祖父が他界してから早いもので、もう8ヶ月が経とうとしています。正直、6月に祖父が他界した時、自分はあまりの

ショックに声すらでませんでした。人の死に初めて携わったからかもしれませんが、それ以上に祖父との多くの思い出が

一気にこみ上げてきたからだと思われます。すでに祖父がいない状態でこんなことを言うのもなんですが、自分はかなりの

おじいちゃん子でした。何をするにも祖父と一緒、そんな幼少期を過ごしました。自分の家にいるより祖父の家にいるほうが

楽しかったですし、祖父と釣りをしている時が好きでした。その時はその時間の価値に気付いていませんでしたが、

今となっては何と貴重な時間だったことか。もう少しそのことに早く気付いていられたらと悔やまれますが、それは致し方なかった

のかもしれません。






祖父が癌かもしれない、とわかったのは去年の4月、大学の入学式の時でした。最初は喉にちょっとしたポリープができた程度だと

思っていました。というより、それが癌だと信じたくなかったのかもしれません。それが癌だと認めてしまうと何かが崩れ去ってしまう

ような恐怖感がありました。ですから心の中にあるどす黒くて深くて大きな不安を 『ただの腫瘍か何かのはずだ』 という安易な

説明で押さえ込んでいたのかもしれません。まぁどちらにしろ、当初はあまり深く考えないようにしていました。

しかし祖父はだんだん食べ物も飲み物も喉を通らなくなり、入院しました。前々から、肺に異常があることは分かってましたので

てっきりそのことで入院するんだと決め込んでいて、特に何も思わずに過ごしていました。今思うと、これもまた、ただ自分の中の

不安を閉じ込めていただけかもしれません。






入院してからの病状はまさに酷いもので、日に日にやせ衰えていき、肺にチューブを通されて胸水を抜きながらただただベッドに

寝ていることが多くなりました。起きているのも辛いはずの祖父に、冗談めかして 『このホテル(病院の個室)の住み心地はどう?』

と聞いてみたら笑いながら 『このホテル、あんまりよくないな』 って言ってました。それが祖父との 『まともな』 最後の会話です。

その1ヵ月後、祖父を見舞いに行くとかなり危険な状態でもう今日か明日かという状況でした。その時、祖父と少し話したのですが

祖父の最後の言葉は 『明日・・・』 でした。それを聞き終えて病院を後にし、次の日の朝祖父を見舞いに行った時、祖父は息を

引き取りました。






祖父は最後まで自分の死を受け入れることなくこの世を去りました。死を恐れていました。最後の言葉の 『明日・・・』 に祖父の

どんな気持ちがこもっていたのかわかりません。しかし祖父は自分に 『明日がない』 ということを知らなかった、または認めたく

なかったのだろうと思います。僕には 『明日がない今日』 がどれほど絶望的であるか想像すらできません。だから祖父が何を

思って他界したかは分かりません。しかし祖父のがどれだけ 『明日』 を大切に思っていたかは分かります、我々が決して意識する

ことなく次の朝になれば迎えることができる 『明日』 がどれほど祖父にとって大切なものだったかは。






ある日そのことについて考えながら朝を迎えると、何か違った 『明日』 を迎えたような気がしました。そして 『明日』 を意識した

『今日』 はまたどことなく普段の 『今日』 と違いました。それ以来、毎日少しだけ 『今日』 や 『明日』 について考えるように

なりました。そうして考えた次の日の朝、窓から見る景色は少しですが、確実にいつもより色鮮やかに見えます。そして1日1日を意識

したことによって毎日がとても充実したように感じます。まぁ別にやってることといえば友達とメシ喰って話して授業サボって・・・とか

とても勤勉とはいえませんが、しかし毎日、そして明日の素晴らしさをどこかで実感できてるような気がします。

別に毎日ただ過ごせればいいと思う方には全く持って無意味な話ですが、これは人の死、僕の場合は祖父の死によってようやく

学べた大事なことです。祖父の死は心にぽっかりととてつもなく大きく修復できないような穴を開けてしまいましたが、その死は

ただの悲しみではなく、同時に大きな遺産を残してくれました。






最近友達と大学帰りなんかに別れる時、何となくですが 『じゃあ』 と言った後 『お疲れさん、また明日』 って言うようになりました。

いつまでたっても祖父にとっての 『明日』 がどうだったのかは分かりませんが、それがなんだったのかと考え続けることが大切だと思いました。

今はどれだけ考えてもその答えはでません。何年か何十年後、答えが分かるか分からないかそれすらも分かりませんが、しかし考え続けること、

それこそが真の大いなる遺産であると思えてなりません。祖父の置き土産は、答えのない一生の課題であるのかもしれません。