでしょう.
アル・パチーノの演技が突出しており,アイアンズ,ファインズ等は,吹けば飛ぶような印象のなさ.対照的なのは,ポーシャを演じたコリンズで,手前勝手な性悪女を見事に演じていました.
ただ,新釈「ヴェニスの商人」を期待して全く別の結末を期待した向きには残念なつくりで,シャイロックが不当で不公正・悪辣極まりない悪女ポーシャに代表されるキリスト教徒に迫害を受ける「悲劇の主人公」としてしか描かれていないのが食い切れないところでしょうか?
実際,シャイロックはまるでステレオタイプのユダヤ人(狡賢く悪辣な癖に間抜けだという)の範囲にとどまっており,昔,新釈舞台劇でみた,糾弾者として勝利するシャイロックとは異なっていました.
そこでは,シャイロックは非常に知性的かつ論理的に描かれていました.(キリスト教への皮肉を込めて)羊を法廷に出すことを要求し,血を一滴も流さずに1ポンドの肉を取り出して見せるように逆襲します.それができるならその通りにして見せると反論して,血と肉が不可分であることを論理的に反駁するのです.また,証文には血を流してはならないとの記述もないことを改めて述べ,差別主義者アントニーオと似非紳士バッサーニオ,狡猾女ポーシャを屈伏させるのです.この劇では,最終的にはシャッロックは,法廷の不公正とキリスト教会を打ちのめしたところで巻幕く間に下がり,3バカトリオ(アントニーオ,バッサニーオ,ポーシャ)が名誉を失墜して凋落しいく様が語られて幕が下りるのですが…(全く別の舞台劇です.念のため…)
まあ,ここまで極端な解釈はキリスト教社会では困難でしょうが,従来にないシャイロックを主人公に据えたこのは評価に値します.エンディングの物言わぬパチーノの無言の演技はさらに素晴らしい.
食い切れないけれど,十分に鑑賞の価値がある作品ではと思います.>
4月21日(金) 風雲児たち
組合の情報誌に「私の1冊」という文章(380字ほど)を書くように言われた。
「風雲児たち」を書いてやろうと思う。
新しく刊行された新装版は読みやすくなっている。この素晴らしいコミックを大いに宣伝したいと思っている。
4月20日木) 不安
今日の進学補習での解説が、自分ながらうまくいったように思ってうれしかった。
アイデェンティティに関する日本人論の問題文。生徒は懸命に考えていた。
生徒がどこまで理解したかは不安だが、自分としては精一杯の分かり易い解説をめざした。
こういう調子で補習授業はやっていきたい。
問題なのは、来週から始まる「表現」の授業。
「ワークノート」というテキストを使うが、うまく活用できるのか大いに不安。
図書館の仕事が山積みで、じっくりと準備をする余裕がない。
といいつつも、今日、帰りに図書館によって「水滸伝」(北方謙三)の7、8巻を借りてきてしまった。
読み始めるとまたやめられなくなりそう・・・。
4月19日(水) 図書館オリエンテーション
1年生の図書館オリエンテーションを始めた。
6時間の授業時間をもらって、今週中にやり終える予定である。
前任校で作った「紹介文記入用紙」を使って、図書館の中にある本を探索させる。その際、私の書いた「アルジャーノンに花束を」を記入例として読み上げてみた。すると2人ほどの生徒から「アルジャーノン」を読みたいという申し出があった。書棚から出してやった。
初めて図書館に入って感動している女の子もいた。そういう生徒の姿を見ると本当にうれしくなる。
4月17日(月) 日陰ツツジ
昨日は近くの山に登った。
毎日犬の散歩を兼ねて登山している校長さんから電話があって、日陰ツツジが一面に咲いていると教えてくれたからだ。
日陰ツツジという名称をしらなかった。シャクナゲに似た薄い黄色のやさしい花だそうだ。
登山口から30分ほどで頂上につく低い山なので、お昼までに帰るつもりでカミサンと出かけた。
少し雲が多かったが、日陰ツツジと山桜が楽しめた。
4月14日(金) 読書指導開始
「3分間読書案内」プリントをLTで配布することが決まった。来週の月曜から早速発行してやろうと思う。前任校で作ったものを利用すれば材料はたっぷりある。
1年生の朝の読書は、時間保証なしではじめることになった。職員会議で、本を持ってこない生徒に対する手だてをしなければ連休すぎには崩れ始めますよとアドバイスだけはしておいた。
4月13日(木) 「3分間読書案内」
今年は図書情報部の主任になったので、前任校で6年間行った読書案内のプリントを配布することにした。全校生徒が全校生徒に本を紹介するという、おそらく他ではどこもやっていない読書指導の取り組みである。今日の職員会議にその案を出す。
プリントは週2回程度から始めようと思う。担任に配布を頼むのだが、朝のSTでは読ませる時間がないと思われるので、LTの時間に配布してもらうように依頼する。
4月12日(水) ヘレンケラーの言葉
ヘレンケラーは1歳9ヶ月の時に高熱を発して視力と聴力をなくした。人間は3歳ぐらいまでに言語を習得する(言葉とモノとが結びつく)。視力と聴力が正常であれば、母親の語りかけなどでいつの間にかそれがなされて、言葉とモノが結びついた瞬間などを記憶することはできない。ヘレンは不幸にも言語を習得する最も大切な時期に、その手段となる聴くことと視ることができなくなった。
満7歳のころに、サリバン先生によって、ヘレンは言葉とモノとが結びつく瞬間を体験する。有名なwaterという単語によってであるが、すでに少女にまで成長していた彼女にはその瞬間を克明に記録することができた。
「突然私は、何かしら忘れていたものを思い出すような、あるいはよみがえってこようとする思想のおののきといった一種の神秘な自覚を感じました。この時初めて私はwaterはいま自分の片手の上を流れているふしぎな冷たい物の名であることを知りました。この生きた一言が、私の魂をめざまし、それに光と希望と喜びを与え、私の魂を解放することになったのです。・・・こうして物にはみな名のあることがわかったのです。しかも一つ一つの名はそれぞれ新しい思想を生んでくれるのでした。私の手に触れるあらゆる物が、生命をもって躍動しているように感じはじめました。それは与えられた新しい心の目をもって、すべてを見るようになったからです。・・・・ああこれらの言葉こそじつに「花咲くアーロンの枝」のように、私のためにこの世を花園と化してくれたものであります」
(ヘレンケラー「私の生涯」岩橋武夫訳)
先日の1年生オリエンテーションで、ヘレンケラーのこの文章を紹介して次のように語りかけた。「この、世界で唯一といえる貴重な文章から教えられることは、私たちの世界は言葉で成り立っている、ということです。言葉が習得された時点で、私たちに世界が与えられたということです。君たちは今日からこういう風に考えてください、我々は自分の持っている言葉の幅だけの世界に生きている、と。言葉の幅を広げていくことは、もっと広く、もっと素晴らしい<花園>の中に生きることになるのです。そのために、読書してください」
4月11日(火) セーフティネット
民主党党首に選ばれた小沢一郎が格差社会について語っていた。
終身雇用と年功序列をセーフティネットとして使うべきという主張が面白いと思った。
具体的な内容も少し語っていたが、自己責任と機会の平等、競争原理ばかりを唱える小泉自民党の発想とひと味違うものを感じた。
4月9日(日) 「文明は共存しようという意志」
「ふぞろいの林檎たち」第1部(ビデオ5巻)、後半はやや漫画的な場面が多くてシリアスな前半のリアリティが欠けてくるが、心にしみるセリフが散りばめられていて、胸をしめつけられながら見終わった。四流大学の3人の男子学生と、2人の看護学校生、1人の女子大生が展開する恋愛ドラマである。大学名のコンプレックスと同時に、容貌コンプレックスがしっかり描き込まれている。
描き方の最大の特徴が、コンプレックスにともなうひがみや意地や虚勢が「明るく、純粋、率直に」描かれていることだ。決して「暗く、不純、歪んだ形に」描かれていない。深刻な内容だからこそ、脚本にそういう配慮がされているのだろうが(容貌の悪い女子大生に空手をつかわせたりするのは漫画的すぎるが・・・)その明るさ、率直さ、純粋さこそが、コンプレックスを克服するための最大の武器だというメッセージが漂っていた。
岩波ブックレットの中に山田太一が書いた「ふぞろいの林檎たちへ」という1冊がある。
冒頭に引用されている言葉が、オルテガの
「文明というのはなによりも共存しようという意志だ」
である。昔読んで、たくさん傍線がひいてある本なのだが、こんなすごい言葉が冒頭にあったなんて初めて気がついた。これまで、文化を浸食する「文明化」を不快に思い続けてきたが、文明というものをこういう観点でとらえ直さなければならないと思った。
山田太一の文章は、自分は<他者にはたらきかける個人主義>をめざしたい、というような内容である。確かにそういう姿勢が「ふぞろいの林檎たち」に流れていた。
私もこれから、「共存しようという意志」として文明をとらえ、「文明化」を「共存化」と位置づけて、人間関係を構築していきたいと思った。
4月8日(土) 「朝の10分間読書」
歓送迎会で、1年担任の一人の教員から「朝の読書」実施の提案がされる予定だと聞いた。
5分前登校をさせて1学年だけでやるという、おきまりの発想での提案のようだ。1年の学年主任が取り扱いに困っていたので、前任校での体験を話し、時間保証のない状態でやることは無理だからやめた方がいいと言った。
「朝の10分間読書」は画期的な素晴らしい読書指導法だが、成功のための絶対条件としては、10分間の時間が(1分でも欠けることなく)保証されることである。時間保証をしないで行った場合、「連絡のあるときは読書の時間を少し削って・・・」とか「5分間でもいいのでは」とかの、「10分間読書」の本質を理解していない意見が必ず出る。そして、そんな形で強行すれば、1年の最初1ヶ月くらいは持つかも知れないが、やがて実施できないクラスが出てきて崩壊する。
もし5分間でも読書できるような(読書体験がしっかりできている)生徒が多い学校なら、朝の読書時間なんて必要ないと私は思っている。読む気がないような生徒に読書の体験をさせることが「朝の10分間読書」の要諦であって、本を読んでいない生徒が<読み浸る>体験を味わえる最低限、ぎりぎりの時間が「10分間」なのだ。それが自力で読書をしてきたような優秀な教員には理解できないのである。
昨日、1年の学年会は長い時間を使っていた。「朝の読書」の提案がされたためだろうと想像している。
4月7日(金) 「ふぞろいの林檎たち」
新しくできたレンタル店に山田太一脚本の「ふぞろいの林檎たち」があった。
山田太一のドラマは今まで1本もレンタルで出たことがないので、驚いて、すでに見た作品だけれど懐かしくて、さっそく借りて見た。
涙がこみ上げてくるほど純粋な若者たちが描かれている。
本当に「純粋」だ。自分の欲望にも劣等感にもひがみにも意地にも、純粋にぶつかって、悲しみ、怒り、苦悩する・・・こんな「純愛」の深いドラマがかつてあったのだ。
今の、キワドサを売りにしたようなトレンディドラマの薄っぺらさがはっきり分かる。
ため息をつきながら鑑賞した。
4月6日(木) メモを武器に
歓送迎会があった。あたらしく転入された何人かの人と話ができた。
最近小さなミスを犯すことが多くなった。連絡などを忘れてしまうことだ。
とにかくメモをとって、しなければならないことを確認しよう。アルツハイマーという病魔と闘った「明日の記憶」の主人公を思いだして、メモを武器とするしかない。
4月4日(火) 「心を上品にする」
友人の橋本さんがHPに出した「共生論」が、ニューウェイブという雑誌に掲載された。
冒頭の、ヨーロッパ流の近代合理主義をめざした福沢が「私がこれまで説いてきたのは、ただ国民の心を上品にすることが目的です」と『福翁自伝』書いているというくだりが目にとまった。この「国民の心を上品にする」という表現がとてもいいと思った。
なぜなら、私は長い間「品」というものは、幼少時を物質的にも精神的にも豊かな環境で育ったものにしか身に付かないものだと考えていたからである。物質的に貧しい(つまり下層社会)環境の中から優秀な人物がでることはもちろんある。本人の努力によって成人した後に精神的に優れた世界を身につけ、物質的にも成功したという人はいくらでもいる。しかし、そういう人に、哀しいけれども「品」というものは身に付いていない、と思っていた。それが、福沢の言葉で、少し修正されたのだ。
「品」というものが、上流階級の中で形成され身につけられる<美>であることはまちがいないと思う。しかし、幼少時に身体に染みこんだ「品」とは別に、「心の品」というものもあると福沢は言っているのだ。そしてそれは「言語」によって「上品」にすることが可能だということなのだ。
私は、言語を習得した後に身体に宿るものが「心」であると考えている。従って「心」は自分の「言語」によっていくらでも変わる。それなら、「心の品」というものがあるとして、言語によってそれを「上品」にすることも十分にできるということになる。
福沢の「国民の心を上品にする」という言葉は、「品」というものを固定的にとらえすぎていた私の考え方を修正してくれた。
4月3日(月) アメリカの歴史教科書(1)
志談塾主のNさんが、半年かけてアメリカの小学校で使われている歴史教科書を訳した。
88枚にわたる上質紙に小さな字で原文と訳文を並べた冊子が配られた。次回の会合で報告があるというので、読み始めた。
知らなかったことだけを羅列してみる。
*、陸橋でつながっていた氷河期にアジアからアラスカを渡ってやってきたアメリカインディアンの祖先は、1万2000年前に氷が溶けて、アメリカ大陸の住民となった。
*、スペインのイザベラ女王とフェルディナンド王は、アジアに行くためにコロンブスに船と船員を与えた。新大陸発見には興味はなく、ただ、肉を新鮮に保つコショウと、味をよくする香辛料がほしかったからである。
*、1942年にコロンブスはアメリカ大陸を発見。アジア(インド)だと思い込んでインディーズと名付けた。インディアンはスペイン人が来るまで馬を見たことがなかった。
*、インディアンは、スペイン人たちと戦ったが、スペイン人がもたらした天然痘によって数百万人も死んでいる。
*、スペインと長く戦っていたイギリスが、アステカとインカから奪ってきた銀と金を運んでいたスペイン船を捕獲しようとし、その時、自分たちも新世界アメリカの宝をほしいと思った。
*、アメリカにおける最初の継続したイギリスコロニー(ジェームズタウン)のリーダーの名前がジョン・スミス。(日本の太郎みたいな名前!)
*、1620年に、メイフラワー号でピルグリム・ファーザーズが到着。
*、アメリカ大陸における最大の食糧はトウモロコシ。
*、1636年、清教徒たちがアメリカで最初の単科大学ハーバードを創立。最初は牧師になるための大学だった。
4月2日(日) 「退屈力」という言葉
斉藤孝が岡田尊司(精神科医)との対談(文芸春秋4月号)で、次のように語っていた。
「岡田さんは『新たな刺激を際限なく求め続けることは、長期的に見れば、心をどんどん鈍磨させ、幸せを感じにくい心を作り出してしまう』と書いておられます。私はこの言葉に感銘を受けて<退屈力>という言葉を考えて『こどもを退屈させることが悪いことと思ってはいけない。むしろ逆である』などと雑誌のコラムに書きました。そんなことを書いたのは、自分がやりたいことを実現していく過程では、必ず退屈な時期があるからです」
これを読んだとき、バートランド・ラッセル「幸福論」の中で、とても感銘を受けた<実りある退屈>という言葉を連想した。そして斉藤氏の言う「自分がやりたいことを実現していく過程では、必ず退屈な時期がある」という言葉に違和感を持った。ラッセルの語った退屈と、どうも違うように思ったのだ。
ラッセルは次のように書いている。
「現代の都市に住む人々が悩んでいる特別な退屈は、彼らが<大地>の生から切り離されていることと密接に結びついている。それは、生活を砂漠の中の旅のように、暑苦しく、ほこりっぽく、のどのかわくものにしている。自分のライフスタイルを選べるくらい富裕な人たちの場合、特に彼らが感じている耐えがたい退屈は、逆説的に聞こえるかもしれないが、退屈への恐れに由来するものである。実りある退屈から逃げることで、もう一つの、もっと悪い種類の退屈のえじきになるわけだ。幸福な生活は、おおむね、静かな生活でなければならない。なぜなら、静けさの雰囲気の中でのみ、真の喜びが息づいていられるかれである」
斉藤孝の言う<退屈力>というのは<退屈に耐える力>であるようだ。彼は<退屈>という状態を基本的に<よくない状態>と考えている。これは岡田尊司氏が語った内容ともずれた感覚である。
自己実現を目指させる教育論者、斉藤孝としては、そう考えるのも無理はないだろう。だが、私は(とても印象的でいい言葉だと思う)<退屈力>という言葉を<退屈に耐える力>などという意味で使ってもらいたくないと思った。ラッセルの<実りある退屈>を生きる力をこそ、<退屈力>という言葉で表すべきではないか。
私はこれから、ラッセルの意味を込めてこの言葉を使おうと思っている。
映画「恋愛小説家」は、何といってもジャック・ニコルソンの変人ぶりが見事だった。有名な恋愛小説作家とはとても思えないような(その点、実に不自然な)主人公の恋愛に対するギコチナイ態度が、ニコルソンの名演技によって、不思議なほどリアリティが感じられるのだ。たわいない内容で、ドラマティックな展開もない作品だが、橋本さんが指摘していたニコルソンの名決めぜりふ「(君と会っていると)いい人になりたくなる」が、キラリと光っていた。
楡周平の「再生巨流」は、流通業界の新しい企画を一部長が奮闘して実現させようとする会社小説。内容紹介を、HPから引用しておく。
「舞台は物流業界。奇しくも、郵政民営化が否決されたばかりであるが、本書でも民間の物流業者が郵政民営化の波を敏感に感じながら、新規ビジネスを立ち上げようとする様が克明に描かれている。ヤマト運輸がモデルかなと感じさせるスバル運輸を中心に、文具の宅配業者として急成長を遂げているアスクルを彷彿させるプロンプトをライバル企業に据え、新規ビジネス立ち上げの難しさと面白さを鮮やかに描いている。
まず、アイデアが秀逸。コピーカウンターにPHSを取り付け、顧客から紙の在庫管理業務をなくしてしまうという取っ掛かりのアイデアに加え、そのワン・アイデアを生かすべく、さまざまなアイデアが波状的に広がっていく。街の電気屋さんを利用した物流スキーム、価格サイトを利用した売込みなど、誰にでも考え付きそうなアイデアなのだが、これらのワン・アイデアが有機的に結びついて、非常に興味深いビジネススキームが築かれてゆく」(引用終わり)
即日配達サービスに対抗して、文具の不足状況を事前に把握して前日ぐらいに届けてしまえないかという発想から、緊急に即日配達を頼まなければならないようなものは「コピー用紙だ」と考えつくところから、主人公の組織との戦いが始まる。人間もよく描かれていて、複雑な流通業界の説明も分かり易い。ハラハラしながら面白く読めた。
3月31日(金) 「水は答えを知っている」
批判の文章(HPから引用しました。)
水は答えを知っている―その結晶にこめられたメッセージ
作者: 江本勝
出版社/メーカー: サンマーク出版
発売日: 2001/11
メディア: 単行本
背景、そして、私はなぜこの本を読んだか
話の発端になるのは、この会社が出した「水からの伝言」という氷の結晶の写真集である。単に氷の結晶の美しい写真を並べた本ならば、とりたてて話題にすることはないのだが、これには、「『ありがとう』という文字をみせた水」と「『ばかやろう』という文字をみせた水」の結晶なるものの写真がのっているのだ。前者は美しい六角形の結晶で、後者は結晶になりそこなった醜いばらばらのかたまり。つまり、水は「よい言葉」に反応して美しい姿を見せるというのである。
これだけなら、ただのおとぎ話だと思えばいいのだろうが*1、おどろくべきことに、これらの結晶の写真が小学校での授業に使われているというのだ(そのような動きに IHM がどこまで関わっているのかは私は知らない)。これについては、天羽優子さん(山形大学の物理学者)によるまとめが詳しいが、簡単にいえば、子供たちに美しい結晶と汚い氷の写真を見せ、それぞれが「ありがとう」と「ばかやろう」を見せた水の結晶だと教える。そして、人体の大部分も水なのだということを強調した上で、単なる水でさえ「ばかやろう」を見るとこうなってしまうのだから、お友達に「ばかやろう」というのはやめよう、「ありがとう」と言おうね --- と道徳のお話にもっていくということのようだ(好意的な実例報告のページ)。残念ながら、いったい何校くらいの小学校でどの程度の規模の授業がおこなわれたのかというデーターはないが、私の知人の息子さんの小学校でも授業があったらしいし、同僚のお子さんの幼稚園では母の会で江本氏の著作が(もちろん好意的に)回覧されたそうだ。ネット上での報告を見ていると数を過大評価してしまう危険があるのだが、このように直接の知り合いから事例が聞けるということは、かなり浸透していることの表れだといっていいと思う。
私はいわゆる「ニセ科学」の類にはどちらかというと寛容な方なのだが、「水からの伝言」が小学校での授業に用いられているということを知って、つよい衝撃を受けた。このような動きは、教育への大きな脅威であり、決して認められないことだと考えている。科学者、教育者として、というより、一人の人間として、そのようなまちがった教育が広がっていくことを食い止めるために、何かをしなくてはならないという思いを抱いている。
3月30日(木) 新学期開始
昨日まで、何と3日間を使って校内人事の企画委員会があった。今年は図書情報部主任になったので、3日間、ほとんど缶詰であった。
やっとこさ、希望と承諾の原則を貫いて、分掌、担任の配置が決まった。
「水は答えを知っている」という<とんでも本>に類するものが、小学校の道徳の授業で活用されているという。HPに、実にしっかりした批判の文章があったので、娘に読ませた。
3月29日(水) 迷惑の感覚
「人に迷惑をかけてはいけない」という教育が正しいことは間違いないが、その教育が「人に迷惑をかけなければ何をしてもいい」という発想を生むことが最大の問題だ。
人間存在を深く考察していけば、人は他者(人だけではない)に迷惑をかけないでは生きていられないものだということが分かってくる。早い話、我々が他の生物を食してしか生きられないということは他の生物に多大な迷惑をかけているということだ。このこと、つまり「人は他に迷惑をかけてしか生きられない」ということをしっかり実感させた上で、「迷惑をかけることはいけない」ということを教えなければならない。これは大変むつかしいことだ。
3月28日(火) 愛すること
3月26日(日) プリンターの設置
土曜夜の「ブロード・キャスター」で、ワンセグサービスのことが特集されていた。携帯電話が普及して以後、教育環境としては絶望的な状況にあると思っていたが、これで最終段階に入ったと感じた。
朝日新聞「声」欄に投稿してみたら、翌日、担当者から電話で連絡があった。2、3学校現場の状況を質問され、24日に掲載すると告げられた。
私が送った文章は以下のものである。新聞では表題が「ケータイ漬け使用の制限を」と変えられていた。
危惧される「ケータイ漬け」
携帯電話でテレビが見られる地上デジタル放送「ワンセグ」が、4月1日から順次全
国で行われる。対応するケータイの発売も始まり、非常に売れているという。
ケータイは今や電話であるばかりでなく、メール通信機でありメモ帳であり、ゲーム
機でありカメラでもある。一台でコミュニケーションに関するあらゆる手段が可能な
ので、連絡と情報収集の面での便利さは計り知れない。しかしその便利さのために、
読書や思考の時間、口頭で対話する機会、異質な他者と交流する姿勢が、少なくなっ
てきているように思う。教育現場で感じることは、人の話を聞こうとせずひたすら
ケータイに見入る若者には、ものごとを深く継続して考えようとせず、自分勝手で、
理性よりも感情で行動する者が多いということだ。
ケータイにテレビ機能が加われば、日本人の「ケータイ漬け」状態はますます加速
し、確実に思考力、忍耐力を低下させていくだろう。教育の観点から、若年層にだけ
はケータイ使用を制限することが必要と思う。
2月17日(金)
皇帝ユリアヌスの夢(3)
輝かしい贈り名「背教者」
辻邦生の小説「背教者ユリアヌス」の内容は、ほとんど史実に忠実なものであることが、塩野七生の今回の「ローマ人の物語」で判明した。
しかし「背教者ユリアヌス」は史実に忠実であることに価値があるわけでない。辻邦生がユリアヌスの内面を深く想像し書き込んだところに価値があるのだ。
私は以前、辻邦生が想像したユリアヌスの内面を<秩序構築の夢>と読みとって書いたことがある。しかし、その時の<秩序>は、ローマ皇帝としての<国家の秩序>という次元のみに読みとっていた面があった。おそらく、実際のユリアヌスが現実的に考えていたのはローマ帝国の<国家の秩序>であったことにまちがいないであろうが、ユリアヌス後の大きな世界史の流れからとらえ直した時、塩野七生の語る次の言葉は、もう一段高い次元での<秩序>を考えさせてくれるものであった。塩野七生は私より高い次元でユリアヌスを評価していたのである。
「この古代にあってキリスト教だけが、異なる考えを持つ人々への布教を重要視してきた宗教なのである。・・・宗教が現世をも支配することに反対の声をあげたユリアヌスは、古代ではおそらく唯一人、一神教のもたらす弊害に気付いた人ではなかったか、と思う。・・・彼にだけ、他の人には見えないことも見えた。この意味では、ユリアヌスに投げつけられ、今日でもこの通称でつづいている背教者という蔑称は、実に深い意味のこもった通称とさえ思えてくる。もしかしたら、31歳で死んだこの反逆者に与えられた、最も輝かしい贈り名であるかもしれない。」 (終了)
予告。
<一神教のもたらす弊害>それは現代においてますます深刻な状況を呈している。いうまでもなく、イスラム教の出現によって生じた、キリスト教とイスラム教の対立である。
最も<宗教が現世を支配すること>著しいイスラム教社会について、次から少しずつ、読み知ったことを書き留めていこうと思う。
2月16日(木)
皇帝ユリアヌスの夢(2)
専業祭司階級形成の失敗
ユリアヌスが犯した最大の誤りは、ギリシャ・ローマ宗教が劣勢に陥った要因が専業化された祭司階級を持っていないことだと考え、対抗策として、各都市ごとに専業の神祇官を任命し、その下に専業職の祭司をおいたことである。そしてユリアヌスは、プラトンの弟子を自称する哲学者らしく、その特権を与えた専業職の神祇官・司祭に、一般市民とはちがう厳しい日常を要求した。
神祇官・司祭は、劇場へ行くことが禁止され、戦車競争・剣闘士の試合を観戦することも、そういう仕事の人々とつき合うことも禁止された。
塩野七生は「ユリアヌスには、ローマ文明がわかっていたのかと疑ってしまう」として、このことを次のように書いている。
「人間を導くのが神ではなく、人間を助けるのが神々の役割である多神教では、神の教えなるものつまり教理が初めから存在しない。それゆえに、教理を解釈する必要もないから、その解釈を調整し統一し、それを信者に伝える人の存在も必要ではない。ローマには建国の初めから専業の祭司階級が存在しなかったが、それは、多神教徒であるローマ人の精神に忠実であったまでなのだ。そしてこれこそが、ローマ人の文明の神髄なのである。キリスト教に対抗するためとはいえ、専業の祭司階級というローマ伝来の精神に反したことを強行しても、根づくはずはなかったのであった」
そして、ユリアヌスの専業祭司階級の形成案が失敗に終わった具体的で現実的な要因として次の二つをあげる。
第一、ユリアヌスはキリスト教会の聖職者私産非課税処置を廃止すると同時に、ギリシャ・ローマの神々を祭る専業の神祇官・祭司への課税も行った。
第二、神祇官・祭司たちに厳しい日常生活を強いた結果、もともとからして現世的なローマ人は、これでは人間の生活ではないと考えた。
塩野七生はユリアヌスについて、若い頃は「アナクロニズムの代表」のように見ていたという。しかし、この巻を書いている時点ではそのようには見ていないとして、
「もしも彼の治世が19ヶ月ではなくて19年であったとしたら、その後のローマ帝国はどうなっていただろう」と考えるようになったという。
「四世紀のローマ帝国はキリスト教一色ではなかった。・・・キリスト教と異教のどちらに転んでもいいような状態にあったのだ。・・・ユリアヌスはこのような時代に一石を投じたのである。もしも彼の治世が19年であったとしたら、・・・流れを変えるまでになっていたかもしれない。キリスト教徒であることが現世でも利益になるとは、ローマ人も考えなくなったかもしれない。そして宗教は、現世の利益とは無関係の、個々人の魂を救済するためにのみ存在するもの、にもどっていたのではないだろうか。」
2月12日(日)
皇帝ユリアヌスの夢(1)
キリスト教勝利の背景
塩野七生「ローマ人の物語14」は<キリストの勝利>と題して、皇帝コンスタンティウスと皇帝ユリアヌス、そして司教アンブロシウスをとりあげている。この巻は、辻邦生の「背教者ユリアヌス」を感動しながら精読した私にとって、待ちに待った巻である。
まず、皇帝コンスタンティヌスがキリスト教を公認した「ミラノ勅令」を確認しておこう。
「・・・それは、キリスト教徒にも他のいかなる宗教を奉ずる人にも、各人が良しとする神を信仰する権利を完全に認めることである。その神が、何であろうと、統治者である皇帝とその臣下である国民に平和と繁栄をもたらすならば、認められるべきなのだ。・・・」
この勅令で注意すべき事は、<他の諸々の宗教同様に>キリスト教も公認された、ということである。決して、他の宗教が排斥されたわけではない、ということだ。
しかし、コンスタンティヌスは、この勅令の実施にあたって、キリスト教側に特権を与えてしまった。それは「経済的」な特権である。
キリスト教がローマ伝来の宗教と違っていた一つの大きな事が「専業の聖職者階級」を持っていることであった。市民の兼業ではなく「専業」なのだから、その経済的基盤を保証してやる必要が出てきた。コンスタンティヌスはそれをおこなったのだ。
教会の活動を支える農耕地、原材料を加工する手工業、製品を売る商店まで、キリスト教会に寄贈された。そして、教会の聖職者たちの公務免除が法制化された。さらに「専業の聖職者」を認めた以上、収入はないはずなのだからということで、聖職者への課税が免除されることになった。
ここまでやって、コンスタンティウスは、息子のコンスタンティヌスにバトンタッチした。
彼は、キリスト教会に限定されていた免税枠をさらに広げた。司教、司祭、助祭あたりに限定されていたものを、教会関係の使用人、教会所有の工場や商店に働く人々まで、徴税者名簿からはずされるに至ったのである。
ローマの人々が雪崩を打ったようにキリスト教に改宗した背景には、こういう経済的な優遇があったのだ。
「背教徒」とキリスト教側から呼ばれることになる次の皇帝ユリアヌスは、「ミラノ勅令」の精神<他の諸々の宗教同様>に戻すべく、具体的に、これらのキリスト教会への「特権」をすべて廃止したのである、
(このローマ時代に始まったと思われる宗教団体に対する免税という「経済的特権」は、現在も宗教法人に対する免税ということで生きている。構造改革において徴税方法こそが最大の要点であるはずだが、この宗教法人税に対する見直しは、話題にならない)
2月10日(金)
3種類のイスラム教徒
中沢新一や井筒俊彦を読んで、イスラムのことを学ぼうとしています。
パレスチナでハマスが政権を取ったようですが、恐ろしい武力闘争集団のイメージが流れているハマスが、腐敗したアッバス政権が見捨てている貧困層に対して地道な支援活動をしていたことも報道されています。
イスラムは本来、キリスト教のように排他的ではなく、他教徒に寛容なことは、ムハンマドがユダヤ教もキリスト教も否定せずに、同じ神を信仰する集団としてイスラムを設立したことからも、以後の商業活動を見ても、明らかだと思います。
どうしてそういうイスラムが、過激な行動に出るようになったのか。
どう考えてもそれはキリスト教徒と、そのもとで発展した西欧文明、経済思想の押しつけに原因があると思います。
現在、パレスチナには3種類のイスラム教徒がいるのではないでしょうか。
素朴に西欧化を拒否し、アッラーを信仰し、コーランの教えにすべて従って生きているイスラム教徒(大多数)。
西欧文明との交流の中で、かなり西欧化し、富を蓄積し権力を掌握して、同時に腐敗も起こしている、アラファト、アッバス政権下の西欧化した権力集団としてのイスラム教徒。
西欧化を純粋、過剰に拒否し、過激になり、ジハードに徹するようになっているイスラム教原理主義者。
境界は不鮮明な面があるけれど。
ハマスはどれに属するのでしょうか。
2月6日(月)
個体意識と「霊魂」
江原敬介という霊能者がもてはやされている。
スピリチュアルカウンセラーとかいう肩書きで(清新なイメージを加え)売り出したタレントである。私の尊敬していた美輪明宏が絶賛して「一心同体」なんて言葉まで使っていた。それを聞いて、彼も個体にとりついている「霊」などというものを信じて、そんなレベルで人間の存在を考察していたのかと、かなり失望した。
私は「魂(たましい)」というものは存在することを確信している。
肉体が消滅してしまえば何もなくなるなどという浅薄な「物質論者」ではない。
地球上の「生命」というものがひとつの大きな「存在」としてあることは、知性というものを持った生命体の一つであるヒトにも、発生の当初は、素朴に、自然に実感されていた。
アニミズムといわれる(私に言わせれば)最も高度な信仰形態が、人類発生当初には、どの民族にもあったのだ。それは<大きな生命>の一部として生きている実感がすべてという幸福な時代であった。
やがて「神」が出現し、それが偶像化され、増殖し、ヒトが神のような存在にまで発展して、文明社会からアニミズムという信仰が失われていった。
それが「魂」の喪失ということである。
大きな生命(自然)との一体感こそが、魂といわれるものなのだ。
そういう魂なるものに、個体や民族や、国家共同体などの「区別」はあるはずがない。地球上に存在する「生命」は一つの大きな「全体」なのであるから、個は「全体」とのみつながっていて、中間などは存在しないものである。
しかし、人類という奇形的な動物は、知能を発達させ<大きな生命>との分離を進めるうちに、まず「部族」、やがて「民族」、さらには「国家共同体の一員」というように、どんどん個の意識を持ち始めるようになった。
「部族」単位で生きていたうちは、個の意識はほとんどない。それは「民族」単位となって芽生え、「国家共同体」が成立して成熟していった。私の考えでは、そうした進化の過程で、アニミズム的な<大きな生命>への所属実感が次第に希薄となり、一方で枠づけされ、区切られて意識されていったのではないかと思う。
「部族」の段階ではまだ<おおきな生命>が他部族と区別されるような枠づけはなかった。しかし「民族」となると、かなり他民族とは違う枠づけがされるようになった(特にユダヤ人は強烈な選民意識のもとにヤハウェの神としてそれを意識した)と思う。
やがて「国家共同体」ともなると、成員はそれぞれかなり強い個の意識を持ち始め、個体としての肉体の単位で、それが所有する<独立した一部分>の<生命>を実感し始める。そこに、個体にとりついた<大きな生命>の一部としての「霊」が成立したのだ。
個体意識が確立するにつれ、「霊魂」という名称で、<大きな生命>が分割されたのである。
そして分割されたそれが、独立した肉体にとりついているモノのように意識されたのである。
<大きな生命>は、仏教では「無我」「空」という言葉で表されるものである。
<大きな生命>の世界を、涅槃ととらえてもよかろう。
キリスト教でもイスラーム教でも、<大きな生命>はヤハウェの神(アッラー)である。
ヒンズー教的な空海の思想では、それは「大日如来」として語られた。
個体にとりつく「霊」などというものはない。
個体は<大きな生命>に所属しているだけだ。
それが実感できない者が、肉体だけの存在だとする物質主義者になったり、とりついている「霊魂」によって生のあり方が変わると信じる狂信者になったりする。
いずれも、近代が生み出した「自我意識」の強すぎる人間が陥る、不自然で歪んだ、根元的な病状と言えると思う。
2月4日(土)
イスラームから考える「文明」 (7)
ー中沢新一「緑の資本論」を読むー