くわしい目次 < ぼくの町 < お葬式

お葬式
2001/11/27

町内に不幸があった。
87歳のおばあ様。

町内の葬儀の雑事、裏方は、町内会の仕事、このあたりの言い方では、組内の仕事。

お通夜の日、夕方7時。
組内でも、ごく近い、班内の10軒が、葬儀の御宅に集まって、組の役員さんの司会で、葬儀当日の役割分担を話し合った。

かって、うちの嫁が手伝いに出たことがあるので、十年とちょっと前まで、お葬式の日、組内の近隣二班は一日仕事。
葬儀当日は、食事の買出し、炊き出し、葬儀の準備、受け付け、片付け。
裏方仕事全てをまかなった。

最近は、葬儀は、葬祭社が取り仕切り、食事は仕出し。
組内の仕事、負担は減ってきた。

今回、葬儀は、葬祭社のホールで行なわれる。
組内の仕事は、いつもよりさらに少ない。
おもな仕事は、受け付けと香典の管理、そして、葬儀前後のお茶のお世話。

お昼は、親族と斎場で頂く。
これまで、夕食も頂いていたけれど、もうそんな時代でもないと、前々からの話し合いがあって、今回からは無し。
ご遺体が火葬場へ向かわれた所で、香典を整理して解散という事になった。

式は、一時から、式へ出席の都合がつかず、早めに香典を持ってくる人もあるだろうと、我々は十時半集合。

葬儀当日は、晴れ。
私と副会長さんは、葬儀の御宅に残って、こちらに香典をもってくる人の受け付け。
お宅には、戸締りしてもらって、外のテーブルで半日過ごす、風もなく暖かい今日の天気はありがたい。

自宅にいらっしゃる弔問者は、ご近所の(44歳の私から見て)おじさん、おばさん、同級生のお母さんとも久しぶりに口をきいた。
「エエわ、まだフサフサで、うちの子なんかすっかり薄なって。」なんて会話。
大きなった、とか、立派になりゃて、なんて言われていた頃は遠い昔、ちょっと寂しい。

ご近所の長老には、戦時中のお話を伺った。
中国の戦線で、夜間突撃。
足をいため、戦線から離脱、貴重な銃は取り上げられ、剣と手りゅう弾を持たされ、ひとり、闇の中に残された。手りゅう弾はいざという時の自害のため。夜が明け、朝もやの中、敵か味方か、人影がおぼろげに見える。
必死に目を凝らせば、友軍の旗、声を上げ助けを呼んでも安心は出来ず、背中に抜き身の短剣をひそませた。
矍鑠としてらっしゃって、3年前までは、スキーにも出かけたそうですが、スノーボードにぶつけられて、(あれ、減速せずに突っ込んでくるから)身の危険を感じてやめられた。
私の父親よりもう一世代上の年代。

隣のおばさは、我々が手持ち無沙汰で可哀相と、ここで受け付けしてくれた。
こっちで香典返し(頼まれた分もあるので、三つ)もらってうちにおいてから斎場へ行けば、手ぶらで戻ってこれると近所のおばさんに吹聴、でもう一人追加。

都合、8人、14軒。
人通りは少なく、朝のうち車が行き交ったきり、昼間は静か。
かっての商店街は、いまや静かな住宅街。

私の父は、ここで生まれ育ったけれど、祖父母には、在所があった。
だから、私たち世代の祖父母が開いた町。
亜炭が取れて人が集まり町が出来た。
うちは残念ながら初代で商売は失敗、後はサラリーマンだったけど、父の世代が2代目、私の子供の頃は、通りはお店が並んでいた。

気が付けば、スーパーや、新しく広い道路沿いに出店したり、商売をやめ、勤めに出たりで、今はもう、商店街というほどお店はない。
住みやすい住宅に改築され、かっての店の面影をとどめているうちさえ少なくなった。

私が小学生の頃、近所の子供が、どこの何番目の子か、地域の誰もが知っていた。
そんなに車が通らない町並みは、徒歩と自転車の道路、夏の夕方は、みんな表に出て夕涼み。
仕事と暮らしが、小さな町の中に一緒にあった頃、祖父や、父の時代に築いた小さなこの町では、遠くの親戚より近くの他人。
助け合って生きてきた。

でも、いま、私たちの世代、暮らしの場と、生活の糧を得る場所が別々になった時代、生活の全てが小さなこの町にあった頃の付き合いは、町の誰にも負担になってきた。

でも、我が家の父母の葬式は、この町で、ご近所のお世話になってあげるはず。
「組の葬式の段取り覚えとかないかんで、まぁ、おとうさんに代わって、あんたが出やぁ。」と母親に送り出されてきたし、組の集会場もつい最近改築したばかりでもったいない。

くわしい目次 < ぼくの町 < お葬式